第8話 鳴弦
高速に乗って、十分ほど経った頃だった。
ハンドルを操る千弓希に、異変が現われた。元から白い横顔が更に白くなり、辛そうに眉間に皺を寄せている。
「千弓希、どうした」颯人が尋ねると、千弓希は少し掠れた声で
「なんだか、ひどく、渇く――」と言った。
「え?」
確かに暖房は付いているけれど、そこまで乾燥はしていないと思う。けれど、千弓希の表情からは、見る見る余裕が失なわれていく。
高速では運転を変わる事も出来ない(そもそも運転できないが)、しかし慌てて出て来たのでミネラルウォーターの一つも持っていなかった。
颯人はカーナビを触り、近くに降り口かサービスエリアが無いか、探した。すると数キロ先に、小さなサービスエリアがあるのが分かった。
颯人は千弓希に、その場所を示し
「ここでいったん降りよう、最低でも何か飲み物位はあるだろう」
「うん……」
颯人はスマホを取り出し、少し前を走る隊長に繋いだ。コール音がしばらく鳴った後、隊長が出る。
「隊長、千弓希の様子が変だ。ちょっと先にサービスエリアがあるから、そこで休ませる」
「なんだと? わかった、俺も一緒に降りる」
急遽、入る事になったサービスエリアはそう大きくはないが、休憩所としての最低限の機能は果たしていた。トイレと、軽い飲食物――建物の外側には有名メーカーの飲料の自販機が置かれているし、中の売店にも飲み物の缶や瓶の並ぶ冷蔵ケースがあるのが見える。
平日の昼間、しかも観光名所からも遠いので、そんなに混んでもいない。
建物に近い駐車スペースに車を停めると、千弓希ははあ、と息を吐き、シートに凭れた。
「千弓希、大丈夫か」
「体が、すごく乾いて、力が上手く入らない……」
「水を買ってくるから、待っててくれ」
颯人は財布がポケットに入ってるのを確認し、車のドアを開けた。すると、すぐ近くにバイクを停めた隊長が走り寄って来て、どうした、と尋ねてきた。
「体がどうも乾くらしい、力が入らないって言ってる」
「やはり、まだ、ちょっと不安定なのか……」
「そうみたいだ。とにかく、そこで水分を買ってくる」
売店に入る手間も惜しくて、一番近くに在った自販機に小銭を突っ込み、両手に持てるだけのミネラルウォーターを買う。
車の所に走って戻り、買ってきたミネラルウォーターを差し出すと、千弓希は一気に半分ほどを呷った。
「どうだ千弓希」
窓の外から隊長が、話しかける。
「少し、ましになった。でも、」
「時間がかかりそう、か」
隊長の言葉に千弓希は頷いた。隊長は顎の辺りを神経質そうに撫で、千弓希が水を飲む姿を見守っていたが、その視線を颯人に移し
「颯人、お前は千弓希についていてくれ。俺はこのまま、拓の方に行く」と言った。
「え、でも、父さん」
「なんで?」
颯人も千弓希も、驚いて顔を上げる。
「ここに来る途中で、他の社員にも声を掛けてた。二人ほど、こちらに合流できそうだ。颯人、お前は千弓希について見ててやってくれ。この調子では細かい水分補給が必要かもしれんし、一人で帰すのは危険だ」
「……わかった」
「千弓希、スマホを貸してくれ、あれでGPSを追う」
千弓希は戸惑っていたが、自分の体調と状況を考えたのだろう。隊長にスマホを渡すと、簡単に使い方の説明を始めた。
「……矢印は、さっきから動いてないな」隊長がアプリを覗き込みながら、言う。
「ここは昨日の墓地より、もう少し山沿いの場所だ。……俺の記憶が確かなら、ここは鬼火の退治を依頼してきた人の、家族が襲われた場所の近くだ」
「どういう事?」
「さあな、偶然なのか故意なのか……行ってみないと解らん」
隊長は千弓希のスマホを胸ポケットに入れ、バイクの所に戻って行った。
派手なエンジン音を立て、隊長の大きな背中がサービスエリアの出口の方へ、消えて行く。
(さて)どうするかな、と颯人は考える。
人出は足りてそうだ、千弓希の体調はおもわしくなく、付き添いが必要なのも勿論だ。
ただ、悔しそうに、哀しそうにしている千弓希の横顔を見ていると、他に何か手はないかと思ってしまう。
「ちゆ、俺にどうしてほしい?」
「え」
「今、自分が動けるかどうかは、千弓希にしかわからない。どうだ? 拓の所まで行って、魂を取り返す事は出来そうか? 言っとくけど、無理をしたら更に取り返しがつかない事になるかも知れない」
「……難しいと思う、でも」
「行きたい?」
「自分の魂、だから」
「そうだな」
免許があれば代わりに運転してやるのだが、それは出来ない。なら、自分に出来る事はと言えば――
「ちゆ、昨夜のこと、覚えてるか?」
「昨夜?」
「そう、今、ちゆの中に戻ってる千弓希の魂が、俺の部屋に来てたんだ」
「颯人の部屋に……どうして? 僕はあの家から出られなかったんじゃ」
「この千弓希は少し、事情が違ったみたいだ。ちゆは、俺に力を借りたいって言って来た」
「力を? いったい何を」
颯人は千弓希の耳元に唇を寄せ、昨夜あった事を伝えた。それを聞くと、千弓希の頬は見る見る赤くなり――
「僕、そんな事……え、え……っ」
「これ、分かるか? 大分薄くなったけど、ちゆの噛んだ跡」
「えええ……」
泣きそうな顔で千弓希は、その後と颯人の顔を見比べ、両手で顔を覆って俯いてしまった。昨夜の千弓希と少々、印象が違うが――こっちも、らしくて可愛い。
昨夜の熱が再び、自分の中に戻って来たのを感じながら、颯人は低い声で囁きかける。
「試して、みないか」
「え……」
「あのちゆは、ペンダントや色んな力を借りないと、俺と話す事すら出来なかったみたいだけど、精子を体に入れる事である程度、体を保てるようになった、て言ってた。今の状態でこれが有効なのか解らないけど、上手く行けば、水を何本も飲むより早く回復出来るかも知れないし、」
千弓希の薄い唇を指でなぞりつつ、颯人は言った。
「隊長達の後を、追えるかもしれない」
「……」
千弓希はしばらく戸惑っていたが、やがて、恥ずかしそうに小さく、頷いた。
