第3話 仕事、再開


 翌朝、目覚めるとまた見知らぬ天井があった。ただ、周りの風景には見覚えがある。

 最近寝かされている部屋には無い、レトロな書き物机に本棚、その横に立て掛けた大きな弓――ここは、千弓希の部屋だ。

(あれ?)

 慌てて飛び起きると、頭がくらくらする。そうだ、昨夜は千弓希の部屋で飲んで――多分、そのまま寝てしまったのだ。だが、部屋の中に千弓希はいない。

 くらむ頭を押さえつつ、廊下に出ると階下からコーヒーの良い香りが流れてきた。

 キッチンに顔を出すと、千弓希はもうとっくに起きていて、朝食を作っていた。その横顔に二日酔いの要素はどこにもない。

 確か、自分よりロング缶二本は多く飲んでいたと思うのだが……そういう所は隊長に似てるのか。

「あ、颯人さん。おはようございます」

「おはよう……」

「二日酔いですか」

「うん……千弓希さん、強いんだな」

「ええ、割と。胃薬、用意してますけど飲みますか」

「うん……」

 こめかみを押さえつつ、テーブルに着く。颯人もそんなに弱くないはずなのだが、久しぶりに飲んだせいなのか、それとも体が弱っているせいか。

 テーブルの上に突っ伏した颯人の元に、千弓希が液体の入った小瓶を持ってきてくれた。妖しげな薬ではなく、国内の有名メーカーの液体胃薬だ。

 ありがたく受け取り、一気に中身を煽る。味は苦いが、今の颯人には程よい刺激だった。

「今は、朝食は置いておいた方が良さそうですね」颯人の顔色を見ながら、千弓希が心配そうに話し掛けてくる。

「悪い、折角用意してくれたのに。千弓希さんが食べてくれて、いいよ」

「大丈夫、お昼に使い回させてもらいます」

 正直、昼までに回復しているかどうかは自信が無いが、その言葉に一応頷いておく。

 項垂れる颯人の肩を、千弓希が優しくぽんぽん、と叩いた。颯人の体調を気遣い、あくまで優しく触れて来る温かさに、胸の辺りが暖かくなる。

(もう少し、触れてほしいな)と思ったけれど、千弓希はダイニングのストーブの電源を入れると、部屋を出て二階へと上って行ってしまった。

 颯人は起き上がる気力もなく、広い、静かな部屋で電気ストーブのジー……と言う微かな稼働音を聞きながら、うとうとと微睡む。

(なんか……大事なことを忘れてるような……いや、そもそも一年位、記憶が抜けてるんだけど……)

 頭痛と睡魔の間でゆらゆら揺れながら、重い幕が下りた頭の中を必死に覗こうとする。しかし、今は何より睡魔の方が強かったようだ。

 ふ、と意識が落ち、物音に目覚めると、千弓希が丁度目の前を横切る所だった。手に大きな洗濯かごを抱えている。

 颯人が起きた気配に気づいて、千弓希は洗濯かごを床に置くと、

「どうですか?」と優しく声をかけてきた。

 颯人は曖昧に頷いたが、眠っていた間に胃薬はちゃんと仕事をしてくれたらしく、実際、気分は幾らか良くなっていた。

「俺さ、途中からあまり覚えてないんだけど……ゆうべ、いつ寝ちゃった?」

「どこら辺まで覚えてます?」

「……なんか雲の妖怪の話、をした辺り」

「そのしばらく後かな。結構眠そうにしてたから、そろそろ寝ちゃうかな、とは思ってたんだけど」

「変な事、言ってなかった?」

「いいえ」

 千弓希の答えは澱みない。颯人の向かいに座り、てきぱきと手を動かしながら洗濯物を畳んで、隣の空いた椅子に重ねていく。

 その横顔に何か引っかかる物を感じつつも、それ以上は聞くことが出来ず、颯人は冷め切ったコーヒーを一口、啜った。

『ピンポーン』

 不意に、インターホンの音がダイニングに響く。 

「誰かな」

 千弓希は立ち上がって、ダイニングの扉の横に付いてるインターホンの受話器を取った。

「はい、バッサリ☆あやかし退治☆武将隊です」

 いつも、ふざけた名前だと思っているが、千弓希の穏やかな声で自然に言われると何かそれなりの物に聞こえてくる気がしないでもない。

「……あ、父さん?」

 千弓希のお父さん、と言う事は

(隊長?)そう言えばここで目覚めてからは、会っていない。

 千弓希が受話器を置いて、ダイニングを出る。

 しばらくして戻ってきた千弓希の背後には、大きな体に押しの強そうな髭面を乗せた男の姿があった。

 記憶を失った今の颯人でも、はっきり覚えている顔だ。

「隊長」

「颯人、どうだ具合は」

 分厚いジャケットの上からでも分かる位、筋肉隆々のごつい体をしているのに、目だけがくりくりと大きくて可愛い辺りが、「ゴリラ」に最も似ている所だと颯人は思っている。

「二日酔いで最悪ですね」と返すと、隊長は、わははと肩を揺すって笑った。

「千弓希のペースに釣られたか。こいつは家でもかなり強い方だからな。怪我の方はどうだ」

「結構、いい感じですよ」

「そうか」

 隊長――真田聖美きよみは、有限会社「バッサリ☆あやかし退治☆武将隊」の社長だ。社長自ら、先頭に立って妖し退治に出て行く為、現場では主に「隊長」と呼ばれている。役職であり、愛称でもある訳だ。

 隊長は颯人の目の前に立つと、ぴ、と姿勢を正し、深々と頭を下げてきた。

「すまなかった、お前が怪我をしたのは俺の不注意だ。本当に、申し訳ない」

「え、あ」急に謝られて、面喰う。

「本当はすぐに来るべきだったんだが、お前に怪我をさせた鬼火から目を離せない状態でな、拓と千弓希に任せるしかなかった」

「はあ……」隊長は、颯人の師匠とも呼べるような存在だ。

 それまでは流れる風を適当に利用していただけだったが、この人に会って、一から風を起こし、それをコントロールする術を手に入れた。

 気さくなゴリラではあるが、それなりに尊敬もしている――その相手に九十度の角度で頭を下げられて、颯人はただただ困惑した。

「いいですよ。それに、俺は何も覚えてないし」

「……記憶を飛ばしてると言うのは、本当なんだな」

 ようやく頭を上げた隊長は、むう、と唸って、その額に深い皺を寄せた。ただでさえ厳めしい顔が、更に凶悪になって、小さな子供が見たら泣き出しそうなレベルに到達している。

「何も、思い出さないか」

 問われて無言で頷くと、隊長は大きく、ため息をついた。

「じゃあ、うちに正式に入った時の事も覚えてない、て訳だな」

「父さん」

 その言葉に千弓希が何故か、鋭く反応する。そんな千弓希に隊長は軽く手を上げて、

「分かってる」とだけ言った。

(なんだ?)俺がこの会社に入った時に何か、あったのか?

