第2話 記憶
それからの三日程、颯人はほとんどベッドの上で寝て過ごした。やけどのせいもあるが、何より襲われた時にかなり霊力を消耗したらしく、体力もそれにつられて落ちていたようだ。
痛み止めを飲んでいたから、そのせいで眠くなったのもあるだろうが、とにかく長時間起きていられなかった。
その間、千弓希は、細やかに颯人の面倒を見てくれていた。包帯の取り換え、体位の交換、薬や水を飲む時だって丁寧に接してくれた。
最初の方こそ
(同じなら、綺麗な看護師のお姉さんに見てもらった方が――)なんて思ってたのだが、間近で見ても彼の顔は綺麗で、いい匂いがしたので、そんな気もすぐに薄れた。
体が思うように動かない事で苛立ちもあったが、彼の声を聞いていると、不思議と心が落ち着く。
けれど、以前の彼の事は全く思い出せないままだった。
「よ……っと」
手すりに掴まり、颯人はよろよろと歩き出す。健康な時は何とも思わなかったが、手足に力が入らないと立ち上がるのも難しい。
ここで目覚めてから四日目。ようやくベッドから起き上がれるようになったが、この部屋の外のトイレに行くまでがまた、辛かった。
トイレは颯人の寝かされている部屋のすぐ正面に在るのだが、ほんの数メートルで着く筈のそこが何十メートルも先のように感じられる。
トイレを出ると、部屋の外で千弓希が待ってくれていた。彼の手を借りながら、部屋へと戻る。
「大丈夫ですか?」と彼が心配そうに話しかけて来るので、颯人は
「全然、平気」と言って頷いて見せた。
少々、虚勢もあるが初日の事を考えれば、実際、随分楽になった。声も、最初は出すのも辛かったが今はこの通り、普通に話せるようになっている。
これだけの怪我を負ってるのに、その原因を覚えてないなんて妙な気分だが、雲の蜘蛛に火を噴くような力はなかったはずだから、やはり鬼火の炎がどうとかこうとか言うのは「あった」事なんだろう、多分。
正直、未だ半信半疑なのだが、何はともあれ、今は怪我の治療が最優先である事には違いなかった。
包帯を変えてもらう時に自分の体の状態を見たが、やけどはかなりの広範囲に広がっていた。両手は爪先から肘辺りまで赤黒く変色してるし、両足も腿の辺りまで赤く爛れている。脇腹にも赤く爛れている個所がある。
変わり果てた自分の体を見て、
「これ、結構、残っちゃうんじゃないのか」と不安げに呟くと
「普通のやけどなら、多分残るでしょうね」と千弓希は答えた。
「ただ、これは妖しの起こした炎によるやけどなので、普通の物とは違うんです。大丈夫、僕の力はこれに対してよく効くので、殆ど残りませんし、残させません」
そう言って千弓希は手の平をやけどの上に翳し、指の腹でゆっくりと撫で始めた。ほんの少ししか触れていないのに、触れた先からひやりとした感触が広がって行く。
不快な感じではない。例えるなら滝の傍でその水しぶきを浴びている時の様な、清々しい冷たさ。そして、千弓希が触れるごとに少しずつ、痛みが引いてゆく。
「この冷たいのが、千弓希さんの力?」
「ええ」と千弓希が頷く。その額には、冬だと言うのにうっすらと汗が浮かんでいる。
かなりの集中が必要なのだろう、一通り傷の上を撫で終えた頃には、その頬に疲労の色が濃く、表れていた。
それでも彼は手を休める事なく、今度はやけどのひどかった所に少し湿った布を宛がってくる。
「これも、千弓希さんの力入りの何か?」
「これは、普通の消毒薬と布、です」
手は休めずに千弓希が答える。宛がった布の上から手際よく包帯を巻き、テープで固定する。
随分、慣れている様だ。
「この家自体、治癒に使う水の気を込めてあるので、ここで寝起きしているだけでも、治りは早い筈です」
「家に?」
「作ったのは隊長――僕の父ですけど、ここは結界が張ってあって不浄なものを弾いてくれるんです。颯人さんや僕みたいに、普通とはちょっと違う力を持つ者には過しやすい筈ですよ」
「え、ちょっと待って。隊長の息子さん?」
「そうですよ」
「似てない……!」
颯人の知る隊長は、身長二m近くの髭面の大男だ。目の前の千弓希は身長は普通位だし、すらりとしていて、目鼻立ちにも全く共通している所が無い。
「以前も、そう言ってましたよ。そんなに似てませんか?」
「似てない。ゴリラと花位、共通要素が見つからない」
「ゴリラ……」
「あ、隊長には内緒で」
颯人が口の前に指を一本立てて見せると、千弓希はぷっと吹き出した。いつもは丁寧な話し方や仕草で大人っぽく見える千弓希だが、そうやって笑うと存外、幼く見える。
僅かに垂れた眦や、綻んだ唇の桜色が綺麗なせいだろうか、何だかとても
(可愛い――)そんな事を、思ってしまう。
颯人は昔から、女友達に餓えた事が無く――率直に言えばモテる方だ。
バレンタインデーには毎年、食べ切れない程のチョコを貰っているし、普通に遊んでいて逆ナンされた事もある。
だから女の子はそれこそ、美人から可愛い系まで結構、見てきた方だと思っている。
でも今、目の前にいる彼は、自分の記憶にあるどの女の子と見比べても、見劣りしない。いや、下手したらこっちの方がレベルが高いかもしれない――。とは言え、
(男と付き合う趣味は、流石にないなあ)
差別がどうとかこうとか言う以前に、男とそう言う関係になるのだと言う発想自体が颯人には、無い。
最近は忙しくて特に付き合っている子はいなかったが、次に相手を探すなら勿論女の子で、それを疑った事すら無かった。
少なくとも、自分の覚えている限りは。
「次、お腹に巻きますね」
「うん」
颯人が頷くと、千弓希は颯人の開いた足の間に体を入れて跪き、腰に抱き付くような体勢で包帯を巻き始めた。背中に幾度も腕が回され、その度ごとに千弓希の髪が颯人の肩や、胸元に触れてくる。
鼻先に届くこの香りは、シャンプーか何かだろうか。
釣られて視線を下せば、俯いた千弓希の白いうなじが目に入る。頭の後ろで束ねた髪の隙間から見えるそれが、やけに色っぽくて――颯人は思わず頭を振った。
(いやいや、駄目だろ)
先日、目覚めてからの出来事で頭の中はかなり混乱したままではあるけど、ここは精神的誤作動を起こすような場面じゃあ、ない。
大体、颯人はまだこの状況を、何かの仕込みである可能性を捨てきっていない。
隊長や拓がどうしてそんな事をするのかは分からないが、外に出られず、連絡も満足に取れないこの状況なら、大袈裟な嘘を作って騙す事も簡単だろう――そこまで考えて、颯人はあ、となった。
「そう言えば、俺のスマホ、どこにあるか知ってる?」
スマホの日付なんて、変えようと思えば変えられる。
先日、見せられたのはカレンダーと拓のスマホだけだ。自分の携帯にはロックを掛けてあるから、他人が日付を弄ることは出来ない。
それで日付を確かめられれば――そう、思ったのだが
「あ、それが……」
千弓希の顔が、悲しげに曇った。
「え、なに」
「一応、颯人さんが着ていた服と一緒に置いてあるんですが……」
千弓希は包帯を巻き終えると部屋を出て、預かっていたと言う服とスマホを持ってきてくれた。ベッドの上に広げられたそれを見て、颯人は思わず、うわ、と声を上げる。
服はジャケットもセーターも半分以上が焼け落ちてぼろぼろ、スマホは真っ黒に焼け焦げて変形しており、幾ら電源ボタンを押しても起動しない。
スマホの背面に貼っていた、デコシールの後がうっすら見えているのが物悲しい。充電プラグを指す所も少し曲がってしまっていて、充電も難しそうだ。
「これじゃあ、中のデータは死んだかな」
「難しそうですね……。電話を掛けるだけなら会社のもありますし、僕のスマホを使ってくれてもいいんですが」
「参ったなあ……」
親への連絡は隊長がやってくれてるみたいだから、ひとまず良いとして、友人知人の番号やメールアドレス、SNSのIDなんかの事を考えると、かなり面倒くさい。
「治ったら、携帯屋に行かなきゃ駄目だな……給料の上乗せ分で買えればいいんだけど」
「拓に、携帯電話のパンフレットでも持ってきてもらいましょうか」
「そうだなあ……あー、眩暈してきた」颯人が思わず、眉間を押さえて倒れそうな振りをすると、千弓希が慌てて支えようと手を伸ばしてくる。
「大丈夫ですか」
「平気平気」
「空気、悪いかな? 締めきってると空気が籠っちゃうから――颯人さんは風に当たってないと、体調悪くなりますからね」
「あ、うん――」何でそれを知ってるのか、と言い掛けて、この人が自分の知り合いだったらしい事を思い出す。
「少しだけ、窓を開けておきましょうか」千弓希が立ち上がり、木枠の窓をほんの少し押し開けてくれた。僅か数センチの隙間だったが、そこから流れてくる空気はひやりと冷たく、季節が確実に変わってしまっている事を颯人に伝えてくる。
自分が最後に覚えているのは、真夏の、焼けたアスファルトの匂いが混じった南風だったのに――。
「外、随分、寒そうだな。中にいると全然解らなかったけど」
「ええ、ずっと中にいると今がいつか、解らなくなりますね。外に出られれば、気分も変わっていいんだろうけど」
「出ないの?」
「僕はこの家と庭の中までしか、行けないから」千弓希が窓の向こうを見つめながら、言った。
水蒸気で白く曇った窓には、色彩のぼやけた庭の風景がうっすらと映っているだけだ。
「行けない、てどうして」
「僕もこう見えて、療養中なんですよ」
「え、どこか悪いの」
確かに色白だけど、そんなに具合が悪そうには見えない。見えない所に怪我でもしているんだろうか、と颯人は少し心配になって、聞いた。
「ええ、まあ」
千弓希は曖昧に笑ってはぐらかし、そっと窓辺を離れる。
「大丈夫。僕のはそんなに大した事、ありませんから」
―――『千弓希さんと隊長が親子ってマジ?』
『親子ですよ、血液型も同じA型だし』
『でもDNA的に遺伝を感じないんだけど』
『そうかなあ。確かにどちらかと言うと、母親に似てる方だけど』
『お母さんの遺伝子に大感謝だよ。お陰で、うっとり見ていられる』
『立花さんの方がずっと格好いいですよ。拓から聞きました、前にバイトしてたコンビニでファンの子が出待ち入り待ちしてたって』
『女子高生は暇なんだよ。動物園のパンダを見てるのと大差ない』
『今、話題の颯人くんを観に来ました! て感じですか』
『あ、今のいいな』
『え?』
『名前。千弓希さんの声で呼ばれるの、凄い新鮮。ね、もう一回呼んでよ』
俺が催促すると、彼は少し戸惑って――それから
『颯人、さん?』と呼んだ。
呼ばれた途端、俺の胸の奥がきゅう、てなった。―――
***
「今日で一週間、か」
颯人はカレンダーを見て、ぼそりと呟いた。怪我してからひたすら寝て起きて、ちょっと食べてまた眠って――そのお陰で、怪我の状態はかなり良くなってはきていた。
やけどの部分に熱い物が触れたりすると流石に痛むが、普通にしていればそれ程でもない。最初の頃は眠っている事が多かったが、今は流石に起きている時間の方が多くなった。
良い事だ。
良い事だが、眠くもないのに一日の大半をベッドの上で過すと言うのは、なかなか厳しい。
何せスマホは使えないし、TVは一応部屋に在るけれど、お昼時など主婦の井戸端会議のような番組しかやっていないし、千弓希から借りた本や雑誌も読みつくしてしまった。
