第4話 逃げなさいよ

 薬草を取りに森へやってきた薬師見習いが、ゴブリンに襲われた。

 ――依頼のきっかけはありふれた事案だ。


 依頼書のマップに目を通していたスカーレットは、暗い森を歩いていた。

 木の葉が頭上をびっしりと覆い、前後左右どこも日陰になっている森は肌寒い。時折漏れる日の光が、足元を照らす唯一の頼りだった。

 スカーレットも仕事でなければ、こんな場所好んで近づかない。

 

(……こんな薄気味悪い森に来るなんて、相当深刻なのね)


 勇者ですら厭う森に薬師見習いが立ち入った経緯は、カードの詳細欄に記載されている。


 背景にはシェルジンの深刻な薬草不足があった。町の付近では薬草が生えず、遠方に足を運ばなければ薬の流通も厳しい。

 奉公先にノルマを提示されていた薬師見習いは、薬草を探して森の奥地に足を踏み入れたようだ。そして探索の最中に、背後から鋭利な刃物で切り付けられた。


 慌てて逃げだしたため、犯人を視認できなかったそうだ。付近に小さなゴブリンの集落があることやその習性から、近づいた人間を襲ったゴブリンと推察されている。

 緊急性を加味して、ランクは低いが報酬はおいしく設定された任務に、スカーレットは前のめりだった。


(ちょうど薬草の採取もしたかったし)


 ポーチ以外全ての荷物を置いてきたスカーレットの手元には、回復薬ポーションのひとつもない。

 しかし、宿に戻るわけにもいかなかった。敵に塩を送るというよりは――大口を叩いておいて、のこのこと取りに帰るのは恥ずかしい――というのが本音だ。


「ふあぁ」


 あくびが漏れた。一睡もできなかったスカーレットに、今更眠気が襲ってきたのだ。

 仕事を終えたら、その足で次の町へ向かい、宿で一眠りしよう。違う町のギルドでも報告はできる。


 草をかきわけ歩みを進めると、開けた部分が見えた。その空間にのみ、太陽光が降り注いでいる。地面に広がるのは、白、黄、水色の花が咲き乱れる花園だった。

 思わず見惚れてしまうような、幻想的な光景。その中には、薬に疎いスカーレットでも知っているメジャーな薬草が散見される。


「――いた」


 花畑にしゃがみこんだ小さな影――ゴブリンが三匹。

 スカーレットでも、なんなく倒せる数だ。


 剣の柄を握ったスカーレットは、茂みを飛び出す。勇者を視認したゴブリンはキャキャと鳴き声をあげ、肩を寄せ合い震えだした。


(怯えてる……?)


 スカーレットは疑問を感じたが、討伐対象を放置するわけにはいかない。人間を襲った魔族なら尚更のこと。

 『勇者』の仕事は『魔族』を討伐して、『人間』を守ることだ。


 右手を前に引き出し剣を抜こうとするスカーレットに、ゴブリンの一匹が何かを差し出した。

 瑞々しい純白の花――ディアナと呼ばれる、万能薬に使える薬草だ。それも一等質がよく、腕がいい薬師が調合すれば、即死級のダメージも回復可能な薬が作れる。


「くれるの?」


 ゴブリンたちは何度も頷いた。見逃してほしいと訴えているようだった。

 背後から人間を襲うような小賢しいゴブリンが、これほどの恐怖心を抱くだろうか。


 スカーレットの疑問に答えてくれる人はいない。

 どちらにせよゴブリンを見逃して、被害が広まるのはマズイ。

 スカーレットは剣を握る力を強めた。そのまま刀身を抜きだす。


(私は勇者で、魔族は敵なんだから)


 スカーレットは心を鬼に――できなかった。

 カチンと剣が鞘に納まる。


 敵意のない魔族に刃を向けられるほど、スカーレットの精神は強くない。まだ齢十六の少女だ。


 花と剣、どちらを手に取るか。答えの見つからない数十秒が過ぎた。


 ぽとり。

 足元に花を落ちた。


 ゴブリンの視線はスカーレットを向いている。正確にはスカーレットの頭上。


 グルルルルゥゥゥ


 獣が喉を鳴らす音に、スカーレットは振り向いた。

 目の前に広がるのは黒の塊。三メートルほどの体躯だ。猫のような魔獣は、上空に向けて腕を振りかざしていた。鋭い爪が太陽光に反射し、スカーレットは眩しさに目を細める。


(――まさか、人を襲っていたのはこっち?)


 問いに答えるように、爪が一閃を描く。斜めに伸びる一撃。


 軽やかに身を翻し、スカーレットは難なく避ける。

 ゴブリンたちは助けを求め、甲高い鳴き声をあげた。


 スカーレットの脳内で点と点が繋がった。

 薬師見習いを襲ったのは、目の前に立ちはだかる魔獣だ。『鋭利な刃物のような凶器』は爪だ。


「よりによって猫、ね」


 スカーレットは巨体の左に回り込み、鞘から剣身を滑らせる。そして助走の勢いを殺すことなく、獣の脇腹に切先を突き立てた。


 ウリイイイイィィィ


 耳鳴りのような鳴き声にスカーレットは顔をゆがめる。胴体から剣を引き抜くと、間合いをとりなおした。

 重みのない剣術では、この獣を倒せない。


 スカーレットは即座に判断した。そして迷うことなく魔法の詠唱を始める。

 詠唱といっても、精霊に語り掛けることだ。魔法とはありとあらゆる事象を司る精霊に語り掛け、彼らの力を借りること。スカーレットが契約を結んでいる精霊は『炎』だ。


 獣の足が花を潰す。

 見るも無残になった白の花が視界に留まると、スカーレットは精霊への語り掛けを止めた。集まった精霊たちが四方に散り散りになっていくのがわかる。


(うっかりじゃ済まないわよ)


 スカーレットは魔法の才能センスがすこぶる低い。致命的に細かい操作が苦手なのだ。

 例えば、剣に炎を纏わせるといった扱いができない。この場で炎魔法を使おうものなら、目の前の花畑は業火の海になるだろう。


「あーもう、結局は物理攻撃するしかないじゃない!」


 スカーレットの叫びに応えるように、魔獣は大きく跳躍する。スカーレットは咄嗟に剣を構えたが、魔獣は体を捻らせた。鋭い眼光の先はゴブリンたちだ。

 逃げ遅れたゴブリンが、足をもつれさせる。花畑に転がる小さな体を、別の二匹が泣きそうな顔で見ていた。


 考えるよりも先に、スカーレットの体が動く。


「……っがぁ」


 スカーレットの背中を、鋭い爪が襲った。燃えるような痛みが背中一杯に広がる。

 致命傷だ。あと一手。猫に蹴り飛ばれるだけで、スカーレットは棺桶の中に閉じ込められるだろう。


(だから、『仲間』が欲しかったのよ。私の棺桶を教会まで引きずってくれる『仲間』が)


 視界が眩むスカーレットの前に、小さな背中が三つ立ちはだかった。


「ばか……、逃げなさいよ」


 三匹はスカーレットを守るように立っていた。細い足が震えている。

 人間に恐怖するゴブリンたちが、何倍も体格差がある魔獣に対抗できるとは思えない。


 猫の牙が襲い掛かる。最後の力を振り絞ったスカーレットは腕を持ち上げた。もし、間合いに入ったとしても、あの巨体を押し返す力は残っていないだろう。


「助けて……」


 ――誰でもいい。あの子たちを助けて。


 か細い声に応えたのは、一陣の蒼い風だった。魔獣が一瞬で霧散する。圧倒的な魔力量が花畑に満ちると同時に、スカーレットの体を柔らかな風が包み込んだ。


「間に合ってよかった」


 消えそうな意識の中で、聞き覚えのある声が響いた。

 邪悪で重々しいはずの魔力は、壊れ物を扱うようにスカーレットの体を運ぶ。スカーレットは力を抜いて、身を任せた。


「もう魔物は倒したから、安心して眠っていいよ」


 力強い腕が、スカーレットを抱き留める。促されるままに、スカーレットは眠りに落ちていった。

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