第7話 千弓希


 結界の部屋を一歩出ると、千弓希が驚いたように

「寒い……」と言った。

 千弓希は、薄めのシャツとジーンズを身に着けているだけだ。足も裸足で、真冬の底冷えのする洋館では、震えるのも無理はない。

「ダイニングは暖房が効いてる、とりあえず下に行こう」

 そう言いながら颯人は着ていた上着を脱いで、千弓希の肩に掛けた。

「あ、ありがとう……」

「いや。ちゃんと寒い、て言ってくれるんで良かったよ」

「え?」

 颯人の覚えている限り、千弓希はいつだって薄着で家の中を歩いていた。それを少し心配していたし、拓の言葉を聞いた今では――彼が気温の事を口にしてくれている事が、奇跡のように思えた。

「大丈夫?」

「少し足元がふらつく感じがするけど……大丈夫」階段を慎重に降りながら、千弓希が答える。

 玄関フロアに降りると、来客用のスリッパが置いてあったので、それを千弓希の前に出す。それを履くと千弓希は暖かい、と言って笑った。

 ダイニングに入ると隊長はマグカップに湯を注ぎ、千弓希の為に熱いお茶を入れた。千弓希は、父親の差し出したお茶の器に手を伸ばし、それを一口飲んで、目を丸くする。

「何だか、すごく喉が渇いていた感じだ――全身に沁みて行くのが、分かる」

「そうだろうな」

 隊長が嬉しげに言う。

 魂の千弓希は水分だけは取っていたのだが、それは水の力で魂の状態を維持するためで、体の方にその水分は殆ど、伝わっていなかったらしい。

 あの部屋では時の流れがゆっくりになっていたとは言え、千弓希の体が酷く乾いている事は間違いなかった。

 千弓希がお茶を飲み干し、ある程度落ち付いた様子なのを見計らい、隊長は

「千弓希、落ち着いて聞くんだぞ」と切り出し、今の状態の事を説明し始めた。

 千弓希は驚きはした物の、さほど混乱はしなかった。父親と、時折補足する颯人の言葉に丁寧に耳を傾け――

「そう、なんだ。じゃあ、僕は後一つが足りてないんだね」と、確認するように言った。

「千弓希が今、覚えてる事は何?」

 颯人が尋ねると、千弓希は少し考え

「よく、思い出せないけど――何か暗い所にいたような気はする。沢山の炎があるんだけれど、決して明るくは無くて――」と言った。

「ふらり火の、中にいた時の事かな。ここにいた一年の事は何も?」

「……うん、分からない」

「そうか……」

 と言う事は、颯人が記憶を失ってここで目覚めてから、二人で過した二週間余りの事も覚えていないと言う訳だ。勿論、昨夜の事も。

 千弓希の体は眠っていたから、仕方ないとは言え、やはりがっかりする。

「ごめん、颯人」千弓希が申し訳なさそうな顔で、詫びて来た。

 千弓希の記憶は一年前、おそらく颯人と出会って暫くした頃で、途絶えている。多分、その頃にはもう、付き合い始めていたとは思うのだけれど。

「いいよ、俺との事はちゃんと、覚えててくれてるんだろ」俺と、に少し力を込めて言えば、千弓希には通じたのだろう。

 少し赤くなりながら、勿論、と答えた。

「それなら、いいよ」

 自分は出会った事すら、忘れてしまっていたのだ。

 あの時の千弓希の心境を思うと、今更だが申し訳なさで軽く、地面に埋まりたくなる。

「その記憶は、もう一人が持ってるんだろう」

「そう、まず、それだな」隊長が力強く、息子を励ますように話しかける。

「まだ、三分の二だ。残りの三分の一を取り戻しに行かなくてはな」

 


「さっき、千弓希は自分の連れ去られた魂の近くに、拓を感じるて言ってた。今の千弓希はどう? 分かる?」

「……少し、待って」

 千弓希は軽く目を閉じて、暫く何かに集中するように黙っていたが、やがて目を開け、

「確かに拓の、土の匂いは少し遠くの方に、感じる」とだけ、言った。

「それ以上は解らない?」

 颯人が聞くと、千弓希はすまなそうに首を横に振った。

「魂だけの状態ってのは、無防備になってるからな」

 隊長が横から言い添える。

「常に感覚をむき出しにしていれば、外界の色んなものに晒され続けて疲弊してしまう。体がある事でそういう状態からある程度、守られるようになるんだが逆に、鈍感にもなるんだ。さっきまでの千弓希は魂だけの存在だったから、よりダイレクトに、もう一つの自分の存在を感じられたんだろう。拓の事もな」

「ごめんなさい」

「何を謝る事があるんだ」

 からからと隊長が笑う。

「少なくとも、以前の状態より俺は今の方は余程、嬉しいぞ。お前が目覚めて、あの部屋から出られた。体と魂を繋ぐ方法も分かってる、麻雀で言えばリーチだぞ」

「そうだよ、千弓希」

 颯人は千弓希の顔を覗き込んで、言った。

「霊力とかで割り出せないなら、地道に推理していけばいい。ここらはちょっと奥まってるし、見慣れない人や物があったら結構目立つと思うんだ」

「そうだな、それにどこに向かったかは解らんが、大通りか駅の方まで出ないと、遠くには行けない。この状況であっさり家に帰ってるとは、思えんしな」

「確か、拓は免許は持ってたよな」

「ああ、でも、あいつは免許は持ってるが、車は家族共用のしかない筈……待てよ……」

 隊長はリビングの隅に置いてある電話台の方に走って行くと、台の横に置いてある、キーボックスを開けて

「やっぱりだ」と叫んだ。

「家の近くの駐車場に停めておいた、シボレーの鍵が無くなってる」

「それで逃げたのか、なら、大分目立つな」

 するとそれまで黙って聞いていた千弓希が、明るい表情で立ち上がった。

「なら、あれにGPSを取り付けてあるから、すぐに場所は解る」

「何? いつの間にそんな物……」

「前に車が盗まれかけたから、万が一のことを考えて、座席の下に着けといたんだ。父さんが気づいて外してなければ、だけど」

「……全然、気づかなかった」

「流石、千弓希。有能過ぎる」

 千弓希は自室に戻ってスマホを持って来ると、アプリを立ち上げ、GPSの検索画面を開いた。

「良かった、ちゃんと動いてるみたい」

 スマホの液晶画面に、小さな地図が表示されている。そこに小さな赤い矢印が表示されていた――おそらく、隊長のシボレーだ。

「これか。どこにある?」

「待って――」千弓希は地図を指でスライドさせ、周りの建物等を調べ始める。

「まだ移動中みたいだ――そんなに遠くない。高速に乗ってるのかな、方角的には西の方……××市に向かってるのかも知れない」

「××市……て昨日の墓地も、そこら辺だったよな?」

 颯人が言うと、隊長が千弓希の手からスマホを取り上げ、赤い矢印の側にある地名や建物を調べ始めた。

「――この高速に乗れば、確かに××市に出られる。もしくは、そこを抜けて県外に出る気か。よし、とにかくこれを追うぞ。二人共、車に」言い掛けて、隊長は頭を抱えた。

「その車を、探しに行かなきゃならんのだな」

「じゃあ電車で? 会社の車は他にないのか」

「もう一台あるが、他の案件で使ってる」

「僕の車はまだ、ある?」

 千弓希がテーブルの上に身を乗り出すようにして、言う。隊長は顔を上げ、ああ、と返事したが

「だが、あの軽自動車はこの一年近く、乗ってなかったから……たまにエンジンは掛けていたが、ちゃんと動くかどうか分からん」

「とりあえず、見てみるよ。駄目なら誰かから借りるか、電車だね」

「よし、俺もバイクの方を見てみる。あの軽で三人乗ったら、多分、スピードが大分落ちるだろうからな」

 そう言うと隊長はキーボックスから二つの鍵を掴むと、その一つを千弓希の方に放り投げた。千弓希はそれを空中で受け取ると、颯人の方を振り返り、

「行こう、颯人」と言った。

 隊長はそのまま、ダイニングを出て行き、颯人たちは千弓希の上着と免許を取りに行く為、二人で二階に戻った。

「千弓希も、免許持ってたんだ」

「うん、こういう仕事してると、車がある方が何かと便利だから。今回みたいに少し郊外の方に行くとなると、電車の本数が少なかったりするし」

 部屋に戻ると、千弓希は机の引き出しを開け、青い皮のケースに入れた免許証を引っ張り出した。

「あ、更新期限が近い――危なかった」

「AT限定じゃないんだ」

「父さんの車を運転する事もあるから――あれはミッションを持ってても、車体が大きくて難しいんだけど」

「左ハンドルだしな」

「そう、それを考えると、軽は馬力はないけど運転しやすいし、狭い道でも困らないし」

 千弓希の軽い口調に、颯人は思わず笑みが漏れる。それを見て千弓希は不思議そうな顔をした。

「どうしたの?」

「いや、口調がさ。昨夜からすごく気安くて、いいなって」

「口調?」

「俺が覚えてる千弓希は、ずっと敬語調で話してた。名前だってようやく、颯人って呼び捨てにしてくれるようになった所だったからさ」

「え、そう、だったの」千弓希がぱちぱちと瞬きをする。

「敬語っぽいのも可愛かったけどさ、この方が嬉しい」

 次に千弓希はクローゼットを開けて、セーターや靴下を引っ張り出した。それらを手早く身に着け、黒いダウンジャケットを羽織り、颯人の方に向き直る。

「お待たせ」

「いいえ」

 二人で並んで部屋を出ると、猫が段ボールの箱の上から不思議そうにこちらを見ていた。

「君も巻き添えを食っちゃったんだね、ごめんね」

 千弓希が立ち止まって、猫に詫びる。猫は金色の目をじ、と千弓希に向けて、それからにゃあ、と一声、鳴いた。

 怒っているのか、泣いてるのか、それとも単によく分かっていないのか――その表情からはさっぱり、気持ちは読めなかったけれど、颯人たちが階段を下りていくのを、猫はずっと目で追っていた。

 玄関を出る時、颯人がもう一度階段の方を振り返ると、猫はやっぱりそこに居て、手すりの隙間からこちらをずっと、見下ろしていた。


 早足で、二人、庭の中を進む。車はどこにあるのかと尋ねると、事務所の一階だと千弓希は答えた。

「父さんが場所を移動させてなければ、だけど。前はずっと、そこに駐めてた」

「じゃあ、外か――」颯人は思わず、歩みを止める。

 急に立ち止まった颯人を訝しんで、千弓希も少し前で立ち止った。

「どうしたの」

「いや、外に出るんだな、て思って」

「? うん」

「千弓希、ずっと外に出てなかったて聞いたから」 

「ああ……」

 事務所はこの屋敷から、そう遠くない雑居ビルの一室にある。一階が駐車スペースになっていて、店子ならば割安で利用できるらしい。

 ここからそのビルまでは大した距離ではない。ゆっくり歩いても十分ほど、子供でもせいぜいプラス五分、て所だ。

 でも、子供の小さな足で歩いて行けるような距離でも、魂だけの千弓希には遠い海の向こうと変わらない位、遠い場所だったはずだ。

「何か、嬉しいのと不安なのと半分半分、て感じなんだ」

「……」

 千弓希は数メートル先の鉄柵の門を、じっと見つめた。

 千弓希は屋敷と庭の中までしか、動けなかったと拓は言っていた。実際、颯人が見てきた中でも、この門扉の所まで出迎えにきてくれたのが、千弓希が一番屋敷から離れた状態だった。(昨夜のあれは、少し事情が違うのでノーカウントだろう)

「魂だけの状態なら、多分、そうなるだろうね」

 千弓希は深く、長い息をついた。口から白い蒸気がふわりと立ち上る。

 そう言えば、ここで千弓希に出迎えられた時、あの日もかなり寒かったのに、千弓希の息は白くなっていなかった。

「そう言われると、少し、怖いかな」

 千弓希の笑顔が少し、強張っている。

「ごめん、そんなつもりじゃなかった」慌てて謝ると、千弓希は首を振る。

「言って貰えて、よかった。父さんや颯人の話を信じてない訳じゃないけど、現実感がなくて……門を出た途端に、僕がしゅう、て消えたら颯人が困るからね」

「本当に困るのは、ちゆだろ」

 颯人がいさめるように言うと、千弓希の眉がハの字に下がる。ごめんと小さく言う千弓希に近寄り、颯人はその肩を掴んだ。

「俺も記憶が無くなってるて言われた時は、意味分からなくて千弓希の事も疑ってたよ。それは当然。でも、俺も隊長も、千弓希に嘘は言わない」

「うん……」

「俺、色々忘れてるんだけどさ。最近、思い出した事が一つ、あるんだ。多分、千弓希が体と魂を分けられて、半透明になった時の事――ここに辿り着くまで、千弓希は空気の塊みたいな感触で、直に触れられなかった。だから俺が自分の腕の周りに風を起こして、その上に乗せて運んだんだ」

「……」

「本当は、千弓希はまだ、家の中にいた方が良いのかも知れない。正直、俺もちょっと怖いよ。でも拓が絡んでるなら、俺より拓との付き合いが長い、千弓希にいてもらった方が良いと思うんだ」

「そう、それに捕まってるのは僕の魂、だからね。自分で、取りに行かなきゃ」

 千弓希の声はあくまで、穏やかだった。

「むしろ、颯人には申し訳ない、て思ってる。まだ怪我が治って間もないみたいなのに、こんな……」

「それは平気。確かに痛かったけど、怪我した時のことは覚えてないし、ちゆが全部、面倒見てくれてたし。それに」

 内緒話をするように、千弓希の耳元に口を寄せて、囁く。

「そのお陰で千弓希をもう一回、好きになれた」

「……颯人は本当に、」

 ちゆきがくすぐったそうに、笑った。

「門を出る時、手を繋いでてくれるかな?」

 千弓希がそっ、と手を差し伸べてくる。手袋を付けてない指は、先の方が赤くて、千弓希の中に巡る血の存在を思い出させた。

「うん」

 颯人はその手を取り、ぎゅっと握りしめた。冷たい外気に晒され、ひんやりとしているその指は、それでも生きる物の持つ、温かさをその下に隠している。

「もし、僕が途中で様子がおかしくなったら、颯人は――」

「ああ」

 颯人は力強く、答える。

「俺がどんな事をしてでも、助けてやる」

 二人で手を繋ぎ、門の前まで歩く。

 颯人が門の閂を外し、その鉄で出来た門柵を手前に引く。キイ、と高い音を立てて門が開き、颯人は一歩、外に踏み出した。

 千弓希が、その颯人の手に引かれて、ゆっくり門の外へと一歩を踏み出す。

 右足が、そして次に左足が。靴底で踏みしめたアスファルトの感触を確かめるように、千弓希が門の前に立った。

 暫し、言葉もなく二人は向かい合って立ち続ける。ほんの一時、頭の中に浮かんだ悪い風景を打ち消す為に、颯人は千弓希の手を強く、握った。

 手の中に千弓希の手の温もりが、ある。肉と骨を思わせる僅かな重みも。

 千弓希がその、僅かに青味がかった目を颯人に向けてくる。颯人が見返すと、千弓希は目元をほころばせ

「大丈夫、みたい」と言った。

「うん」

 思わず抱きしめたくなったが、たまたま近くを通りすがった若いママさんと幼児が不思議そうな顔でこちらを見ていたので、我慢する。

 手を繋いでる所をバッチリ見られたので、ややアウトだが、それ位はどうでもいい。千弓希と一緒に外を歩けることに比べたら、些細な事だ。


 事務所のあるビルの側まで行くと、入り口付近にでかいバイクが止まっているのが見えた。あれはもしかして、ハーレーとか言う奴じゃないだろうか。

 その横には、革ジャケットの隊長が仁王立ちで待ち構えていた。

「千弓希――、良さそうな感じだな」

「うん」千弓希は、強い声で応えた。

「中の車が駄目だったら、最悪、これにニケツして一人は電車かタクシーになるが……」隊長がハーレーを指差しながら、言う。ロングシートなので確かに二人乗りも出来そうだ。隊長と、となると少し不安だが。主に、座る面積的な理由で。 

「とにかく見て来るよ、ここで待ってて」

 通用口からガレージに入ると、中は薄暗く、しん、と冷えていた。千弓希がきょろきょろと辺りを見渡し、あった、と小さく叫ぶ。

 千弓希が小走りに歩み寄ったのは、可愛らしい青の軽自動車だ。CMでもよく見るコンパクトカーで、見た目よりも荷物が載せられると言うのが売りの車だ。

 千弓希がロックを外し、二人で同時に車に乗り込む。中には変な匂いの芳香剤もなく(颯人はあれが苦手だ)、千弓希の部屋と同じ様にすっきりと片付いている。

 千弓希がアクセルを入れると、ぶおん、と車体が震えた。

「良かった、動くみたい。ガソリンは――ちょっと少ないかな。途中で入れて行かないと」

「カーナビも付いてるんだ。隊長のは無かったのに」

「父さんはああいうの見ると、鼻糞みたいなの付けるな、て怒るんだ。そのくせ、道案内は人のスマホを頼るし、中途半端なデジタル民なんだよね」

「言えてる」

 千弓希がハンドルを回し、車体を薄暗い駐車場から、外に出す。

 待ち構えていた隊長の側まで行き、千弓希が窓を開けると、隊長は少し身を屈ませて

「前も使った高速に乗って行く。その大通りから高速に乗れ。俺も並走して走るが、何かあったら連絡しろ。携帯を繋げられるようにしておくから」と耳に刺したイヤホンマイクを示して、言った。

「分かった」

 手が離せない千弓希の代わりに連絡係を請け負い、颯人は千弓希のスマホの画面を開く。立ち上げたアプリには隊長のシボレーの位置が、赤い矢印で示されている。

 拓と――千弓希の魂が、そこに居る筈だ。




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