10.クッキーの犯人は彼女です(side 歩) 第1話
どんなに憂鬱でも、どんなに気分が悪くても、どんなに気まずくても、会社には行かなければならず……。
「おはようございます」
「おはよう!? あの、松岡くん、あのね」
「今日はすぐに外回りに出ます。行ってきます」
「え、待って……」
「月見里ー! ちょっとこっちお願いー」
久保田課長が月見里さんを呼ぶ。その隙に僕は鞄の中に要るものを全て詰めて飛び出した。
「おっと、早いな。もう出るのか?」
「川辺主任……」
「どうした? 元気ないのか?」
「いえ、そんな事」
「そんな事あるって顔だぞ。そんな顔して商談なんかしても纏まらないからな? ちょっと待ってろ、外出て空気吸って待ってろ、な! すぐ行くから〜」
営業部の扉を慌ただしく開けて中に入っていく川辺主任の背中に、お節介だな、と呟いて僕は会社の外に出た。
「すまん。まだ時間大丈夫か?」
「はい」
時間は大丈夫。余裕だ。だってただ社内にいて、月見里さんと顔を合わせるのが辛くて逃げただけだから。
「じゃあちょっと待ってろ」
そう言って川辺主任は近くのコンビニに走って行った。僕も歩いてコンビニに向かう。外で待っていると、川辺主任は手にイチゴミルクのパックジュースを持って出てきた。
「ほら、こんな時は甘いもんだ」
「でもなんでイチゴミルク? 甘過ぎませんか?」
「だからだろ? 甘過ぎるくらいじゃねえと意味ねえじゃん〜!」
意味が分からないと思いながらもその好意を受け取り、パックにストローをさす。
「あまっ」
「元気出たか?」
「……分かりません」
「…………」
川辺主任は黙って上を向く。
太陽がギラギラとしていて上なんて向いたら焼き殺されそうなのに、僕がイチゴミルクを飲み終わるまで川辺主任はじっとしていた。
「ごちそう様です」
「やっぱりあれだな。こんな日はイチゴミルクよりビールだよな! プハーッと一杯やりてえ〜」
「ははっ、何なんですかもう! 僕には甘いイチゴミルク飲ませておいて……。僕もイチゴミルクよりビールがいいですけど」
「だよな! よし、仕事終わったら飲み行くか!」
「今日月曜ですよ?」
「なんだよ、そんなん気にすんなよ! じゃあ一杯だけな?」
「仕方ないですね、川辺主任の奢りならいいですよ」
「よしよし、決まりな!」
川辺主任のペースに巻き込まれたが、僕は少し元気が出ていて心の中でこっそり感謝した。
イチゴミルクに少しだけ元気をもらい、川辺主任と駅へ向かっていたその時。「川辺主任ー」と呼ぶ声に二人で振り返る。
「え、結城ちゃん?」
「もう、電話ぐらいちゃんと出てくださいよっ!」
「電話した? ……あ、ホントだ!?」
走って来たからか、呼吸の乱れている結城さんが息を整えながら川辺主任に封筒を渡す。
「忘れものですよ、これ今日いるって言ってた書類ですよね?」
「あー、そうそう! よく分かったね」
「間に合って良かったです。私走って来たんですからね!」
「助かりました! ありがとう! この御礼は必ず! あっ! 今日でも良かったら仕事終わりにビール一杯奢るけど?」
川辺主任が顔の前に拳を作る。そしてまるでジョッキを持ってビールを飲むような身振りをした。
「ビールじゃなくて、ワインがいいです」
「ワインなの!? まあ、いいけど……」
「わ〜い! じゃあ頑張って仕事終わらせますね〜! 行ってらっしゃ〜い」
「行ってきまーす」
川辺主任と結城さんが仲良さそうに手を振り合うのを僕はどこか冷めた目で見ていた。
「よし、行くか!」
「って言うか、今日僕にもビール奢ってくれるんですよね?」
「おう!」
「三人で飲みに行くんですか?」
「嫌だった?」
「嫌、とかじゃないですけど……」
「けど?」
「あぁー、もういいですよ。川辺主任の奢りですから!」
「なんか松岡、情緒不安定なのか?」
「はいっ?」
「ああ、まあ、そんな時もあるよなっ! よし仕事頑張ろ!!」
僕は思いきり、はあー、と溜め息をついた。なんだか朝から疲れる。
こうなったら今日はさっさと仕事を終わらせて、ヤケ酒でもするしかないと思った。
*
三人で乾杯したはいいものの、結城さんがいるのは少し気まずい。