サービスエリアの駐車場は、建物に近い方に皆、車を停めるので隅の方はガラガラだった。出入り口からも遠い、隅の方に車を移動させ、停車する。
大容量を謳うコンパクトカーは、後部座席の背もたれを倒してフラットにすると、運転席から後ろが広々とした一つの空間に早変わりする。
大の男二人が収まるには、少々狭いが――座席の後ろに積んでいた荷物を窓際に避け、その影にこっそりと二人で身を潜める。
「誰か、通るかも」不安そうに言う千弓希を抱き寄せ、颯人は囁いた。
「俺が隠してやるから、大丈夫」
颯人は千弓希の頭にジャケットのフードを被せ、千弓希の唇に、自分のそれを軽く、重ねる。細身の千弓希なら、こうしていれば、身長高めの女の子に見えなくもないだろう。
そう見えた所で、カーセックスもどきをやってる事には違いないが。
「口か、下か……要はちゆの中に俺のが入れば、いいみたいだけど」
「うん……」
「どっちが、いい?」
「あ……」
千弓希が恥ずかしそうに目を逸らす。昨夜の千弓希より、ずっと幼い感じに見えるのは気のせいだろうか。
「入れる?」
「……」
「それとも、飲む?」
颯人の言葉に、千弓希が耳まで真っ赤になった。言われただけで、目尻に涙が溜まっている。――本体の千弓希は、どうやら黒い千弓希より少し、初心なようだ。
千弓希の手を取り、颯人は自分の足の間に導いた。千弓希は戸惑いつつ、そこに手を這わせ始める。恥じらう手管は、緊張感も相まってなかなか、颯人のそこに熱を産まない。
焦れた颯人は前を開け、下着の中からそれを引っ張り出した。そうして千弓希に直に触れさせると、千弓希はびっくりして一瞬、手を放し――おそるおそる、再び握り込む。
「千弓希の手で立たせて?」甘く囁けば、千弓希は俯きつつも、そこを指先で扱き出す。
最初は遠慮がちに、でも、徐々にその手付きは淫らなものに変わって行く。
颯人の先走りを指先で掬い、それを利用して先端を撫で、甘く擦りつけてくる。
恥ずかしそうに颯人の肩に額を預けつつも、指先で熱を煽る姿は、昨夜の千弓希の嬌態を思い出させた。
(あれも、やっぱり千弓希なんだ)
嬉しくて、思わず千弓希の服の下に手を滑らせそうになるが、かろうじて堪える。本格的に始めてしまうのは、流石にこの状況ではよろしくない。
千弓希の指先の動きに集中して、快感の頂点を目指す。俯いた千弓希の、ほんのり染まった頬も目に楽しい。
やがて、その瞬間は来た。
「ん……っ」
千弓希の手の平に、颯人の昨夜から何度目かの白濁が飛び散った。流石に昨日ほどの勢いはないが――、それは千弓希のコートの前を少し汚す程度には、元気があった。
千弓希は手の平に滴るそれを、目の前に掲げて見てから、ちらりと颯人の方に目を向けてきた。
「飲んで?」
甘えるように言うと、千弓希は恥ずかしそうにそれを口の前に持って行き、ちろりと舌を出した。
「ん……」千弓希が、自分の手の平に滴った颯人の白濁を少しずつ、舐め取る。
恐ろしく扇情的なその姿に、颯人は思わず、息を飲み込んだ。昨日、あれだけしていなければ即、続きに持ち込みたい所だ。
「どう?」
「……うん、」
大事そうに手首にまで伝ったそれに舌を這わせ、うっとりとした声で千弓希は答えた。
「コンビニの栄養ドリンクより、ずっと、いいみたい……」
とろん、とした目で、千弓希が颯人を見返してくる。その目は昨夜、何度も間近で見たものとそっくり同じだった。
車の後部座席で行われた秘め事は、幸い、誰の目にも見咎められる事は無かった。
事が終わり、ほんの数分程で颯人の体から必要な「水分」を得た千弓希の頬に、血の気が巡り、その美しい首や背に力が戻ってきた事が見て取れる。
(俺の……って凄いんだなあ)自分で言い出しておいてアレだが、半ば賭けのような気持でやった事だ。自分の勘と運の良さに改めて感心しつつ、颯人は手早く服を整えた。
椅子を戻し、再び千弓希が運転席に、颯人は助手席に座り直す。
どうする、と颯人が問えば、千弓希はエンジンを掛けながら
「後を追う」と、きっぱりと言い放った。
凛とした、美しいその横顔に先程の淫らさはまるで感じられない。だけど、どちらも間違いなく、千弓希なのだ。
「分かった。じゃ、急ごう」
「うん」
千弓希の足が、思い切りアクセルを、踏む。ぶおん、と景気の良い音が響き、車体が震えた。武者震いの様だった。
サービスエリアを出、高速に入って暫く進んだ所で、その異変は起こった。
まだ時間的には昼を過ぎた位で、天気も薄曇りながら、悪くはなかった――ついさっきまで。
それなのに、フロントガラスの向こうに広がる空が、急に暗くなったのだ。
(雨でも降るのかな)そう思って空を見上げたが、雨露の降る様子はない。と言うより、昼日中の空の色ではない。
真暗な艶のない布が、空の代わりに頭上に広がっている――そんな色をしているのだ。
「なんか、空がおかしい」颯人が言うと、千弓希も運転しながら、
「うん、それにさっきから車が一台も走ってない」と堅い声で言った。
「え」
慌てて周囲を見ると、二車線ある道路に、走っている車の姿が一台もなかった。
ここに来るまでに、渋滞とは言わないまでも相当な数の車を見てきた。休憩していたサービスエリアだって、二十台位の車が停まっていたし、こんなにも車の影が急に途絶えてしまうものだろうか。
しばらく走ったが、二人の車の前にも後にも、一切車の姿は現れなかった。
「千弓希、これってもしかして」
「まずいことになってると思う、多分」
千弓希が、青ざめた表情で言う。
「おかしな所に迷い込んだかもしれない……」
「……“トワイライトゾーン”か、こういうのって黄昏時が定番じゃなかったか」
逢魔が時、と言う言葉がある。
昼でも夜でもない曖昧な時間――黄昏時には、色んな境目が曖昧になると言うのは日本に限らず、他の国々でもある話らしい。あちら側のものがこちら側に顔をのぞかせる――魔に出会う時間、逢魔が時。