「……千弓希たちから概ね、話は聞いている。お前の、内定が決まってた会社は、以前からずっと希望してた所だったんだろう? 今からそこに再入社は難しいかもしれないが、俺にも多少、伝手が無くはない。お前がうちを辞めて普通に働きたいなら、口を利いても良い」

「あ、いや……」

 勿論、その話はありがたいのだが、先ほどの二人の様子がどうにも気にかかる。

 颯人は、千弓希の顔をそっと、盗み見た。

 彼のこめかみは少し、青ざめていた。表情はどうにか平静を保っているが、明らかに動揺した名残が瞳に残っている。悲しげに曇ったその淡い色の瞳――どうして、そんな顔をするのだろう、と不安になる。

 それに、

(なんで俺は、入りたかった会社を蹴ってまで、ここに入ったんだ?)

 ここで目覚めてから、何度も考えていた事だ。色んな事が一度に起きたから、整理しきれないままでいたけれど、何で自分は「わざわざ」ここの正社員になったのか――。

 学校に行く傍らに、バイト感覚でやっていた事だ。

 隊長や拓も気に入ってはいるが、それだけの理由で内定を蹴るなんて、流石に考えられない。

「俺――」言い掛けた颯人の言葉を遮るように、隊長が言葉を紡ぐ。

「改めて、ご両親にもお詫びに伺うつもりだ。とにかく、怪我が思ったより早く治りそうで良かった。治療に関しては、千弓希に任せておけば大丈夫だから、お前はここでゆっくりしていろ。新しい仕事が決まるまでは、うちに在籍していればいい。だが、辞めたくなったらいつでも、言え」

「……」

 言葉は優しいけれど、その声には有無を言わせぬ響きがあった。

 何か誤魔化されている気はするのだが、どう問い質せば良いのか分からない。颯人は何か言おうとして、けれど、結局言葉が見つからないまま黙り込むしかなかった。

 どうにも、胸がもやもやする。

「コーヒー、冷めましたね。温かいのを入れ直しましょうか」そう言って、千弓希は颯人の前に置いていたコーヒーカップを手に取って、キッチンの方に戻って行った。

「父さんも、コーヒーで良い?」電気ケトルのスイッチを入れながら千弓希が声を掛けると、隊長は軽く手を上げ、

「いや、すぐに戻らなきゃならん。鬼火が落ち着いたと思ったら、また厄介なのが出て来てな」と言った。

「今度は、何の妖しが?」

「一年ちょっと前に追ったのと同じ、“雲の蜘蛛”だ」

「え?」

「え?」

 思わず、千弓希と声が揃う。

「あれは歪みの向こうに追いやった筈じゃ……、また新しいのが出たの?」

 千弓希が困惑しつつ言うと、隊長は顎髭を撫でながら

「いや、今回見つけたのはあれよりもかなり、小さいものだった。一年前、颯人を襲って逃げた小さい欠片――あれが一年かけて、自力で育ったのかもしれん。人を消したりまではしてないが、精気を吸って逃げ回ってるみたいだ」

「マジか……」

 思わず、舌打ちが出る。いい感じに追い払えたと思っていたのに、とんだケチがついてしまった。もやもやと燻っていた胸の内に、更にもう一つ火種を放り込まれた気分だ。

「じゃあ、僕はすぐに歪みの出現場所を……」

 千弓希が言うと、隊長はそれを手を上げて制した。

「いや、千弓希。お前は温室の“檻”を開ける準備をしていてくれ。この妖し、少し調べた方が良いかもしれん」

「……分かった」

 千弓希が硬い表情で頷く。

「檻、って?」颯人が問うと、

「この庭に妖しを閉じ込めておける、小さな結界を作ってあるんです」と千弓希は窓の外を示しながら言った。

 窓の向こうには、いつもと変わらぬ庭の風景が広がっている。葉っぱを全て落とした背の高い木や、冬に咲く椿や山茶花、内側にたくさんの緑を抱えた白い格子窓の温室――古びた洋館の庭と言う事を除けば、ごくごく普通の庭園だ。