空港で月見里さんから渡された、結城さんの手作りクッキーを受け取らなかったことを聞いているだろうか。
ビールをごくごくと飲み干すと、結城さんが伺うように僕を見ていたので、居心地まで悪い。
しかしそんな重い空気を破るように川辺主任が、たくさん食えよ、と僕の前に注文した料理をどかどか置いていく。とりあえず目の前にあった枝豆に手を付けていると、川辺主任がいつもの元気なテンションを抑えて話し掛けて来た。
「なあ、お前ら何かあったの?」
「それ、それですよ。月見里チーフも心ここにあらず、なんですけど?」
心配そうな顔をして聞いて来る結城さんには、君がそれを聞いてくるのかと呆れる。
「別に何もないです。元から何もないですよ」
「何もないって松岡……」
「絶対何かありましたよね? だって、土曜はすっごい幸せそうな顔して、月見里さんクッキー作ってたんですよ。それが今日はお葬式みたいな顔してました……。あれは絶対何かあったはずです。ですよね、松岡さん?」
「松岡お前、月見里に何かしたのか?」
「え、待って? 月見里さんがクッキーを? え、どういう事?」
僕の言葉に結城さんが更に訝しい顔をする。
「土曜日ウチに来たんですよ月見里さん。それで一緒にクッキー作って、それから私の家にあったものだけど、ラッピングも松岡さんの事を想って選んでました。クッキーも最初は一緒に焼いたんですけどね、やっぱり自分で作りたいって言って、材料を計る所から全て一人で作ってました。相手を想って作ってるのがよく分かるくらい幸せそうな顔してたんです。……もしかして貰ってないんですか?」
「…………」
何も言えなかった。
「あれ、おかしいな……。てっきり松岡さんにあげるんだと思ったんだけどな?」
あのクッキーの砕けた感触が手によみがえる。
あれは結城さんの手作りじゃなくて、月見里さんが僕のために作ったもの?
それと同時に友梨の声がよみがえる。
『あと克服もね』
手作りがダメな僕の克服に、手作りクッキー?
安易すぎるけど、そんな安直な考えが月見里さんらしい気もする。
だけどそのクッキーは台無しにしてしまった。
それにあの時、ついかっとなって、酷い事まで言ったような気がする。
どうしよう。
「なんか心当たりあるのか?」
川辺主任の問いに、はい、とは声が出ず首を縦に下ろした。
「人間同士、喧嘩する事もあれば間違う事もある。大事なのはその後だろ。な?」
「でも、ダメなんです」
そうだ。僕がクッキーについていくら謝ろうと翻らない事がある。
「月見里さんの元カレが帰って来たんですよ。だから……」
「諦めるの?」
「仕方ないじゃないですか。月見里さんは五年も待っていたのに、……川辺主任も知ってるでしょ」
「お前の気持ちってそんなもんだったのか?」
そうですよ、と言ってしまいたいのに、それを認めたくなくて言葉が胸につっかえる。
「松岡さん格好悪いですよ。月見里さんが可哀相です」
「結城さんに何が分かるんですか」
「分かりません! でも月見里さんは本当に元カレを選んだんですか? ちゃんと聞いたんですか? フラレたんですか?」
何故か僕より泣きそうな顔をした結城さんがワインを一気に飲み干した。
「川辺主任、赤おかわり!」
「ええ!? あ、はい、赤ね、赤!」
「も〜う」
そして赤ワインが届くまで結城さんはむくれていた。
「お前、ホントにフラレたの?」
フラレたか、フラレてないか……。いや、そもそも付き合ってさえいない。
告白もしていない。OKももらえていない。スタートすらしていない。
だけど、確かに告白しようと思っていた。玉砕覚悟で告白しようと。
実際には、告白する前に玉砕したようなものなのだが。
それでもやっぱり伝えたい。迷惑かもしれないけど想いを伝えよう。
彩葉が大好きだ、って言いたい。
もう一度『彩葉』って名前で呼びたい。優しい笑顔で『歩くん』と呼ばれたい。あの温かい手を繋ぎたい。この腕に強く抱き締めたい。
そのためには、
「諦めません」
僕の精一杯の宣言を二人は満足そうな顔をして聞いてくれていた。
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