そして、向こうがこちらに来れると言う事は、こちらも向こうに行けてしまう、と言う事なのだ。
しかし、冬とは言え夕暮れにはまだまだ時間がある。
「こういう時は、どうしたらいいんだ?」
真暗な空を見上げながら、颯人がため息を着くと
「……とりあえず、無闇に動かない方がいいと思う」と千弓希が答え、道路の端に車を寄せて、停車した。
念のためにハザードランプを灯し、赤い三角の点灯表示版を車の少し後ろに置いて、車の中から周囲を窺う。町中に近い高速道路上で、車の走行音はおろか、物音一つ、聞こえない。
「不気味だなあ」
何より、空気自体も止まっている様だ。颯人の好きな、風の気配がまるで感じられない。
(いつも使ってる歪みの向こう、てこんななのかな)
自分のスマホを取出し、LANEを開いてみる。隊長に連絡を取ろうとしたのだが、すぐに諦めた。メッセージの着信履歴の一覧が、全て文字化けしてしまっており、アイコンも歪んでいたりして、どれが会社用のメッセージ欄かすら分からない。
試しに適当なアイコンをタップして、文字を打ち込もうとしたが、それもまともに表示されない。
何より、通信「圏外」だ。サービスエリアで時間を確かめた時には、少ないながらもアンテナは立っていたのに。
「何でだ、さっきのサービスエリアに何か問題あったのかな」
「わからない、父さんも巻き込まれてなければいいんだけど……」
「差し当たって、俺達はどうやってここから出る?」
「こういう場所から帰って来た人の話では、大概は動き回らず、じっとその場で待っていたりしたケースが殆どだと思う。タヌキやキツネが相手だと解ってる場合は、煙草を吸うといい、て聞くけど。動物たちは煙の臭いが嫌いなんだって」
「煙草……持ってないなあ。千弓希は……」
颯人の言葉に、千弓希は黙って首を振る。
「だよな、禁煙思考の流れは動物たちには有利なのかな」
「税金もいっぱい、取られるしね」
そうして二人、車の中で大きなため息を着く。
先を急ぎたい所ではあるが、長く伸びた道路の向こうは真暗で、何も見えない。深い深い黒がただ広がっていて、ここを抜けた向こうに明るい未来が!なんて、三流のメッセージソングの様な気持ちには、とてもなれなかった。
一時間、それとももっと経っていたのだろうか、颯人はもう何度目か数えきれないほど、見上げた空にようやく、黒以外の色を見付けた。
「月……か?」
いつの間に登っていたのだろう、黒い空に大きな月が出ていた。湿気を含んだ赤い、大きな月だ。
「千弓希、月だ」と言うと、千弓希も驚いて空を見上げ、本当だ、と呟いた。
車の中で過ごす内に、とうとう日が暮れてしまっていたのだろうか。だが、どうにもおかしい。真冬にこんなに月が近くて、赤かった事等、颯人の記憶には無い。
ただただ暗いよりはいいが、変化が出たら出たで、不気味だ。ここが本当に自分たちの言うあちら側、だとしたら、何が起こってもおかしくはないが。
「颯人、後ろ……何か、見える」千弓希が窓から遥か後方を見ながら、緊張した声で言った。颯人も振り返り、窓から見える、背後の道路に目を凝らす。
最初は小さな明りだった。
それが徐々に大きくなり、一つから二つに、二つから三つに増えて行くのが分かった。あれは――鬼火だ。
鬼火がふわりふわりと浮かびながら、列をなして、こちら側に近付いてきているのだ。
「なんだ、あれ――」
「百鬼夜行、とはまた違うのかな……」千弓希は颯人に、座席の下に身を隠すように言った。
「もし、百鬼夜行だったら最悪、死ぬ場合もある。もし、向こうに気付かれたら、僕がおまじないを言うから、それに続いて同じ言葉を繰り返して」
「分かった」
鬼火は、颯人たちの車が停まっている車線の、隣の車線を黙黙と進んで来た。そして、千弓希たちの車の横を通り、更にその先を目指して進んで行く。
身を屈めたまま、窓に映る炎の列を盗み見る。列はかなり長く、後ろに伸びている様だ。
百かどうかは解らないが、それ位の数はあるかもしれない。
延々と続くその列は、途切れないかのように思われたが、それでも最後尾はあった。鬼火の背後に漆黒がまた広がり始めたのを確認し、颯人は思わず小さく、息をつく。
(なんとか、やり過ごせるか――え、)
列のかなり後ろの方にいた鬼火が、ふいに向きを変えて、こちらに――颯人たちの車の方に近付いてきたのだ。
「千弓希――気づかれたかも」屈みながら小声で千弓希に話しかけると、千弓希もバックミラー越しにそれを確認し、
「窓のすぐ側まで来たら、僕がおまじないを言う。続けて言って」と小さな声で言った。
鬼火は確実に、二人の乗る車を目指して来ていた。
やはり、気づかれている――颯人が目配せをすると、千弓希は頷き
「かたしはや――」
おまじないらしき言葉を言い始め、颯人もそれに続こうと唇を開きかけたその時
「怖がらなくていいよ、ちゆ」
自分の声が、聞こえた。でも、自分じゃない。まだ、声を出していない。
それにこれは――外から聞こえてくる。
颯人は思わず、顔を上げて右側の窓の外を見た。
そこには人の頭位の大きさの鬼火と、その側にぴたりと寄り添う、一人の若い男――見覚えのある白のオーバーサイズのティーシャツと、栗色の髪、にやけた面――。
そこにいたのはもう一人の颯人、だった。
着ている服も、颯人の私服と同じ物だ。あれは確か、雲の蜘蛛を退治した時にも着ていた。
呼びかけられて顏を上げた千弓希は、最初に助手席のこちらを振り返り、呆気に取られる颯人の視線の先を追って――絶句した。
「え、颯人――え、え」
「颯人に化けた狐とか狸じゃないから、安心してくれ」窓の外で、もう一人の颯人が笑う。
「お前は、何だ」
颯人が睨み付けつつ尋ねると、もう一人の颯人はちょっと首を傾げ
「二週間ちょっと前、ふらり火に持って行かれたお前の魂――消えた一年分の記憶、て所かな」と笑って言った。
「は?」
「ま、そのままでいいから、聞いててくれ」
