第6話 ふらり火
朝飯もそこそこに、颯人は駅への道を急いだ。
消えた千弓希と、昨夜、自分の元を訪れた千弓希。隊長の口ぶりでは、どちらも千弓希らしいが――
(体と魂が分かれた、て言ってたけど、じゃあ、昨夜来たのは千弓希の体の方、なのか?)
あれが千弓希の体なのだとしたら、魂が無いと言うのに、どうやって動いていたのか。いや、それ以前に今までどこにいたのか?
魂の千弓希と、どこがどう、違っているのか。
(分かんない事だらけだ)
自動販売機で買ったコーヒーを片手に、ホームで電車を待つ。
颯人が失った時間は、およそ一年半。
全てを忘れた訳じゃないし、例えこのままでも、それなりに道を修正しつつ、やり直して行けるだろう。けれど出会った事自体、忘れてしまっていたのに、引き寄せられるように自分は、再び千弓希に惹かれ、恋をしてしまった。ならば、もう。
(向き合っていくしかないんだろうな、この状況に)
ホームにアナウンスが流れ、電車が入ってくる。
通勤ラッシュには少し早い時間だが、それでも車内にはそこそこの人数が載っていた。開いていた吊革につかまり、颯人は何となく周りを見渡す。
ブレザー姿の高校生や、サラリーマンにOL……皆、寒いし朝も早いし、どことなく辛そうだ。隣のおじさんは、スマホで株式のサイトをチェックしながら難しい顔をしているし、正面の座席に座っている女子高生はテストが近いのか、電子辞書で英単語を睨みつけている。
ここにいる人たちにも、一人一人、それぞれに悩みや苦労があるのだろう。
けれど。
(一年以上の記憶が無くて、おまけに好きな人が幽霊でした、なんて人は流石に俺位なんだろうなあ)
颯人は何故か可笑しくなって、口の端が緩んでくるのを感じた。
昨日――いや、もう二週間前から驚きと混乱の連続だ。しかし、それでいつまでも参っている様な性分でも、ない。
(諦めなきゃ、どこからかいい風が吹いて来るさ)大丈夫、昨夜の千弓希は夢じゃない。
きっと、どうにかなる。
屋敷に着くと、隊長と拓がダイニングで待ち構えていた。
「千弓希は、本当にいないのか」
颯人が尋ねると、二人共頷いた。
隊長は着ていたジャージのポケットから、鍵を取り出した。あの、金属の輪にぶら下がった三本の鍵だ。
「着いて来い。二階の部屋で見せたいものがある」
「……分かった」
隊長は拓にはダイニングで待つように指示すると、颯人を伴って二階に上がった。階段を登り切ると、昨日置いた箱の上で猫が相変わらず、横たわっていた。
隊長はその横を横切り、、突き当りの黒いドアノブの部屋の前に立つ。
「……ここは何か条件が合わなきゃ、開けられないんじゃなかった?」
「条件は今、合った。お前がここを見るべき時が来たからな」
隊長はそう言って、三本の鍵の内の一つ、墨色の鍵をその黒いドアノブの鍵穴に差し込んだ。軽く手首を右に回すと、ガチャ、と鍵の外れる音が周囲に響く。
以前、颯人が触れた時にはビクともしなかったドアノブが、いとも簡単に回され、扉が静かに開いた。
中は真っ暗闇だった。
外の“檻”と同じ――天地を感じさせないほどの、闇。
隊長が躊躇いなく踏み込んで行ったので、颯人も慌てて続く。すると目の前に、椅子に座っている人が現われた。
外からは何も見えなかったのに、一歩踏み込んだ途端にその人は姿を現わしたのだ。
颯人の立つ場所の、ほんの数歩先――白いシャツとジーンズを身に纏ったその人は、柔らかそうなビロード地のクッションが着いた背凭れに体を預け、ゆったりと眠っているように見えた。
けれど、ひじ掛けにゆったりと掛けられた白い手も、伏せられた長い睫毛もぴくりとも動かない。少し薄い、綺麗な形の唇からは、呼吸の気配も感じられない。
でも、何より颯人を驚かせたのは、その人の顔が千弓希とうり二つ、と言う事だった。
「これは……何? マネキン、じゃないですよね」
「千弓希の体だ」
隊長のよく通る声が、闇に響く。
「拓も言った通り、お前が今までここで見て来た千弓希は、あいつの魂だ。一年前、初めて例の鬼火を退治しに行った時、千弓希は鬼火の炎にやられた。あいつも水の力を使って相当、抗ったみたいで、体は殆ど焼けなかったが――炎が収まった時、そこには千弓希が二人、同じ格好で倒れていたんだ」
その時の事を思い出したのか、隊長が苦し気な顔になる。
「一人は服や髪の毛の先が少し焦げていた。もう一人はどこも焦げていなかったが、まるでくらげみたいに、半透明に透き通っていたんだ。それ所か、体に触る事すら出来なくてな……霞みたいにひんやりとした感触が伝わって来るだけで、人の手も、物も全て突き抜けてしまった――あの、猫のようにな」
「それが、千弓希の魂?」
颯人の言葉に、隊長は頷いた。
「しかし、千弓希の体にはまだ脈も有ったし、怪我自体は浅かった。だから、俺達はかなり苦労したが――二人の千弓希をここまで運んで帰った。ここはあいつ自身の込めた水の力が満ちているから、どこにいるよりも早く回復出来るはずだった」
「……」
颯人の脳裏に、覚えていない筈の光景が次々と浮かんでくる。
血の気の通わない千弓希の、二つの横顔。幾度、手を伸ばしても、触れられない白い頬。
どうしても透き通った千弓希を抱き起こせなくて、考えた挙句、自分の腕に風を纏わせて、その風に千弓希を載せた――。
そうやって、どうにか屋敷まで運んだのだ――霞となって今にも消え去りそうな、頼りない千弓希の魂の感触に、泣きそうになりながら。
「魂の千弓希はここに戻るとすぐに、意識を取り戻した。だが、幾ら千弓希が体の方に戻ろうとしても、戻れなかった。死に掛けている訳でもないし、本人も必死で戻ろうとしているのに」
「どうして」
「それは、今も探っている所だ」
「……」
「しかし、一つだけ確実な事があった。このままの状態が続けば、いずれ千弓希の体は弱って、死ぬ。だが病院に連れて行って、体を強制的に永らえさせたとしても魂が戻らない以上、どうしようもない……そこで俺はこの部屋に、檻と同じ仕掛けを作った」
隊長が周囲の暗闇を見回しながら、言った。
「これは人工の歪みだ。小さいし、場を清め続けておかなければ保てないが、この中では時間の流れが極端に遅くなる。魂の千弓希もこの家の中でなら、普通に過ごせるから、何かあった時にすぐに対応できる」
「店員オーバーにはならないのか、昨日、猫が入ってきてたけど」
「ああ、猫一匹位なら、大丈夫だ――そう言えば、今はいないな。また、どこかに移動したのか……」
真暗な空間には、颯人と隊長と、千弓希の体だけ、だ。
猫も少しばかり心配だが、今は正直、それ所ではない。千弓希の状態の事は一応、理解した。だが、それなら。
「じゃあ、俺が昨夜会った千弓希は、一体何なんだ?」
「それなんだ」
隊長は颯人の方に振り向き、力強い声で言った。
「今まで色んな方法で千弓希の体と魂を結ぼうとしたが、どれも上手く行かなかった。雲の糸が欲しいのも、それが理由だ。だが、もしかしたら、その千弓希が足りてなかったせいで上手く行かなかったのかも知れん」
「足りてなかった、と言う事は、あれも千弓希から分かれた物って事?」
「それがお前のただの夢や、憑りついた悪霊の仕業などでなければ、な」
隊長は少し目を眇めて、颯人の肩の辺りをじっ、と見た。それから、頭の先から足の先までをざっと見渡し、うむ、と力強く頷いた。
「今見ても、お前の守護霊や良いもの以外は付いていないし、体の表面に少し千弓希の欠片が残っている。そんなに遠くない時間に、お前の側に千弓希がいた事は間違いない」
隊長は尚も、眇めた目で颯人の胸元を見、
「これは、昔、エレンが千弓希に上げたペンダントか――」と、掛けていた銀細工のペンダントを示しながら言った。例の、千弓希から貰ったペンダントだ。
「エレンて?」
「俺の嫁さん――千弓希のママだ」
「え、隊長の奥さんって外人?」
「ああ、今は里帰りしてる。お前も前に会ってるぞ、半年ほど前だから忘れてるだろうがな」
隊長は屈みこんで、颯人の胸元のペンダントを凝視し、
「これに凄く、千弓希の名残を感じる。だが、少し前に消えた感じだな」と言った。
「分かるんですか」
「ああ」
隊長は視線を眠る千弓希の方に戻し、千弓希と、自らを励ますように言った。
「とにかく、必要な欠片を全て集めなくてはな」
部屋を出ると、足元でにゃあ、と声がした。下を向くと昨日、颯人が用意した段ボール箱の上に、猫が行儀よく座っていた。
「あれ、お前戻ったのか」颯人が言うと、隊長も驚いて
「何だ、いつの間に……」と言った。
箱に置いたにぼしはそのままだが、こっちだけでも戻ったのなら良かった、と安心しかけて、颯人は異変に気付いた。
猫の縞模様の向こうにアルファベットが浮かんでいる――段ボールに印刷された、通販会社の名前が透けて見えているのだ。
「こいつ、体じゃない――魂の方だ」
颯人が言うと隊長も目を眇めて猫を見て、むう、と唸った。
「本当だ、じゃあ、体はどこに? 千弓希か拓が移動させたのか?」
「かな……でも、なんでだ?」
二人共、猫の事をとても心配していた筈だ。無闇に動かして回るなんて、しそうにないが。
「おおい、拓」
下の方に向かって呼びかけながら、隊長が階段を降りて行く。颯人も少し後について、階段を降りる。
だが、ダイニングに拓の姿は無かった。
「トイレかな」
「うむ……」
隊長と二人で、暫く待ち呆ける。しかし、五分経っても十分経っても拓は戻らなかった。
どうも、おかしい。
隊長が拓の携帯に電話を入れる。だが、すぐに通話を切り、
「駄目だ、電源を切ってる。繋がらない」と呻くように言った。
「何だよ、千弓希が消えて、猫が消えて、まさか次は拓か?!」
これでは連続失踪事件だ。拓はついさっきまで、ここにいて千弓希の心配をしていた筈だ。それなのに。
「まさか、“そして誰もいなくなった”みたいな事にならないだろうな」
「……俺は庭を探してくる。颯人、お前は家の中を探してくれ」
「わかった」
颯人はダイニングを出、一階の部屋を片っ端から開けて、拓と千弓希の姿を探した。自分が寝ていた部屋、トイレ、バスルーム、応接室――最後にもう一度、キッチンとダイニングも調べてから、二階に上る。
猫は段ボールの上で、のんびりと寝そべっていた。相変わらず半透明だが、いないよりはマシだ。
「とりあえず、お前だけでもそこにいてくれよ。落ち着かなくてしょうがない」
颯人は二つある物置の部屋を、覗き込んだ。そして、千弓希の部屋の前に立ち、駄目元で、と扉を開ける。
朝から、隊長や拓も散々探したはずだ。今更ここには居まい、と思っていたが。
「……ちゆ!!」
千弓希は、いた。昨夜と同じ、黒のセーターとジーンズを身に着けて、窓辺に立ってこちらを見ていた。
「千弓希……どうして、今まで、どこに?」
「ごめん、心配を掛けて」
颯人が駆け寄りつつ言うと、千弓希はすまなそうに眉を下げて謝って来た。
「ちゆが無事だったんなら、いいよ」
颯人は急いで千弓希に異変が無いか、頭のてっぺんから足の先までを見て確かめる。白い肌が映える黒のセーター、淡い色の長い髪には乱れた様子もなく、見える範囲に怪我らしきものもない。いや――、一つだけ小さな異変があった。
大きく開いたV字型のセーターの胸元、そこから見える鎖骨の少し上に、赤い鬱血の跡。
怪我ではない。颯人にはそれに覚えがある。昨夜、何度もそこに自分が吸い付いた――早い話、キスマーク、だ。
「今ここにいる千弓希は昨夜、俺の部屋に来た千弓希、だよな?」
そう、問うと千弓希はこくりと頷き、
「父さんから僕の体の事、聞いたんだね」と言った。
「ああ」
「そう、あの部屋にあるのは僕の体。颯人が二週間、ここで見て来たのは僕の魂――そして」
千弓希は自分の胸元に手を置き、
「その二つを繋げる接着剤の役目をするのが、今、ここにいる僕なんだ」と、言った。
「どういうことだ」
「道教に、三魂七魄て言う言葉がある。天魂、地魂、人魂と言う三つの魂と七つの精神で、初めて一人の人間となると言う考えなんだけど、今回の僕はそれに当てはまると思う。体の中に残った魂の欠片と、ずっとここで生活していた幽体の僕と、今ここにいる僕とでようやく真田千弓希と言う人間が完成する――」
「あの体にも、千弓希の魂が残ってるのか」
颯人の言葉に千弓希は頷き、
「それがあるから、かろうじてあの体は生きていられるんだと思う。でも、今三つの魂の結びつきはひどく危うくて――この家の中で、結界に守られていなければ多分、もう……」
「確かに拓もそんな事を言っていた。でも、千弓希は昨夜、俺の所に来てただろう? なんで、俺の所に来れたんだ」
「僕は、颯人のペンダントの中に隠れてたから……」
「え、ペンダント?」
颯人は思わず、自分の胸元を覗き込む。出掛ける時に、殆ど無意識に掴んで首から下げていた、例のペンダントだ。
窓から差し込む朝の光を受け、きらきらと輝いている。千弓希はそれを眩しそうに見てから顔を上げ、静かな声で話し始めた。
「一年前、真田千弓希はふらり火に襲われて、魂と体が分かれてしまった。皆には一つの体と、一つの魂に見えていたと思うけど、実際にはもう一つ、千弓希から分けられたものがあったんだ」
「じゃあ、ここで俺の面倒を見てくれてたちゆと、今、目の前にいるちゆは――」
「同じだけれど、少し、違う」
千弓希は言葉をゆっくり選びながら、そう言った。
「僕自身はあの日から昨日までずっと、あのふらり火に捕われてたんだ。ふらり火に襲われた魂は、皆、捕えられてあれを守る鬼火に変えられてた。僕も、その中の一人だった」
「……」
「でも昨日、颯人がそのペンダントをここに持って来てくれたおかげで、僕は一時的にあれの呪縛から解き放たれた。それで咄嗟に、そのペンダントに隠れたんだ。そうしないとまた、捕まる可能性があったから」
颯人の脳裏に、昨日の墓地での光景が蘇ってくる。
三度目の炎を弾いた時に、小さな炎が颯人の方に向かって飛んで来た。そしてペンダントのある辺りで、急に消えて――
「もしかして……昨日、俺の胸の所に飛んできた炎は」
「そう。あれは、僕」
千弓希の表情が、少し、明るくなった。
「でも、そうして戻っては来たけれど、僕の力が弱り過ぎていて今度は、颯人のペンダントから出る事が出来なくなってた。霊感の強い父さんですら、僕があの中にいる事に気付かなかった――疲れていたせいもあるだろうけど、それ位、今の僕は弱い存在なんだ」
確かにあの時の三人は、疲労困憊だった。
そういうものを見るのにもある程度、資質だとか修行が必要だ。颯人や拓もある程度は見えるが、気力などが充実していないと見過ごす事も多い。
颯人たちよりずっと霊力が優れている隊長は、逆に疲れてる時はあえて見ないように意識を遮断してるらしいが――いずれにせよ、弱った千弓希は颯人達の目に留まる事は出来なかった。
「それで僕は、ペンダントの中で颯人の体力が回復するのを、待ってた。颯人の霊力と、ペンダントに残った千弓希の力の残り滓と、霊体の出やすい時間帯を使って少しの間だけ、颯人の前に出る事が出来るようになった。颯人から、あるものを貰う為に」
「俺、何かあげた? ゆうべはその、エッチしただけだよな」
「ええ、その際に必ず出る水分、があるでしょう」
「……と言うと」
「颯人の、精子」千弓希の唇が緩く弧を描き、笑みを作る。
綺麗に笑んでいるのに、その表情はどこか妖しくて淫らで――口にした単語の直截さも相まって、急に頭の中がそっち方面に働き始めた。
「せいし……」
「精子は命の源で生命力が漲っている上に、水分も少し含まれてる。それを僕の体の奥に、入れてほしかったんだ」
「あー……それ、エッチい……」思わず、顔がにやける。
シリアスな話だったのに、一気に二人の間に漂う空気が淫らで、濃密なものになる。何せほんの数時間前には、ぴったりと体を合わせていたのだ。
本当なら今頃はまだ、二人でいちゃいちゃしながら、朝食など食べていた筈だ。
「颯人がたくさん、出してくれたから少しだけ、僕の力も回復した。でも、こうして話すのが精一杯だし、あまり長くは持たないと思う」
「もう一回、やったら、もう少し長持ちするんじゃないか?」
顔を近づけて、囁くように言うと千弓希はふふ、と笑い
「それもいい考えだけど……僕が自由に動けるように回復するには、かなりの量を出して貰わなきゃならないと思うよ。それこそ、枯れてしまうかも」
「それ、怖いけどやってみたいな」
「僕も興味はあるけど、どうせなら――僕が完全に戻ってから、と言うのは?」
「そうだな」
時間切れを気にせずに、限界まで互いを貪りたいなら、その方が絶対楽しめる。
颯人が賛同の意を示すと千弓希は安心したように笑い、それからふ、と真面目な顔付きに戻った。
「あの鬼火――ふらり火は随分、長い時を生きてきた。当初、あれは自分を殺した男に復讐するために生まれたのだけれど、それを遂げても怨みの念だけがこの世に残ってしまったんだ……。これを鎮める為に供養の石碑が建てられたんだけど、少し前に土地開発が行われた時に壊されてしまったみたいなんだ」
「それで暴れるようになったのか」
「そう、でも怨みを晴らしたい相手はとうの昔に亡くなってる。だから、ふらり火は同じ様な思念を持つ者に憑りついて、その人間の持つ怨みを晴らさせようとしてるんだ。それを成し遂げる為に魂を集め、力を蓄えて――」
「でも、それはその人個人の怨みだろう。ふらり火がそんな事したって、意味がなくないか」
颯人の言葉に、千弓希は静かに首を振った。
「彼らにはもう、そういう理屈が通じなくなってる。とにかく、憑りつかれた人からふらり火を祓って、調伏か供養をし直すか、何らかの手を打たなければ」
「でも、それが誰か解らないんじゃあ、難しい……」
颯人の聞いていた話では、この件の依頼人は鬼火に家族を殺された人らしいし、それ以外にも襲われた人は規模の大小を含め、ざっと十数件あった。
だが、それは拓たちが調べた範囲でのことで、探せば他にももっといるのかも知れない。それの一つ一つを調べ上げるのには、かなり時間がかかるだろう。
目の前の千弓希が弱り切らない内に、何とかしたいが――
「……一人、心当たりがあるんだ」
千弓希の言葉に、颯人は思わず顔を上げた。
「本当か? 誰だ?」
「――拓」
千弓希の口から転がり出た名前に、颯人は耳を疑った。
「拓が? 拓がふらり火に憑りつかれてる、て言うのか?」
「多分」
「何でそう、思うんだ」
「僕はさっきから、消えた千弓希の念を追っているんだけれど――その側に、ずっと拓の気配を感じるんだ」
「え、まさか拓が、千弓希を連れて行ったのか」
「うん、それと――」
千弓希が言い掛けた時、
「颯人、ここか」と言う声が部屋の外から聞こえて来、隊長がのしりと扉を開けて入ってきた。
「隊長」
「今、誰かと話してなかったか?」隊長が部屋の中を見渡し、不思議そうな声で言う。
「……」颯人が千弓希の方を見ると、千弓希は黙って首を振った。
自分にはこんなにはっきり、見えているのにやはり隊長には千弓希が見えていないのだ。
颯人は気を取り直し、
「独り言ですよ、それより、拓は見つかりましたか」
「いや、拓はいなかった。だが、これが――」
そう言って隊長は手に持っていた物を、颯人の前に差し出した。
それはよくある、白い製氷皿だった。縁一杯にまで氷が張っていて、その表面に十本程、細い氷の柱が立っている。長さはまちまちだが、透き通ったそれはどれも、先端が針のように尖っていた。
「これは?」
「俺が雲の糸を吐き出させる為に、用意しておいた過冷却水だ。目印に、過冷却用、と横に書いておいた。ほら」
プラスチックの製氷皿の側面に、十㎝程の白いビニールテープが貼られている。その上にマジックで「過冷却用」と書かれていた。
「これが、庭の檻の前に放置されてたんだ。檻の扉は閉まってたが、鍵はぶら下がったままで――」
「じゃあ、もしかして、これが雲の糸?」
「だと思うが、俺がやったんじゃない。今朝、初めて実験するつもりで、用意はしていたが。それに、ここを見ろ」
隊長が針の山の一角を指差す。
そこには、他の針と先端の形状が違うものがあった。
他の物がそれこそ、針のように先が細く尖っているのに比べ、かなり根元の方で丸い、平らな面を見せている物が数本、ある。
「折った跡か?」
「多分な」
「でも、誰が」
「この雲の糸の事を知ってるのは、会社でもここにいるお前と俺、後は千弓希と拓だけだ。そして拓も昨夜、ここに泊っていた」
「じゃあ、これは拓が? 猫の魂と体をくっつけようとしたのか?」
しかし、今は猫の魂しかここに残ってない。後はあの部屋の、千弓希の体だけ――そこまで考えて、颯人ははっ、となった。
「……もしかしたら、それか?」
魂だけの千弓希を外に連れ出すには、なにか外側を守る物が必要なはずだ。そしてここには、魂が抜けた二つの体が、あった。
「もしかして、あの猫の体に、千弓希を?」
「お前も、そう思うか」
隊長が渋い顔で言う。
「しかし、だとしても理由が分からん。あいつは千弓希の事も猫の事も、同じに心配していた。昨夜だってそれでわざわざ、泊まっていったんだぞ。何故、そんな事をする」
それは颯人も同じ気持ちだ。
今朝の電話の時だって、千弓希の事を忘れていた颯人に、少し怒っている風ですらあった。しかし、考えられないからこそ
「やっぱり、拓は憑りつかれてるのか――」
颯人の言葉に隊長は眉を顰める。
「拓が? あいつは霊力が強くて、そうそう憑りつかれる事なんてない。あれに憑けるとしたら、相当な霊だぞ」
「拓が最近、担当してたのはふらり火の他には何がありました?」
「いや、鬼火――ふらり火だけだ。あれには、俺と拓がメインで当たっていた。だが、あれが憑いたのだとしたら、流石に俺にも分かる……いや、」
隊長は不意に口を噤んだ。記憶の中の何かを探る様な顔つきで、暫し黙り込む。
「最近、時々だが、あいつの着けてるチェーンが穢れてる事があった。鬼火と直に接触した訳でもないのに。その度に清めさせてはいたが……」
「チェーン?」
「そうか……」千弓希が、何かを閃いた風に呟いた。
「あのチェーンは拓の、地の属性に合わせて作ってた。地の属性は、特に気を溜め込みやすいんだ。一番ふらり火に関わってた拓はあの気に、一番近寄ってもいた――拓自身は強いから、その気を寄せ付けなかったかもしれないけど」
「チェーンがふらり火の気を吸い続けていて、それを持ち歩いてた拓にも影響した、て事か?」颯人が言うと、千弓希がこくりと頷いた。
「颯人、何でそう思う?」
千弓希の声が聞こえない隊長が、不思議そうに聞いてくる。
「何でって……千弓希が、そう言ってるから」
「なに??」
「本当に、隊長には見えてないんだな」
颯人は千弓希の立っている場所を示して――隊長には多分、何もない空間に見えてるのだろうが――告げた。
「ここに、千弓希がいる。三人目の千弓希が」
あまりの驚きに隊長の顔は今まで見た事のない程、凶悪なものになった。
言葉を伝えられない千弓希に変わり、颯人が今までの経緯を全て隊長に説明する。
黙って聞いていた隊長は、話が終わると長いため息を付き
「三魂七魄や三尸みたいな思想は古くからあった。もっと早くに気付いていれば、こんなに時間は掛からなかったのにな」そう言って、辛そうな顔をした。
「僕はふらり火の中にいたんだから、仕方ないよ」千弓希が慰めるように、隊長に手を伸ばし、肩の辺りに触れる様な動作をする。
声も、手の感触も、今の千弓希には伝えられないのだ。悲しそうな千弓希の横顔に、颯人も少し切なくなった。
雰囲気を変えようと、颯人は話を別の方に向ける事にした。
「ふらり火は同じ様な怨みを持ってるから、拓に憑いた、て千弓希が言ってたけど、確かあれは大昔に殺された女の霊、とか言ってなかったっけ」
「ああ」
隊長は額を上げ、椅子の上に深く座り直しながら、話し始めた。
「佐々成政と言う武将の側室だったと言われている。その側室は成政にとても気に入られていたらしいんだが、そのせいで他の側室に妬まれたんだな。他の男と浮気していると言う嘘の噂を流され、それを信じてしまった成政に惨殺されたらしい」
「ひどいな」
「しかも、その側室の一族までもが皆殺しだ。怨みは相当深いだろうな」
「……となると拓は、好きだった誰かに裏切られたとか、そう言う?」
「必ずしも、ふらり火の怨みの全てをなぞらえている訳ではないだろうが――、近い物はあったのかもな」
「あいつ、好きな子とかいたのかな」
「お前はそう言うの、聞いてないのか」
「聞いてたかもしれないけど、俺はここ一年の記憶、飛んでるし」
「そうだったな」
「それに、あいつは悩んでても、あまりそういうのを口にするタイプじゃないからな」
むしろあいつは世話焼きで、悩んでいる人間の相談によく乗っているようなタイプだ。颯人と違って逆恨みを買うような性格でも、ない。
暫し、三人で黙りこくる。
しかし、ここでうんうんと唸ってばかりいても、仕方ない。
「とりあえず、さ。隊長」
「ん?」
「ここに使おうと思ってた、魂を繋げる針がある。千弓希の体と、魂も――片方だけだけど、揃ってる」
黒いセーターの千弓希を指差して、言う。
「ここの千弓希は、長時間は話してられないらしいんだ。体に戻せたら、少しは長く保てるようにならないかな」
「うむ、そうだな」
隊長が、ぱん、と自分の膝を打つ。
「千弓希、雲の糸を試すぞ――いいか?」隊長が何もない空間に、けれど強い口調で話しかける。
千弓希が頷いたのを見届けて、颯人は代わりに応える。
「やりましょうってさ、隊長」
椅子に座る千弓希の膝の上に、黒いセーターを着た千弓希が腰掛ける。
千弓希の本体の胸に背中を預け、手の上に手を重ね、椅子に座る千弓希の姿勢を膝の上で象る。
「座ったよ」と颯人が声を掛けると、隊長は眇めた目で椅子に座る千弓希を見、
「俺にははっきり見えないが――この千弓希は黒い服を着ているのか」と言った。
「ああ、黒いセーターとジーンズを履いてる」
「……もしかして千弓希は今、何か欲しがっていないか?」
「千弓希、何か欲しいのある?」
隊長に代わって、黒い千弓希に尋ねると千弓希は首を振った。
「特に。早く、颯人と普通に話がしたい位、かな」
「――早く、ちゃんと話がしたいって」流石に親の前でいちゃつくのは憚られて、大雑把な意訳を伝える。
「ふむ、……何か欲しい、とか物を食べたいとか言う欲求は無いんだな」
「そうみたい」
「なら、ここに刺すべき、か?」
隊長は製氷皿から特に長い針を二本折り取り、一本ずつ慎重に千弓希の太腿に突き刺した。
針は黒い千弓希の腿を抜けて本体の千弓希に刺さったが、千弓希が痛がる様子も、血が出てくる様子もない。
隊長は針を両方、それ以上進まなくなるまで深く突き刺してから、そっと、その場を離れた。
数瞬の後、変化はすぐに訪れた。
黒い千弓希から急速にその色彩が失われて行き、まるで蒸発するようにして、千弓希の膝の上から消えてしまったのだ。
「ちゆ……!!」
思わず、椅子に座る千弓希の肩を掴む。
軽く揺さぶった拍子に、千弓希の唇がぴくり、と震えた。瞼が震え、長い睫毛がゆっくりと動かされ――その下から、あの青味がかった淡い色の瞳が現われた。
「父さん――颯人――」
少し掠れた、でもいつものあの優しい声が、その唇から転がり出る。
「千弓希……!!」
一年と言う長い眠りから、千弓希が目覚めた瞬間だった。
「どうだ、動けるか、千弓希」
隊長が千弓希の前に跪き、息子の顔を除きこむ。
「大丈夫、みたい……」千弓希は颯人と父の顔を見比べながら、少しぼんやりした様子で、言った。
「僕は一体ここで、何を?」
「覚えてないか。お前はこの一年、ずっと体と魂が離れてたんだぞ」
「え――」
千弓希が驚いた様子で目を丸くする。
「――俺の事は、分かる?」
「勿論……颯人、だよね」
「じゃあ、今がいつか分るか?」
「え……20×△……」
思わず、隊長と顔を見合わせる。
「お前もか」
「え、何」状況が飲み込めなくて、混乱する千弓希に颯人は屈みこんで、優しく話しかけた。
「俺達、お揃いって事だよ」
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