水の館に眠るのは
@fujiiakasi
第1話 目覚め
俺が生まれた日は、朝からずっと風が強くてまるで嵐の様だった、と母から聞いた事がある。部屋の中にいても聞こえるくらいに、ごうごうと凄い音が鳴っていて、それなのに日差しは暖かで眩しい位に輝いていて。
そして俺が産声を上げた時には、一際強い風が病院の壁を叩いて、締め切った部屋の中にまで吹き抜けてきたのだと。
「この子は風に好かれてるんだなって、その時、思ったのよ。だからお前の名前は
颯人はジーンズのポケットから、するりと扇子を取り出した。
扇子は何本か持っているが、これは中でもお気に入りの物で、今日の服もこれに合わせて決めてきた。
薄墨色の扇面に合わせた、黒のスリムタイプのジーンズと白のオーバーサイズのティーシャツ。鮮やかな赤のバスケットシューズは、バイト代を注ぎ込んだブランド物だ。
本当は涼しいサンダルにしたかったが、動き回るにはやはり、これが一番いい。
(今日は一応、遊びじゃなくてお仕事だからな)
颯人は扇子を三分の一程開き、ぱたぱたとその場で煽ぎ始めた。自分に向けてではなく、目の前の空間に向かって。
目の前に在るのは、薄汚れた壁だけだ。狭いビル街の裏路地、その行き止まりには悪臭を放つゴミ箱や、無機質な音を奏で続ける室外機の他には、目ぼしいものは何もない。
しかし、颯人は一点をじっと見つめたまま、扇子をパタパタと動かし続けた。
日陰とは言え、室外機から発する熱気で周囲はうだるような暑さだ。その中にあって、颯人は汗一つ掻いていない。
今日の外気温は四十度近くで、湿度も高い。室外機から出される熱風で、この路地裏ではそれ以上になっている筈なのに。
颯人の栗色の髪をそよがせている風は、どうも周りの空気とは異質なもののようだ。
そして、その扇子で起こす風も。
扇子によって起こされた気流は、くるくるとその場で渦を巻き始めていた。颯人が扇ぐごとにそれは大きくなり、初めは手の平で転がせそうなくらいの大きさだった物が、今ではバスケットボール程の大きさに育っている。
風に色がついていれば、綺麗な渦巻き状の模様がそこに描れているのが見えただろう。
と、ジーンズのポケットに入れていたスマホが鳴った。颯人が片手で通話に切り替えると、ワイヤレスのイヤホン越しに、少し焦ったような声が聞こえてくる。
『颯人、どうだ。そっちは』
「言われたポイントには来たぞ、今、風を作っている」
『あと少しでそっちに追い込める。行ったら頼むぞ』
「ああ」
答えながらも颯人は手を休めない。今回の獲物は大きいらしい、かなり大きな気流の渦を作らないと、吹き飛ばせないだろう。颯人は目の前の空間をぐ、と睨み据えた。
そこには颯人の作りだした渦の他に、もう一つ、異質なものがあった。
普通の人間には見えないだろうが、颯人には見えている。狭い路地の壁と壁の間に生じた、僅かな空気の歪(ひず)み。
そんなに大きくはない。精々、三十㎝四方ほどだが、そこだけが蜃気楼のように揺らいで見えるのだ。
だが、夏とは言えこんなビル街の、しかも日も碌にささない場所で蜃気楼など起こる訳がない。これは空間に生じた歪み、なのだ。
暦や時間、星の角度など様々な要因で起こる歪みは、その向こうに、こことは異なる世界が広がっていると聞く。そこに住まうものはこちらの理が通じない、姿も魂も違う――こちら風に言えば物の怪だとか妖しだとか、そう呼ばれるものなのだと聞いた。
それが本当かどうかは、知らない。向こう側なんて見た事もないし、これを教えてくれた師匠だって行った事はないと言っていた。
ただ、自分がここですべき事は分かっている。
仲間がここに追い込んでくるもの――その、妖しとか呼ばれるものを、この歪みの向こうに吹き飛ばす事だ――自分の起こす、この風を使って。