颯人は車の屋根の上に手を付き、こちらを除きこみながら、ゆっくりと話し始めた。
「ちゆがふらり火に襲われて三つに分かれた様に、俺もあの時、お前から分離したんだ。俺の場合は、千弓希に出会う直前までの記憶が剥ぎ取られた」
「なんで、そんな」
千弓希が悲痛な声を出すと、窓の外の颯人はすまなそうに笑い、
「それがふらり火を操ってる奴の、望みだったんだ」と言った。
「操ってる?」
予想外の言葉だった。
千弓希も驚き、窓の外に身を乗り出して
「供養の碑が壊されたから、それで怒っているんじゃ?」と、もう一人の颯人に言った。
「それも、ある。でも、その怒れるふらり火を捕えた奴がいるんだ」
そう言うと窓の外の颯人はくるりと身を返し、後部座席のドアに背中を持たせた。鬼火もそれに従うように、宙をぬるりと移動する。
この男が本体なのか、ちろちろと燃える鬼火が本体なのか。解らないが、二つは切り離せないものの様だった。
「ふらり火は、あの供養の石碑に魂を抑えこまれていた。でも、そうやって何百年も過ごす内、石碑とふらり火の魂は引き離せない程に、同化していたんだ」
「くっついたのか」
「石には気が宿りやすいから、あり得ない話じゃないけど――」
千弓希が言うには、地に属する物の中でも「石」は特に、様々な気を溜めこむ性質があるらしい。
それが良いものなら「石神」様や「パワーストーン」になったりする。けれど、溜め込むのは勿論、良い気だけではなく――
「ふらり火の気を吸っていた石碑なら、相当な負の念を貯め込んでいた筈……」千弓希が沈痛な面持ちで言う。
「そう、石碑が壊された時、ふらり火の魂は一番大きな欠片の中に残った。大きいって言っても、手の平に乗る程度の大きさみたいだけど――それを、たまたま拾った奴がいた」
窓の外の颯人が、人差し指で空中にいびつな丸を描く。ソフトボールの球位の大きさだ。
しかし、パワーストーンや宝石なら分かるが、そこらに落ちてる石なんて、普通拾わないだろう。
「そんなの拾う奴がいるのか? 変な奴だな」
颯人の言葉に、もう一人の颯人が、こちらを見てにやりと笑う。
「ああ、全くいい趣味だよな。遺跡の発掘でもしてるんなら、役立つ趣味だろうけど」
もう一人の颯人は、そう言って肩を竦め、だが、次の瞬間には厳しい顔つきになった。
「でも、問題はそこじゃないんだ。その男はある人に長い間、片思いしてた。でも、その好きな人に恋人が出来てしまったんだ。男は勿論、ショックを受けて――自暴自棄になった。ここまでは、哀しいけれどよくある話。違ったのはその先だ。その男はオカルト情報に事欠かない環境にいて、そこに凄い怨念を秘めた石がやってきた、て事なんだ」
「……」
「その人は、」千弓希がぽつりと呟く。
「最初から石がそういうものだった、て分かってたのかな」
「わからない。だが、使い方を間違ってるのは確実だよな――人を呪わば、穴二つ、なんだろ、千弓希」
千弓希は悲しそうに、目を伏せた。
「とにかく、男は妖しの力を使って、恋敵の魂の一部を奪ってやろうと考えたんだ」
「一部って、何だ」
「記憶だよ」
もう一人の颯人が自らの頭を、ちょんちょんと突いて見せる。
「恋敵が、恋に落ちた記憶。そいつの好きな人と、恋敵が出会ってしまった事実を、忘れさせてしまいたかったんだ」
「でも、恋敵の記憶だけ消しても、その“好きな人”が恋敵の事を覚えているんじゃ、意味がないだろう」颯人が言葉に、もう一人の颯人は少し満足げに頷き
「勿論、そうだ。そいつも、そもそもは好きな人の記憶の方を消そうとしてたんだ。だけど、失敗した」
そう言って、大きくため息を着いた。
「その人はふらり火に襲われて、魂と体が分裂してしまった。体の中に魂の一部を残して、一つはふらり火に捕われ、もう一つは特殊な結界の中でしか存在できない曖昧な存在にされた――」
それは、まさか。
「そう――、千弓希の事だ」
窓の外の颯人が、一瞬、昏い目をした。恐らく、あれは怒っている――自分の怒っている顔を見るなんて初めてだが、なかなか怖い顔だ、と颯人は思った。
そして、自分も今、きっと同じ顔をしている。
「誰なんだ、そいつは」
颯人は怒りで肩が震えるのを堪えつつ、聞いた。
もう一人の颯人が、答える。
「もう、分かってるだろ。以前から千弓希と親しくて、オカルトに詳しくて、石を拾っちゃうような奴なんて他にいるか?」
頭の中に、親しげに笑う友人の顔が思い浮かぶ。
「拓、か……」
「……」
やはり、という気持ちと、何故と言う気持ちと。両方の気持ちがないまぜになって、颯人の胸を重くさせる。
部屋の四隅に落ちていた、黒い砂――颯人が部屋に戻らなかった二週間の間に、あそこに入ったのは拓だけだった。
そして、状況的に千弓希と猫を攫ったのは、拓でしかあり得なくて。
でも、出来ればそうあって欲しくない、と心の隅では、願っていたのだ。
「拓は千弓希で失敗してから、何度も練習して、颯人の記憶だけを引き剥がす事に成功した。その裏で何人も犠牲にしたけれど」
窓の外の颯人が少し先を進む、鬼火の行列を目で追った。
「この鬼火がその数だ」
「そんな」
もう一人の颯人の言葉に、千弓希は泣きそうな声で言った。
「拓が、どうして……」
「何回も人を襲う内に、ふらり火の思考にも影響されるようになったのかもな。感覚がマヒして――でも、
あいつ、変なとこでお人好しだから、ともう一人の颯人が呟く。
「だから、拓から早く石を取り上げないと、まずい。千弓希の事もそうだけど、今は拓の力が強いから、かろうじてこれだけで済んでる。でも、長くそんな事をしていれば」
「立場が逆転する――」
「そう、流石ちゆは話が早いな」
窓の外の颯人が嬉しそうに、笑う。
「ミイラ取りがミイラに、て奴だ。今のところはまだ、拓がふらり火をコントロールできてる。でも、ふらり火は何百年と生きてきた妖しだ――そんな簡単に、扱えるものじゃない」