千弓希もちょくちょく部屋に様子を見に来てくれているのだが、電話対応やら依頼者との面談なんかも請け負っているようで、ずっと側にいてくれる訳でもない。
そもそも颯人は、動くのが好きな方だ。ベッドの上でじっと寝ている等、性に合わない。
颯人はゆっくり、ベッドの上に体を起こした。
(少し、そこら辺を歩いてみるか)病院じゃないのだから、入っちゃいけない場所もそんなにないだろう。のそのそと起き上がり、パジャマのままでドアを開け、廊下に出る。
まだ外観は見た事がないが、この家が明治時代に建てられた古い洋館だと言う事は、千弓希から聞いている。
元々は隊長の曾爺さんが建てた物らしいが、家としてはもう随分長く使っておらず、数年前からこつこつと手を掛けて直し、ようやく最近、会社の救護室兼倉庫として使い始めたのだと千弓希が言っていた。
いずれは、事務所もここに移すつもりらしい。
確かに柱も床もかなり古そうだし、置かれているチェストや壁に掛けられた照明も、相当な年期物だ。
今までは寝かされている部屋と、すぐ近くにあるトイレ兼バスルームの行き来位しかしていなかったが、こうして見ると、結構大きく感じる。
他にはキッチンとダイニングルーム、来客時に使っているのであろう、ソファーセットの置かれた立派な応接室もあった。(ソファーも、緑のビロード地の古めかしい逸品だ)
応接室の前は玄関ホールになっていて、その中央から立派な中折れの階段が天井に向かって伸びている。
(二階もあるのか……)
一段、登ってみると足の下で小さく、板が軋む。抜け落ちそう、と言う程ではないが、ちょっと怖い。
階段を登り切ると、四つの古い木のドアが並ぶホールに出た。
階段を登って正面の壁に二つ、階段の右横に一つ、そして、その奥の突き当りにもう一つ。どれも同じデザインのドアだが、突き当りのドアだけドアノブの色が違った。
他のドアはどれも丸い取っ手の、鋼色のドアノブだったが、突き当りのドアノブだけ墨を掃いたように真っ黒な色をしていたのだ。
(変わってるな)
無い事もないのだろうが、ドアノブではあまり見掛けない色だ。なんとなく気になって、近寄ってみる。ノックをしてみたが、反応はなかった。
そこでノブを回そうとしてみたが、手の平に固い手応えが返って来るばかりで、右にも左にも全く動かない。まるで飾り物か何かのようだ。
(鍵が掛かってるのかな)それにしても、普通はもう少し動く物だと思うんだけど、と思いつつ、颯人はドアから離れた。
反対側の突き当りに窓があったので、そっちに近寄って外を覗いてみる。
窓の下には、意外に大きな庭園が広がっていた。自分の寝ている部屋から見える椿の他にも、様々な木や植栽が植えられている。冬だから咲いている花は少ないのだが、季節になれば、相当賑やかな事になるんだろう。
温室や東屋らしきものも、ある。
「……っしゅ」不意に、くしゃみが出た。
家自体古い為か、どうにも底冷えがする。部屋には暖かなストーブがあったから、この格好でも平気だったのだが。
「颯人さん、どうしました」不意に、千弓希の声が聞こえてきた。
振り返ると少し離れた部屋のドアから、千弓希が顔を出している。
「退屈だから、家の中を散歩」
「ああ……。でも、そんな恰好じゃ、寒いですよね」
千弓希は颯人の格好を見て、眉をしかめる。
「ちょっと待っててください、これだけ片付けたらセーターをすぐ出します」
千弓希はグレーのセーターの上にエプロンを付け、手には軍手まで嵌めている。いかにも何やら作業中、と言った感じだ。
「ここで何してるの? 掃除?」
颯人が聞くと、千弓希は埃まみれになった軍手の指先を見せながら
「掃除しつつ、道具の整理中です。父さんが後から後から色んな物を持って来るから、たまにこうやって整理しておかないと、収拾がつかなくなるんで」と言って苦笑した。
千弓希に促されて部屋の中を覗くと、確かに、中は雑多な物で溢れかえっていた。
部屋の壁の前には隙間なく整理棚が置かれ、その一段一段にみっちりと怪しげな物が詰められている。
古そうな鏡に大きな水晶、勾玉や巻物――日本の神仏に関係ありそうな代物から、西洋風の銀の器や十字架、本物かどうかは分からないが、銃や刀や槍まで。
更に部屋の中央には幾つものダンボールが積み重ねられていて、そこにも似たような物がたくさん詰まっていた。
「妖怪退治用の道具?」
「ええ」
「十字架なんて、日本の妖怪に効くのか?」
「最近は海外の人も沢山、入って来てますからね。人が増えれば色んなものが増えます」
「ふうん」
手近な棚を覗き込んでみる。正月のおせちを入れる様な古い重箱があり、指でちょいと蓋を押しのけると、中には小物がまとめて収納されていた。
石を繋げて作ったネックレスのような物や、古びた腕輪、綺麗な花の模様が彫られた木製の櫛……ここだけ見てると、骨董のアクセサリー屋みたいだ。
「こんなのも使うのか?」
櫛を指先で摘んで見せると、千弓希は頷いて
「ええ、桃の木で作った櫛は、魔除けに効果があるんです。まあ退治と言うより、お守りみたいなものかな」
「へえ、桃って美味いだけじゃないんだ」
ここでバイトをしてから隊長や拓に色々教えて貰ったが、元々そう言うのに興味が無かったから知識は精々、一般人に毛が生えた程度の物だ。
最初の頃は退治に行く時に、拓が塩を持って来ていたので料理でもするのか、と聞いて、困惑させていた程だ。
塩や酒で穢れた場所を清められる、なんて、当時は全く知らなかった。
千弓希は屈み込んで、段ボールに詰められたガラクタ……もとい道具を、棚の空いた所に入れたり、詰めたりしている。
「一人でやってるの? 隊長はやらないの」
「隊長にやらせたら、余計に時間掛かるんで……」
「……あー」確かにお世辞にも、整理整頓が得意そうな人には見えない。
「なんか、手伝おうか」
「いえ。今日はもう、ここら辺で置いておこうと思ってたから。でも、それ位動けるようになったんだったら、食事はダイニングの方で取っても良さそうですね」
「その方が良いな。ベッドの上ばかりだと根が生えそうだ」
「後で庭の方にも出てみますか? かなり、寒いと思うけど」
「うん、久し振りに外の空気を吸いたい」
「敷地の外にはまだ出ない方がいいですけど、庭なら大丈夫でしょう」
千弓希は、最後に木で出来た珍妙な人形を棚の隙間に押し込み、こちらを振り返った。
「お待たせしました。颯人さんの服や靴を預かってるんで、それを先に渡しますね」
千弓希は物置部屋の向かいの部屋に、颯人を誘った。ここはさっきの部屋と違い、綺麗に掃除された普通の部屋だ。
「ここは?」
「僕の部屋です」
「へえ」
そう聞くと、俄然、興味が湧いてくる。
颯人の寝ているベッドと色違いのベッドの他に、古い洋画に出て来そうな大きなタンスと、アンティークの書き物机(載っているのは羽のペンとレターセットじゃなくて、ノートPCだったが)、それに上から下まで分厚い本でみっちり詰まっている本棚。
「綺麗にしてるんだな」
「そうかな? あまり物を置かないから、そう見えるだけですよ」
千弓希は恥ずかしそうに言ったが、脱いだ衣服は几帳面に畳んで置いてあるし、本棚の本も判型や内容で丁寧に分けて、並べられている。中に有名な妖怪マンガのコミックスも一緒に並べられてある辺りは、ご愛嬌だ。
その本棚の横に、風呂敷のような布に包まれた長細いものが立てかけてあった。人一人分位の高さがある。
颯人はそれに何となく、懐かしさを感じた。何だったっけと思い返してみると、高校時代のクラスメイトの姿に思い当たる。
そいつは確か、弓道部に入っていて、弓をこんな風に包んだものをよく持ち歩いていたのだ。
「もしかして、弓道やってた?」と聞くと、千弓希は頷いて
「ええ、小学校から高校までやってました。今は競技としてはやってないですけど、妖怪退治にも使えるので今も時々、手入れだけはしてます」
「使うって、矢で妖怪を撃ったりとか?」
「撃つ事もありますけど、矢を使わなくても出来る方法があって……ああ、あったあった」
千弓希は本棚の前に置いてあった大きな紙袋を手に取ると、颯人の前で口を広げて見せてくれた。中に入っていたのはセーターやジーンズ、ダウンのジャケット等――全部、颯人の私物だ。
「拓が颯人さんのお母様に頼まれて、色々、持って来てくれたんです」
「ああ、すごい助かる」颯人は早速、中からセーターを取ってパジャマの上から、被った。薄手の綿のパジャマだったから、多少ごわつきはしたがすんなり、着られた。
これだけでもかなり、暖かい。
さっきの部屋もこの千弓希の部屋も、暖房が付いていなかったので、ようやく人心地を取り戻した気分だ。
(そう言えば、この人は寒くないのかな)
颯人は目の前に立つ千弓希を見て、思った。
暖房も付けずに、セーターとエプロンだけで長時間、あんな寒い部屋で作業してたら体の芯まで冷え切りそうな気がするけれど。
それとも、動いていたら暑くなったんだろうか。
「千弓希さんは、寒くないの」颯人が聞くと千弓希は
「ああ、大丈夫です。寒くても暑くても、あまり分からないので」と答えた。
分からない、と言う言い方に颯人は軽く、違和感を感じた。単なる言い間違いかも知れないけれど、でも。
けれどその疑問が口をついて出る前に、千弓希は颯人の方を見て、笑った。
「じゃあ、お昼にしましょうか。昨日、拓が服を持って来たついでに、美味しいお肉や野菜も置いていってくれてたんです」
颯人はさっき覗いていたダイニングに、連れてこられた。千弓希は、部屋の隅に置かれた古い石油ストーブに火を入れてから、
「座って待っててください、温め直すだけだからすぐです」と言って、間続きのキッチンへと入って行った。颯人は言われた通り、ストーブから近いダイニングテーブルの椅子に座って待つ事にする。
改めて見ると、このテーブルと椅子もかなりの年代物なようだ。天板も脚もどっしりと太く、厚く、丁寧に磨き抜かれて光沢を放っている。
六つ並んだ揃いの椅子には、背中と座面に赤いビロードのクッションが敷かれていて、颯人の体を優しく受け止めてくれた。
壁に飾られた古い絵画、擦りガラスに包まれたレトロな照明――ここでぼうっとしていると今が二十一世紀で、真夏の暑いビルの裏路地がこの世に在った事なんて、嘘のようにすら思えてくる。
最も、キッチンには普通に電子レンジも炊飯器も置いてあるし、部屋の隅に置かれた電話はちゃんとプッシュホンで、子機も付いている。
勿論ちゃんと使える――昨日、家に電話するのに借りたばかりだ。
(何か、時間感覚が狂いそうだなあ)
キッチンの隅には、アンティーク風のホーローのボウルが置かれていた。じゃがいもや人参が幾つか入っていて、どうやらここで保存している様だ。
その中に、颯人は見慣れない野菜を見つけた。
十㎝程の細長い、花のつぼみの様な形をしたピンク色の野菜だ。
「その、赤いの何?」颯人が指差して尋ねると、千弓希は首を伸ばして颯人の示した方を見、
「ああ、それ、ミョウガですね」と言った。
「ミョウガ?」
「薬味なんかに使う、野菜です。拓が持って来てくれたんだけど、今回は使わなかったな」
「ミョウガ……へえ、初めて見た」
「あまり、主役になる事はない野菜ですからね。でも、今の時期によく見付けて来たなあ、夏が旬なのに」
「そうなんだ」
「冷奴とかに乗せると美味しいですよ、好みにも寄るけど。でも、物忘れをしやすい野菜だって言われてるから、うちでもあまり食べなかったな」
「そんなのあるの?」栄養価が高いとか、繊維質がどうのとか言うのは解るけど、物忘れしやすい野菜、なんて聞いた事が無い。
「これは、流石に迷信です」と言って、千弓希が笑う。
「昔、お釈迦様の弟子に物忘れをよくする人がいて、その人が亡くなった後、お墓から生えて来たのがこのミョウガだったから、て言うのが理由みたい。実際の所は、逆に集中力が高まったり、眠気覚ましに良いみたいですよ」
「じゃあ、物忘れしてる俺へのお見舞い、て事かな」
「……かも知れないですね」
颯人の家では冷奴には醤油と、せいぜいネギや鰹ぶしだったので、こんなピンク色の物が豆腐の上に乗るなんて、ちょっと不思議な気分だ。
(これを食べて、更に記憶が無くなったらどうなるのかな)
ただでさえ一年分位、記憶が行方不明なのに更に忘れてしまうとしたら――古い記憶から無くなるのか、新しい方の記憶が無くなるのか。
日が浅い、新しい記憶から無くなるのなら――今、こうしてる記憶も忘れてしまうんだろうか。
千弓希と、こうしてゆったり話している記憶も。
(それは嫌だな)
そんな事を考えている内、美味そうな匂いがテーブルの方にまで流れてきた。
「出来ましたよ、温かい内にどうぞ」
千弓希がトレイに載せた食事を運んで来てくれる。
出されたのは野菜たっぷりの味噌汁と、分厚く切った豚肉のソテー、茶碗に盛られた白飯。アンティークなテーブルの上に並べるには多少、見た目に違和感のある食事だが、まあパーティーをやってる訳でもないので、別にいい。
何より、どれも美味しかった。
これまでに出されたおかゆやスープも美味かったし、千弓希は料理が上手なようだ。
包帯のせいで指が上手く使えないのだが、ちゃんと食べやすい様に切ってくれているし、スプーンとフォークも付いている。
最後の一口まで美味しく食べ終えた所で、颯人は千弓希に改めて質問してみた。
「ここは会社の建物、なんだろう? なのに部屋があるって事は、住み込みで働いてるのか」
「ええ。家はここからそんなに遠くないんですけどね、ここだと資料も多いんで、歪みの出現場所や妖怪の対処方法も調べやすいんです」
そう言えば、拓もそんな事を言っていた。颯人はいつも、言われたものを歪みに誘導したり、追い立てたりするばかりで、あれがどう言う理由でそこに存在するのかは知らなかった。
「歪みって、どうやって見つけるんだ? いつも同じ所に出る訳じゃないんだろう」
颯人の問いに千弓希はうーん、と少し考える風な仕草をしてから、
「暦とか、月と星の位置とか色々な要素と、過去の文献からも調べますね。実は同じ所に出続けている物もあるんだけれど、そういうのは僕たちの手に負えないんです」
「手に負えない、て言うのはどういう?」
「ミイラ取りがミイラになりかねない、て事です。よほどの大物を追い立てるとかでなければ、変に触らない方がいい。触るとしても、細心の注意を払わないと本当に危険なんです」
「へえ……」
「神隠し、と言うのがあるでしょう。一概には言えないけど、神隠しと言われる事件の中にはそう言った歪みに不用意に近付いてしまった為に、起きた物もあると言われてます」
「異次元とかそう言うのに行っちゃった、て事か?」
「或いはそこに住まう者達に吸収されたか……そういう事だと、僕は思ってます」
「ふうん……」
こんなバイトをしてはいるが実の所、颯人はこういう話には半信半疑である。風を自在に操るこの力が無ければ、むしろ信じていなかったかも知れない。
自分が風を使うのと同じ様に、土や石を扱う事が出来ると言う拓に出会った時だって、まず何より先に胡散臭い、と言ってしまったほどだ。その直後に、
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」と言われてしまい、ぐうの音も出なかった訳だが。
しかし、颯人自身も何度か歪みの向こうに、妖怪やら霊的なものを送り込んできた。そういうものが吸われてしまうのなら、人間だってそうなる可能性はあるのかもしれない。
「じゃあ、あの雲に飲まれた人もやっぱり食われちゃった、て事かな」
「あれから一年経ちますが……被害者の誰かが戻ってきたと言う話は、聞きませんね」
「そうか……」
雲が人を食ってどうしたいのかは知らないが、あまり気持ちのよろしくない話である。雲を追い払って万事解決、ならばいいけど、そうもいかないのが現実だ。
依頼人もそれなりの金を払ったのだろうに、結果がこれでは報われない。
(下手したら、クレーム付けられそうだな……)まあ、こんなバイトは大学卒業したら辞めるつもりだから、いいけれど。何だったら、怪我を理由に今すぐ辞めても――そこまで考えて、颯人は大変な事に気づいた。
「え、待って。俺、二十三歳になった、て言ってたよな」
「? はい」
「て、事は大学は卒業してるんだろう? 就職は? 俺、仕事を一週間も無断で休んでたら、クビになっちゃうんじゃないか?」
「あ……」
千弓希がぽかんと口を開ける。驚いて、それから悲しそうに眉毛がどんどんと下がって
「そ、そうでしたね、颯人さん、その事を覚えてないんだ……」とようやく聞き取れる様な小さな声で、言った。
「俺、内定貰ってたと思うんだけど?」
「はい、その、聞いた話ではある商社に受かっていた、と。けど……」
「けど?」
「最終的にうちに就職したんです」
「え」
「バイトからそのまま、正社員に……なった、んです」
「ええっ」
思わず、椅子からずり落ちそうになる。
バイトから正社員になるコースは、よくある。現に颯人の大学の先輩にも、バイト先のアパレル店の店長に気に入られて、正社員になった人がいる。けれど。
なんだってこんな、危なくて胡散臭い仕事に。そりゃあ、確かに余所より少々、時給は高かったけれど。
「な、なんで?」
すっかり動揺して言葉を失った颯人に、千弓希は申し訳なさそうな顔をして
「……分からないです。でも最近は中途採用なんかも多いと聞きますし、今からでもやり直しは聞くんじゃないか、と……」
「マジ、か――」
自分が記憶を失ってると言う現実を、颯人はこの時初めて、痛感したのだった。
その夜、颯人は寝つけなかった。
昼間は殆どベッドの上でゴロゴロしてるから疲れようがないし、何より自分の記憶が本当に失われている事に気付き、今更ながら不安になったのだ。
怪我の状況に気を取られて今まで実感が持てなかったが、まさか、こんな事になっていたとは。
内定を取りつけた会社は、大学入学前から密かに希望していた会社で、決まった時はとても嬉しかった。
なのに、それを自ら、蹴ってしまっているなんて。
千弓希が嘘を言っている可能性も無くはないが、この数日一緒に過ごしてみて、彼がそんな手の込んだ嘘を吐くような人物にはもう、見えなくなっていた。
拓なら、何か知ってるだろうか。
あれは同じ大学の同級生で、お互いの就職活動の事もよく相談していた。あいつは実家が寺なので、こういう仕事は稼業の助けになるかも――と随分前から、ここに就職する事を決めていたが、自分は違う。
(あいつなら、もっと詳しい話が聞けるかな……)
手元にスマホが無いので拓の番号が分からないが、千弓希に聞けば知ってそうだし、明日にでも電話してみるか。それか、PCを借りてメールをするのも良いかもしれない。
うだうだと考えていると、ふと、階段の方から足音が聞こえてきた。千弓希がトイレにでも降りて来たのだろうか。
(PCを借りられないか、聞いてみるかな)そう考えて、足音が近づくのを待っていたのだが、ガチャガチャと玄関の方でドアノブを回すような音がしたきり、何も聞こえなくなった。
どうしたのだろうと思っていると突然、部屋の窓の向こうにぼんやりとした明りが現われ、颯人は思わず、そちらを振り返った。
恐る恐る窓に近づき、白い曇りを拭った指の隙間から暗い、中庭を覗き込む。
水滴で滲んだ窓硝子に映ったのは、千弓希だった。
大きな懐中電灯を手に、この寒いのにパジャマの上にカーディガンを羽織っただけで、真っ暗な庭の中を歩いている。
(なんだろう)こんな季節のこんな時間に、庭に出て何を――いつもなら、気になりつつもそのまま寝てしまう所だっただろうけれど。
(どうせ、眠れなかったしな)
颯人は紙袋の中からダウンジャケットを取り出して、部屋を出た。こんな夜更けに一体、彼が外で何をするつもりなのか――興味もあったし、少し、人と話したい気分でもあった。
玄関まで行くと扉は少し、開いたままだった。
隙間から身を滑らせ、庭へと出る。そうして見当を付けた方に歩き出したが、庭には屋外ランプが殆ど灯されておらず、ほぼ真っ暗闇だった。
月も出ていないから、一歩を踏み出すのに躊躇するほどだ。
(スマホがあれば、ライトになるんだけどな)
仕方なく、颯人は意識を集中させ、風の流れを読んだ。ほんの僅かの風の流れがあれば、暗闇でもそこに何があるか、分かる。植えられた植栽の位置、道の広さ、狭さ。
昼に歩くように、とまでは行かないが、実用的に使える颯人の特技の一つだ。
それにしばらく歩けば、目も闇に慣れて来た。
(夜だから、そんなに遠い所までは行かないと思うんだけど――あ、)
遠くに、ちらちらと瞬く光が見えた。
急ぎ足で近付いてみると、それは白い格子窓を幾つも並べて作った透明な小屋――昼に窓から覗いていた、温室から漏れている光だと言う事が分かった。
(この中にいるのか)
そう言えば、庭を案内してもらうって話だったのに、颯人があの後、ショックで部屋に籠ってしまったので行けず仕舞いだったことを思いだす。
温室の扉も、少し開いていた。入ってみると、中は外気が遮られている為か、かなり暖かい。
暗くてよく分からないが、背の高い木や植物の鉢植えが所狭しと置かれ、その枝葉の隙間から千弓希の白い横顔が見えた。
千弓希は懐中電灯を手に、鉢植えの植物を覗き込んでいる。そっと近づくと、気配に気づいたのか千弓希が驚いた様子でこちらを振り返った。
「颯人……さん」
「ごめん。寝られなかったんでボーっとしてたら、千弓希さんがこっちに来るのが見えて、つい」
「びっくりした。真っ暗なのに、よくここまで来れましたね」
「風に聞けばいいんでね」
「ああ、そうか。闇夜にも風は流れてるから……」
千弓希はそう言って、おっとりと微笑む。自分の言葉にあっさり頷いた千弓希に、颯人は少し驚いて、同時に納得もした。
(ああ、この人も力を使うんだったな)
颯人が風の話をすると、大概の人間は首を傾げたり、ポエミーだな、なんて笑ったりする。それに対して、いちいち言い訳とかはしない。
自分に取っては当たり前すぎるこの感覚を、変に隠す気はないし、かと言って事細かに説明して回る気も無いだけだ。
でも勿論、拒絶されていい気分はしない。ありのままに話して、ありのままに受け入れてもらう――家族以外で久しぶりに味わう感覚に、颯人は思わず頬が緩んだ。
「こんな時間に何してるんだ?」
颯人が聞くと、千弓希は目の前にある鉢植えを差して
「ちょっと、思い立ったことがあって。ここのレモンバームを取りに来たんです」と、言った。
「レモンバーム?」
「ハーブの一種です、お茶に使ったりお菓子に入れたりするんです。ここのは魔除けに使う事が多いですが」