「しかし、そんな大きいの、こんな狭い所に飛ばせるのかな」颯人は一人、ごちる。
歪みの大きさはあまり関係ないらしいが、今追っているものを放り込むには、少々心許無い感じだ。とは言え、この日付と時間では、ここしか無いらしい。
「ま、なるようになるさ」
そう呟いた時だった。
不意に、周囲の影が濃くなった。
目を上げると、丁度颯人の真上――ビルとビルの間に一塊の雲が掛かっているのが見えた。青空を遮るそれは、明らかにビルの屋上に接している。
幾ら都心に近いとは言え、この両側に立つビルは精々十階ちょっと、雲が降りて来るにはあまりに低すぎる。
では、煙か何かか――否、それは間違いなく雲だった。
『行ったぞ、颯人!』イヤホンの向こうから聞こえてくる声。
「OK」颯人は扇子の先の気流を育てつつ、ゆっくりと後辞さる。
雲はうねうねと形を変えながら、壁を伝って降りてきた。然程早くはない。
両の壁に体を擦らせつつ、じりじりとそれは下っていたが、颯人の存在に気付いたのか、動きが急に早くなった。雲の中心近くから長く伸びた六本の枝の様な蒸気が、まるで足のように両側の壁に引っかけられ、それをせわしなく動かして颯人の方へと急降下を始めたのだ。
六本の足を使って降りてくるその動きはまるで、虫――そう、
「雲の蜘蛛――か? おやじギャグだな」
颯人は後じさりながら、鼻で笑った。しかし、実の所、笑っていられる場合でもない。
仲間たちの集めた情報に寄れば、これは人を飲む雲、なのだ。雲の妖怪――とでも言うべきか、近付いた者を取り込み、覆いつくし、いずこかに消し去ってしまうもの。
「颯人!」
イヤホンと颯人の背後から、同時に同じ声が聞こえてくる。先刻からスマホで話していた仲間が、大通りの方からこの裏路地へと回って来ていたのだ。
「前に聞いていた情報より、でかいな。拓」
自分より少し小柄なその男――拓と言う――に話し掛けると、拓は用心深く近寄って来ながら
「ああ。目撃情報ではせいぜい、大型犬位の大きさだったが、俺達が見つけた時にはこの通りだ」と答えた。
贔屓目に見て、今目の前にある雲は犬どころでは、ない。おそらく羆位はある……増々、あの歪みでは心許無い。
「人を飲む度にでかくなってる、て事か?」
「そうかもな。それにこいつは、人を飲む時には体が倍以上に膨らんでいたと言う、目撃証言もある」
「メタボかな」
「馬鹿言ってる場合か――来るぞ」拓が言い終わる前に、颯人は扇子の中骨を指の腹で滑らせ、扇面を限界まで押し広げた。
開かれた地紙には、勇壮な神の姿が描かれている。鬼のようにも見える、白い大きな袋を抱えた恰幅の良い神――風神だ。
「いい加減、お前の腹も膨れただろ――元の世界に帰れ」
扇を水平に、一閃する。
すると扇の上で舞っていた渦が制御を失った獣の如く、空中へと飛び出し、雲の蜘蛛の腹辺りに飛び込んで行った。渦は螺旋を描いて雲をその身の中に抱き込みつつ、更にその向こう――空間の歪の方へと真っ直ぐに進んでいく。
そして、歪みの近くに達した時、白い渦はぐしゃりと形を曲げた。先端が針のように細く尖り、それが見る見る歪みの中央へと流れて行く。
吸い込まれているのだ――渦ごと、歪のその向こう側へと。
「よし」拓が思わず、声を上げる。
颯人も口元で小さく、笑った。
歪みは貝のように近くにある物を吸ったり、吐いたりする性質がある。この歪みは人間一人を吸い込むほどの吸引力は無いようだが――雲を纏った風位ならば。
その為にこの日、この時間に、こいつをここに追い込んだのだ。
雲の蜘蛛は、見る見るうちにその白い身を細らせ、やがて渦ごと歪みの奥へとすっかり姿を消してしまった。小さな白い蒸気の滓だけが枯葉のように舞い散り、路地裏は、元通り、悪臭と室外機の機械音だけが無味に響く、薄暗い空間に戻った。