そう言ってもう一人の颯人は、暗闇の中で行進している鬼火達を指差した。
「この鬼火達は皆、ある声に導かれて、進んで行ってる。俺みたいに霊力が強かった魂は、その声に抗えてるんだけど、大概の人は呼ばれるままに進んで、消えて行ってしまう」
「消える、てどこに」
「多分だけど、ふらり火の腹の中だな。呼ぶ声は女で、消える魂が増える毎に、その声が大きくなって来てるんだ」
俺も今回はやばかった、と窓の外の颯人が苦笑いする。
「つまり、その声はふらり火で、魂を食らって強くなっていってる――拓はこの事、」
颯人の言葉を、窓の外の颯人が掬い取った。
「気付けない程、馬鹿じゃないとは思うけど。ただ、これが目的だったとは思えないな。あいつがふらり火の力を使って、世界征服をめざすようなタマには見えないし」
「……あいつの野望は精々、保護猫カフェをやる位のものだろうからな」
拓は墓地でふらり火の鬼火が増えてるのを見て、驚いてた。あの表情が演技とは思えない。あれはあいつにとっても、予想外の事だったんじゃないだろうか。
「とにかく」
窓の外の颯人が、軽く首を回しつつ、車の中に二人に宣告してきた。
「まず俺達がすべきなのはここから出る事と、この行列の妨害だ」
鬼火達はゆっくりとだが確実に前に進み、ぬるりと広がる闇の向こうを目指している。窓の外の颯人はそれを指差し、
「これを放っといたら皆、吸収されて、ますますふらり火に力を与えてしまう。石から完全に解放されて、自由に動けるようになったら、隊長でも相当手こずるだろう。そうなる前に、拓から石を取り上げてしまわないと」
それは勿論、そうなのだが――
「でも、出るったってどうやって出るんだ?」
颯人は窓の外の颯人を軽く、睨みつける。適当な事を言われても、こっちには何の準備もない。
「大丈夫、いけるさ」
窓の外の颯人が、片目をつむって答えた。
「千弓希の鳴弦。キツネやタヌキに煙が効くように、魔に関わる事なら鳴弦は効く筈だ」
「でも、今は弓なんて持って来てない……」
千弓希が慌てた様子で、言う。弓は長いから、この可愛い軽自動車では乗せられても、相当邪魔になってただろう。
しかし、窓の外の颯人はにや、と笑い
「千弓希位の霊力なら、弓状の物が作れれば、行ける筈だ。何かないか。ゴムとか木の棒とか」と言った。
千弓希は少し考えてから、
「道具箱に何かあったかも……」と言い、車を降りた。
颯人も慌てて、車を降りる。千弓希はバックドアを開け、後部座席の後ろに積んでいた、鉄製の道具箱を取り出した。
中には車の修理に使う為のスパナやドライバーが並んでいる。千弓希は道具を掻き分け、使える物が無いか探し始めた。
「ゴム、はある――後、何か手頃な太さの棒があれば……」
千弓希は苦心して、細いゴム管の両端をトンカチの木の軸の上と下とに結び付け、急ごしらえの弓を作り上げた。だが、トンカチの柄の部分は贔屓目に見ても三十㎝あるかないか、て所だ。弓と言うには、どうにも不恰好すぎる。
「持ち手が短すぎない?」
颯人が言うと、千弓希は
「弓道の練習用に使うゴム弓て言うのが、丁度こんな感じなんだ」そう言って軽く、それを弾いてみせてくれた。
びむ、びむ、と鈍い音だが、一応、音が鳴る。矢はとても射れそうにないが、今の場合はさほど重要じゃないだろう。
「うん、何とかいけそう」
千弓希の唇が少し、笑みの形に緩んだ。
「さて、後は鬼火の行列だけど……」颯人が言うと、もう一人の颯人が
「お前と俺がいれば、何とかなるさ」と事も無げに言う。
如何にも自分が言いそうなセリフだが、何となく腹が立つ。
「さあ、どうかな。お前が俺に化けた偽物で、今の話も全部ウソ、て可能性もある」
「俺を疑うのか? お前自身だぞ」
もう一人の颯人がにやにや、笑う。
颯人も片眉を少し上げて、にやりと笑って見せた。
「俺だから、だよ」
「ああ、だよなあ」
分かるよ、と言って、もう一人の颯人は、片手を目の高さに上げ
「こうやってみてくれ」と、颯人に同じポーズを取るように催促した。
分からないながらも、颯人は同じ様に右手を目の高さに上げる。
「俺達はまだ日が浅いから、これ位で行ける筈だ」
そう言ってもう一人の颯人が、颯人の上げた右手に、自分の上げた右手をぱん、と重ねてきた。
ハイタッチだ。
(――あ――)
途端、目の前のもう一人の颯人が消え、同時に、頭の中にたくさんの風景が流れこんできた。
―――『真田千弓希です』
―――『名前。千弓希さんの声で呼ばれるの、凄い新鮮。ね、もう一回呼んでよ』
―――『千弓希だから、いいんだけど。俺は千弓希の特別になりたい、拓より誰より、好きになって欲しい』
―――『お前にだけは言っとくよ、拓。俺、千弓希の事、好きなんだ。そう言う意味で』
―――『……千弓希、危ない!』
次々と湧き上がってくる、失った時間の記憶――その中でもひときわ鮮やかに映る、光景がある。
あの屋敷で、千弓希に初めて出会った時の事。
自分は雲退治で失神して、あの屋敷に運ばれ、そこで千弓希を初めて見た。それまでに見たどんな人間よりも綺麗で、優しくて、その日からずっと千弓希の事が頭から離れなくなって。
男同志だなんだと悩んだのは、せいぜい三日ほどだった。
何かと理由をつけて、せっせと千弓希の元に通い、誘い出して――そうだ、初めてのデートは
「水族館だ。千弓希が行きたい、て言ったから」
「え」
「二人で初めて出掛けたの、水族館だっただろ」
「……うん」
「それで、その日に告った。千弓希は驚いてたけど、俺を拒否したりとかしなくて、返事はその一週間後に退治に一緒に出た時に、くれたんだ」
記憶を失う前の自分と、今の自分が一本に繋がった事をはっきりと感じる。
今ならはっきりとわかる。
ばらばらになった千弓希を見捨てて、自分一人、平穏に生きるなんて出来ない、と自分は内定していた仕事を蹴って、この会社に入ったんだ。
「俺は、千弓希が体と魂に分かれた時に――絶対に、何としてでも元通りにしてやる、て思って――それを誓うつもりであの扇子を、あげた」
