第4話 糸



(やっぱり、目立つな)

 民家の瓦屋根の向こうに、特徴的なとんがり屋根を見付けて、颯人は口元を緩ませる。

 赤茶色のレンガの塀に大きなアーチ形の門、風見鶏の付いたとんがり屋根。敷地もそれなりに広いし、飲食店やホテルと勘違いする人もいるんじゃないだろうか。

 最も、中身は怪しげな商売をしている会社の倉庫兼事務所な訳だから、いずれにせよ普通の建物ではない。百年越えの洋館など、ある意味オカルト商売で使うには打ってつけの物件とも言える。

「はい、バッサリ☆あやかし退治☆武将隊です」

 インターホンの向こうから、千弓希の声が聞こえてきた。たった一日半、離れていただけなのに、ひどく懐かしく感じる。

「颯人だけど」

「颯人……さん? どうしたんですか、忘れ物ですか」

「うん、ちょっと。それと猫、どうしてるかな、と思って」

「ああ、あの子。まだ家にいますよ、見て行きますか」

「うん」

「ちょっと待ってて下さいね」

 がちゃ、と言う音と共に通話が途切れる。

 暫く門の前で待っていると、黒い鉄の門柵の隙間から千弓希がこちらに走って来るのが見えた。よいしょ、と力を入れて大きな門を押し、颯人を中へと招き入れてくれる。

「ありがとう……一昨日ぶり?」

「ですね、猫はダイニングにいますよ。大分、元気になりました」

 千弓希に先導されて、庭の中を歩く。二週間もこの中だけで過していたから、最後には狭い位に感じていたが、外から改めて入ると、庭も家もかなり広く感じる。

 寝かされていた部屋だって、自分のアパートよりもずっと広かった。

 ダイニングに通され、いつも使っていた席に座ろうとすると先客がいた。例の猫だ。

 背を丸めて気持ちよさそうに寝ていたが、こちらに気付くと驚いて飛びのき、テーブルの下に隠れてしまった。

「ああ、悪い」

「そこが暖房が一番よく当たるからか、ずっと寝てるんですよ。コーヒー、飲みますか」

「ありがとう、貰うよ」颯人は猫の温もりの残る椅子に座り、キッチンに立つ千弓希の方を見た。

 千弓希はケトルを火にかけ、キッチンの作り付けの棚からコーヒー豆とフィルターを取り出す。白い指が紙のフィルターの縁を折って、綺麗な三角にするのをぼうっと見ていると、視線に気づいた千弓希がこちらを見る。

「そう言えば、忘れ物って何ですか。服とか、渡し忘れてましたっけ」

「ああ、それは多分、大丈夫なんだけど」

 颯人はダウンジャケットのポケットから、一昨日、買い換えたばかりのスマホを引っ張り出した。

「ほら、これ、スマホ新しくしたんだけど」

「あ、良かったですね。……データ、大丈夫でしたか」

「うん、大体大丈夫だった。それで分からない事があって」

「何ですか」

「電話帳に覚えのない名前と番号が幾つか、増えてたんだよね。まあ、それはいいんだけど、その中に千弓希さんのが無くってさ。俺とLANEとか番号とか交換してなかったの?」

「……したはずですよ」

 千弓希はサイフォンに粉末にした豆をセットすると、こちらの方に歩いてきた。

「アルファベット“CHU・S”で登録してる電話番号、ないですか」

「CHU・S?」

「颯人さんは、僕の事を“ちゆ”て呼んでたので、多分それをもじって――。他に、この呼び方をする人はいませんから」

 言われて颯人は、慌てて電話帳を開いた。

 そう言えば、そんな名前があった気がする。他のは普通にフルネームで登録してあるのに、これだけローマ字でぽん、と五文字だけ登録してあったので店の名前か何かかな、と思っていたのだが。

「あった……これか?」

 “CHU・S”の綴りを見付けて、千弓希の方に画面を向けて見せる。千弓希は画面を覗き込んでこくり、と頷いた。

「もしかして、LANEもこの名前に?」

「LANEは会社用でしか持ってないので……」

「え、じゃあ、この“武将隊”がそうなのか?」LANEの通知欄の、会社の社名ロゴがそのままアイコンになってるIDを指差す。

「それは仕事用のですね、ほら、これはグループ通信になってるでしょう? グループになってない方が僕との個人通信です……こっち、ですね」千弓希が液晶の上に指を滑らせ、もう一つの「武将隊」のアイコンを示した。

 ここ最近の友人たちとのやり取りのせいで、履歴の随分下の方に沈んでいたようだ。

「これが……」颯人はアイコンをタップし、画面を開いた。

 会話は二十日前――颯人が記憶を飛ばす三日前の日付けの物が、最後のやり取りだった。


――颯人『おはよ』『昨夜は遅くまで、ごめん。体は平気?』

――武将隊『おはよう』『大丈夫だよ。颯人こそ疲れてない?』

――颯人『俺は平気。のパワーを貰ったから、むしろ元気かも』

――武将隊『いつも、ありがとう。次はいつ来れそうかな』

――颯人『ちゆが会いたいなら、いつでも』


「……」

 ――何と言うか。

 気のせいかも知れないが、ただの同僚に会いに行くだけ、のやり取りにしては、文面の湿気が濃い。と言うかかなり、深読みできてしまう内容だ。

 千弓希も元から優しいが、今より少し、自分に対して砕けてくれている様な――颯人は思い切って呼びかけてみた。

「ねえ、」改めて声に出してみると、その二文字はすんなり口に馴染んだ。まるで何度も口にした事があるみたいに。

「あ、は、はい……」

「俺達、結構仲が良かったんじゃないか?」

「……」

「これ、千弓希さんのじゃない?」

 颯人は首から下げていたペンダントを摘んで見せながら、聞いた。銀色の弓矢が、照明の光を受けて、輝く。

「俺の扇子と交換したのって、これだろ?」

「ええ、母がお土産にくれたインディオのお守りです」

「そんな大事なものを、交換でも俺にくれたって事、意味があるって思っていい?」

 颯人の言葉に千弓希は少し目を逸らし、それから、小さく頷いた。

 いつもと違う、どこか幼いその仕草に、颯人の心臓が大きく跳ね上がる。

(可愛い……)

 思わず、吐息が漏れる。

 普段は大人っぽい彼が、子供のように恥じらって俯くその表情。それだけで、分かる事があった。

 自分の千弓希に対する気持ちと、千弓希の自分に向けている気持ちはきっと、とても似た形の物だと言う事。

「じゃあ、颯人“さん”って何だか余所余所しくない? 前もそんな呼び方してた?」

「……颯人さんは今、記憶が無いから」

「うん?」

「僕の事、忘れてるから……急に知らない奴に、呼び捨てにされたりしたら嫌がるかな、て思ったんです」

 思っていた通りの答えに、思わず口元が綻ぶ。

「颯人、て呼んでくれてた?」

 颯人の言葉に千弓希は再び、頷いた。

「じゃあ、また、颯人って呼んでくれよ。俺も、ちゆ、って呼ぶから」

「あの、でも」

「以前通りにしてたら、思い出す事も増えるかも知れないだろ? 嫌がったりなんかしないから、そう、呼んでほしい」

 俯いた千弓希の顔を、そっと覗き込む。千弓希の目は潤んでいて、何だか泣いているみたいだった。

(前にも、こんな事があったような気がする――)

 颯人は無性にその白い頬に触れたくなって、そっと指を伸ばし掛ける。

 その時、ばあん、と勢いよくダイニングの扉が開き、大きな体の男がのそりと入ってきた。

「何だ、颯人が来てたのか」

 隊長だった。グレーのスウェットの上下に綿入りの半纏を羽織っていて、この部屋の雰囲気に合わない事この上ない。この人自体にはよく、似合っているが。

「お邪魔してます、また何か妖しでも出ましたか?」

 内心で舌打ちをしながらも、そう声を掛けると隊長は首を振り、

「いや、あの雲を調べてる」と答えた。

「ああ、あの小さい雲? じゃあ、まだ檻にいるんですか」

「いる。あれの出す糸のような物を、調べたいんだがな。普通に触ろうとしても、手に取る事が出来ないんだ。すぐに消えてなくなってしまう」

 隊長はキッチンに一番近い椅子に座ると、千弓希にコーヒーを一杯、頼んだ。千弓希は頷いてキッチンに戻り、フィルターにもう一杯分の豆を追加する。

「でも、それで何をする気なんですか」

 颯人が尋ねると、隊長はちら、とキッチンに立つ息子――千弓希の方を見てから、視線を戻し

「ある人間の魂と、体を繋げたいんだ」と言った。

「魂と体?」

 この人のする話はいつもぶっ飛んだものが多いが、今回はまた一際、ファンタジーな話だ。

 幽体離脱を引き起こした依頼人でも、来たのだろうか。

「そんな事、出来るんですか」

「その方法を今、考えてる所だ」

「はあ」

「あの雲は吐き出した糸で、猫の体から魂を引っ張り出そうとしていた。これを応用すれば、体から離れた魂と肉体を結ぶことが出来るんじゃないかと、思うんだ」

「ええと、要するに」

 颯人は頭の中を整理しながら、隊長に再び尋ねた。

「魂を引っ張り出せる糸を使えば、逆に繋げるのにも使えるかも、って事ですか? でも触ろうとしても触れないんなら、体の方には糸は止まらないんじゃ……」

「勿論、これは推測だ。ただ、この猫の体には雲の糸が刺さった痕があった。つまり、肉体に多少は干渉できてるって事だ。あいつらは俺達とは違う理で存在してるから、こちらのやり方がどれだけ通じるかは分からんが――やってみる価値はあると思う」

「まあ、そうですね」

 正直、魂と体を繋ぐなんて、人間に出来る事なのか、と颯人は思う。でも隊長の表情は酷く真剣で、その言葉の熱に押されて、つい頷いてしまった。

 何か、深い事情でもあるのだろう。

「でも、」

 千弓希がケトルを手に、ぼそりと呟く。

「魂がはがれかけた、位ならどうにかなるもしれないけれど、完全に分離してしまっていたら――それはもう、死んでいるのと変わらないんじゃないかな。だとしたら、もう――」

「大丈夫だ、千弓希。本当に死んだのなら、とっくに――とにかく、まだ間に合う」

 励ます様な隊長の言葉にも、千弓希の顔色は晴れない。

「そう、かな」

 あまりにも不安そうな千弓希の様子に、颯人もなんだか落ち着かなくなる。

 事情はさっぱり分からないが、彼が困っているのなら自分も何か協力したい――我ながら厳禁だな、と思いつつ、颯人は頭を巡らせた。

 あの雲の蜘蛛が、本来の雲と似たような構造ならば水蒸気と同じと言う事だ。つまりは水の粒――もし、糸も似たような構造をしているのなら。

「それ、凍らせてみたら、どうですか」

「凍らせる? 雲を冷凍庫に突っ込むのか」

「いや、雲を冷やすんじゃなくて。……過冷却水を作れば、吐き出した糸だけを凍らせる事が出来るんじゃないかな、と思って」

 昔、夏休みの自由研究でやった実験を思い出しながら、颯人は言う。

「純度の高い水をゆっくり冷やしていくと、零度になっても氷にならないんだ。でもその水に、ちょっとした衝撃を与えるだけで、一瞬で氷に変わる。それに蜘蛛の糸を吐き出させて、糸を凍らせれば」

 昔見た動画では、水道から流れ出た水が過冷却水に触れた先からどんどんと凍り、氷の柱のような物が出来上がっていったのだ。

「そうだな、氷に変わってくれれば、手で触れられる可能性は高くなる」

 颯人の説明に隊長は頷き、顎髭を撫でながら、暫し考え込んでいたが

「駄目元でやってみるか。どうせ、普通にやってても触れないんだ。それは普通の水でもいけるのか?」

「それでも出来るとは聞いたけど、精製水の方がより、いいと思います」

「じゃあ、薬局だな」

 隊長は半纏から携帯を取出し、どこかにか電話を掛けた。繋がった相手に、精製水を買って来るように指示している。

「……ああ、治療にも使えるだろうから、大きいサイズがあればそれで。領収書も貰って来てくれ。頼んだぞ」

 隊長はそう言うと電話を切り、

「よし、水は小早川に頼んだ。後は檻の出来るだけ近くで、水を凍らせるようにしたいな。庭から台所までは結構、距離があるからな」

「俺がやった時はペットボトルだったけど、あれだと口が小さいから、やりにくいかも知れないですね」

「うーん、口の広い容器で、冷凍庫に入るサイズのもの……たらいは入らないだろうなあ」

 隊長が何かないかときょろきょろしながら、立ち上がる。その勢いでテーブルが、ぎい、と大きく軋んだ。

 すると音に驚いたのか、猫が凄い勢いでテーブルの下から飛び出してきた。

「おっと」

 猫の縞模様はダイニングを通り抜け、ほんの僅か開いていた扉の隙間から、廊下の方へと姿を消してしまった。

「あーあ、隊長が驚かすから」

「お、俺は、ただ立ち上がっただけで……」

 隊長が、おろおろと大きな体を縮こまらせている。困っていても顔が怖い。

「え……」

 不意に千弓希が、低く、張り詰めた声を上げた。振り返ると、千弓希は屈んでテーブルの下を覗き込んでいる。猫がさっき、隠れていた辺りだ。

「どうした?」尋ねると、千弓希は青い顔で颯人を見て

「……猫がまだ、テーブルの下に、いるんです」と言った。

「え?」

 意味が分からず、颯人もテーブルの下を覗き込む。そして、息を飲んだ。

 猫が、寝ていた。綺麗な茶の縞模様がテーブルの影の下でもはっきりと見える。確かにさっき、出て言った猫と同じ猫だ。

「え、じゃあ、今のあれは」

「多分、この子の中身……魂です」

「なに」

 隊長も戻って来て、テーブルの下を覗き込み、むう、と唸った。

「この前、魂を抜かれかけたから、抜けやすくなってるのかも知れんな」

「そんな事、あるんですか」

 颯人の問いに、隊長が頷く。

「珍しい事だが、あるにはある。しかし、参ったな。猫相手じゃあ、人間より難しいぞ、これは」

 隊長は慌てて踵を返し、部屋を飛び出た。颯人と千弓希もそれに続く。

 ついさっき、出て行ったばかりだが廊下に猫の姿は無かった。幾らなんでも、そんなに遠くに行くとは思えない。

 それに、どの部屋の扉も閉まっていた。

「じゃあ、二階かな」千弓希が階段の下から、二階を見上げる。

「多分、上の部屋も全部、扉は閉めておいたと思うけど……」

 千弓希が階段を登り始めたので、颯人も隊長と後を追いかけて登る。階段の一番上まで登った千弓希が廊下を覗き込み、

「あ、」と小さな声をあげた。

「いた?」

「いました」

 颯人も、こっそりと千弓希の背後から覗きこむ。

 猫は二階の廊下の突き当たり――黒いドアノブの扉の前で、少し背を丸めてこちらを見ていた。

「こっち、戻っておいで――」

 千弓希が少し離れた所に屈みこんで、優しく声をかけたが、猫はますます警戒の色を強くする。そして、くるりと体を回して扉の方に向かって突進したのだ。

(ぶつかる――)

 次に来るであろう、衝突音や猫の悲鳴を予想し、思わず目を閉じかける。だが、それは起こらなかった。

 猫の体は、木の扉を通り抜け、その向こう側へと消えてしまったのだ。

「え――」

 思わず、千弓希と顔を見合わせる。二人の背後から一部始終を覗きこんでいた隊長も驚いた顔をしていたが、

「そうか、幽体だから通りぬけてしまうのか」と唸るように言った。

「困ったな。これじゃあ、鬼ごっこの難易度が上がってしまうぞ」

「ここ、開かないのか、ちゆ――」颯人が再び、千弓希の方を振り返る。千弓希は――何故か怯えたような顔をしていた。

 白い頬から血の気が引き、凍り付いたように扉を見つめている。

「どうかした?」

「あ、その、開くんですけど……」

 動揺しているのか、上手く答えられない千弓希に変わって、隊長が答えてくれた。

「ここは今はちょっと、開けられない。外の“檻”と同じで、異空間になってるんだ、必要な条件を満たさなければ開けられない」

「え、でも、それじゃあ、猫がやばいんじゃ……」

「今すぐにどうこうなる、て物でもないが――何より、中に入った所であの調子では、捕まえられそうにないからな。向こうから出て来てくれれば、いいんだが……」

 三人で扉の前で暫し、立ち尽くす。

 颯人は動物を飼った事が無い。嫌いと言う訳ではないから、触ったり撫でたりするのは平気なのだが、扱い方がよく分からない。

 猫を飼っている友人の家に行った時も、上手く触れなくて猫に逃げられたのだ――その時の事を思い出して、颯人はふと、ひらめいた。

 千弓希の方を振り返り、空いた段ボール箱が無いか尋ねる。

「え? あ、はい、通販で貰った物を幾つかキッチンに――」

「ちょっと、借りていいかな」

 颯人は急いで階段を駆け下りた。

「いいですけど、何を?」

 千弓希が慌てて、後をついて来る。颯人は階段を降りながら、

「友達が猫を三匹、飼ってるんだけど。その猫が買ってあげたベッドより、ぼろい段ボールの箱の方が好きで困る、てぼやいてたのを思い出した」

 颯人は幾つかの段ボールの大きさを確かめ、中でも一番小さな、平たい箱を選んだ。その中にぐったりとしている本体の猫を横たわらせる。

「釣られて、ここで一緒に寝てくれれば、体に戻れるかもしれない」

「……じゃあ、念の為におやつも置いておきましょうか」

 千弓希が出汁用のにぼしを二、三個摘まんで、箱の中に入れる。その箱を持って、二階に戻り扉の前にそっと、置いた。

「これで、しばらく様子を見よう。俺達は出来るだけ、離れた所にいた方が良いと思う」

「はい」

 とりあえず、すぐ近くの千弓希の部屋に三人で隠れた。ここからなら、扉の前の様子がすぐに分かる。

 隊長がベッドの側にある、小さな冷蔵庫の存在に気付き、千弓希に声を掛けた。

「千弓希、この冷蔵庫、冷凍も使えたか」

「いけるけど、製氷皿一枚位しか入らないよ」

 隊長が扉を開け、中を確かめる。冷蔵庫の上の方に、ギリギリ製氷皿一枚が入るスペースが付いている。ここが冷凍スペースになってるらしい。

「一枚じゃあ心許無いな……でも、これなら庭の電源を使えるかも知れない。借りて良いか」

「いいけど……」

「中は……お、酒か。片付けた方が良いか」

「父さんの胃の中に片付けないでね」

「む、駄目か」

「僕が口に出来る、数少ない物なんだから」

「……そうだな、すまん」

 その時、室内に「ロッキー」のテーマが流れた。隊長の、携帯の着信音だ。隊長は再び、半纏のポケットから二つ折りのガラケーを取出して、話し始めた。

「ああ、俺だ。拓か、どうした」

 出張中の拓からのようだ。隊長は電話に向かって、ああ、とかうむ、とか頷いていたが、徐々にその横顔が厳しいものになり、

「わかった、すぐ行く」と言うなり、電話を切った。

「どうしたの、父さん」

「あの鬼火がまた、出たらしい」

「え」千弓希が驚いたような声を出す。

 颯人も思わず、隊長の方を振り返った。

「それって、退治したんじゃなかったんですか?」

「鬼火の元になったと思われる、遺体を焼いたんだ。その後の一週間は出てこなかったから、今回は成功したと思ったんだが。しかも今までとはどうも、様子が違うらしい」

 隊長は握りしめていた携帯を懐に直し、

「とにかく、行ってくる。千弓希はいつも通り、歪みの算出を急いでくれ」そう言って、出て行こうとする隊長に向かって、颯人は急いで声を掛けた。

「隊長、俺も行きます」

 隊長が驚いて、颯人の方を振り返る。

「いや、だが……これはお前に大やけどを負わせた奴だぞ」

 戸惑った風に言う隊長の前に出て、颯人ははっきりと答えた。

「知ってますよ、だから行きたい」

 二週間も寝込むようなやけどを負いながら、颯人自身、そのやけどを負った時の事も、妖しの事も何も覚えていない。そのせいで記憶まで吹っ飛んでしまったと言うのに。

「自分を傷つけたやつを見ておきたい。それに、見れば何か思い出す事もあるかもしれないだろ」

「そうかも知れんが、危険だ」

 隊長は厳しい顔で首を振る。千弓希も横から、心配そうな声で言い添えてくる。

「そうです、それに颯人さんの風と、あの火は相性があまり良くない筈です」

「どういう事だ?」

「颯人さんが前にあの鬼火と戦った時、炎が急に大きくなったと聞いてます。おそらく向こうの力の方が強すぎて、颯人さんの風の力が逆に利用されてしまってるんです」

 風の力で、火の力が強くなることは颯人も経験上、よく知っている。

 コンロやライターの火位ならどうと言う事はないが、キャンプファイヤーやバーベキューで多量の火を使う時、颯人の中から風が吸い出されるような感じがする時がある。

 そうやって颯人の風を吸った炎は、一瞬にして膨れ上がり、激しく燃え盛るのだ。

 だが隊長の元で修業したお陰で、今では焚火位の炎なら自分の起こす風でかき消せるようなったし、それ以上の大きさの時でも火の周囲を風で遮断して空気を減らし、消す事も出来るようになった。

 炎を扱う妖しだって、この鬼火が初めてではない。

「今度は十分、気を付ける。大丈夫」

「でも、」

 必死に引き留める千弓希の肩に、颯人はそっと手を置いた。

「俺は、早く思い出したい。忘れてる一年の間に何があったのか――自分の事も、ちゆの事も、全部」

 千弓希の顔が泣きそうに歪む。その頬を包んでやりたくて、手が伸びそうになるが、親の目の前なので流石にぐっと堪えた。

 隊長はその様子を黙って見守っていたが、

「分かった、来い」

「父さん!?」

「確かに颯人があれと会った時、炎が急に大きくなった。だが、あの場には俺も、拓もいたから、颯人の風の力のせいとも言い切れん。何か、他の要因もあるのかも知れない。それを確かめる為にも、同じ面子でもう一度、現場に行った方がいい」

「それは……そうかも知れないけど」

 尚も食い下がろうとする千弓希を制し、隊長は今度は颯人の方に向かって、言った。

「ただし、今回は様子見だけだ。こちらからは一切、仕掛けない。万が一の為、歪みの場所は割り出しておいて貰うが――危なくなったらすぐに退避だ。それでいいな? 千弓希」

 強い声で諭され、千弓希もようやく、頷いた。息子の肩をぽんぽんと叩き、隊長はドアノブに手を掛けた。

「俺は先に行って、車を回してくる。門の前で待ってろ」

 そう言って、隊長は扉の向こうに消えた。

「大丈夫だよ、千弓希」

 颯人は千弓希の顔を覗き込みながら、言った。

「俺、昔から運がいいんだ。今回は大怪我したけど、それは逆に言えば怪我で済んだ、て事なんだと思う。本当なら死んでたかもしれないのに、隊長と拓がいたから、ここにすぐ運び込まれたから、助かった――そう思わないか?」

「……」

「ちゆ」

 千弓希がようやく顔を上げる。相変わらず不安そうだが、その瞳にはもう、強い光が宿っていた。

「颯人さん――そのペンダントを、ちょっと貸して下さい」

 千弓希が颯人の胸元を見ながら、言う。

「これ?」

 颯人はペンダントを外して、千弓希に手渡した。

 千弓希はペンダントを受け取ると、しっかりと両手で包み込み、先端の銀の細工に三度、息を吹きかけた。

「僕の水の気を込めました――どこまで通用するかは分かりませんが、ある程度の炎を防いでくれると思います、三度までですが」

 そう言って、颯人の手にペンダントを返してくれた。

「ありがとう」

 ちょっと感動しながら、ペンダントを再び首にかけ直して、颯人は部屋を出た。

 表に出ると、隊長が庭に停めてあった愛用の黒のシボレーを門の前まで移動させ、待機していた。海外の古い、クラシックカーだ。

 颯人が助手席に乗り込むと、いつものカーキ色のジャケットとジーンズに着替えた隊長が満足そうに頷き、車のギアを入れた。

 大袈裟なエンジン音が響き、車体が滑りだす。狭い住宅街の道を抜け、交通量の多い大通りに出た。

「そこは遠いんですか」

「高速に入ればすぐなんだが――少し混んでるから、四十分くらいはかかるか」

 颯人は窓の外を窺った。今日は平日で、ビジネス街が近いこの辺りでは、車の通りも多い。それに下手すれば、帰宅ラッシュに巻き込まれるかもしれない。

 颯人はため息を着いた。

「さっき、他の要因がどうとか言ってたけど心当たりあるんですか」

「少し、気になってる事がある。まだ仮説の段階だから、詳しくは言えないが。まあ、何にせよあれの正体が分からんことにはな」


 少し時間がかかったが、ようやく高速に乗れた所で隊長が法定速度ぶっちぎりのスピードで飛ばしまくり、三十分ほどで目的地に着いた。

 途中で覆面パトカーに見つからなかったのは幸いだ。

 降り立った場所は、キリスト教の霊園墓地だった。とんがり屋根の上に十字架を掲げた教会が、山を背にして立っており、その前に広い駐車場が設けられている。

「何時だ」

「四時過ぎです」

「この霊園は五時には締まる、早く済ませて帰らないとな」

 駐車場に車を停め、広々とした墓地の中を足早に駆ける。

 教会が所有しているキリスト教用の墓地と言う事で、小さな十字架の墓標が遠くの方まで綺麗に、並んでいるのが見えた。

 日本なのに、まるで洋画の世界にいるようだと場違いに感動しながら、舗装された小道を暫く走っていると、不意に道の脇から拓が飛び出してきた。

 こちらに手を振り、手招きをしている。

「ここだ、隊長。……なんだ、颯人もきたのか」

 隊長の陰になっていた颯人に気付いて、拓が驚いたような顔をした。

「どうだ、拓」

「さっきからあの十字架の周りを飛んでる。見えるか? それがな、今回はどうもおかしい」

 拓が大きな菩提樹の陰に颯人たちを誘導しながら、十mほど先にある墓標を指差した。白い十字架の墓標は、周囲にある他のものと何ら変わらない。

 その上に、青白いソフトボール大の炎がふらふらと浮かんでいる以外は。

 炎の周囲には背の低い墓標が並ぶだけで、火を灯す様な燭台も灯篭も何もない。

(凄いな、本当に“人魂”て感じだ……)

 ちょっと古典的な怪談を思い出させるような光景に、颯人は場違いな感動を覚えた。背後に立つ墓標が十字架でなく縦長の墓石なら、完璧だ。

「あの炎、消えたり現われたりするんだが、今回はどうも一つだけじゃない――俺が見ただけでも、多い時は六、七個は飛んでる」

「人魂、て言うか鬼火ってそんなに飛ぶものなのか?」

 颯人の疑問に、隊長が答えた。

「“人魂”なら、死者の数に比例するだろうな。戦国時代の大戦の後には大量に飛んだ、と言う言い伝えがあるが、それは一度にたくさんの人死にが出たからだろう。“遊び火”と言う妖しなら、拓の言う通り増えたり消えたりするが」

「それとはまた、違うのか」

「“遊び火”は基本的に、現われるだけで何もしない。多分、狐火の類なんだろう。だが、あの火は色んな人に襲い掛かってる」お前もその一人だろう、と隊長が颯人を見た。

 拓も、隊長の肩越しに炎を見つめながら

「それに人魂なら、それを発生させる死者が近くにある筈なんだが、あの墓は随分昔に亡くなった人の物なんだ。お前が襲われたのはこの墓地の外だったし、依頼者はもっと山沿いの、別の場所で襲われてる」

 人魂は一般的には、遺体から出るリンと言う物質が空気中で燃えたもの、とされている。遺体からどれ位の時間で、人魂が発生するのかは分からないが、そんなにちょくちょく再発生するものでは、ないだろう。

 でなければ、土葬しているこの墓地には年がら年中、人魂が飛び交っている、なんて事になりかねない。

「正体不明の鬼火、て訳か……人魂なら大抵、幽霊とセットだしな」

 少し残念そうに呟いた颯人に、隊長は苦笑いしつつも、

「幽霊かどうかはともかく――、何か別の物があれを操ってる可能性が高い。それが分かれば手の打ちようがあるんだが。拓、他には何か見てないか」

 拓は首を横に振った。

「いや、何組か墓参りに来た人以外は何も」

「そうか……」

 隊長が小さな双眼鏡を取出し、鬼火の方を見る。

 颯人は拓と共に、少し離れた位置に立ち、その様子を見守った。勿論、あちらからは死角になる位置だ。

「所で颯人、お前、大丈夫なのか? 怪我が治って間もないだろう」

 拓が声を潜ませながら、聞いてくる。

「ああ、大丈夫だ――服とか持って来てくれて、助かったよ」

「適当に掴んで、持って来ただけだ。でも、これはお前に怪我させた妖しだぞ。よく来る気になったな」

「びびっていても、仕方がない。それに千弓希さんが、お守りに水の気も込めてくれたからな」

 颯人は胸元で揺れるペンダントを摘んで、見せた。

「それ、千弓希の?」

「ああ、ずっと前に、俺の風神の扇子と交換してたんだ」

「――思い出したのか?」

「いいや。でも記憶って失くしても、全部は忘れないんだな。初めて会った時から、ちゆの事を懐かしいなって思ってた理由が、分かった気がする」

「そうか」

 その時、ふと周囲が翳ったような気がした。

 同時に隊長が唸る。

「何だ、鬼火が急に……」

 隊長の声に思わず鬼火の方に目をやれば、そこにはさっきの倍近くの大きさに膨れ上がった炎の玉が浮かんでいた。

 驚く間もなく、その炎から今度は一回り小さな炎が次々と生まれ出し、空中に大きな円を描き出したのだ。

 ざっと見て、二十は超える炎の球で作られたそれは、まるで火の曼荼羅の様だった。

 その中央でひときわ大きく燃え盛る炎に、突然、亀裂が入る。遠くからでもはっきりわかる程の、闇色の亀裂。

 亀裂は見る見る内に大きくなり、その中ほどから白い、奇妙な生き物が姿を現した。

 羽毛に包まれた体、二本の細い脚、体の両脇に生えた翼――体だけを見れば、まるで孔雀か何かの鳥の様だ。けれど、その長い首の先に乗っているのはどうみても鳥のものではない――長く垂れた耳、大きく開いた牙の覗く口元。

 あれはまるで、そう――犬、だ。

 鳥の体に犬の頭が、乗っている。そうとしかいいようがなかった。

「なん、だ、あれ」颯人は呆然と呟いた。

「まさか、あれは――」百戦錬磨の隊長が、顔面蒼白になっている。

「隊長、知ってるのか」

 颯人よりも知識がある筈の拓も、見た事が無いようだ。

「“ふらり火”……本当にいたのか」

「なんだ、それ。聞いた事ないぞ」

 拓が問うと、隊長は懐に双眼鏡を直しながら

「昔の妖怪画に、よく描かれている妖しだ」と言い、そうして大きなため息を付いた。

「だが、あれには、はっきりとした伝承が無い。戦国時代の女の怨霊と言う説が有力だが、退治法とかそう言った物は伝わっていないんだ」

「じゃあ、どうするんですか?」

 流石に颯人も、声が裏返る。

「本当に怨霊なら、お経で供養するとかの正攻法、とか」拓が混乱しつつも、何とか打開策を講じてきた。

 隊長と、僧侶志望の拓なら、お経は唱えられるんじゃないか――颯人はナムアミダブツ位しか言えないが。

 二人の方に目を向けると、隊長はその視線の意味を感じ取って頷き、

「ああ、だが相手は伝説級の妖しだ、俺のお経でどこまで通用するか……」と呻くように言った。拓は

「……今は経本が無いから、唱えられない」とばつが悪そうに言った。

「うわ、役に立たねえ」

「よし、じゃあ、お前が唱えろ」

「無理です」

 能力未知数の伝説の妖しに対して、有効な手をほとんど持たない一行。かなり分の悪い、仕事だ。

「どっかの音楽サイトで、お経の音源、売ってないかな」思わず颯人がごちると、拓は

「どの宗派のなら効くと思う?」と苦笑いで言った。

「さあ、各種取り揃えてみればどれかは効くんじゃないか」

 思わず現実逃避する二人をよそに、隊長は今度はガラケーを取出し、電話を掛け始めた。

「千弓希、歪みは見つかったか?」

 颯人と拓も息を潜めて、隊長のガラケーに耳をそばだてる。ノイズ交じりの千弓希の声が小さく、だがはっきりと聞こえてきた。

『ある――けれど、遠い。その墓地から出て、南の方に向かわないと……』

「そうか……どっちにせよ、難しいな」

 日が暮れて辺りが闇に包まれると、妖したちはその力を増してしまう。日暮れ時まで、もう幾らも時間が無い。ただでさえ手こずるであろう相手に、こちらが不利な状況で追い込みをかけるのは明らかに無謀だった。

「……とりあえず、今日の所は引こう。見張りはまた続けるが、手出しはしないでおく。ちゃんと状況と時間を整えた方が良い」

「了解」

「分かった」颯人たちが答えると、隊長は頷き、そっとこの場を離れるように促してきた。颯人と拓を先に歩かせ、隊長は背後に気を配りながら静かに一番後を着いてくる。

 息を潜め、足音を忍ばせ、さっき歩いてきた小道まで戻る。墓石からここまでは、二十m位はあるだろう。

 ひとまず安心だ、と思わず、息をついたその時だった。

 甲高い、怒号とも悲鳴とも取れる様な大きな音が響き渡った。聞いた事もないその音は、炎に包まれた鳥のような物の喉から、放たれた物だった。

 鳥――ふらり火は炎を纏った羽根を、宙で一振りし、颯人たちの方に体を向けた。

 明らかにこちらを見ている――気づかれたのだ。

「まずいな……」

 拓が腰のコインのチェーンを握りしめながら、後辞さる。颯人も思わず、扇子を取り出した。

 隊長はその颯人たちを庇うようにふらり火の前に立ちはだかり、ジャケットのポケットから、車の鍵を取り出すと

「俺の車は清めてあるから、少々のものは防げる。お前達、先に駐車場まで走れ」

 そう言って車の鍵を、拓に投げて寄越した。

「最悪、お前らだけで逃げろ。拓は運転できるな!?」

「隊長はどうすんだよ!」

「何とか足止めする……走れ!」

 隊長の叱咤に、思わず拓と二人で、走り出す。

(この感じ――前にもあったような気がする)

 風に乗って走る颯人の頭の中に、見た事が無い筈の映像が、凄い勢いで流れ始めていた。

 この墓地の、あの駐車場の隅。青空に禍々しく浮かぶ、火の玉。

 拓のチェーンも、颯人の風も殆ど効かないそれに、追い立てるはずが、逆に追い詰められ――ああ、そうだ。あの時――

「颯人! 後ろ!!」

 拓の叫びに不意に我に返る。思わず振り返れば、あのふらり火がその体に炎を纏って、すぐ近くにまで迫って来ていた。

(やばい――)扇子を振る間もない――颯人は、襲い来る熱を予想して、思わず身を固くした。その時だった。

 びいん。

 何かを、弾くような音がした。

 来ると思っていた熱が、来ない。代わりに鼻先に、僅かな水の匂いが届いた。

 目を開けると、ふらり火は空中でぴたりと動きを止めていた。どこか、戸惑っているような様子だ。

 こちらも思わず、呆然としていると横合いからチェーンが飛んで来て、ふらり火の体に当たった。しかし、ほんの僅か、体が傾いだだけで効いている様子はまるでない。

「くそっ、やっぱり前の時と同じだ。あまり効かない」

 拓が舌打ちをする。颯人も扇子を握る手に力を込めつつ、ふらり火に向き直った。

 隊長はどうしてしまったのか……気にはなるが、今はこちらも大ピンチだ。

 とにかく、今は駐車場まで逃げて、車に乗り込まなくては――颯人は精一杯、風の気を集める。

「拓、お前、先に行って車を開けててくれ。何とかやれるだけ、やる」

「馬鹿言え、お前の風が通用しないのは分かってんだ、また大火傷するぞ」

「そしたら、また、千弓希の所に運んでくれ。いいから、行け!」

 扇子を大きく振る。起こした風は今まで吹かした中でも、とびきりの大きい奴だ。

 近くに生えていた木の枝を軋ませ、折るほどの威力を持つその風の中に在って、ふらり火の纏う炎はまるで衰える様子がない。

 だが、その羽毛に包まれた体が不意に大きく傾ぎ、後ろにのけ反った。

(効いた?)

