第4話
「月見里さん?」
社内のトイレから出て休憩室の近くを通った時、誰かについて休憩室に入る月見里さんの後ろ姿を見掛け、珍しいなと思っていると今度はそれをこそこそと追い掛ける結城さんを見てしまった。
「何してんだ?」
僕はこういうのに首を突っ込んで行く方じゃない。むしろ外から冷ややかに見ているタイプなのだが、何故か気になって少し近づく。
すると休憩室の中の様子を伺っていた結城さんが中に入っていくので、急ぎ足で休憩室に向かい聞き耳を立てると、中には月見里さんとどうやら川辺主任がいるみたいだった。
「すごく親しげに寄り添ってましたよね?」
「あ、たまたま? 同じ映画見てて、それが泣けるやつで、私さ涙もろくてめっちゃ泣いてたんだよね。それをさ、偶然松岡くんに見付かって……」
「じゃあやっぱり付き合ってる訳じゃないんですよね?」
交わされる会話を盗み聞きして、これはチャンスだと思った。結城さんには僕と月見里さんが付き合っていると思って貰ったほうが都合がいい。
そうすれば手作りクッキーを受け取るのに理由を付けて断れるし、と一人ほくそ笑むと休憩室の扉の横にすっと立った。
「付き合ってますよ、僕たち」
僕の言葉に驚く三人。月見里さんなんて金魚みたいに口をパクパクさせて、……本当に面白い人だ。
「な、……な」
「ほんとですか。ほんとに、ほんとですか?」
「いや、それは、その……」
楽しくなってきた僕は笑みを浮かべる。
「やっぱりそうなんだ」
という結城さんの目から涙がこぼれるが、女の涙なんて信用ならない。
「え、結城さん?」
出て行く結城さんを追い掛けようとする月見里さんの肩に川辺主任が手を置くので少しイラッとした。
僕の彼女だって言ってるのに、簡単に触り過ぎですよ。
「マジで付き合ってんの? 今日仕事終わったら付き合え二人とも。詳しく話せよ。俺、外回り行ってくる」
面倒くさいけど、結城さんは撃退出来たし川辺主任に付き合うくらいいいかと思う。川辺主任をからかうネタもあるし。
そんな僕の前で彼女は、あーーもうっ、と怒りをあらわにして僕を睨み付けていたが全然怖くない。
むしろ、ちょっと楽しい。
川辺主任に連れて行かれた居酒屋から出て月見里さんを送る。ビール一杯しか飲んでないが妙に心地よく酔っているような感覚がある。
「彼氏待ってるんですか?」
そんな何気なく問うたはずの言葉は声に出ると少し鋭く聞こえた。
「なに? 気になるの?」
「別に、そういう訳じゃ……」
気になるなんてそんな訳じゃないかと自分自身に言い訳をしていると、月見里さんから笑い声が漏れる。
「もう五年も前の話しだよ。もう帰って来ないんじゃないかな」
そんな風に言うけど同期の川辺主任が言うくらいだ。待っているに違いない。
なんだ、お互いに好きな人がいるんじゃないかと思っていると、理解不能の苦しみが胸を襲う。
「今でも好きなんですか?」
「う〜ん、どうだろうね〜」
「じゃあ他に好きな人は?」
「いないよ」
「一途なんですね」
「それは松岡くんもでしょ?」
それにドキっとした。もしかして友梨の事好きな気持ちがバレてるのか?
「は? なんで僕――」
「見てたら分かるよ。中々思い通りに行かないね、人生って難しいーー!」
やっぱりバレてるのか、と恥ずかしいような気持ちになるが、同時に思い通りにいかないと言う言葉に同感もした。
「月見里さんでも、そう思うんですか?」
「当たり前だよ。何度も壁にぶち当たる」
そんな風には見えないこの人はどこでどうやって頑張っているんだろう。少しだけでも教えて欲しい。聞いたら教えてくれるだろうか。
「それでも前に進む?」
「うん。前に進めるようにもがく。もがき過ぎて息が出来ない時もあるけどね」
「息……」
息苦しい。今の僕は息をしているのだろうか。
僕ももがきたい。でもどうしていいか、分からない。……分からない。
分からなくて、苦しい。
立ち竦む僕の、だらりと揺れる手を掴んで月見里さんは引っ張った。されるがままにどこかへ連れて行かれる。どこでもいい。どこでもいいから連れて行って欲しいと思ったが、それは案外近く、駅前のベンチに座らされた。
ベンチに座り項垂れる僕の前で心配そうに覗き込む月見里さんの温かい手が離れていく。
「大丈夫? お水いる? 買って来ようか?」
そんなの、いらない。
それよりも、ぬくもりが欲しい。
「ここにいてください」
心が弱くなっているのが分かる。
ずっとずっと隠していたのになんでだよ。友梨の前でだって上手く隠していたのに。どうしてこの人の前ではそれを晒せるのだろう。
安堵に似た不思議な心地の中、隠していたものが剥がれていくように吐露していた。
「ごめんなさい。今までテキトーに付き合う女の子はいても、本気で好きになったのは友梨だけで……。でももう向けようのないこの気持ちをどうしたらいいか分からなくて月見里さんの優しさに漬け込んで利用しました。
僕は最低な人間だ。だから友梨は僕じゃなくて湊くんを選んだんだ……。僕は……」
本当に最低だ。
僕は弱い。大人のフリをした子どもだ。いつまでも母親の側から離れられない子どもなんだ。
そんな僕の胸の内でも見えたのだろうか。月見里さんはまるで小さな子どもをあやすように僕を優しく抱き締め、良い子、良い子とでもいうように温かな手が背中を這う。
子どもみたいに泣いても今日だけは許してくれるだろうか。思考がぐちゃぐちゃに乱れていく。ともすれば叫び出しそうな未熟な僕に向かって月見里さんが、全部吐き出そうと言ってくれる。
だから僕は吐き出した。
「ずっと、……友梨が好きだったのに……」
「うん」
「胸が痛い……」
子どもの時からずっと好きだった。
結婚の約束をしたから守らなきゃいけないって、ずっと思ってたのに。
じゃなきゃ、父さんを裏切ったあの人と同じになってしまうと思ってたんだ。
ぐちゃぐちゃな心を吐露すると、いくらか胸の苦しさが緩んでいた。僕が本当に子どもだったなら、背中を撫でてくれる月見里さんの手が、『痛いの痛いの飛んでいけ』と魔法を掛けてしまったんだと思った事だろう。
月見里さんの温かい手が僕の背中から離れて行く。そんな温かさなど無かったと言うように冷たい風が背中の温度を下げる。冷えた背中にふと現実を見て自分の見苦しさに気付いた。
「ああ、もう、カッコ悪いな……」
こんな姿誰にも見せた事なかったのに。
「そんな事ないよ」
月見里さんのその一言がどうしようもないくらい優しくて、僕の目にじわりと涙が浮かぶ。こぼしてしまわないよう上を向き、瞬きをして誤魔化す。
それに気付いたのかそれとも気付いてないのか、月見里さんは後ろを向いた。
「さ、帰ろ」
叱るでもなく、励ますでもなく、黙って側にいてくれた優しさが身に沁みる。
それから彼女は明るい声を出す。
「友梨さんがアメリカに行くまで、だからね!」
「え?」
「彼女のフリしてあげる。だから行くまでの間、悔いなく過ごそうね」
何を言っているのだろう、この人は?
「例えばね、私と松岡くんと友梨さんと湊さんの四人で遊びに行くの。たくさん楽しい思い出作ってみるのがいいんじゃないかな? 私の利用価値ってそれくらいじゃない?」
自分で利用価値とかいうこの人のお節介さ加減にどことなく気がぬけてしまい、そうですね、と言っていた。
だけどこの人は偽善者でもなければ、自己犠牲の精神で口に出してる訳じゃない。
どこまでもどこまでも、ただひたすらに心が優しいのだと感じて僕はまた涙が出てしまいそうだった。
*
みっともない姿を見せてしまったら、それから会社で顔を合わせるのが少し気まずい。だけど、月見里さんは僕に対しては至って通常通りだった。
そう僕に対しては。……それよりむしろ川辺主任に対して過剰反応している。それがちょっと面白くない。
あんな姿を晒してきっと呆れられてしまったかもしれないと、どこかで後悔していた。
「かっ、カワベ、アノサアー」
「なに?」
あれ、ほんと何なの?
僕の時なんて平気な顔で下の名前を呼んだくせに、同期の苗字も普通に呼べないなんてあり得ない。
そう苛立ちながらパソコンのエンターキーをぱしっと打つ。プリントアウトした資料を鞄に突っ込んで外に出た。
ほんと、なんだろ、この気持ち?
理解不能。
苛立つ僕のスマホが嘲笑うように鳴り出す。
「はい?」
『歩ー?』
友梨だ。
『ねえねえ、あれから彩葉ちゃん何か言ってた?』
なんで皆、月見里さんばかり……。
「知らない」
『何か怒ってるの?』
「別に」
『ねえ、彩葉ちゃん――』
「連絡先教えるから自分で聞いといてよ。これから電車乗るから、じゃあね」
『待ちなさ』
何か言ってる友梨を無視して通話を切ると、電車に乗る前に友梨に月見里さんの電話番号を勝手に送った。
その週末、友梨から『来週は遊園地だよ〜!』とメッセージが来て、どういう事? と電話を掛けたのは言うまでもない。
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