「うん……」
千弓希が小さく、頷く。
「颯人が誓ってくれたから、僕も諦めずにいようと思った――だから、母さんがくれたお守りを颯人に渡したんだ。どうか僕に代わって、颯人を守ってくれるように、て」
千弓希の、少し垂れ目がちの目尻に涙が浮かんでる。颯人はその細い体を抱き締めて、目尻に浮かんだ露を唇で吸い取った。
千弓希がアクセルを踏み込み、鬼火たちの消えて行った方向に向かって車を発進させる。
行列の向こうには、あの赤い月が浮かんでいる。鬼火達は、あの赤い月の光に導かれているようにも見えた。
ちょっと心配になる位のスピードで走り、やがて、ゆっくりと進んでいた鬼火たちの姿を前方に捕えた。
車を飛ばし、行列の前方に回り込む。
鬼火の先頭まではおよそ十m程、その位置に颯人は降りたち、扇子を構えた。千弓希も急ごしらえの弓を手に、すぐ側に立つ。
颯人は扇を動かし、風を起こし始めた。ありったけの力を込めて、無風の場所から風を呼び、大きな気流を作る。
今まで作った中でも、最高の大きさになるように腕を振るった。
もう、すぐそこにまで、鬼火の列が迫って来ている。
ぶおん。
巻き起こった旋風が、先頭の鬼火の形をくしゃりと歪める。颯人は思い切り、扇子を持つ腕を上に振り上げた。
道路の周囲の防音壁が軋み、悲鳴を上げる。上昇気流となった風は、鬼火たちを次々と巻き込み始めた。
しかし、鬼火の数は圧倒的に、多い。
(くそ、重いな)
更に腕を振り、扇子の先から風を生み出す。
それはもはや、小さな嵐となっていた。
嵐は鬼火たちを次々飲み込み、鬼火たちを宙で舞い踊らせる。しかし、これだけの風に晒されていても、鬼火の勢いはまるで衰えない。
禍々しい、炎のメリーゴーランドのようだった。
「千弓希、そろそろ」
「うん」
千弓希がゴム弓を構え、小さな嵐に向けて、弓を鳴らす。
びいん。
ゴムの弓から鳴ったとは思えないような、美しい、澄んだ音が颯人の耳に届いた。
びいん、びいん。
二度、三度。
音が響く毎に、鬼火達はぽろぽろと気流の外へと飛ばされて行く。赤や青の軌跡を描きながら遠くの闇に飛ばされて行くその姿は、まるで線香花火の様だった。
同時に、颯人は周囲の空気が変わって行くのを、感じていた。
闇と、自分の起こした気流しかなかった空間に、新たな風が流れ込んで来ている。
(外だ――)颯人はそう、直感した。
「千弓希! 空気が」颯人の叫びに千弓希も弓を構えながら、周囲に目を配る。
「空気が、変わって来てる――?」
じっとりと重かった闇の色が、和らぎ始めていた。
颯人は扇子を握りしめ、もう一度、大きく腕を振った。威力を失いつつある嵐に目掛けて、今一度、気流の波をぶつける。
そこに、千弓希の鳴弦が同時に響き、音を纏った風が嵐の中腹に突っ込んだ。風と風がぶつかりあい、耳を覆いたくなる程の摩擦音が響く。
嵐は細かな気流の欠片となって散り、残っていた鬼火たちごと、四方八方に吹き飛んでゆく。
立っているのがやっとな程の気流の乱れの中で、颯人は千弓希の体を引き寄せ、抱きしめた。
この嵐の外は、もう、ここではない。鼻先に届く風の匂いがそう、告げている。
どこかに飛ばされるなら、一緒に――。そう願って颯人はぎゅ、と目を閉じた。
――足の裏が柔らかい物を踏みしめる。颯人は恐る恐る目を開け、周囲を確かめた。
そこは見知らぬ場所だった。どこかの山の中、のようだ。
周囲は葉を落とした木や、鈍い色の草木で覆われていて、人一人が通れる位の道が颯人たちの前と後ろに、続いている。
木々の隙間からは青い空と、その下に彼方まで広がる住宅地が見える。
「ここは……」颯人が驚いていると、腕の中の千弓希がゆっくりと目を開け、颯人を見上げてきた。
「颯人、無事?」
「ああ、千弓希は?」
「大丈夫だと思う。ここは……」
「わからない、どこかの山の中みたいだけど」
颯人は足場のあるぎりぎりまで近寄って、遠くに広がる風景を眺めた。奥の方には高層ビルやマンション等の並ぶ都会風な街並みが広がっているが、手前の方は畑や森林が多く、道沿いに建物がぽつぽつ、見える程度だ。郊外のせいか、家よりも何かの施設――大き目な建物が多い。
その中に、屋根に小さな十字架のついた教会風の建物が見えた。周りには、広い敷地が広がっていて、何か小さな白い物が幾つも並んで置かれている。
あれは墓標じゃないだろうか。それにあの教会の屋根の形には、見覚えがある。
「あれ、前に行った、ふらり火が出た墓地かもしれない」と颯人が言うと、千弓希もその視線の先を追った。
「……教会の墓地みたいだね。となると、方角からして、あっちが僕たちの家のある方角……」
「一応、知ってる場所の近くには来られた、のかな?」
「だと、いいんだけど」
神隠しの後、とんでもない場所に飛ばされていた、と言うのは世界各国でもよくある話だ。到底登れそうにない岩山の頂上や、神社の側やら、ひどいのになると、何百キロも離れた場所で発見された、なんて話もある。
スマホを取り出してみると案の定、通信圏外だ。ただ、あの空間にいた時のようにおかしな文字化けは起こしていない。
試しに隊長に電話を掛けてみたが、やはり繋がらなかった。そして、スマホに表示された時刻を見て颯人は驚く。
あのサービスエリアを出た時刻から、五分ほどしか経っていなかったのだ。あの真っ暗な道で何時間も足止めを食っていたように感じたが、こことは時間の流れ方まで違うのか。
乗って来た車も見当たらないし、さて、どうするかと周りを見渡していると小さく、本当に小さく、だがにゃあ、と聞こえた。
「千弓希、今――」
「猫の声がした、よね」
千弓希にも聞こえていたらしい。
山の中に猫?――いない事もないのだろうが、あまり聞かない話である。だが、自分たちは拓と千弓希と、猫を探しているのだ。
これが目当ての猫の声とは限らないが、颯人たちは耳を澄ませて、猫の声の方角を探った。どうやら、声は今いる山道を少し下った方向から聞こえてくるようだ。
二人で慎重に山道を下り始める。
すると颯人たちのいた場所からほど近い所に、車一台がどうにか停められるような僅かな平地があり、そこに見慣れた車が停められているのを見つけた。
大きくていかつい、黒のシボレー。
思わず二人で駆けより、中を確かめる。助手席に縞模様の猫がいて、必死でガラスを引っ掻いている。
屋敷で保護していた、あの猫に間違いなかった。
颯人は慌ててドアを開けようとしたが、当然ながら鍵がかかっている。どうしようと、千弓希と顔を見合わせた。
「猫の状態は確認した方が、いいよな」
「うん」
颯人は周りを見渡して、手頃な石が無いかを確かめた。近くの木の根元に、レンガ位の大きさの石があったのでそれを持ち上げ、千弓希の方をちら、と見る。
「隊長に怒られたら、一緒に謝ってくれる?」
皆まで言わずとも、千弓希はすぐに颯人のやろうとする事を理解したらしい。
「僕がやった、て言う。気にせず、やって」
持ち主の息子に許可を得たので、颯人は運転席の横に立ち、思い切り石を振り上げた。そして、それを窓ガラスに叩きつける。
衝撃音と共にガラスが粉々に散り、座席に四角く砕けたガラス片が飛び散った。
もう一度叩き、更に穴を大きくしてから腕を突っ込み、扉のロックを外す。扉を開けて中を覗き込むと、猫が嬉しそうにすり寄って来た。
「千弓希、か?」
問いかけるが、猫はにゃあにゃあ、と鳴くばかりだ。当たり前と言えば当たり前だが、この子の中に本当に千弓希がいるかどうかは、分からない。
なんとかして確かめる方法はないかと考え、ハンドルにクラクションが付いてるのを見て、閃いた。
猫の目線に合わせて屈みこみ、静かに話しかける。
「千弓希、俺の言う事が分かるなら返事して。このクラクション、鳴らせるか?」
猫はじっと颯人の言葉に耳を傾けていたが、颯人の言葉が終ると、体を伸ばして前足をハンドルに掛け、ぽん、とクラクションを叩いた。
プッ、と控え目な音が、辺りに響く。
颯人は思わず、側の千弓希を顔を見合わせた。
「本当に僕? だったら二回、鳴らして」今度は千弓希が屈みこんで、猫に尋ねる。
猫は再び体を伸ばし、プップッ、と二回、クラクションを鳴らした。
「……」
「……」
偶然にしてはタイミングが良すぎるし、猫はクラクションを鳴らした後は大人しく座席に座って、こちらをじっと見ているばかりだ。
千弓希は恐る恐る猫を抱え上げ、体を調べ始めた。
「……これ、雲の針かな」
千弓希が示した場所――猫の首の後ろ辺り、に何かが刺さっていた。突端は少ししか見えないが、おそらく透明で細長い物――雲の氷の針だ。
千弓希は早速それを引き抜こうとしたが、ふと躊躇って、その手を止めた。
「抜かないのか」
「……この中にいる僕は、不安定な状態な筈だから……。車の窓は破っちゃったから、結界は無効になってるし、針は猫に刺さってるこれしかないし……」
「抜いてる途中で折れない、って保証もないか」
残りの針は、製氷皿ごと屋敷の冷凍庫にしまってある。そこまで連れて帰ってからの方が、千弓希にも、猫の為にもいいだろう。
「ちゆ、もう少し、我慢してくれよな」
猫の千弓希の顔を覗き込みながら言うと、にゃあと返事が返ってきた。
「何だか、変な気持ち」と千弓希が言う。
「俺もだよ」
どちらの千弓希も可愛いが、それをのんびり楽しむ心情には到底、なれそうにもない。それに今は、一刻を争う状況だ。
「拓がここに来てるんなら、どこにいるんだろう」
車の中には当然ながら、拓の姿は無かった。後部座席の下に多分、猫の千弓希を入れていたのであろう、キャリーバッグが転がっており、上等な皮のシートに無残に爪痕が残されていた。僅かながら、血痕らしきものもある。
しかし、猫の千弓希の体に傷は無かったから、これは多分、拓の物だ。
多分、拓は猫の千弓希を置いて行ったのではなく、置いて行かざるを得なかったのだろう。人馴れしてない猫は捕えにくいのだと、友人から聞いたことがある。
(相当、抵抗したんだな)
千弓希の膝で大人しくしている猫の千弓希の姿からは、とても想像は出来ないが。
颯人は、改めて周囲を見渡す。颯人たちが下りて来た道は狭かったが、このシボレーの停まってる場所から下は、車一台ならどうにか通れそうな道幅だ。
車でここまでは来れたものの、この先の道の狭さに車を降りて行くしかなかったんだろう。しかし、この先に進んだのか、戻って行ったのかが分からない。
足元の土は乾燥していて、足跡など殆ど残っていないし、二手に分かれるのは携帯が繋がらないこの状況では、悪手だろう。
「ちゆ、拓はどっちに行った? 分かる?」
尋ねると、猫の千弓希は千弓希の膝からぴょいと飛び降りて、今二人が降りて来た山道を登り始めた。幾らか進んだ所で、こちらを振り返りにゃあ、と鳴く。
「案内してくれるんだ?」
颯人が尋ねると、また一声、にゃあ、と鳴いた。
「してくれるみたい」
「だね」
猫の千弓希の先導で、降りて来た山道を再び登り始める。
先程、二人で立ち尽くしていた場所を過ぎ、暫く歩いた所で道が二つに分かれた。その手前で猫の千弓希の歩みが止まる。
「どうした」
屈みこんでその小さな背に話しかけた時、ふと、人の話し声が聞こえて来た。一人じゃない、複数の声だ。
颯人はその中に聞き覚えのある声が、混じっているのに気づいた。
「……それをどうするつもりだ、拓」
「どうもしませんよ、俺はね。俺はただ、あいつの手から千弓希を奪いたかっただけだから」
隊長と、――拓の声だ。
「ただ、こいつは、ふらり火はそれだけじゃもう、納得しないんだ」
「ふらり火の復讐はもう終わってるんだ。怨みを晴らすべき相手はもういないんだぞ」
「そう、だから心の飢えを、食って満たすしかないんだ。隊長みたいな強い魂なら、こいつも満足すると思うけど――流石に俺もそれは嫌なんで」