 そんな物騒な感じの物は、一見して見当たらない気がするのだが。

「普段はこの敷地自体、清めてあるからそういうのは入れないんですけど、檻に誘導するための隙間をわざと作って、そこに追い込むんです」

「じゃあ、それに雲を?」

「そういう事だ。じゃあ、頼んだぞ千弓希」そう言って、部屋を出て行こうとする隊長に向かって、颯人は声を掛けた。

「待ってくれ、隊長。俺も行きたい」

 隊長と千弓希が驚いて、同時に颯人の方に振り返る。

「以前に、雲を歪みに追い込んだのは俺だろ? その取りこぼしがあるとか、どうも気持ち悪くて仕方ない。それに相手が雲なら、俺の風がある方が良いと思うけど?」

「……」

 正直な所、妖し退治にそこまで情熱やら責任感やらは感じていないが――これだけの怪我をしたのだから、ちょっと八つ当たっても許されるんじゃなかろうか。

 それに記憶を失ってから、時折感じている、焦りや周りへの疎外感。もやもやとしたその感情の燻りが、颯人の中で激しい風に変わって、渦巻き始めているのを感じる。

 ここらで吐き出してやらねば、どうにも収まりが付きそうにない。

 隊長は暫く颯人の顔を見詰めていたが、やがて

「……出られそうか」と一言、言った。

「まさか、仕事に出す気? 父さん」

 千弓希の声はかなり、焦っていた。

「怪我をしてまだ、一週間くらいしか経ってないんだよ? ほんの数日前まで、歩くのがやっとだったのに……」

「俺は大丈夫、千弓希さん」

 隊長に食ってかかる千弓希に、颯人はやんわり声を掛けた。

「ほら、この通り、結構普通に歩けてる。それに怪我しても、また千弓希さんが治してくれるだろ?」

「……でも、」

「俺が全力でカバーする。心配するな千弓希」

 隊長が千弓希の肩に手を置いて、励ます様に言った。

「それに今回は妖しがかなり小さいし、まだ力も弱い。リハビリにはもってこいだと思うぞ――何より、外の風に当たれば、こいつ自身の力にもなるしな」

 隊長の言葉に、千弓希は渋々、と言う感じで頷いた。


 紙袋に入っていた服を広げ、身支度を整える。

 ジーンズを履き、スニーカーに足を通すと、何だか少し背が伸びた様な気がした。ここではずっとスリッパばかり、履いていたからだろうか。

 少しタイトなジーンズが、肌に纏わり付く感じも懐かしい。ここ一週間以上、食っちゃ寝状態だったが、幸いそんなに太らなかったようだ。

 ダウンジャケットに袖を通し、いざ、部屋を出ようとした所で颯人は気が付いた。

 扇子が、無い。

 あれがないと、一から風を起こさなきゃならない。そうなると少しばかり面倒だし、その分、時間が掛かってしまう。

「千弓希さん、俺が持ってた扇子ってどうなったか知ってる?」

 颯人の脱いだパジャマを片付けてくれていた千弓希に、声を掛ける。

「この前見せた服と、スマホ以外は燃えてしまったと聞きました」

「そっか……団扇とかでもいいんだけど、何か無いかな」

「……ちょっと待っててください」

 千弓希は一度部屋を出て、暫くしてからその手に一本の扇子を持って、戻ってきた。

「以前、颯人さんが僕の部屋に置いて行ったものです」

「そうか、ありがとう」

 広げてみると、扇面に勇壮な風神の絵が描かれていた。雲の蜘蛛を退治した時にも使っていた扇子だ。

 風の神様の絵が気に入って、少し高かったけど、思い切って買ったものだ。

「これを、千弓希さんのとこに置いていってた?」

「はい。僕の持っていたアクセサリーと交換したんです」

「そうなんだ……じゃあ、借りとくよ」

「いえ、それはお返しします。それは元々、颯人さんの物ですから」

 千弓希は、いつもの穏やかな笑みを浮かべて見せる。それがほんの少し、影を帯びて見えるのは、外から差し込む光の加減か――。

 気になりつつも、颯人はいつも通り、それをジーンズの後ろポケットに差し込んだ。


 玄関に降りて行くと、隊長が腕を組んで待ち構えていた。

「お待たせしました、行けますよ」

「うん」

 玄関を出、大きな門扉の前まで歩いて行く。レンガ石の柱に取り付けられた、大きなアーチ形の門扉を隊長の分厚い手が掴んで、ぐ、と押した。

 キィィ……と耳障りな音を立てて、門が大きく開かれる。

(そう言えば、ここから出るのは初めてだな)

 目覚めてからこっち、ずっとこの家と庭の中ばかりだった。

 最寄りの駅まで歩いて十分位だとは聞いているが、馴染みのない駅なので土地勘が全く、無い。

 颯人が覚えている、武将隊の基地のように使っていた貸ビルのある場所からはそんなに遠くないらしいが、今の自分に取っては初めて歩く場所だ。

 少し緊張しつつ、隊長の後について門を一歩出る。と、ぴり、とやけどの跡が痛んだ。

 久しぶりに、暖かい部屋から北風吹き付ける表に出たせいかと思ったが、隊長は首を横に振り、

「この家から出たからだ、あの中にいれば痛みもかなり緩和されるからな」

「え、じゃあ、これが本来の痛み、て事ですか?」

「ああ、そういう事だ。どうだ、動けそうか」

「それは大丈夫ですけど」確かに痛むが、動きに支障が出る程ではない。

「無理はするなよ、少しでも駄目だと思ったら引け」

 隊長が顰め面で言う。道の向こうから歩いてきた女子高生がその顔を見て、道の端の方に逃げてしまった。……心遣いは有難いが、外でその顔をするのは止めた方が良い、と颯人は思った。

「隊長!」

 その女子高生の後方から、拓が走ってくる。ダウンジャケットの裾を翻しながら、目の前まで駆けて来て

「蜘蛛はD町の方に行ったぞ、若干、家の方角から外れてしまった。すまん」と謝った。

「大丈夫だ、颯人が行けそうだからな。格段に追い込みやすくなった」隊長がにやり、と笑った。

「颯人――もう、いいのか」

 拓が隊長の陰になっていた颯人に、ようやく気付いた。

「まあ、そこそこだな。これ、持ってきてくれて助かった」

 ダウンジャケットの肩を軽く摘んで言うと、拓はほっとしたような顔で笑い

「お前のお母さんに頼まれたんだ。後、伝言も。落ち着いたら顔を見せに来なさい、だとさ」

「やっと、外出の許可が出たばかりだからな……ま、連絡はするよ」


 D町に入った辺りで颯人達は再び、二手に分かれた。颯人は隊長の後にくっついて、住宅街の中を捜索する。スマホを使えない隊長が地図を片手に、路地裏や民家と民家の隙間に懐中電灯を入れて、目を凝らす。

 颯人も道の反対側に立って、民家の裏側を覗き込んだ。白昼堂々、物影を探っている大の大人、と言う妖しい事この上ない絵面である。特に隊長は強面のせいもあって、しょっちゅう職質されるらしい――どうか、善意の市民が通報しませんように、と願いながら、颯人は物陰から顔を上げた。

 びゅう、と一際強い風が吹いた。冷たい風がジャケットの裾をはためかせ、セーター越しにやけどの上に吹き付ける。

「いてて……」家の中では殆ど、痛まなくなっていたのに、ちょっとした事で傷が引き攣る。水の結界やら癒しの気がどうのとかいう物が、ここまで顕著だとは思わなかった。

(千弓希さんが心配するはずだ、やっぱりまだ治り切ってないんだな)

 外は寒いし、もう帰ってあの屋敷のダイニングで暖まりたい――風だって今日はこんなに冷たいし――と恨めしく、空を見上げた。

 と、その時、颯人は風の中に奇妙な音が混じっているのに気づいた。

 しゅ、しゅ、と何かが噴出しているような音。ケトルで湯を沸かした時に出る、蒸気音のような……これのもっと大きな音を、颯人は聞いた事がある。

 雲の蜘蛛が、壁を伝い降りてきた時の、音。

「隊長、いた」

「どこだ」

「……こっちだ」

 颯人は風の中に耳を澄ませながら、音のした方に駆け出す。幾つかの角を曲がり、入り組んだ住宅街の隙間を縫って走り、音が近くなった所で、颯人は空を見上げた。

「あそこだ……」

 民家の屋根の上すれすれを飛ぶ、小さな白い塊。ご丁寧に足がちゃんと、六本あるのも分かる。

「よし、家の方に追い立てろ! 西だ」後から追い付いて来た隊長が叫ぶ。

 颯人は扇子を開き、雲が動くのを待った。雲は屋根の傾斜の上を滑るように移動して、途切れた所でふわりと宙に浮きあがる。その腹に、下から風を叩き付けた。

 よろめいた雲が、宙にふらふらと漂う。そこに更に、風を流す。西へ。

 前の雲は大きかったから、かなり大きな風を当てなければ動かなかったが、今回は紙屑の様な手応えだ。しかし、どれだけ風を当てても、雲の形は中々崩れない。

 この雲が普通の雲ではない、証だ。

「よし、行けるぞ」隊長が颯人の後を追いながら、満足そうな雄叫びを上げた。

 その時、民家の塀の上に猫がひょい、と現われた。まだ、体の小さい若い猫だ。

 すると突然、雲が猫に向かって糸状の物を吐きだした。白い、きらきらした筋がその小さな体に刺さり、猫がにゃあ、と悲鳴を上げるのを聞く。

(やばい)颯人は扇子を構え、思い切り横に一閃した。

 扇子の先から生まれた風圧が、雲の体を吹き上げる。雲はまたも頼りなく流され、猫と雲を繋いだ糸のような物ごと吹き飛ぶ。猫もそのあおりを喰らって、体がよろめいた。

 その時、不思議な事が起こった。

 猫の体から、もう一匹、猫が飛び出してきたのだ。柄も大きさも、全く変わらぬもう一匹が糸に釣られてふわりと浮きあがり、もう一匹を残して飛び去ろうとしていた。

 扇子を振るう手が思わず、止まる。

(え……!?)

 これは目の錯覚なのか――浮き上がった猫の体が、透き通っているように見える。

 茶虎の縞模様の向こうに、民家の屋根や庭の木の枝が、はっきり、透けて見えているのだ。

「おらあ!」

 驚いて、思わず止まってしまった颯人の背後から、コインのチェーンが飛んできた。

 拓だ。いつの間にか、こちらに合流していたらしい。

 長く連なったコインの鎖が雲と猫を繋いだきらきらした糸を断ち切ると、半透明の猫はしゅるり、ともう一匹の中に吸い込まれるように戻って行った。

 だが、中身が戻った猫は塀の上から、頽れるように落下した。思わず駆け寄り、抱え上げると、小さな体はぐったりとしていたが、まだ生きてはいる様だった。

「この子は俺に任せとけ、お前は雲を」

 拓が猫を大事そうに抱えて、ジャケットの懐に入れる。

「ああ、頼む」

 颯人は再び、視線を雲に戻し、扇子を振るった。

 吹き上げ、押し流すのを幾度も繰り返すと、視線の先に洋館の尖った屋根が見えてきた。

「門の前まで飛ばしてくれ、俺は先回りしておく」

 隊長が巨体を揺らし、洋館の方へと先に走って行く。

「りょうかい」

 颯人は風を小刻みに操り、隊長の掛けて行った方に雲を誘導していった。やがて、門の前で隊長が待ち構えているのを視界の端に捉え、颯人は気流を滝のように上から下へと送り込む。

 雲は激しい気流にながされ、ひらひらと隊長の前に舞い落ちた。

「うりゃああ!!」

 隊長が向かって来た雲に左横から、鋭い拳を繰り出す。雲は風圧だか、気合いに押されただかで、家の、庭の方に吹き飛ばされた。

「よし、温室の方に誘導するぞ!」

(温室?)そこが檻なのか?けれどあの中には、木や鉢植えしか無かった筈だが――

 しかし、隊長が言っているのだからとりあえず、ここは従うべきだろうと、颯人は庭の中を駆けた。

 家の壁に添って逃げ惑う雲を、風で撃ち落とす。そうして扇ぎ、追い立て、温室が見える位置までやってきた。

 温室の扉は、既に開いていた。

 そして、温室から少し離れた所に、千弓希が立っているのが見える。その手には、長弓が握られていた。だが、矢は持っていないようだ。

 そして、雲と颯人達が近づいて来たのを見ると、弓を構えながら慎重に後辞さった。

 途端、雲が向きを変えた。千弓希の動きを追い、そちらに向けて空中で足を動かし始めたのだ。

 千弓希を狙っている――そう気づいた颯人は思わず、叫んだ。

「……!!」

 千弓希は後退しつつ、す、と弓の弦を引き、見えない矢を放つように雲に向かって弾いた。

 びいん。

 弦の、澄んだ音が辺りに響き渡る。

 すると、雲の動きが止まった。まるでその場に縫い止められた様に。

 再び、雲に向けて千弓希が弦を鳴らす。びいん、びいん。

 音が鳴る度に雲はしおしおと、力なく地面に降りて行く。その雲の向こうに、温室の扉を捉え、颯人は思い切り扇子を振った。

 雲は横腹に颯人の放った突風を受け、勢いよく温室の中に飛ばされる。

「よし!」

 隊長が背後から飛び出してきて、その扉を勢いよく締めた。

「千弓希、鍵を!」

 千弓希が長弓を肩に抱えたまま、隊長の元に走り寄り、あの三本の鍵を取り出す。そして、真っ黒な鍵を鍵穴に差し――かちゃり、と回した。

「よし」

 隊長は慎重に扉から手を放すと、ほ、と詰めていた息を吐き出した。颯人も肩を撫で下ろして、温室の方を振り返り――思わず、息を飲んだ。

「え……」

 温室の中は真っ黒だった。墨汁を垂らして閉じ込めたような色だけで中が満ちていて、いつも見ていた様々な木や植物の姿が、全く見当たらない。

「これ、何ですか。隊長」

「今、この中は妖怪や霊体を留めて置ける、空間になっている。俺が作った特製の結界だ」

 隊長がガラスの扉をポンポンと叩きながら、言う。

「この雲が、糸を吐くのを見たか? あれを調査したいんだ。上手く行けば――ある人間を治せるかもしれない」

「そういう依頼があったんですか?」

「まあ、そんなとこだ。ん、拓、どうした」ようやく追いついてきた拓の、懐が不自然に膨らんでいるのに気づいて、隊長が首を傾げる。

「そいつにやられたんだ。魂を抜かれかけた」

 拓が懐からぐったりとした猫を取出し、隊長と千弓希の前にそっと差し出す。

「かなり、弱ってる……」

 千弓希が猫の顔を覗き込んで、眉根を寄せた。

「どうだ。助かりそうか」動物好きの拓が、ひどく心配そうにしている。

「……分からないけど、やってみる」

 千弓希は拓の手から猫を受け取ると、そっとその体を撫でた。小さな縞模様を慈しむ様に幾度も撫で、擦っていると、猫はゆっくりと目を開けた。

 鳴くほどの元気はないようだが、その他は大きな怪我もしていない。颯人達はほっ、と息をついた。

 千弓希は縞模様を何度も撫ぜながら、猫を見つめ

「……魂は元々、体と繋がっている物だから、体の方が元気になれば、大丈夫だと思う。一度剥がされてしまうと、戻しにくいけれど」優しい声でそう、言った。

「そうだな……」小さく頷いた拓の声は掠れていて、どこか昏い物を滲ませていた。

「よし、とりあえず門を閉めて、家の結界を敷き直す。千弓希はもう、家の中に戻っていろ。その猫も連れて行ってやれ」

「はい」

 隊長の言葉に従い、千弓希は猫を抱いて玄関の方へと向かった。颯人も何となく、その背に続く。

「さっきの、何?」

「え?」

「弓を引いてたけど、矢は使ってなかった。でも、あれで雲が急に弱った」

 颯人が手振りで雲が落ちていった様を示すと、千弓希は笑い、

「ああ、“鳴弦”ですよ」と言った。

「めいげん?」

「日本に古くからある、魔を退ける方法です。弓の弦を鳴らす音で、悪霊や病魔を退けられるんです」

「へえ……あれ、なんか、いいな」

「清めてある敷地の中ですからね、余計に効き目があったと思いますよ」

「ああ、それもだけど」

 威力に驚いたのも事実だが、颯人の言いたい事はそれではなかった。

「千弓希さんが、すごく、綺麗だったなと思って」

「え」

「姿勢とか横顔とか、なんていうか凛としてて……ちょっと見惚れた」

 遠目で、雲を追ってる最中でなければ、ぼうっとその場で馬鹿みたいに口を開けて見詰めてたかもしれない。

 それ位、あの姿は美しかった。

 弓の弦を弾く、白い指。対象を見据える、涼しい目元。そこまで見えなかった筈なのに、胸の中にありありとその姿を思い浮かべられる。

 清らかで美しい、立ち姿。

「俺、前にも千弓希さんのあの姿、見た事があるような気がする」

「……そうですね、多分、何回か見た事がある筈ですよ。でも、別に型どおりに弓を射る真似をしただけで、綺麗とかそんなことは」

「いや、綺麗だった。俺が、今まで見てきたものの中で一番」

「大袈裟ですね」と困った様に千弓希は言った。

「いや、本気だよ?」

「……」

 千弓希はいよいよ困った、と言う風に、俯いてしまった。ほんのりと頬が染まっているのが分かる。

 でも、本当のことだ。

 それと、あの姿に見覚えがある事も。以前の自分と今の自分がようやく……ほんの少しだけれど、繋がった気がした。はっきりとは思い出せないけど、自分は確かに千弓希を知っていた――それだけで、胸が逸る。

 千弓希は軽く咳払いをしてから、

「それより、颯人さんは大丈夫なんですか? 外に出て、何か変わった事は?」と聞いてきた。

「ああ、ちょっとやけどがひりひりしたけど。大した事はなかったよ」

「それならいいんですが……何か、他に思い出したりとか」

「ああ……それ所じゃなかったな。すぐに雲を見つけて追っかけ始めたから、それ所じゃなかったし。風景も、特に見覚えのある感じじゃなかったな」

「そうですか……」

 そう言って千弓希は、その青味がかった瞳を少し、曇らせた。


 千弓希は洗面所に入ると、猫を颯人に預けて、洗面器を手に取った。小さなタイルを張り合わせた大きな洗面台の中にそれを置き、中に湯を張り始める。

「風呂に入れるのか?」

「それもありますが……」

 七分目くらいまで溜まった所で千弓希は真鍮の蛇口を回して、湯を止める。

「ここの水にも癒し効果があるので、浸かっていれば、少し元気になるはずです。ご飯を食べられる位に元気にならないと、外に戻せませんからね」

 千弓希は猫を受け取り、そっとその湯の中に体を浸す。そうして手のひらに湯を掬い、そっと猫の体に掛け始めた。

 それを幾度か繰り返していると、猫がうっすらと目を開けて、にゃあ、とか細く鳴いた。

「あ、鳴いた」

「良かった、じゃあ、今の内に洗ってしまいましょうか。颯人さん、猫を支えててくれますか」

「わかった……こんな感じでいいかな?」千弓希がやっていた様に猫の首の後ろから指を回し、顎を支えて体を湯に浮かせる。

「そうです」

 千弓希はシャンプーを何倍にも薄めた液を作り、それをそっと猫に掛けた。そうして指の腹で優しく泡立て、体を洗い始める。

「慣れてるな。猫、飼った事あるのか」

「猫は無いですけど、犬はずっと家で飼ってました。大型犬も小型犬もいましたよ」

「だから、俺の頭を洗うのも慣れてたのか」

 手がちゃんと使えないし、やけどに沁みるので、体は拭くだけに留めていたが、頭は千弓希に何回か洗って貰っていた。指使いが優しくて、うとうとする位に気持ち良かったのだ。

「犬とは流石に違いますよ、結構緊張してました。颯人さんはじっとしてくれてるから、やりやすかったですけど……あれ? これ、怪我かな」

 千弓希が猫の背中辺りに触れながら、眉をしかめる。

「え?」

「なにか、小さいけどボコボコしてる所があるんです」千弓希は湯の中から、そっと猫を取り上げて注意深く猫の背を調べ始めた。

「これだ……何だろう、注射を刺した跡かな」

 颯人も横から覗きこむ。猫の右肩甲骨の少し上――濡れた毛の隙間から見える、淡いピンクの皮膚の上にごく、小さな隆起が複数、あった。小さな小さなその隆起の中央には、確かに針で刺したような穴がある。

「確かに注射っぽいけど……これ、もしかして」

 この猫が襲われた時、雲の吐き出した糸が刺さった辺りが丁度、この辺だった気がする。それを千弓希に伝えると

「ここから魂を吸いだした、て事ですか……こんな小さな穴から……」

 千弓希の眉根が、きゅっ、と寄る。痛ましそうにその隆起を撫で、

「でも、魂が完全に吸い出されなくて良かった。颯人さんが助けてなかったら、この子も肉体ごと消えてしまっていたかもしれませんね」

「まあ、間に合ってよかった」

 千弓希の心からの賛辞をその視線からも受け取って、つい視線を逸らす。嬉しいが、何だか面映ゆい。

「所で颯人さん、手は大丈夫ですか」

「大丈夫って?」

「お湯、やけどに沁みたりしてませんか」

「ああ……うーん、ちょっと沁みるけど……、耐えられない程ではないな」

「じゃあ、颯人さんも今夜あたり、お風呂に入っても大丈夫かもしれませんね。さあ、これ位でいいかな」

 千弓希は泡を漱いで、猫の体を拭き始める。猫は情けない声でにゃあにゃあと鳴いていた。これだけ鳴ければ、大丈夫そうだ。

「飼い猫かな」

 千弓希が猫の顔を覗き込みながら、言う。この猫に首輪はついてないが、だからと言って飼われていないとも限らない。

「普通の家の周りでウロウロしてたから、飼い猫の可能性はあるな」

「父さんに、近所で聞いといてもらった方がいいかも。飼い主がいたら心配するだろうし……よしよし、お腹すいたかな?」

 千弓希の白い指を餌か何かと勘違いしてるのか、猫が千弓希の指をちゅうちゅう、と吸う。

「役得だな」思わずぼそりと言うと、千弓希が不思議そうな顔でこちらを見た。

「え?」

「なんでも。猫、ミルクとか飲むのかな」

 羨ましい、と思ったなどとは、流石にちょっと、言えなかった。




―――『鳴弦て凄いな、千弓希』

『使うの久し振りで、少し緊張したけど……上手く行って良かった』

『俺がいなくても良かったんじゃないかな』

『颯人さんや拓がいてくれたから、落ち着いて出来たんですよ』

『ね、その口調』

『え』

『俺の方が年下だし、そんなに改まる事ないよ? 呼び捨てにしてる俺の方が礼儀知らずみたいだし、デートもした仲なんだから、もっと砕けてほしいな。拓とは普通に話してるだろ』

『……』

『やっぱり、俺の気持ち、迷惑?』

『そうじゃないんです、その……僕なんかで、いいのかなって』

『千弓希だから、いいんだけど。俺は千弓希の特別になりたい、拓より誰より、好きになって欲しい』―――




 二度目の雲退治から、三日が経った。

 颯人の包帯を解き、やけどの具合を確かめていた千弓希が顔を上げ

「もう大丈夫でしょう、家に帰ってもいいですよ」と言って優しく、微笑む。

「本当に?」

「ええ、もう皮膚も殆ど再生してるし、残った所も自然に癒える筈です」

「やっ、た……」喜びに思わず、両の拳を握りしめる。

 最後の包帯が体から離れ、直接感じる空気に肌が歓喜の声を上げている様だ。

 颯人は早速立ち上がり、帰り支度を始める。と言っても、持ち物は拓の持って来てくれた服位しかなく、財布も行方不明だ。

 勿論、それは千弓希も知っているので、颯人の手に数枚の紙幣を握らせてくれる。中には諭吉さんの顔もあった。

「給料日まで少し間があるので、とりあえずこれだけを。足りなかったら連絡してください」

「ありがとう、すぐ返すから」

「平気ですよ、スマホも買い換えなきゃいけないでしょう? 領収書とか持って来て下さいね。隊長が弁償してくれますから」

「うん、それは助かるけど……データが戻るかどうかが一番、心配だな」

 颯人はPCを持っていないし、データのバックアップもおざなりだ。ネットに保管してるものはいいが、他のアプリ関連はどうなっていたか……。

 千弓希に借りた金をポケットにねじ込み、玄関のドアを開ける。

 風は冷たいが、日差しはあった。

 門の所まで千弓希が見送りについて来てくれ、アーチ形の鉄柵を押し開けてくれる。隊長は軽々とやっていたが、千弓希には流石に少し重そうだ。

 何かと重くて、古くて、面倒臭い家だがいざ、離れるとなると少しばかり名残惜しい。

 レンガ造りの壁と尖った屋根は、周りの風景から浮いて見えるが、同時に他にはないチャームポイントでもあった。

「じゃあ、また来る」

 門を出て、振り向きざまにそう、声を掛ければ千弓希も頷いてくれた。門の内側から手を振って見送ってくれる彼の姿が、少し遠く、寂しげに見える。

 背後に立つ、古い洋館のせいなのだろうか。

(いつか、もっと日の差す場所でこの人を見てみたいな)颯人は何となく、そんな風に思った。



 電車を乗り継ぎ、自分のアパートのある駅に降り立つ。

 すぐにでも懐かしの我が部屋に戻りたい所だが、その前に、駅前の携帯ショップに寄る。前にスマホを契約したのも、この店だったのだ。

 店に入るとすぐにカウンターに案内されたので、颯人はポケットから黒焦げのスマホを出して見せた。かろうじて形を留めているだけのそれに驚いて、店員が目を丸くする。

「火事にでも遭われたんですか」

「まあ、そんなとこです。それで新しいのが欲しいんだけど、この中のデータって移せますか」

「……拝見いたします」

 店員は苦労して携帯をPCに繋ぎ、他の店員と相談しながら調べていたが、やがて

「バックアップのない分は難しいかもしれませんが、ある程度は可能なようです。少しお時間がかかりますが」と答えてくれた。

 最悪、戻らない事も覚悟してたので、むしろその答えに颯人はほっと胸を撫で下ろす。

「少しでも戻れば、それでいいです。どれ位かかりますか?」

「二時間ほど頂ければ……」

「分かりました」

 隊長が弁償してくれると言う言葉を信じ、心置きなく新しいスマホで契約し直す。最新式の一番高いのは流石に遠慮して、前と同じ機種の色違いにしておいた。

 元々、そんなに古い型でもなかったから、これで十分だ。

 データ移行が終わる頃に受け取りに来る事を告げ、店を出る。これでようやく、スマホ難民から抜け出せそうだ。

 足取りが自然、羽のように軽くなる。

 無ければ無いで何とかなる事はこの二週間ほどで分かったが、アパートには固定電話も置いてないし、ネットも何もできないのはやはり不便だ。

 後はアパートに戻って、一年ぶり?の我が家を確認するだけだ。


 恐る恐る、鍵を鍵穴に差し込み、ドアを開ける。

 六畳相当の洋間に小さな台所、風呂とトイレ一体型のユニットバスと言う、よくあるワンルームタイプだ。

 体感的には二週間程、しかし記憶的には一年以上ぶりの帰宅だ。どんなことになっているかと冷や冷やしたが、部屋の中は自分の覚えている状態とさほど変わらなかった。

 カーテンもベッドも同じ物だし、位置も変わっていない。

 だが良く見れば、壁に掛けたカレンダーはちゃんと二〇××年の物が飾られているし、覚えのない真新しいクッションが部屋の隅に転がっている。

「ちゃんと、ここの時間は経ってるんだな」

 自分の部屋に裏切られたような気持ちになって、思わず溜息が出る。

 それでも体に馴染んだ匂いや空気は、ここが間違いなく、自分の部屋なのだと言う事を教えてくれた。

 着ていたダウンジャケットをベッドの上に放り投げ、部屋の鍵をいつもの場所――ベッドサイドに置いてある小物入れに入れようとして、そこにもう一つ、新しい物を見つけた。

 鍵や、ドリンクのおまけについてたフィギュアなんかを適当に放り込んである、木製の小物入れの横に、ペンダントが一つ。

 これも、全く見覚えのない物だ。

 丈夫そうな皮紐の先に、弓矢の形の銀細工があしらってある――光る石も付いていない、ユニセックスなデザインだが自分が買ったんだろうか。そんなに好みな感じでもないのだが。

 手に持つと、指先に見た目以上の重みが伝わってくる。多分、本物の銀なのだろう。細工自体もそれなりに大きくて作りも丁寧だし、割と高いんじゃないだろうか。

「でも、何でこんな事に置いてあるんだ?」

 颯人は他にも幾つかアクセサリーを持っているが、大体いつも、クローゼットの中の小さな引きだしに纏めて入れてあるのだ。

 たまたま、何かの拍子にここに置き去りにしただけなのかもしれないが、何となく気になり、颯人はじっくりとそれを眺めてみた。

「弓矢かあ……」

 ふと、数日前に見た鳴弦の事を思い出す。

 あの時の千弓希の端正な横顔や、白い指先――思い出すだけで口元が緩む。

 颯人はペンダントの革紐を広げ、それをそっと首から下げてみた。思った通り、見た目以上の重さが首に掛かってくる。だが、今日の黒いニットとこの銀色は、相性が良さそうだ。

「よし」

 颯人は気分良く立ち上がって、部屋の中を片付け始めた。置いている物自体も少ないので、そんなに散らかしてはいないが、二週間の間にそれなりに埃も溜まっていた。

 掃除機を取出し、適当に床をなぞっていると、ふと部屋の隅におかしなものがある事に気付いた。最初は埃かと思ったが、違う。

 指の先程の黒い、小さな塊。

 よく見るとそれは、黒い砂粒のようなものの寄せ集めだった。しかし、こんな小さな砂粒が出て来そうな物が、この部屋の中にあっただろうか。

 颯人は改めて部屋を見渡してみたが、それらしきものは見当たらない。

 しかも、掃除を続けていると、同じ物が部屋の四隅から出て来たのだ。

(なんだ、これ――)

 どうも、嫌な感じがする。結界を作るのに、塩や酒で四隅を清めると言うのは聞いた事がある。でも、黒い砂を置くと言うのは……。

 この部屋に自由に出入り出来るのは、自分以外には精々、実家の家族位だ。しかし、実家はそこそこ距離があるから、父も母も滅多に訪れない。それに

(来ていたとしても、こんなものを置くか?)

 両親とも、占いだの何だのはあまり信じない性質だ。

 颯人は迷ったが結局、周囲の埃ごと、それを掃除機で吸ってしまった。仮に何か意味があって置いていたにしても、こんな隅では気づかずに掃除してしまっても、不可抗力と言うものだ。

「ついでにベッドのシーツも変えとくか」

 洗い替えのシーツをクローゼットから引っ張り出し、古い物と取り替えていると、今度は枕の下から液体の入ったプラスチックボトルが出て来た。

 いわゆるエッチの時に使う、ローションと言うか……そういうもの。

 これも、覚えの無いものなのだが――さっきのと違って、目的がはっきりわかる。ただ、

(前はこんなの使った事、無かったんだけど……)と颯人は思わず、首を傾げた。

 覚えてない一年の間に、自分に何があったのか――気になる所だが、まあ、いい。それらを適当に片付けてから、今度は冷蔵庫の中身をチェックする。

 料理はしないので大抵は水や牛乳位しか入れて無い筈だが、何か食料が入っていたらヤバイ事になってるはずだ。

 開けてみると、以前に母親が入れて行ったらしい、煮物の作り置きが密封容器に入っていた――開けてみたら、つんとした刺激臭が鼻を襲う。勿体ないが、これは捨てるしかない。牛乳もとっくに期限が切れていた。

 それらを始末すると、冷蔵庫はいよいよ空っぽになってしまった。冬とは言え、流石に水位はストックしておきたい。

「コンビニでも行くかな」ついでに弁当かパンでも買おうと、再び上着を持って立ち上がる。その後で、携帯ショップに寄れば丁度いい時間だろう。



 平日の昼下がりのコンビニは、静かなものだった。パートのおばさんが床にモップを掛けている他は、客も二人しかいない。

 とりあえず、炭酸のドリンクとポテトチップスを手に取り、それから弁当棚の前に向かう。昼に粗方売れてしまったらしく、残っている商品は少ないが、その中に気に入りの豚丼を見付けてそれを手に取った。

 後はレジ横のショーケースの中のファーストフードを買おう、とレジの方を振り返って、颯人は違和感を感じた。掃除をしているおばさんの他にもう一人、レジカウンターの中に店員が立っている。

 だが、何となく様子がおかしいのだ。

 ひょろりと背の高いその男の顔は青白く、体調でも悪いのかどこか虚ろな目をしている。何よりおかしいのは、その服装だ。暖房が効いているとは言え、男の着ている制服は半袖で、ひょろ長い腕がむき出しになっている。

 掃除をしているおばさんは、季節に見合った長袖のジャケットタイプの制服を着ていると言うのに。

 それに男が立っているレジ台の上には「使用中止 他のレジにお回りください」と書いた立札が立ててある。レジをするのなら避けておけばいいのに……と不思議に思いつつ、ファーストフードが並べられてるショーケースの前に颯人は立った。

(アメリカンドッグにしようかな、それともフランク……)見比べつつ悩んでいると、店内にいた客の一人がレジに近づいてきた。

 そして、誰もいないもう一つのレジ台の前に立ち、

「すみませーん」と掃除をしているおばさんに向かって、声を掛けた。

「はい、うかがいます」おばさんはモップを近くの棚に立て掛け、小走りでレジカウンターの中に入って行く。

 そうして客の持って来た商品を手に取って、平然と会計を始めた。もう一人の店員など気にも留めない風で。

 客もそうだ。ごく普通に財布を開けて、中の小銭を探している。

(? 何だ)確かに、あっちのレジには休止札が立ててあるけど、レジの中にいる人を無視して、わざわざ遠くにいた他の人を呼びつけるなんて。

 失礼な客だなあ、と颯人は男の立っていたレジの方を振り返って、ぎょっとなった。

 男の半袖の制服に、奇妙な模様が浮かんで見える。いや、模様ではない。

 あれは、レジの後ろに置かれている棚の中の、煙草だ。色とりどりの煙草のパッケージが、男の体を通して、透けて見えてしまっているのだ。

 よく見れば服だけじゃない、顔も、腕も同じように透けてしまっている。まるで先日見た、猫の魂のように――。

(こいつ、人間じゃ、ない……!)

 バイトで妖しなどを見慣れてなければ、あやうく悲鳴を上げていたかもしれない。幸い、扇子も持っているから、いざとなれば追い払う事位は出来るだろう。

 けれど今は仕事中ではないし、室内とは言え真冬に扇子を振り回すのは、かなり珍妙な光景だ。

 出来れば、関わりたくない。

 それに隊長には、必要が無ければ不用意にそういう物に近づくな、と言われている。

(早く、買い物を済ませて帰ろう)

 颯人はおばさんのいるレジに並び、順番を待った。

「アメリカンドッグ、下さい」

「はい」

 注文を受けたおばさんが、ショーケースの方に行き、アメリカンドッグを袋に詰めはじめる。それをなんとなく目で追っていると、ショーケースの向こうのレジの前に立っている男と目が、合ってしまった。

 その途端、男の目が大きく見開かれ、くるりと体の向きを変えた――こちらの方に。

(やべ……)

 颯人は仕方なく、ポケットに差した扇子に指を伸ばす。どうにか、おかしくない程度に扇子を動かして、追い払ってしまわなくては――。

 男は虚ろな目で颯人を見据え、ショーケースをすり抜けて近付いてくる――扇子を引き抜き、扇面を広げようとしたその時――胸元で、びいん、と何かを弾いたような音がした。

 澄み切った、綺麗な音だ。

 すると、あと一歩と言う所まで近寄って来ていた男の姿が、急にその場から掻き消えた。

「え……」

 思わず、声が漏れる。

「どうかされましたか、お客様?」颯人が急に変な声を出したので、おばさんが不思議そうな顔でこっちを見る。

「あ、いや、何でもないです」

 颯人は慌てて何でもない風を装い、扇子から手を放して、音のした胸元を覗き込む。そこにはさっき、部屋で見付けたペンダントが窓から差し込む光を受けて輝いていた。


 コンビニで買い物を終えた後、颯人はその足で駅前の携帯ショップに向かう。

 もうデータ移動は終わっていたらしく、颯人が店に入ると、さっきの店員がすぐに新しいスマホを差し出してくれた。

「一部、取り出せないデータも有りましたが、概ね移せております。写真なども、ここ一、二年位の物は全部無事です」

「いや、それだけでも残ってれば上等です、ありがとう」

 その辺りが、今の自分に欠けてる記憶なのだ。写真を見れば、何か思い出せる事もあるかもしれない。

 携帯ショップを出て、急ぎ足でアパートへと戻る。

 買って来た弁当などは取り敢えず横に置き、早速スマホを開く。データがそのまま移されたので、待ち受けは以前と変わらず、お気に入りの映画のポスターの図柄だ。

 まずよく使っていたコミュニケーションアプリ「LANE」を開いてみると、沢山の受信通知が届いていた。二週間も溜め込んでしまっていたから、尋常じゃない数だ。

 両親にはもう事務所から連絡してあるが、友人の大半にはまだ連絡を付けられていない。颯人はとりあえず、目についた友人の名前を片っ端からタップして、簡潔だがメッセージを送った。

『怪我で暫く寝込んでた、スマホも壊れたので連絡できなかった。すまん』

 送っている端から、ちょいちょい返事が返ってくる。それに適当に返事しつつ、一通りメッセージを送り終えた後、今度は写真のフォルダーを開いた。

 ずらっと並んだ写真は、ざっと見ただけでも、かなりの数が増えている。飲み屋で撮ったらしい食べ物や、友人との自撮り写真、どこかの公園の風景――

「あ……」

 その中に千弓希の写真を見付けて、思わず手を止める。あの家の、応接間で撮った物だろう、恥ずかしそうにこちらに向かって微笑んでいる千弓希の写真だ。

 何だか気恥ずかしい。

 覚えていないだけで、自分はやはり彼を知っていた。その事が嬉しい様な、少し悔しい様な――どことなく、こそばゆい気持ちで更に写真をスライドさせてゆく。

 他にも何枚か、彼の写真があった。二人で並んで自撮りしているものもある。

 照れ臭そうに笑う千弓希の肩に置かれた、自分の手がやけに馴れ馴れしい。

(何、浮かれてんだ)

 思ってた以上に自分と千弓希は親しかったようだが、全然覚えていないので、何だか面白くない。それにこんなに仲が良さそうなのに、千弓希はずっと畏まった口調で話をしていた。その事に今更だが、不満を感じる。

 記憶を失った颯人を、混乱させないようにしていたのかも知れないけど。

(俺、千弓希さんの事、なんて呼んでたのかな)

 画面の中の彼は、相変わらず優しげな微笑みを浮かべてこちらを見ている。と、その胸に光る物を見付けて、颯人は思わず手を止めた。

 液晶の上に指を滑らせ、その部分を拡大する。

 千弓希の胸元で銀色に光っている、これは多分、ペンダントだ。少しぼやけて分かり辛いけど、その形に見覚えがある。と言うよりもこれは、今、自分が下げている――

「もしかして、これか?」

 颯人はペンダントを、指で摘んだ。

 弓矢の形をした、小さな銀細工。それは写真の中で光るものと、よく似た形をしていた。黒の革紐も、写真の中の物と同じだ。そう言えば、風神の扇子を自分のアクセサリーと交換した、と千弓希が言っていた。

「……なんで、これと交換したんだ?」

 正直、颯人は天邪鬼で、人が持ってる物と同じ物を持つのは恥ずかしいと思う性質だ。仮に他人の持ってるペンダントを気に入ったとしても、全く同じ物は流石に買わないだろう。

 それにさっきのコンビニでのアレ――気のせいでなければこのペンダントが、あの幽霊を退けてくれたのだ。あの隊長の息子の持ち物なら、ちょっとした力を持っていても不思議ではない。

 でも、何でそれが自分の元に。

 便利そうだけれど、そんなに付けてみたいデザインと言う訳でもないのに。今だって、弓矢の形で千弓希を思い出したから付けてみただけで――

(あ、そうか)

 千弓希の、だから。彼が付けていたから。彼を思い出すから。

 だから、きっと、欲しくなったのだ。颯人は思わず、苦笑した。

(参ったな)

 胸の中にひときわ、爽やかな風が吹いてきたような心地だった。滞った澱みを全て吹き飛ばすような、風。

 気に入りの扇子と交換に、このペンダントを彼から貰ったのも、多分、酷く単純な理由だ。何の事はない、

「俺、あの人の事、好きだったんだな……」

 口に出せば、その言葉はすんなりと心の中に入ってきた。

 それは、今の自分もきっと、同じ気持ちだからだ。




―――『最近、千弓希とよくつるんでるらしいな』

『ん、お付き合いしてるから』

『お付き合い、て』

『お前にだけは言っとくよ、拓。俺、千弓希の事、好きなんだ。そう言う意味で』

『……マジかよ、じゃあ、お付き合い、て』―――



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