「ハーブが、魔除けになるのか?」
「ええ、香りの強い植物はそういう事に使われる事が多いですね。ここの庭や温室の植物は、ほとんどがそういう物に使われるものです」
千弓希は温室内の植物を指差しながら、言った。
「そこの南天やまたたび、フェンネルにカルダモンなんかもそうです。今、会社にきてる依頼で恋愛成就のお守りが欲しい、と言うのがあったんで、これとか丁度いいなって」
「そんな依頼もあるんだ」
「ありますよ。魔除けとか受験合格のお守りが欲しいとか。怖めな感じだと、誰かを呪ってほしいとか」
「それはヤバイなあ」
「うちはそういうの扱ってないんで、断ってますけどね」
言いながら千弓希はレモンバームの葉を数枚取って、それからもう片方の手で根元の土を触った。
「少し乾燥してるかな、頻繁にあげるのも良くないんだけど……」
千弓希は葉っぱを上着のポケットにしまうと、懐中電灯で床を照らして何かを探し始めた。
やがて、懐中電灯の光の円が花や葉の間に埋もれていた、水道の蛇口を探し当てる。
「ちょっと、持ってて下さい」と言って千弓希が懐中電灯を渡してきたので、受け取ってその手元を照らしてやった。
千弓希が小さなコンクリートの柱の先に付いた蛇口を捻ると、その先からちょろちょろと水が流れ出す。
じょうろでも使うのかな、と思いながら見ていると、千弓希はその水を両の手の平で受け止め始めた。そして、少し水が溜まった所でゆっくり立ち上がり、ふう、とそれに軽く息を吹きかける。
すると、手の平から小さな水の粒が次々と浮かび上がって来て、懐中電灯の光を受けてきらきらと輝き出したのだ。
暗い空間へと流れて行く光の粒は、まるで天の川のようだった。
そうして温室中に広がった光の粒はやがて弾け、今度は霧のような雨へと変わる。
雨は鉢植えの木や花に優しく降り注ぎ、温室中に柔らかな水の気が満ちて行くのを颯人は感じた。
「これは……千弓希さんの力?」
「ええ、軽く湿らせる程度に撒くなら、じょうろを使うよりこの方が早いから」
懐中電灯の光を浴びて、雨の雫がきらきらと光って宙を舞っている。その中で微笑む千弓希は、なんだかとても綺麗で儚げで――胸の奥がひどく、そわそわした。
無性に彼の傍に寄って行きたくなって、そんな自分に気付いて颯人はぐ、と足に力を入れる。
(何か、調子が狂うな)いつもなら男相手に考え付きもしないような事を、この人の側だと考えてしまう――これじゃあ、まるで。
そこまで考えて、颯人は頭を軽く振る。
(そんな訳、ない。多分)
懐中電灯を返してやると千弓希は礼を言って受け取り、それから
「眠れないなら、少しお酒でも飲みますか?」と聞いてきた。
「あるのか?」
「ストロング零のグレープフルーツと梅、ダブルオレンジ」
「あ、俺、グレープフルーツがいいな」
すぐに食いつくと、千弓希は笑い、
「なら、良かった。前にそれを良く飲んでたので、買っておいたんです」
「俺、千弓希さんと飲んだ事、あるんだ?」
「はい、何回か」
言いながら二人で温室を出て、扉を閉める。千弓希は上着のポケットから鍵を取り出し、扉の鍵穴に差し込んだ。
真鍮製の、細い軸の先端に小さな凹凸が付いた、ちょっと懐かしいようなデザインの鍵だ。それと同じような鍵が二本、大きな金属の輪っかに一緒にぶら下がっている。
形はどれも同じに見えるのだが、何故か色が違う。今使ったのは金色だが、残る二つは鈍い銀色と、闇を塗り込めたような真っ黒な鍵だった。
そうして家の中に戻ると、千弓希は玄関の扉を閉めてから、今度は金色と鈍い銀色の鍵を使って鍵を二回、掛けた。
少々、変わった光景だ。
千弓希は鍵をポケットにしまうと、そのまま二階に続く階段を登り始めた。
「ダイニングで飲むんじゃないのか」と後ろに続きながらその背に話しかけると、千弓希は立ち止って振り返り、
「僕の部屋に隠してあるんです。下の冷蔵庫に置いておくと、父がいつの間にか飲んだりしちゃうので」
「ああ……隊長、大酒飲みだからな」
何回か隊長と飲んだ事があるが、同行した颯人と拓の飲んだ量を足しても追いつかない程の量を胃に収めていた。しかもビールも焼酎もウィスキーも何でも来い、だ。
あの人にかかったら安チューハイなんぞ、水替わりだろう。
部屋に入ると、千弓希は取ってきたレモンバームの葉を丁寧にティッシュに包んでテーブルの上に置いてから、小さな電気ストーブを付けた。
暖かいオレンジ色の光が灯り、足元にじわりとしたぬくもりが伝わってくる。
「ううー、暖かい」颯人がストーブの前に座り込んで手を翳すと、千弓希は安心した様に笑って、それからベッドの側に屈み込んだ。
昼に来た時は気付かなかったが、ベッドの脇に小さな冷蔵庫が設置してあった。普通の冷蔵庫の、三分の一くらいの大きさの物だ。
その扉を開けると、中にはお酒の缶が何本もストックされていた。扉の裏のポケットには小さなツマミも数種類置いてある。
一人で楽しむには、ちょっと多くないだろうか。
「千弓希さんも、意外と酒飲み?」
「うちは家族全員、酒好きなんです。」
千弓希は机の椅子を颯人に提供し、自分はベッドの縁に腰掛けた。小さいスナックの封を開け、颯人の前にそっと差し出してくれる。
「どうぞ」
「ありがと、いただきます」
プルタブを引き、中身を煽る。ほろ苦いグレープフルーツの味が舌の上に、そして喉の奥にまで流れ込み、その心地良い刺激に脳の奥が緩むのを感じる。
ここの所、胃にも舌にも優しい健康的な食事ばかりしていたから、体に良くないジャンクな味わいを全身が楽しんでいる様だ。
その心地良さを味わいながら、颯人はさっきから気になっていた事を口にした。
「内側から、鍵を使って掛けるのって変わってるな。外から掛ける時はどうしてるんだ」
「外からも同じ鍵で掛けますよ。金色のは普通の鍵ですが、銀色のは、結界を張る為の鍵なんです」
「結界を張る、鍵?」
「この家は水の気を満たしてる、て言ったでしょう? この鍵で施錠する事で水の気を内側に閉じ込めて、逃がさないようにしてるんです」
千弓希がポケットの中の鍵の束を、カチャカチャと揺らしながら、言う。
(そんなことが出来るのか――)
颯人も扇子を使って、風を操ることは出来るが特定の場所に気を閉じ込めておくなんて、どうやればいいのか皆目、見当がつかない。
それに、一体何のためにそんな事をしているのだろう。
颯人の疑問に、千弓希は
「色々ありますが……主な理由はここに不浄なものを寄せ付けない為と、福利厚生的な感じですかね」と答えた。
「福利厚生?」
「今回の颯人さんほどでなくても、妖しなんて追ってたら体力を消耗するし、怪我もあるから……癒しの水の気を満たした空間の中にいれば、回復が早まるんです。それと同時に、外側からの悪い気も撥ね返す事が出来るので、中を清浄に保てます」
「バリヤー的な?」
「そう。ここには、妖し退治のための道具もたくさん置いてあるから、不浄には出来ないんです。効果が薄くなるので」
「はあ、なるほど?」
分かる様な、分からない様な。けれど、穏やかに話す千弓希の声は耳に酷く心地良くて、いつまでも聞いていたい気持ちになる。
颯人はその端正な白い横顔を目の肴に、もう一口、酒を煽った。
缶が一本空き、二本空き、つまみも食い終る頃には、颯人は随分と酔いが回っていた。かろうじて座っているが、立ち上がったらやばそうだなあと思いつつ、残り少なくなった缶を手の中で弄ぶ。
しかし、千弓希は全く酔った様子が無く、のんびりと妖しの話を語り続けていた。或いはこれが、彼の酔った状態なのかも知れない。
「……雲が人を消してしまう話は割と昔からあって、海外では戦時中に一個小隊が不思議な雲に飲み込まれて戻らなくなった、なんて話もある位です。ただ戻ってきた例も何件かあって――あれ、颯人さん、寝ちゃいましたか」
うっとりと聞いてる内に、いつしか瞼を閉じていたらしい。気遣わしげな千弓希の声に、颯人は軽く瞼を擦りつつ、大丈夫だよと、どうにか答えた。
「でも、そういう話も良いけど、俺は千弓希さんの事を知りたいな」
「僕の事?」
千弓希が不思議そうに言う。
「だって千弓希さんは俺の事、色々知ってるけど――俺は覚えてないんだよ。ずるくないか?」
「そう言われても、そんな大したプロフィールは持ってないです」
「その、大した事ないプロフィールを聞きたい。ね、彼氏、年幾つ? 何の仕事してるのかな」
チャラい声音を作って話し掛けると、千弓希がくすくすと笑った。
「ナンパみたい」
「そう、ナンパ。ね、教えてよ。千弓希さんの話」
重ねて聞けば、千弓希は照れ臭そうに答え始めた。
「二十四才、この会社で事務と後方支援担当してます」
「いっこ、上かあ。じゃあ、誕生日は? あ、血液型も知りたいな」
「二月十四日生まれ、A型です」
「バレンタイン生まれなんだ。――恋人は、いるの?」
その問いには、千弓希は少し躊躇いを見せた。
「……内緒です」
「教えてくれないのか」
「諸事情がありまして。今は保留中なんです」
(保留中……て事は、気になる相手位はいるって事か?)どんな相手なんだろう、綺麗系か可愛い系か。年上か年下か。
女か――男か。
(ああ、また)
どうも妙な方向に考えが行ってしまうな、と颯人は残された理性で、自分に突っ込みを入れる。酒が入ってるせいもあるのだろうけど。
(でも、もし、この人が男でも有りなら……?)
そう考えた途端、つる、と言葉が口から出て来た。
「じゃあ、俺の事はどう思う?」
「どうって?」
「好きか嫌いか、有りか無しか」
千弓希は一瞬、目を大きく見開いて、ぱちぱちと瞬きをした。颯人の真意を探るように、じっと目を見つめて来て、そうして
「……好き、ですよ」と言った。
その二文字の言葉にどくん、と心臓が高鳴る。
あきらかに酒のせいではない熱がぶわ、と頬に溜まり、その熱気で頭がくらくらする。ああ、これは
(本当にヤバイ――)
ほんのりと色づいた千弓希の頬が、唇が、やけにはっきりと見える。照明を受けて、少し青みがかって見える、その綺麗な瞳も。
この部屋に、いや、家に誰もいなくて、二人きりだと言う事を不意に思い出す。そして手を伸ばせば、容易に触れられる距離に彼が――しかも、ベッドの上に――
そこで、颯人の意識は途切れた。
―――『颯人さんは卒業後は〇〇でしたっけ』
『うん、拓はこのまま、ここに入るんだよな』
『拓は実家が寺だから。こういうのも修業になるから、もう少し働きたいって。流石にずっと、とはいかないだろうけど』
『ちょっと、いいなあ』
『どうして』
『〇〇には千弓希さん、いないだろ?』
『僕は大概ここにいるから、いつでも遊びに来てくれていいんですよ』
そういう意味じゃないんだけどな、と思わず、俺はため息を着く。
『会社にいる千弓希さんじゃなくて、外にいる、普段の千弓希さんが見たい』
『? いいですけど。どこか遊びに行きますか』
『本当? 千弓希さんはどこ行きたい? やっぱり、水のいっぱいある所とか?』
『別に水は無くてもいいですけど……でも、そうだな、プールはこの時期、混んでるだろうし。颯人さんは、どこがいいですか』
『俺はどこでも』初デートは相手の好みに合わせてあげるのが、定石―――
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