猫の千弓希にここにいて、と言い置いて、側にいる千弓希に目配せする。千弓希がそれに頷き、二人で足音を忍ばせて声のする方の道に入って行った。
なだらかな曲線を描く山道の先に、あのライダースジャケットのごつい背中と、一組の男女が一緒に坂の上の方を見上げて、何か話しているのが見えてきた。
話した事はないが、見覚えのある人たちだ。
「小早川さんと、毛利さんだ。うちの社員さんだよ」千弓希がこそこそと耳打ちしてくる。
「じゃあ、応援に来てくれた人たちって事か」
そして、ここからは死角になって見えないが、この先に拓もいるらしい。
「帰って下さい、隊長」
「俺がそれで納得すると思うか」
「して貰わないと困ります」
隊長と、拓の言い争う声が山の中に響き渡る。
颯人は静かに周囲を見渡した。隊長達のいる場所は、山道の中の緩やかなカーブを描いている所で、ここからは隊長達の背中しか見えない。
拓の声の大きさからして、隊長達とはそんなに離れてないようだ。そして、その声の方向――
(もしかしたら)
颯人は踵を返し、先ほどの道の分かれている所まで戻ってきた。そして、もう一方の狭い道の方に入って行く。
少し行った所で立ち止まり、風の中に目当ての物を探し――見つけた。
「颯人?」後を追ってきた千弓希が後ろから、声を掛けてくる。
「この上から、拓の気配と声がする」そう言って、すぐ横の斜面を指差した。斜面から流れてくる気流に、拓の声が乗っているのをはっきりと感じる。
幸い、そこまできつい角度でもなく、掴まれそうな木や植物が生い茂っていた。颯人は道の方にまで伸びて来ていた何かの植物の蔓を掴み、その斜面を登り始める。
山登りはあまりした事はないが、運動神経には自信がある。
「登るの?」千弓希が小声で呼びかけて来るのに振り返り、
「隊長達が気を引き付けてくれてる間に、拓の側まで行く」そう言うと、千弓希もはっ、となった。
「僕も行く」と、颯人にならって枝を掴み、斜面を登り始める。
颯人は空気の流れを読み、出来るだけ音を立てないように木々の隙間に身を滑らせ、声の方向を探った。
「……千弓希をどこへやった」
「隊長の車ごと、隠してありますよ――車はいずれ、返します。だから、今は放っておいてもらえませんか」
「千弓希がお前と共に行く事を望んでいたのなら、そうしてもいい。だが、違うんだろう? 千弓希が同意してたのなら、こんな風に逃げる必要は無い」
「……ほんの欠片位、貰ってもいいじゃないですか、どうせ……」
何度も枯葉や小枝に足を取られながらも、颯人は漏れ聞こえてくる二人の声を頼りに、慎重に斜面を登った。幸い、さっきからそこそこ強い風が吹いているから、少々の音を立てても気づかれにくい。
最も、拓にはもう、そんな所にまで気を配る余裕はないようだが。風の中から漏れ聞こえてくる声は、かなり切羽詰まって来ている。
「――とにかく、隊長達が放っておいてくれないなら、俺はこれを完全に解き放ちます」
「よせ、拓」
焦ったような隊長の声が耳に届いた時、ようやく枝葉の隙間に拓の姿を捕えた。
拓の手にソフトボールの球位の石くれが、乗っている。墨汁に浸したような、深い墨灰色の石。
その暗い色は元々の石の色ではなく、ふらり火の怨念を吸い続けた挙句にそうなったのだろう。或いは吸収された魂の怨嗟の色か――勘の強い者ならば、見る事すら避けたくなる様な禍々しい気を、その石は纏っていた。
「隊長も見た通り、ふらり火の体は復活してる。けど魂だけは、まだこの石の中に在るんだ――俺が土の力で何重にも、封をしておいたから」
「お前が何で、そんなものを――」
「一年半ほど前、たまたまこの近くで友人たちとキャンプをしたんです。その時、いわくつきの石碑の跡が近くにあるから肝試しを、てなって――その時に、見付けたんです」
拓の声は楽しげなのに、どこか虚ろな響きを持っていた。
「こういう石は拾うべきじゃない、って知ってました。でも、その石の中から聞こえる声があまりに哀れで、放っておけなかったんです――俺と似てる気がして。こいつの力に気付いたのは、持って帰ってからでしたけど」
颯人は拓の背中が見える位置まで移動すると、少しだけ頭を出して、隊長達の方を見た。助っ人の二人は気付かなかったようだが、隊長の目が一瞬、こちらを捕えた。
颯人は口の前に人差し指を立て、再び茂みの中に身を潜ませる。颯人はペンダントを外し、閉じたままの扇子にその革紐をくるくると巻き付けた。
弓矢の飾りはそれなりに重みがある、これで重心が安定するはずだ。
千弓希は颯人のすぐ隣で、それを静かに見守っていた。
拓が手にしていたソフトボール大の石を、自分の顔の横に掲げる。
「体と同じく、こいつももう、孵化寸前だ――後、ほんの数人の魂を吸うだけで、完全に俺の封を解いて、自由になってしまう。だから、せめて、深い山奥にでも隠しておこうと思ったのに」
一瞬、土の匂いが強く立ち上ったような気が、した。拓の体、いや、石を掲げたその手の先から。
拓が、石に掛けた自分の封を解こうとしている――気づいた颯人は素早く立ち上がり、ペンダントを巻き付けた扇子を、投げた。
円を描いて解き放たれた扇子は狙い過たず、拓の石を持った方の手首を直撃する。
「――!?」
驚いた拓がこちらを振り返り、茂みの中に立つ颯人と目があった時には隊長はもう、駆け出していた。
小柄な拓の体が、隊長の当身を喰らい、強かに吹っ飛ぶ。そこに、他の社員たちが飛びつき――刑事ドラマ張りの確保劇が目の前で展開された。
拓の手から石が放り出され、地面に落ちたそれを千弓希が素早く拾いあげる。
颯人は取り押さえられた拓の頭の側に屈みこみ、
「その魂なら、とりあえず俺が遠くに吹っ飛ばしといたから安心しろ」と、言った。
それを聞いた拓の口から、ああ、と驚いた様な諦めた様な、情けない声が漏れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます