第16話 おはようなのよ
スカーレットはベッドの上で身じろいだ。
右側には柔らかな壁が待っていた。左側に寝返りを打とうとすれば、今度は固い壁に当たった。
(あ~もう狭い)
一度浮上した意識を自覚すれば、どんどん鮮明になっていく。重い瞼をあげると、目の前にはアシュレイの顔があった。
「うぎゃああああああああぁぁぁ!!」
スカーレットは女性らしからぬ叫び声をあげた。耳元で叫ばれたにも関わらず、元凶の爽やかな笑顔は崩れない。
「にゃにぃ~、てきしゅー?」
スカーレットの右から舌ったらずの声が聞こえた。
むくりと起き上がったミーシャは左右を見回し、何ら変わらない部屋を確認すると、布団にダイブする。薄いマットレスがドスっと音を立てた。
(そうだったわ)
ここは安宿の一室。
早朝の宿屋は手狭な一人部屋しか空いておらず、三人は詰め込まれることを余儀なくされた。シングルベッドに川の字になる暴挙にでたのが、今朝眠りに落ちる前の最後の記憶だ。
一応は淑女であるスカーレットが、例えそういう意図がないとしても、男とベッドを共にするなど死活問題だ。
アシュレイも床で一晩を過ごすつもりだったようだが、床で寝るのは可哀想とミーシャに説得され、結局は三人密着する夜を迎える羽目になったのだが――
「おはよう。もう少し寝るかい?」
ベッドの柵と化したアシュレイは、スカーレットの髪をひと房つまんで言った。
しかし、嫌でも目が冴えてしまったスカーレットは、毛先をいじる指から逃れるように上体を起こす。
呑気に寝ていた間もこんな風に、好き勝手されていたら――と思うと、全身がぞわぞわと鳥肌を立てる。スカーレットは腕をさすった。
(ミーシャのバカ!!)
心の中で恨み言を叫んだが、当の本人は呑気に夢の中だ。わけのわからない寝言を言っている。
「起きます」
「そう? じゃあ朝食の準備をしないと……あっ」
アシュレイは間の抜けた声をあげた。いつも冷静な彼にしては珍しい。
深刻な表情を浮かべたアシュレイに、スカーレットは息を呑んだ。
(まさかついに正体を現した?)
スカーレットには手を出せないと言っていたが、今はミーシャという人質がいる。スカーレットを脅して契約書を燃やしたら、アシュレイは自由の身になり――二人をペロリと食べるだろう。
血も涙もない
昨晩、積まれた棺桶とミイラ化して死んだ男たちを思い出し、明日は我が身と顔面蒼白のスカーレットに、アシュレイは言い放った。
「食材がない」
「は?」
身構えていたスカーレットは、思わず聞き返した。
「今日はオムレツに挑戦しようと思ったんだけどな。ふわふわとろとろが好きって言ってただろ」
「確かにオムレツはふわふわとろとろが好きだけれど……その話したっけ?」
些細な問題とでも言うように、スカーレットの疑問を聞き流したアシュレイは、困ったように顎に手を添えた。
「昨日買い出しに行けばよかったな」
「……ちょっと理解が追いつかないんだけど」
深刻な面持ちに似つかわしくない内容だ。気が抜けたスカーレットは、眉根を寄せる。
「アシュレイの朝食の話じゃなくて、私とミーシャの朝食の話……なのよね?」
「俺たち三人の食事の話だけど」
アシュレイは革の袋を持ち上げる。金貨が音を立てた。二人で共有している財布だ。
「買い出し行ってくる」
「ちょっと待ちなさいよ。私も行くわ」
「俺ひとりでも問題ないけど……」
「あんたが人間に危害を加えないか監視しなきゃいけないでしょ!」
アシュレイは困惑した目を向けた。スカーレットの後ろで眠りこけているミーシャに。
二人がギャーギャー騒ぎ立てている間も、彼女が起きる気配はなかった。さっき一度起き上がったのは、何だったのか。
「いいのかい?」
彼女に黙って外出していいのか、と暗にアシュレイは問うているのだろう。
「書置きでも残しておけば大丈夫よ」
そう言って、スカーレットは身支度を始めた。
太陽は頭上高くにあった。時刻は正午を指した頃だろう。
道具屋からの帰り道、スカーレットの腹の虫は盛大に鳴き声をあげた。
「スカーレットのお腹は素直だな」
「うるさいっ、うるさいっ」
スカーレットは顔を赤くさせた。その表情すらも愛おしいと、アシュレイは頬を緩ませる。
「なによその顔むかつく」
「そこそこ整った容姿だとは思うんだけど」
「自分で言うな」
するどい突っ込みを受けたアシュレイは、紙袋を抱え直した。
初挑戦のふわとろオムレツには、カリカリのベーコンと簡易なサラダを添えて、トーストもつける。スープはオニオンスープだ。
豪華なブランチにしよう、と最近ハマっている料理の献立に思いを馳せる。
「焦らなくてもご飯は逃げないから。腕によりをかけるよ」
「お腹空いてイライラしてるだけと思ってるでしょ。そうじゃないから、ね!」
スカーレットは否定するが、三分の一は空腹から来る苛立ちだろう。残りの三分の二はの掴みどころのないアシュレイに翻弄されて――何が何だかわからないけどむかつく――といったところか。
そんな些細なことでスカーレットが腹を立てられるほど、平和な一日になるはずだった。
「お前には関係ないだろ!!」
「あなた!」
その平和は男の怒号と女の悲鳴によって終わりを告げる。
スカーレットは条件反射で剣を掴む。アシュレイも視線を這わせた。
「お願いだから、行かないでください!」
宿屋の前にある民家の軒先で、夫婦といった風体の男女が言い合いになっている。
男女のいさかい、痴情のもつれといったところか。腕に縋りついた女は、必死に引き留めている。
だが、痴話喧嘩にしては緊迫した様子だ。物々しい雰囲気に、次第に野次馬が集まる。宿の入口から女将とミーシャも出てくるほど、近所ではちょっとした騒ぎになっていた。
「体に障ります。私、あなたのためなら何でもします。もっと働いて薬も手に入れてきますから――」
「うるせえ!!」
叫び声をあげた男は、女の細腕を振り払う。よろけた女は地面に倒れた。
駆け寄ったスカーレットには目もくれず、男は目を血走らせる。否、血走らせるなんてものではない。男の瞳孔は充血で真っ赤に染まっていた。
スカーレットは息を詰まらせる。まるで
「俺はニューカムに行くんだ」
先ほどの興奮状態が嘘のように、一瞬で表情が欠落した。
「ニューカムに行けば、もっともっと手に入る。痛みがなくなるんだ……」
抑揚のない声で「ニューカムに行かないと」と、うわごとのように唱えている。彼は何かに操られるかのように、よろよろとした足取りで町の出口へと歩き始めた。
その近寄りがたい男の様子に、誰も止める者はいない。
誰もが目の前の出来事に呆然としていた。スカーレットやミーシャも含めてだ。
意識を失った女は、スカーレットの腕の中で寝息を立てていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます