第5話 抜け殻と魂


 どうにか屋敷に辿り着いたのは、六時を少し超えた頃だった。

 三人ともくたびれ果てていて、ダイニングに到着するなり、ばったりとテーブルの上に伏せてしまう。それぞれが、限界近くまで力を使ったのだ。

 出迎えた千弓希が温かなホットレモネードを、それぞれの前に置いてくれた。

「ご飯も用意してあるけど、先ずはそれを飲んでて。疲労回復にいいから」

 レトロな喫茶店で出て来るような、ステンレスのスタンド付きのガラスの器の中で、柔らかな黄色の液体が湯気を立てていた。ちゃんとレモンの輪切りが沈んでいるのが、几帳面な千弓希らしい。

 颯人はあまりレモネードが好きでは無いのだが、ほどよい甘さに調節してあって、かなり飲みやすかった。

 一口、二口とそれを飲むうち、体に少しずつ、力が戻ってくる様な気がする。

 半分程を飲み終わった頃、千弓希がテーブルの上に卓上コンロを持って来て、その上に大きな土鍋を載せた。豚肉と野菜がたっぷり入っている。

「この後、何か予定があるんだったら無理しなくていいけど、食べておいて。うちで使ってる水は体力回復に良いから。残ったら、父さんが食べるし」

 千弓希が言うと、拓は早速箸を手に取り、

「いや、コンビニで弁当を買うのも億劫だなと思ってたところだ、食うよ。米も欲しいな、千弓希」

「拓、白米好きだもんね。用意してあるよ。父さんと颯人は?」

「俺は後のおじやでいい」颯人はそう言ったが、隊長は

「俺は両方いく」と言って、残ったレモネードを一気に飲み干した。

「隊長、わんぱくが過ぎませんか?」

「食うのは人間の基本だ。お前らもそれなりに鍛えてるようだが、そんな細っこいんじゃ、年取ってからが大変だぞ」

「格闘家とか目指してるんじゃないんで、これ位で良いです」

 千弓希の作ってくれた鍋は、お肉たっぷりで味もしっかりしていて食べ応え十分だった。

 そんなに空腹を感じてはいなかったが、食べ始めると箸が止まらなくなる。男三人で瞬く間に殆どを平らげて、千弓希が慌てて止めに入る。

「汁まで飲んだら、雑炊ができなくなるよ?」

 そう言って、千弓希が残った出汁にご飯を入れ、その上に卵を落としてくれる。蓋をして蒸らしている間、レモネードの残りを飲みながら待っていると、向かいに座っていた千弓希と目が合った。