 自分の風の力は効かないと聞いていたのに――驚く颯人の目に、ふらり火の体の両脇に映えている羽根がに入った。

(そうか、羽根だ――)

 鳥の羽根は風の影響を少なからず、受ける物だ。鬼火の時には通用しなかったようだが、羽根を得た事で、逆に風の力を無視し切れる物ではなくなったのかも知れない。

 とにかく――今の内だ。

「走るぞ!」

 声を出すと、拓が弾かれたように走り出した。颯人もそれに続く。後ろを向くほんの一瞬前、視界の隅にちらっと隊長の、カーキ色のジャケットが見えた気がした。

 尚も追いすがってくるふらり火に扇子を振ると、ふらり火は大きく体を傾がせ、後ろへとすっ飛んだ。しかし今度は、ふらり火もただでは飛ばされなかった。

 ふらり火の纏う炎から、何本もの小さな火が矢のように飛んできたのだ。

「うわ?!」

 その時、胸元で何かに響く音がした。びいん、とまた、何かを弾くような音。

 それに呼応して、目の前で火の矢が弾け散った。

 胸に、何か軽い物の当たる感触がある。ああ、これは、千弓希のペンダントだ――。

(炎を防いでくれます――三度までなら)そう、言っていた。

 ならば、あと一回は逃れられる。

 安堵と、喜びが腹の奥からせり上がって来て、体がふるり、と震える。颯人は大地を蹴る足に力を込めて、精一杯、駆けた。

(千弓希にお礼を言わなきゃな――絶対、逃げ切る)

 薄闇が降りはじめた墓地の間を抜け、やがて前方に白い石の門が見えてくる。

 霊園墓地の出口だ。駐車場はこの門を出てすぐだ、隊長は墓地にかなり近い位置で駐車をしたから、そこまで走れば。

 走る二人の背に、ふらり火が火の矢を再び放ってくる。颯人は咄嗟に、拓に火が届かないように、拓とふらり火の間に回った。

 びいん。

 火の矢がことごとく、弾ける。矢は小さな塊になってばらばらと飛び散り、颯人の髪に、体に降り注いだ。

 その中の一つが、不意に意志を持ったかのように浮かび上がり、颯人の胸元に飛び込んできた。体にぶつかって来るかと思いきや、それは颯人の胸元辺りで急に消失する。

 丁度、ペンダントの銀細工がある辺りだ。

 ほっとする間もなく、ふらり火が再び、火の矢を放つような仕草をした。

 もう、これで四度目――庇う為に立ち止まっていた颯人は、まだ走り出す体制を整えられていない。

(やばい――)颯人は思わず目を閉じた。

 と。

 バサリ、と何かが打ち付けられる音がした。

『ケエエ!!』

 ふらり火の甲高く、泣き叫ぶ声。

 再び目を開けると、そこには仁王立ちの隊長の姿があった。羽ばたきの音に釣られて上を見上げれば、ふらり火が、空の高くの方に飛び上がっていくのが見える。

 何かに酷く、驚いたようだ。

「今だ、走れ!!」

 隊長の声に我に帰り、颯人は走りだした。

 三人はひたすらに駆け、墓地を抜けて、ようやく駐車場に辿り着く。

 大急ぎで車のドアを開けて中に飛び込み、ドアを閉めて、ロックを掛け――そこでようやく三人は、一息ついた。

「追って来ては、いないようだな」外の様子を窺いつつ、隊長が言う。

 窓の外には、暗闇が降りかけた広い駐車場が広がるばかりだ。隅の方に、何台かの車が停まっているだけで、人影も何もない。

「隊長、それ何」

 いつの間にどこから持ってきたものか、隊長の手には一本の植物の枝が握られていた。十㎝程の長細い葉が、冬だと言うのに枯れた様子もなく何枚も、しっかりと枝に付いている。

「月桂樹の枝だ。海外では縁起の良い、魔除けに使われたりする木だ。墓地の隅に植えられていたのを見付けて、悪いが一枝、失敬してきた。あれに効くかどうかは分からなかったが――」上手く行って良かったよ、と隊長は笑った。

「カレーに使うだけじゃないんだな」

「とにかく、今の内に逃げるぞ」

 隊長がエンジンを掛け、バックで車を駐車スペースから出す。

 助手席に座った拓が、後部座席の颯人の方を振り返り、大丈夫か、と訊ねてきた。

「ああ、大丈夫だ」

「さっき、小さい火がお前の中に入って行ったように見えたが……」

「何ともない、今の所は。これが、弾いてくれたのかも知れない」颯人は、ペンダントを持ち上げて見せる。

「千弓希がおまじないを掛けてくれたからな、お陰で俺達二人共、助かった」

「そう、か」拓の声に、少し棘を感じて、颯人は思わずそちらを見た。

 けれど、その時には拓は前の方を向いていて、こちら側からはどんな表情をしているのか見えなかった。

(疲れてるのかな)

 運転をしている隊長も、あまり顔色が良くない。ガラスに映る自分の顔も、短時間の間に随分、げっそりとしてしまっていた。

 颯人はシートにぐったりと体を預けて、そっと目を閉じた。



―――『なんだ、こいつ。消えたと思ったら、また出て来る……』

『多分、本体が別にあるんだ、気を付けろ』

『……千弓希、危ない!』―――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る