歪みはまだ残っているが、先ほどより少し小さくなっている。雲を飲んだためか、それとも、そろそろ消えてしまう頃合なのか。
元々、こういった歪みは不安定で、いつでもここにある訳ではない。
「お仕事終了、だな」
スマホの通話を切りながら、颯人は拓の方を振り返った。
「ああ、これで行方不明事件は無くなるはずだ」
――この三カ月ほど、この付近で人が急に姿を消す事件が多発していた。いなくなった人に家出や自殺の兆候は見当たらず、本当にある日突然に、文字通り「消えて」しまうのだ。
部活帰りの高校生、犬の散歩をしていた老人、一人歩きもおぼつかない幼児等、消えた人物に共通性は見当たらず、消えた時刻も場所もバラバラだ。
ただ、消えた現場に居合わせた数人から、興味深目撃証言が得られた。
行方不明になった人物が消える寸前、「白い、雲のような物」に覆われているのを見た、と。そして、その雲が消えたと同時、覆われていた筈の人もそこからいなくなっていたのだと。
その内の一人が颯人のバイト先である「バッサリ☆あやかし退治☆武将隊」に依頼をしてきたのだ――こんなふざけた名前の会社でも、依頼が来るものなのだなあと、颯人はいつも感心している――そこで働いてる自分も大概だが。
「やっぱり、あれに飲まれたのか」
「或いはどこぞに連れ去られたか――わからんが少なくとも、あの雲の中は空だと思う。俺のチェーンをぶつけた時も、手応えは全然なかった」
拓が腰から垂らしたウォレットチェーンを指で揺らしながら、言う。外国の古い、小さなコインを改造して繋げた、いかにも重たげなチェーンだ。
三連になってるように見えるが、実は一本に繋がっていて伸ばすと一m程になる。
拓はこれを鞭のように使い、妖しを追い詰めたり、捕縛したりするのだ。
「ふうん……まあ、しょうがないか」まあ、そこら辺は然程気にしてはいない。
颯人にとってこれは、自分の特技を生かせる、比較的割の良いバイトに過ぎないのだから。
風を自在に操る事――自分にとっては手足を動かすのと変わらないそれが、他人には難しい事なのだと気づいたのは、いつの頃だったか。
今日のように暑い日に、自分の周りにだけ風を吹かせたり、自転車を漕ぐときの追い風に使ったり――その程度の事だが、これを何かに使えないかと思っていた時に出会ったのがこの、「妖怪退治」の仕事だった。
颯人の使う風は、そういう類の物に一定の効果があるらしい。
そんなものが仕事になるのかと思っていたが、依頼は意外にあるようで、定期的ではないにしろそれなりの小遣い稼ぎには、なっている。
少なくともコンビニで夕方から四~五時間働くよりは、ずっといい稼ぎだ。
「とりあえず、会社に報告に行こう。でないとバイト代も貰えないからな」
「そうだな」拓の言葉にうなずき、颯人も大通りに戻ろうと踵を返した時だった。
「颯人!!」
焦ったような拓の声が聞こえたと思った次の瞬間、目の前が真っ白になった。
(なんだ、これは)
自分の頭を包む白い、もやもやしたものが、先ほど歪みの向こうに追いやった雲の欠片だと認識したのを最後に、颯人の意識はふつり、と途絶えた。
「目が覚めた?」
穏やかな、優しい声が聞こえて来て、颯人はそちらにふり向こうとした。だが、どうにも瞼が重い。瞼だけじゃない、身じろごうとすると、体までがやけにだるく、重い。
思わず唸ると、さらに優しい声が降ってきた。
「大丈夫?」
訳が分からないままに、颯人はどうにか目をこじ開けた。見慣れない天井が目に入ってくる。自分の一人暮らしのアパートの部屋、ではない。
ここはどこだろう、と視線を巡らせると、ベッドの側にいる一人の青年と目が合った。これも知らない人、だ。
でも、やけに綺麗な顔をしている――白くて滑らかそうな頬、桜色の唇。屈んだ拍子に長い、淡い色の髪が、ゆったりした白のニットの胸元でさらりと揺れる。
細身で繊細そうな雰囲気だけれど、男だと言う事はその声で解った。年は多分、自分と変わらない位だろう。
「ここが、どこか分かる?」
心配そうに聞いてくる彼に、颯人は首を振る。その動作すら、やけに辛かった。
「僕の事は?」
その質問にも、颯人は首を振った。すると彼は困ったようなをして
「自分の名前は? 年齢は、分かりますか」と、更に言葉を重ねてくる。
何でそんな事を聞くのだろうと思いつつ、答えようとするが、思うように声が出ない。喉を震わせ、掠れた声でようやく
「……立花颯人、二十二歳」とだけ伝えることが出来た。
「二十二歳?」
目の前の彼が、その綺麗な顏を曇らせる。
「今は何年で何月か――は分かる?」
「……20×△年、八月……」
「……20×△……」
彼は呆然とその数字を呟き、やがて立ち上がると「ちょっと、待っててください」とだけ言いおいて、部屋を出て行ってしまった。
どうしたんだろう、と思いつつ、颯人は改めて周囲を見渡す。
薄青の漆喰の壁にアンティーク調の家具、自分の寝かされているベッドも真鍮の柵の付いた古い、欧風のデザインだ。ベッドの側に立てられた衝立にはステンドグラスが施されているし、壁の間接照明は丸い擦りガラスに包まれていて――何というか、百年くらい前にタイムスリップしたような感じの部屋だ。
しかも、そのどれもが「それっぽく」作られた物ではなく、かなりの年月を経て出たのであろう風合いを醸し出している。
汚れていたり、壊れているような様子はないから手入れはされているのだろうが――しかし、その、どれにも見覚えはなかった。
それに、なんだか頭がフラフラする。確か自分は、雲の妖怪を追っていたのではなかったか。
暫くすると、先ほどの彼がもう一人、男を連れて戻ってきた。髪を短く刈り込んだ、少し小柄な男。その、特徴のあるきつめの眦には、見覚えがあった。
「……拓」
「颯人、目が覚めたか」
拓は足早に颯人の寝ているベッドにまで近付いてくると、先ほどの彼を指差し
「こいつの事、本当に覚えてないのか」と聞いてきた。
「ああ……」
「……」
拓は口をへの字に曲げ、むう、とか唸っていたが、やがて口を開き、
「お前は昨夜、火の妖しを追っていて、怪我をしたんだ。だから俺が、千弓希の所にまで連れてきた」
「ちゆき……?」この人は、千弓希と言う名前なのか。
聞き覚えの無い名前だ――颯人は改めて彼の方を見た。
彼は困ったような表情で、こちらを見ている。物憂げな顔もなんだか綺麗だったが、やはり、覚えていない。
「わからない、おぼえてない」と言うと、拓は眉間に皺を寄せ、更に深く唸った。
どうしたのだろう、と思う。
拓は、思った事はズバズバと言うタイプだ。大学のゼミが一緒で知り合ったのだが、初対面の時から話が合い、今では互いに遠慮のない間柄だ。その男が、どうにも言葉に詰まっている風なのが珍しい。
(もしかして)自分はこの千弓希と言う人に、知らぬ間に何かやらかしたのだろうか。
颯人は喧嘩や揉め事が好きな訳ではないが、自由を好む性格と言動で逆恨みされる事がまま、ある。
顔の作りがそこそこ良くて、女子受けするのも理由の一つかも知れないが――。
(俺、最近は大人しくしてたよな?)
流石に少し不安になって拓の顔を覗きこむ。それに気付いた拓は一つ、ため息を付いてから、ようやく重たそうに口を開いた。
「千弓希は水を自由に使える――まあ、俺達の仕事仲間だ。ただ、動かして何かを攻撃するより、傷や病気の治療が得意なんで、主にそっち専門。後、歪みの出現場所を計算したりしてくれてる」
「はあ……」
「で、ここからが問題なんだ、が」
拓はそこで言葉を切って、後ろに立っていた彼――千弓希、の方を振り返った。それに気付いた千弓希が、拓に小さく頷き返す。
(何だ……?)
二人の様子に、ますます不安を煽られる。その問題が何かは知らないが、謝って済む程度でありますように、と祈る颯人に、拓は重病を宣告する医者の様な口調で、こう言った。
「俺たちの知る立花颯人は、二十三歳。千弓希とお前はもう、一年以上も前に知り合っている」
「は?」
なんだ、それ。
呆気に取られる颯人に、拓は上着のポケットからスマホを取出し、待ち受け画面を見せて来た。そこに映し出された日付は二〇××年十二月――自分の知る現在の西暦より、一年以上先の日付を示していた。
「え……? 二〇××……え?」
思わず部屋の中を見渡せば、壁に掛けられたカレンダーが目に入る。可愛い野鳥の写真の下に印刷された西暦も、スマホと同じ年数を示している。
そう言えば拓の髪も、記憶にあるより少し、長い。だけど、だからと言ってそんな事、信じられるわけがない。
「冗談だろ……」
「俺もそう言いたい所なんだが……これは、怪我したせいかな? 千弓希」
拓が問うと、千弓希は戸惑いつつ
「怪我をしたストレスで記憶を失う事もあるみたいだけど、こんなに大きく記憶が欠落するのは……。それに今回の件では、頭に怪我もしてないし……物の怪の妖気に当てられたのかも知れない」
「戻るのか」
「わからない。逆に、颯人……さんが強い魂を持っていたから、この程度で済んだのかも知れない」
「そう、か」
拓が黙り込む。千弓希も、ひどく沈痛な面持ちだ。
颯人は堪らず、出来る限界まで頭を起こして
「俺に、何があったんだ」と掠れた声で二人に問いかけた。その途端、手足が激しく痛み、思わず呻き声を上げる。
「急に動いちゃダメです、横になってて下さい」
千弓希が慌てて駆け寄り、ふらつく頭を支えてくれる。彼の手を借りて、ゆっくりと体をベッドに戻すと、思った以上の疲労が全身にのし掛かってきた。それに手と足の先が、じんじんと痛む。
(本当にどうなってしまったんだ、俺は)
颯人の呼吸が整った頃を見計らい、拓は千弓希に目配せをして、枕辺に近寄って来た。椅子に腰かけ、いつもより少し低い声で話し始める。
「俺達は昨日まで、一緒に炎を操る妖しを追っていた。人の体から突然、炎が起こって怪我したり、最悪死んでしまったりする事件が続発してな……うちに依頼が来たんだ」
調べていくと、事件の起こった現場付近で、小さな球状の炎が宙を飛んでいたと言う目撃証言が複数、あった。
いわゆる「人魂」――「鬼火」や「ウィル・オ・ウィスプ」とも呼ばれる、小さな妖しだと見当をつけた颯人たちは、まずそれを調べ始めた。
そして、それを見つけ歪みに追い立てようとしたのだが、その妖しから吐き出された炎に颯人が巻かれてしまったのだと言う。
「とりあえず、その場は俺達で何とかした。お前も多分、風を調節して自分の体を守った筈だが、それでもこの有様だ。しかも、このやけどは普通の治療ではなかなか治らない。妖しの出す炎だからな。それで、ここに運んできたんだ」
「……」
正直、話を聞いていても全く、何にも思い出せない。
だが確かに自分は今、身に覚えのない怪我をしている。目だけ動かして、腕の方を見てみれば指先にまで包帯が巻かれているようだ。ほんの少し動かしただけで、包帯の下にじんとした傷みが走る。それに、全身がひどく怠い。
「治るのに、どれ位かかるんだ」颯人が問うと、
「おそらく二週間近く、かかりますが……跡は殆ど残らなくなりますよ」と千弓希が答えた。
「二週間!?」
思わず声がひっくり返った颯人に、拓が取り成すように声を掛けてくる。
「言っとくが普通の医者なら、それ所じゃないと思うぞ。お前の実家にも隊長がもう、連絡を付けてくれている。給料も怪我させた分、上乗せするってさ」
隊長、と言うのは武将隊のまとめ役で、「バッサリ☆あやかし退治☆武将隊」と言う小さな会社の社長でもある。修験道を究めた強面かつ、屈強な体の持ち主で、小さな妖怪だったら気合い一発で吹き飛ばせるような、おっかないおじさんだ。