 千弓希の前には、箸も器も出ていない。

 食べないの、と聞くと

「皆が戻る前に食べたから、大丈夫」と言って笑った。

(そう言えば……)颯人はふと、思い出す。

 一緒に過ごした二週間の間、千弓希が食事をしているのを見た事が無い。酒やお茶は飲んでいたけれど、酒のツマミだって殆ど自分が食べていた。

「千弓希は少食?」

「うん、そう。だから、気にしないで食べて下さい」千弓希はいつもの優しい笑みを浮かべて、そう言った。


 おじやも食べ終わる頃には、かなり気力も体力も回復していた

 隊長が送って行ってやろうか、と言ってくれたが、この分だと普通に帰れそうだったので、遠慮しておく。

「それより、」颯人は気になっていた事を、口にした。

「猫、まだ戻ってないのか」

 さっきから、猫の姿がまるで見えない。

「ちょくちょく様子は見に行ってるけど、猫の体に変化はないです。にぼしを食べた形跡も有りません」

「猫って? こないだの猫か」猫を保護した拓が、心配そうな顔で聞いてくる。隊長が掻い摘んで説明すると、目を見開いて絶句していた。

「だ、大丈夫なのか、それ?」

「わからん、こっちも頭が痛いな……」隊長がため息を付き、がたりと音を立てて立ち上がる。

 足音を忍ばせ、全員で二階の様子を見に行く。猫の体は変わらず、段ボールに横たわったままだ。

「あそこに入っちまったのか……」拓が黒いドアノブを扉を見ながら、眉を顰める。

「別々の抜け殻と魂が、この中にあるって訳か――」

「拓」

「分かってるよ千弓希」

 千弓希の咎める様な声に、拓が苦笑いで答えた。

「抜け殻、て何だ」颯人が思わず、聞くと拓は、扉の表面を指先でそっと撫でながら

「ここには、特別大事なものが保管されてるんだ」と答えた。

「ここにいる全員にとって、とても大切な、な。そこの物置に入れてるガラクタとは、比べ物にならない」

「俺にとっても? それはどう言う」

「思い出せれば、分かるさ」

 拓は颯人の方を見ないまま、そう言った。拓の口調はさほどキツくはないが、何故か不穏な空気をその言葉の端々に感じる。

 拓は普段は明るくて、気さくなやつだ。大学で会った時から気が合って、互いに似たような力を持ってる事を知ってからは増々、仲が良くなった。

 喧嘩もたまにあったが、互いにあまり引き摺らない性格なので、長引いた事もない。その拓の歯切れの悪い物言いに、颯人は腹が立つよりも先に疑問を感じた。

「それはどう言う――」

「まあ、ここはとりあえず、置いておこう。今すぐ、どうこう出来る物でもないからな」

 重くなりそうな空気を破ったのは、隊長だった。

「猫が一晩出てこないようなら、開ける事も考えるが、慣れない場所で緊張してるはずだ。ここで騒いでたら増々、怯えて出てこなくなるだろう」

「そうですね」拓が頷き、颯人も千弓希もそれに同意した。

「俺は帰る前に雲の様子を見ておく、お前らも来るなら来い」

 正直、もう帰っても良かったのだが、どうせ庭の中を歩かないと門には辿りつかない。その前に付き合い程度に覗いておくのもいいかと、颯人ははーい、と返事をした。


 暗闇の降りた庭を、隊長を先頭にのしのしと歩いて行く。幾度か歩いて、大体どこに何があるかは分かっているが、庭が広すぎて、地面に刺したソーラー式のガーデンランプも殆ど役に立っていないのだ。

 前に千弓希と夜中に歩いた時もそうだったが、懐中電灯が無いと本当に前が見えなくて危ない。その暗がりの中に、更に暗い闇を宿した温室が姿を現した。

 隊長が鍵を開け、中に入る。颯人と拓もそれに続いた。

(うわ――)思わず、心の中で悲鳴を上げる。

 温室の中は、真の暗闇だった。扉を閉めてしまえば、壁も天井もまるで見えない。

 外にももう暗がりが広がっていたが、この闇はそれよりもずっと深く、異質なものだと言う事が分る。

 自分が立っているから、そこに床がある事は分かるが、一歩前に何があるのかすら分からないのだ。

 流石に呑気者の颯人ですら、足元から恐怖がにじり寄ってくる。

 と、顔に光が当たって、その眩しさに颯人は目を眇める。隊長が懐中電灯で颯人と拓の顔を確認し、大丈夫か、と尋ねてきた。

 眩しいが、今はそれ以上に安心感がある。

「ああ」

「いけるぞ」

「そうか、はぐれないで着いて来いよ」

 隊長が、先に立って歩き出す。どうもここに来る時は、こういうシチュエーションが多いなあ、と思いながら、颯人は二人の後について歩いた。

 やがて懐中電灯の明かりが、暗がり以外のものをその中に捕えた。

 丸く盛り上げた土の山だ。その中ほどに、大き目に穴が穿ってある。そして、その中にちらちらと小さな、白いものが蠢いているのが見えた。

「これは?」

「例の雲のきれっぱしだ。周囲を吸水性の良い、土で固めている。五行の相克では水は土に弱いとされているからな」

「五行の相克?」

「まあ、簡単に言えば元素同士の関係と相性みたいなもんだ。火は水に弱いが、水は土に弱い。水に土が入れば汚れてしまうし、土に水を注げば吸い込まれてしまうだろう」

「ああ……」

「雲は言ってみれば小さな水の粒の塊だから、こうやって周りを土で固めてやったんだ。この土には拓の土の力も込めてあるから、随分大人しくしてるよ」

「お前、そんな事出来るのか」

「お前とはキャリアが違うからな」

「そのドヤ顔が、ムカつくな」

 颯人は屈みこんで、その穴の中を覗き込んでみた。そこにいるのは確かに、あの時の雲だった。ただ、ここに追い込んだ時より、少し小さくなっているように感じる。

「こいつ、このまま、萎んじゃうんじゃないのか」

「この小ささなら、これで退治は十分可能だろうな。ただ、例の糸を出して貰わなきゃならないから、今、消えられては困る」

「大丈夫ですよ」隊長の言葉に拓が答える。

「その辺は、調整してます。猫の魂と体が上手く、融合できれば千弓希も……」

「千弓希?」何でここで千弓希の名前が……と不思議に思い、拓の方を見ると、拓は何でもないと言う風に笑い

「それより、冷却水はまだ出来ないんですか、隊長」と隊長に尋ねた。

「今、冷やし出した所だ。急速に冷やすのは良くないんだろう? 颯人」

「うん、少し高めの――マイナス五度位でゆっくり冷やすのが良かった筈だ」

「一晩位、寝かせてたら大丈夫か。明日あたり、やってみよう」

 隊長はくるりと踵を返し、扉の方に一歩、進んだ。

「とりあえず、今日は解散だ。二人共、何かあったら連絡して来いよ」

「はい」

 開いたままの扉の向こうの暗闇は、さっきよりずっと深く、暗くなっていた。それでもここにいるよりはずっと明るく、感じられる。

(今は隊長達と一緒だったからいいけど――)一人で長時間、こんな場所にいたらおかしくなってしまいそうだな、と颯人は、小さく肩をすくめた。

 歩くのが早い拓の背中を眺めつつ、颯人は後ろからついて来ていた隊長に歩調を合わせ、その横に並んだ。

 隊長が気づいて、こっちを見たので颯人は小声で話しかける。

「あのさ、隊長」

「ん?」

「部屋の四隅に黒い砂みたいなのを撒く、て何か意味あると思う?」

「……黒い砂? 多分、呪いの類だな。ライバルを蹴落とすとか、そんな感じのものだったと思うが。何か、あったのか」

「いや、ちょっとね……そういうのって、捨てちゃって大丈夫?」

「ああ、むしろ捨てた方が良い。呪った奴には反動が来るだろうが――それはもう、仕方ないだろう」

「……そうか、ありがと」



―――『千弓希、千弓希!』

『どういう事だ、これは……』

『とにかく、何とかして屋敷に……』―――





 スマホが手から滑り落ちる感覚にはっとなって、颯人は目を覚ました。

 慌てて周囲を見渡せば、いつもと変わりない、自分の部屋だ。屋敷から帰って来てすぐに風呂に入り、髪を乾かしている内に、いつの間にか転寝をしてしまっていたらしい。

 それ程、今日は疲れていたのだろう。

 時計を見れば、午前二時になろうとする所だった。

(ちゃんと寝るかな)

 そう思い、腰を上げかけて、颯人は異変に気付いた。誰か、いる。

 部屋の中に自分以外の、人間がいる気配がする――帰って来た時に、部屋の鍵は閉めた筈だが、転寝してる間に泥棒にでも入られたか、それとも人外の何か、か。

 颯人は部屋の真ん中に置いたテーブルの上に、扇子が置いてあるのを確認し、手を伸ばした。

「誰かいるのか」

 人間でも何でも、先手必勝だ。扇子を握りしめ、颯人は気配のする方向に感覚を澄ませる――どうやら玄関、の方向だ。

 颯人の部屋はワンルームだが、今いる位置からは、壁が邪魔になって玄関の様子が見えない。

(やっぱり泥棒か?)扇子を握る手に力を込めて、立ち上がる。

 すると、控え目な足音がしたかと思うと、視界の邪魔になっていた壁の切れ目から、細身の男がひょい、と姿を現した。

 白くて綺麗な頬、淡い色の髪――颯人が見間違えるはずもない。

 そこにいたのは千弓希だった。

「千弓希?」

 思わず、声が裏返る。

「ごめんなさい、何度かインターホンを鳴らしたんだけど出ないんで、試しにドアノブを回してみたら開いてたんで、心配になって……」

「そ、そう、なのか? でも」

 颯人は思わず、千弓希の頭から足の先までを見て、眉を顰める。千弓希の格好は、黒の細身のセーターに、同じ色のジーンズと言う軽装だ。上着を持ってる様子もない。

「どうしたんだ、そんな格好で……もう夜中なのに」

「ごめんなさい、こんな時間に。どうしても会いたくなってしまって」

「え……」

 颯人よりほんの少し背の低い千弓希が、上目づかいに見上げてくる。その瞳に熱がこもっているように見えるのは、気のせいか――。

「とにかく、寒いからこっちに」

 颯人は千弓希の腕を引いて、部屋の中の方に連れてきた。

「寒くないか? どうやって、ここまで来たんだ」

 この時間では、流石に終電も終わっているだろうし、何より、人を訪ねるには非常識な時間だ。生真面目な千弓希がする事とはちょっと、思えない。

「歩いて」

「ええ??」

 屋敷のある駅から、颯人のアパートのある駅までは七つは離れている。気軽に歩いて来られるような、距離ではない。

「寒くなかったのか?」

「うん、凄く、寒い」

 そう言って千弓希は颯人の一歩近寄ると、その白い額を颯人の肩口に預けてきた。

「颯人の体、暖かい……」

 颯人は思わず、息を飲んだ。いつになく、千弓希の口調が気安く、距離が近い。

 少々面食らうが、なかなか、悪くない。と言うか、いい。

「ちゆ」

「はい」

「ちゆも男だから解ると思うけど――こういう事されると、俺は軽率に期待するんだけど」

「どんな?」

「ありていに言えば、襲いたい」

「……じゃあ、襲って?」

 低くて、甘い声が颯人の耳元を擽る。それがねっとりとした熱を帯びているのに気づかない程、颯人は幼くなかった。

「ここまで来て、逃げるとかは止めてくれよ?」

 颯人がその細い腰に手を回して抱き寄せると、千弓希も応えるように颯人の首を手を回す。その薄い唇を指先でなぞり、自分のそれを重ねる。

 僅かに開いた隙間から舌を差し入れれば、くすぐるように千弓希が舌を絡めてくる。

 一瞬にして全身の血が湧き立って、そこからはもう無我夢中だった。

 ベッドの上に押し倒し、セーターの下に指を滑らせる。指先に触れた肌の滑らかさに、思わず颯人の喉が鳴った。

 少し乱暴にセーターをまくり上げれば、白い腹が電灯の明かりの下に露わになる。綺麗に引き締まった腹に、細い腰。女の子の持つ丸みや柔らかさはそこになく、けれど、その視覚的な刺激は確実に颯人の足の間を疼かせた。

 指先で脇腹を辿り、胸元を撫で、先の尖りを捕える。軽く摘んでやると、千弓希の口から甘い吐息が漏れた。

「ここ、好き?」

 耳元で囁いてやると、千弓希の頬が赤く染まる。親指と中指でその小さな粒を摘み、人差し指の腹で優しく撫でる。

 撫でるごとにそこは固くなり、小さく存在を主張してきた。

 セーターを完全に脱がせ、露わになった鎖骨に舌を這わせる。濡れた部分が増える度、千弓希の呼吸が荒くなっていき、唇から小さな喘ぎが漏れ始めた。

 たっぷりと周囲に唇と舌で愛撫を施し焦らしてから、胸の粒に吸い付く。

「は、あ」たまらない、と言う風な声が、千弓希の薄い唇から零れ出た。高くて、甘いその声。

 気を良くして、更に強く舌を這わせれば、増々千弓希の声は高くなる。

 自分の頭の裏側がどくどくと脈打ち、千弓希のこと以外、何も考えられなくなっていく気がした。もうとっくに、千弓希への好意は自覚していたけど、男相手にこういう事態になった事が無かったから、正直不安もあった。

 けれど、自分の下で悩ましく体を捩らせる千弓希の姿は、颯人のそこに予想以上の速さで熱を集め、猛らせている。

(すごい、可愛い……)

 千弓希の、雪のように白い胸にほんのりと朱が浮かんでいた。それは、千弓希の味わっている快楽、そのものの色だ。

(もっと、見たい――)

 まだ着けたままのジーンズの上から、千弓希の足の間のものに触れる。まだそこまで膨らんではいないが、手の平に伝わる熱は明らかに、欲を内に秘めているものだった。

 すぐに剥いでしまっても良かったが、颯人は敢えて、ジーンズの上からゆったりと揉みしだいた。

「あ、あ……」切なげな声で、千弓希が鳴く。

「気持ちいい?」

「ああ、ん…っ、そ、こ」

 堪りかねたように、千弓希の腰が揺れる。指に力を入れる度、千弓希の呼吸が早くなり、前の膨らみが大きくなる。

「大きくなったな、ちゆ。どうしてほしい?」

「あ……」

「こんなに大きくなったら、辛いだろ? それとも、このまま続けたい?」

「そんな……」

「ほら、言って? 俺、千弓希にどうしてあげたらいい?」

 じわじわと言葉で嬲る。声の愛撫にも、千弓希は敏感に反応し、潤んだ目で颯人を見上げてきた。

「お願い、触って……指で、ちゃんと」

 まるで、引き金のような声だった。颯人の理性を打ち抜く、トリガー。

 颯人はジッパーを乱暴に引きおろし、千弓希のものを引っ張り出す。赤く熟れたそこは、もう先端に露を宿し、膨れ上がっていた。

「う、わ――凄いな」思わず、声を上げてしまう。

 自分のよりは少し小さいのだろうか――切な気に震えるそこに指先で触れれば、じわりと熱い。馴染みのあるその熱に、颯人は嗜虐心が、むくむくと湧き起こるのを感じた。

 ――もっと、喘がせたい。

 手の平で包み込むようにそれを握り、上下に扱いてやる。

 敏感な場所はその単純な動作だけでも、心地よさに打ち震え、快楽を示して更に膨れ上がった。

「あ、ああ、っ」

「凄いな、どこまで大きくなるんだろ」

 先端を指先で撫でてやると、千弓希が泣きそうな声を上げる。

「や、あぁ――そこ、あ、」

「先っぽ、びしょびしょだな。先走りだけでこんなに濡れちゃうものなんだ」

 零れ落ちた雫が、颯人の指先をも濡らす。それを竿の部分を擦り付けてやると、千弓希の体がびくびくと震えた。

「は、颯人が、触るか、ら……」

「俺が触るから? それで、こんなに濡らしてるんだ」

「気持ち、よく――て、ああ…」

 熱に浮かされたような、千弓希の瞳が潤んでいる。そんなに泣いていては多分、目の前にいる颯人もよく、見えなくなっているだろう。

 快楽のただなかにいる千弓希に、自分の存在を示したくて、颯人はその耳元で名を呼んだ。

「――千弓希」

「ふ、ああっ」

 不意に背をのけ反らせ、千弓希が高い声を上げる。それと同時に、颯人の手が何かに濡らされる。

 そっと手を持ち上げてみると、白く、生温かな飛沫が指先を汚しているのが分かった。

 自分以外のそれを触るのは、初めてだ。今、覚えている限りは、だが。

 けれど、嫌悪感などは一切、感じない。それ所か、これが千弓希の放った物なのだと思うと、たまらなく興奮する。

 生真面目な千弓希が、欲に身を任せて、自分の前でいってしまった、なんて。

「いっちゃった……?」

「ん……」

 耳元で囁くと、千弓希が小さく頷く。幼い仕草が堪らなく可愛い。

「ね、千弓希。俺のも触って欲しいな」

 頬を撫でながら囁くと、千弓希は躊躇いながらも身を起こし、颯人のジャージのウエストに手を掛けた。

 腿の辺りまでそれを引きずりおろし、現われた颯人のものを見て、少し恥ずかしそうに目を逸らす。颯人の物ももう、十分に滾っている。

 ちゆ、と呼びかけて促せば、白い指を伸ばし、竿の部分にそっと触れてきた。

 千弓希の指は最初、優しく、控え目にそこを撫でていた。でも、あまりそこが硬くならないと解ると、少し悩んでから思い切ったように顔を近づけてきた。

「あ、」

「嫌ですか」

「俺は嫌じゃないけど、……いいの?」

「僕は、無器用だから」

 そう言って、その小さな口に颯人のものを迎え入れた。

 千弓希の熱い舌が、颯人のそこに触れてくる。ぬめりとしたその感触に思わず、身震いする。

(うわ……)堪らないな――。

 千弓希の綺麗な唇の間に自身を飲み込ませ、その柔らかな舌ですっぽりと包まれる。童貞だったら、もうそれだけで達してしまっていたかも知れない。

 滑らかな舌肉の感触は指先のそれとは全く違っていて、暖かく湿った感触が堪らなく、いい。

「ん、ん……」必死で口を使う千弓希の様子が、また健気で愛らしく、熱が更に煽られる。

 無器用だからと千弓希は言っていたけど、その舌遣いは中々の物で、颯人は少しだけ過去の自分に嫉妬する。多分、あいつは何度もこれをさせてたんだ。

 何と言うふしだらな奴だ、ちゆにこんな事をさせるなんて。

「ちゆ、もう出る……」

 せめて、口の中で出すのは止めて置こうと、千弓希の肩を叩いて促すと、千弓希は咥えたまま首を振り

「このままで」と、言った。

「……いいの? 苦いと思うけど」

「飲みたい」

 千弓希の瞳が、淫らに濡れて、光っている。浮かされたような声は普段の千弓希からは考えられない程、つたなくて甘ったるくて――可愛い。

 本当を言えば颯人だって中で出したいし、飲んでほしいが――流石に初めてなので、ここは紳士的に行きたい。けれど、こんな風に甘えられて平然といられる程、オトナではないし、枯れてもいなかった。

 颯人は千弓希の舌の動きに身を任せ、高まる熱の求めるままに感覚を集中させて――その中に熱を放った。

「……ん」千弓希が少し、苦しそうに呻く。

 やはり外に出すべきだったか、と慌てて身を引くと、唇の端と颯人の先端とが、いやらしい滴の糸で繋がる。それを恥ずかしそうに拭いながら、千弓希の喉が微かに音を立てた。

 颯人の熱を、飲み下したのだ。

「大丈夫?」顔を覗き込んで尋ねると、千弓希はこくこくと頷いた。

「苦い、けど、もっと……」欲しい、と言う言葉は声に出なかったけれど、唇の動きだけでそれは十分に伝わった。

(俺も、欲しい)

 颯人は千弓希の細い体を抱き締め、その背中に指を滑らせる。 

「ねえ、ちゆ。俺さ、ここにも出したい」

 両の手で、尻の丸みを辿る。肉付きは少し薄いが滑らかで、颯人が撫でると驚いたのか、きゅっ、と筋肉が締まるのが分かった。

「入りたい」千弓希の耳元で囁くと、感極まったように熱っぽい吐息を吐き出す。

「……どうぞ」

 千弓希の腕が、颯人の首にそっ、と回された。思わず、抱きしめる腕に力が籠る。

 颯人は枕元を探った。

 昨日、部屋に戻って来た時に颯人はここで、買った覚えのない物を見付けていた。いつの間にか室内に増えていた物の中で、一番驚いた物だ。

 長細い筒状のプラスチックボトル、ぱっと見には化粧水でも入っていそうなその容器には「ラブローション」と浮かれた字体で印刷されている。

 女の子を部屋に誘ってした事がない訳じゃないが、こういう物を使った事はない。しかも既に開封されていて、中のピンクの液体を幾らか使った形跡がある――まさかとは思っていたが。