颯人に、より有効な風の使い方を教えてくれた、師匠のような存在でもある。
「……ここにいても、記憶が戻らないようなら普通の医者にも見せた方が良いんだろうが、今は下手に動かせそうにないしな。取りあえず、俺は隊長に報告してくる」
そう言うと拓はスマホをいじりながら、部屋を出て行った。ドアの向こうから漏れ聞こえる声から察するに、早速隊長に連絡してくれているらしい。
颯人は再び、彼と二人きりになった。
「えっと……千弓希さん、だっけ」
「はい」
「その、本当に……今は二〇××年、なのか」
「颯人さんが、今、覚えているのはどんな事ですか」
「俺は多分、雲の妖怪を追ってた筈なんだけど」
「“雲の蜘蛛”の事でしょうか。それを追っていたのは、去年の夏ですね。一応、あれは終わった件として処理されてます」
颯人の記憶は、その件の途中で途切れている。歪みの向こうに雲を追い遣った後、何か白い物に目の前を覆われたのだ――そう説明すると、千弓希は頷き
「あの時、颯人さんは雲の欠片に精気を吸われて昏倒したんです。ごく小さなものだったので、大したことはありませんでしたが」
「あれはやっぱり、雲だったのか」
そう言えば、「さっき」までは夏だったのに、この部屋の中にはストーブが置いてあるし、目の前の彼もオフホワイトのニットを着ている。頬に当たる空気も、夏に感じるそれではない。
ベッドの近くにある窓の向こうを見れば、真っ赤な椿が花開いていた。あれは確か、冬に咲く花だ。
「確かあの時が、颯人さんがこの家に来た最初の日だったと思います。拓が連れて来てくれたんですよ」
「そうなのか……」
そう言われても全く、思い出せない。拓も、目の前のこの大人しそうな彼もこんな、手の込んだ嘘をつくようには見えないが――。
「俺の事、どれくらい知ってる?」
「え、そう、ですね……」
千弓希は少し首を傾げ、暫く考えてから、
「誕生日は八月九日で、血液型はO型。好きなものはハンバーグ、嫌いなものは栗。ご家族は両親と年の離れた妹さんが一人……て所ですかね」
「当たってる。けど、会社に出した書類にも同じ事、書いた気がする」
「確かに、会社に入る時にそう言うのも書いて提出してもらってますね。でも、個人情報なので僕は見せてもらった事ないですよ」
「部屋のどこかにカメラとか、ない? 何かのTVの企画とか」
「ないです。ついでに、エイプリルフールでもないですからね」
しわがれた声で色々探ろうとする颯人を宥めるように、千弓希が笑い掛けて来る。
「それより、トイレとか食事とか、どうですか? 二日近く寝ていたから、そろそろどちらかが切羽詰まってるんじゃないかと」
そう言われると、急に腹が空いてきた。千弓希にそう伝えると
「起き上がれそうですか」と聞いてくる。
「……ちょっと、つらいかな」
「じゃあ、持ってきます。そろそろ起きる頃かと思って、用意しておいたんです」
千弓希はそう言って立ち上がると、ドアの方に向かって歩き出した。ドアを開け、部屋を出かけた所で、ふと颯人の方を振り返る。
「……あなたにとって本当に必要なものなら、記憶もきっと、戻りますよ」
そう言った彼の表情は何故か、少し、寂しそうだった。
―――『さ、これで大丈夫。たんこぶも数日でなくなりますよ』
『たんこぶなんて久しぶりに出来たな。まるで子供だ』
『怪我が大した事なくてよかったです。でも、後から具合が悪くなったら、すぐにお医者様に行くか、僕に連絡してきてくださいね』
そう言って俺の顔を覗き込んできた彼の瞳が、青味がかった淡い栗色で、俺は思わず見惚れてしまった。
『君の名前は?』
『真田千弓希です』
ひどく耳に心地良い、優しい声で彼はそう、名乗った。―――
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