「俺、これ使った覚えないんだけど、ちゆは、知ってる?」

「……」千弓希がこくりと頷く。

「俺達でこれ、使った?」

「何度か」

「そっ、か。じゃあ、遠慮なく」

 颯人はボトルのふたを開け、手の平にローションを少し、垂らす。出て来たピンク色の液体を指の方に流し、絡ませていると少しとろみが出て来る。

 指を広げると、粘液が指と指の間を伝い、なんともエロティックな眺めになった。そうして、千弓希の白くて丸い、丘の狭間にその指を差し入れる。

 ローションの絡んだ指を、そこは最初こそ押し返していたが、一度踏み入ると、じわじわと馴染んできた。

「ああ――」

「辛くない?」

「あ…、平気、」

 くちくち、といやらしい音が、千弓希の尻の間から聞こえる。優しく尻の表を撫でてやりながら、もう片方の手で内側を嬲る。

「あ、ああ……」颯人の指が動く度、千弓希の体は小さく震え、誘い込む様に腰が動く。

 淫らなその動きに、一度達した颯人のそこも、再び力を取り戻し始めた。

「は、もう――も、う」

 千弓希が泣きそうな声を上げ、自分のそこもすっかり力を取り戻した所で、指を引き抜く。

 颯人は千弓希を俯せにさせ、その細い腰を掴んで浮かせた。潤み、緩んだ千弓希の窪みがひくひくと震えているのが見える。

 颯人の指以上のものが入る瞬間を、待ちわびているようだ。

 颯人は高まった先端を窪みに宛てがい、ゆっくりとそこを押し開いた。腰を使い、熱い内側へと侵入する。

 自身を包む千弓希の内側の熱さと狭さに、ぞくぞくと背が泡立った。

「ん……、凄いな」

 大きく腰を穿てば、ちゆきがひあ、と可愛く鳴いた。

「千弓希の中、熱い……し、すっごい締めてくる」

「ああ…、っ」

 颯人は後ろから千弓希の体を抱き締め、少しずつ少しずつ、その深くへと分身を沈めて行く。受け入れる千弓希は辛そうではあるけれど、決して逃げる様な素振りはせず、颯人の侵入を許していた。

 射精を堪えつつ、ようやく根元近くまで埋めると、思わず息が漏れた。

「大丈夫?」

 女の子とのエッチで、ここを使った事はない。けれど、ここを使う事は普通にする時よりも辛いだろう、と言う事は想像に難くなかった。

 千弓希が肩越しに颯人を振り返り、大丈夫、と言って笑う。

「颯人こそ――平気? 痛くない?」

「平気だよ」

 優しく肩を撫でてやると、千弓希の腰がぴく、と震える。その些細な動きに、颯人の腰が誘われて無意識に動いてしまった。

「あ、まだ、動かない、で」

「ごめん、勝手に、腰が」

 止めてやらなきゃ、と思うのに、一度弾みを付けると、そこはもう勝手に動き出してしまう。

「ああ、ああ……」

 シーツにしがみつく千弓希の上に覆いかぶさり、颯人はそこに己を幾度も擦り付け、突き込んだ。その度、千弓希の内側は颯人を強く締め付け、強請るように絡み付いてくる。

 千弓希が求めてる――颯人の中の、この熱を。

「千弓希――だすよ」

 耳元で囁くと、千弓希がふあ、と一際高い声を出す。

 同時に内側がきゅ、と縮こまり、その動きに促されて颯人はついに千弓希の中に熱を、放った。

「あ――っっ」

 中の濡れた感覚にか、千弓希がその白い肩を震わせる。

「ふ、……」

 軽い虚脱感の後、颯人はゆっくりと体を離し、千弓希の中から自身を引き抜いた。

 腰を何度も打ちつけたせいで、千弓希の白い尻が、少し赤くなってしまっている。そこに自分の放ったものが一筋、流れ落ち、その扇情的な眺めに颯人は堪らず、唾を飲み込んだ。

 愛しさにその丸みをゆるりと撫でれば、千弓希は少し、逃げた。

「どうした?」

「まだ、体が……落ち着かない、から」

「……もっと、欲しくなる?」

 耳元で囁けば、千弓希は小さく、うんと言った。

「俺も、もっと欲しい」

 颯人は今度は千弓希を仰向けにして、足の間で震えているそこに吸い付いた。

「ひああ、……っ」

 千弓希の体が激しく、のけ反る。

「や、あ、そんなにした、ら……ぁ」

 先端に舌を抉り込み、音を立てて吸い上げてやる。千弓希のそこは見る見る硬くなり、颯人は目の前で立ち上がった竿の部分に、夢中で舌を這わせた。

 そうして千弓希の前を弄りながら、後ろにも指を差し入れる。

「あ、あ、だめ、だめ――」

 まだ緩んだままのそこを再び犯され、触れられて感じない訳がない場所をも同時に責め立てられ、千弓希はただただ喘ぎ続けていた。

 びくびくと腰を震わせ、目尻からぽろぽろと涙をこぼしながら、快楽に酔う姿は颯人までも昂らせる。

「あ、い……くぅっ」

 泣き声と共に、千弓希の先端からこぽり、と白濁が溢れだす。舌に苦いそれを、颯人は少し苦労しつつ飲み下し

「飲んだよ」と囁いてやった。

「あ、そんな」

「気持ち良かっただろ?」

「……ん」

「こっちも、ほら、もうこんな」

 颯人は窄みに沈めていた二本の指を、内側で大きく広げ、かき回してやる。その刺激に千弓希の白い胸が反り返り、紅色の乳首が可愛らしく震えた。

 愛らしいその飾りに歯を立てれば、千弓希が可愛く鳴く。

「あ、あ……!」

「ね、もう一回、飲んで。俺のここ」

 颯人は千弓希の足の間に体を入れ、白い足を両肩に担ぎ上げた。そうして無防備になった後ろに再び、己のものを突きいれる。

「ああ……」

 重みを掛け、千弓希の体を折り曲げさせながら、その深くを求める。

 腰を使って奥を穿ち、内側を押し広げて行くうち、千弓希の体が大きく震えた。

「あ、そこ、だめ……」

「ん、ここ?」千弓希が震えた個所を探り、もう一度、そこに自分を突き立てる。

「ひ…っ、ああ……あ」

 恥じらって顔を隠そうとする千弓希の腕を取り上げて、シーツの上に縫い付ける。そうして、激しく腰を動かしてやると、千弓希の目の端からぽろぽろと涙が零れた。

「だめ、だ、め……もう、」喘ぎ続け、閉じる事さえできない口に吸い付き、舌を差し出してやる。甘えるように伸ばされた舌が、舌に絡み付き、互いの唇の間からも卑猥な水音が響く。

 結合部から滴ったピンクのローションが、颯人の太腿を伝い、その濡れた感触にまで体が高まって――そうして、




 ……目覚めると、隣に千弓希はいなかった。

 時計を見ると、まだ六時だ。始発はもう出てるだろうけど、いつの間に出て行ってしまったのか。

 颯人は身を起こして、辺りを見渡す。

(あれ?)

 いつもパジャマ代わりにしている、トレーナーとジャージをちゃんと着ている。昨日は夢中になって、裸のまま寝落ちてしまった筈だけど……。

 ふと不安になり、枕元を探る――昨夜使ったローションがここら辺にある筈だ。指先がプラスチックの容器の感触を捕える。持ち上げて見れば、中のピンク色の液体はまだ容器の七分目くらいまで入っていて、たぷたぷと音を立てていた。

 自分が覚えている限りでは、これの半分位は使ったはずなのに――颯人は額に掛かった髪を掻き上げ、しばし考え込む。

(まさか、あれは夢?)

 千弓希の体を撫でて舐めて、足を開いて、幾度も交わった。千弓希に入った時の、内側のあの柔らかさと熱――思い出すだけで、足の間が疼くようなあれが

(まさか、夢?)

 俄かにはちょっと、信じられない。状況は、まるで妄想に耽っていた颯人を嘲笑うかのような素っ気なさだが、自分の体には覚えのある疲労感が残っている。

 主に、腰に。

 とりあえず落ち着こうと颯人は立ち上がり、バスルームへと向かった。少し湯に当たれば、頭の中もスッキリするだろう。

 脱衣所に入り、着ていたトレーナーを脱ぐ。それを洗濯機の蓋の上に置き――脱衣駕籠を置く場所がないので、いつもここに置く――ふと、手が止まる。

 左の手首に、覚えのない小さな痣があった。一㎝程の小さな線が連なって、半円形を形作っている。

(これ――)綺麗な半円形は、千弓希の綺麗な歯並びを思い出させる。

 昨夜、声を耐えかねて、千弓希がここに噛み付いていた。ああ、そうだ。

(やっぱり、夢じゃない)

 シャワーを浴びるまでもなく、急速に頭の中が冴え、口元が綻んでくる。

 後で、電話をしよう。どうして朝を一緒に迎えてくれなかったのか――恥ずかしかったのか、意地悪か。何にせよ、彼がどう応えてくるのか、考えただけでワクワクする。

 颯人は鼻歌を歌いながら、シャワールームのドアを開けた。


 体を拭きながら部屋に戻ると、買い換えたばかりのスマホの着信のランプが灯っていた。

(千弓希かな)

 うきうきしながら、画面を開くとそこに表示されていたのは拓の名前だった。

 軽く舌打ちしたが、この早朝にわざわざLANEやメールじゃなく、電話をかけてくるなんて妙だ。あいつはそこまで常識の無い奴ではない。

 何かあったのか、と颯人は着信履歴を開き、通話に切り替えた。二回ほどのコールで、拓が出る。

「颯人か」拓の、切羽詰まったような声が聞こえてくる。

「ああ、どうした。こんな時間に」

「千弓希が消えた――いないんだ」

「え」

「屋敷の中に姿が無いんだ。隊長と昨夜、あの家に泊ったんだが目が覚めたらいなくなってたんだ」

「えっと、じゃあ、多分、その内戻ると思うぞ」

「は?」

「千弓希、昨日うちに来てたんだ。朝、目が覚めたら消えてたけど」

「何、言ってるんだ」

「いや、まあ、色々あってな。昨夜はずっと、一緒にいたんだ」

 流石にエッチしてました、とは言えないが、つい惚気っぽくなってしまうのは仕方ないだろう。拓が事情を知る筈もないが、行方さえ分かれば安心する筈だ。

 所が返ってきた言葉は、意外なものだった。

「そんな、そんな筈はない」

「何だ、信じないのか」

「そんな事が、だって、千弓希は屋敷から

 颯人は思わず、眉を顰めた。

 拓の言っている事の意味が分からず、暫し考えてから

「箱入り息子って事か」と、とりあえず聞いてみた。

「あの髭親父が、そんなことするように見えるか」

「全然」

 颯人が答えると、拓は大きくため息を着き

「……千弓希にお前が思い出すまで黙っててくれ、て言われてたが」と、低い声で切り出してきた。

「千弓希の体は今、普通の体じゃないんだ」

「病気なのか」

「幾らあの家が癒しの家だからって、本当に病気だったら隊長だって病院に連れて行くさ。それ所じゃない、もっと深刻な状態だ」

「何だ」

「お前が今まで、あの家で見てきた千弓希は幽体……魂だけの存在なんだ」

「は?」何だ、それ。

 出て来た単語の一つ一つが上手く結びつけられない。

 千弓希が、幽体が、何だって? 混乱すると言うよりも、颯人は思考が停止してしまった。

 驚きも悲嘆も湧いて来ず、ただ茫然としていると、拓は更に言葉を重ねてきた。

「体と、魂が分離しちまってるんだ。あの鬼火のせいで、そうなってしまった。もう一年前の事になる」

「……マジで、意味がわからない」

 颯人には、他に言葉が見つけられなかった。

「だって千弓希は透けてもいないし、触れる。あの猫みたいに、扉をすり抜けたりもしてないぞ」

「それは、この家の中だからだ。ここは隊長が清めて、千弓希が自分の水の力を込めておいた、特別性だ。ここにいる間は、千弓希は水の力である程度、体を維持することが出来る。だけど、外に出ればあの猫と同じ――霞みたいにあやふやな存在になるんだ」

「……朝っぱらから、そう言う込み入った冗談を言われても、笑えないな」

「わざわざ、こんな下らない嘘をつくと思うか」

 拓の声が、耳元で冷たく響く。

「……」

「信じられなくても、そうなんだ。お前が就職の内定を蹴って、うちに来たのも、そのせいだ。目の前で千弓希があんな事になったから、」

(――ああ、)そういう事か。

 他の事はいまいち分からないが、それだけはストン、と腑に落ちた。

 いくら楽天家の自分でも、このご時世に内定を蹴るなんて、おかしな話だと思っていた。俄かには信じがたいが、もしその話が今、目の前で繰り返されたとしたら。

(俺は、今と同じ道を選ぶだろうな)

 けれど。

 それはそれとして、もう一つの事は納得出来ない。

「じゃあ、昨夜のあれは、何だったんだ。確かに千弓希は俺の部屋にいた。……細かくは言えないが、一応、証拠もあるぞ」

「……」

 拓はその答えを聞くと、黙り込んでしまった。

 暫くの間の後、何か向こう側でごしょごしょと音がしていたかと思うと、

「颯人、俺だ」

 電話の向こうから聞こえる声が、変わった。この声は、隊長だ。

 どうやら、拓の側にいたらしい。

「隊長?」

「千弓希が昨夜、お前の部屋に行ったと言うのは本当なんだな?」

「ああ、朝には居なかったけど」

 颯人は細かい所――主にエッチの所――は省略して、昨夜の出来事を話した。

「それは何時位の事だ」

「午前二時ごろかな。それから多分三時間位、話とかしてそのまま、寝た」

 隊長はふむ、と言い、何やらカタカタと細かな音を立てていたかと思うと

「今、千弓希のPCの履歴を見ている」と言った。どうやら、さっきのはキーボードを触っていた音のようだ。

「これを見ると丁度、その時間あたりが最後に使った時間みたいだな」

「え、て言う事は……」

 屋敷と自分のアパートまでの距離を思い出し、口を噤む。やはり、昨夜のあれは夢だったのかと意気消沈しかけたが、隊長は意外な事を口走った。

「千弓希がどういう理由でそこに行ったのかは知らんが、それも千弓希なら、もしかしたら千弓希を元に戻せるかもしれん」

「は、何? どういう事」

「ここの千弓希が消えた理由は解らんが、その千弓希が見付かれば、あの針で――」

 千弓希、千弓希と連呼されて、混乱する。

 もう何が何やらさっぱり分からない、と零すと、隊長は励ますように電話の向こうから語りかけて来た。

「颯人。お前の記憶が戻るまでは、と思っていたが、こうなった以上、全部話さなきゃ余計に混乱するだろう。見せなきゃならんものもあるから、今から屋敷に来てくれ」



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