第5話 お別れをいわなきゃいけないのよ
スカーレットは切り株の上で膝を抱えていた。
日付が変わると彼女は、十三歳の誕生日を迎える。明くる朝、スカーレットは王都にある士官学校に通うことが決まっていた。
全寮制のため家族にすら会えなくなるが、彼女にとっては家族以上に別れの恋しい相手がいる。
今日は彼にお別れを言わなくてはならない。それが何よりも悲しくて、寂しかった。
にゃあ
撫でるような声が、スカーレットに挨拶を告げた。顔をあげると、やわらかい毛並みが膝を撫でる。
光の角度で銀に輝く白の毛と、さわやかなブルーの瞳。これがスカーレットの待ち人――待ち猫だった。
「こんにちは、猫さん」
猫は小さく喉を鳴らす。
価値のなくなった家名とはいえ、侯爵家の令嬢たる彼女が弱音を吐くことは許されない。
これは誰かに命じられたことではない――スカーレットが自身が架した――貴族としての最後の誇りであり名誉だった。
そんなスカーレットが、彼だけには弱さをさらけ出すことができる。
父と母に告げられない悲しみも、理不尽な王政への悔しさも、人間ではない唯一の友人にだけは打ち明けることができた。
猫もスカーレットを見守っているかのように、彼女が会いたいと願うと必ず姿を見せる。
小さな体でスカーレットを励まし、涙が枯れるまで寄り添う。少女としてのスカーレットが抱える痛みを、唯一受け止めてくれる存在だった。
何度も助けてくれた彼に、スカーレットは別れを告げなければならない。それがただ一つの心残りだった――
「猫さんには何度かお話したよね。私の家が貴族だったこと」
百年も昔の話だ。
王都ミレアから数キロ離れた町――キシャトは物流の中継地として、商人や旅人で栄えていた。
けして大きくはない町だが、人の温かみを感じるキシャトを領地として治めていたのが、ファルミニア家。スカーレットの生家だ。領民から慕われる手本のような貴族だった。
やがて、勇者の死をきっかけに混沌の時代が始まると、王の圧政が始まった。
魔王や魔族の侵攻を防ぐために、次々と法律は変わっていく。税は跳ね上がり、各領地を治める貴族たちは、領地の民から搾取を行った。
しかし、ファルミニア家は例外だった。
『慎ましくも気高く』を家訓とする厳格な精神で、民衆から余分な税を取りたてなかったのである。
家財や家を売り、王に献上する日々。だが、全ての財と名声を失うと、爵位すらも失った。屋敷を追い出されたスカーレットの曾祖父母は、村はずれに移り住んだ。
以来、ファルミニア家は雨漏りと隙間風に晒される掘っ立て小屋で生活している。築百年を越え、いつ崩れてもおかしくないおんぼろの生家だが、スカーレットは貧しい生活に不満を感じてはいなかった。むしろ、曾祖父母の判断を尊敬している。
時代が移ろっても、キシャトの民はファルミニア家に恩義を感じ、優しく接してくれた。野菜や果物、着るものなど、苦しい暮らしの中で助け合って生きてきた。
スカーレットは誰よりも懸命に働き、その恩義に報いてきた。春は畑を耕し、夏は山菜採りを手伝い、秋は宿屋の布団敷きに奔走し、冬は繕い物に勤しむ。
だが、そんな町娘のような生活は続かなかった。
「農家のおばさんも商家のおじさんも、このままではみんな死んでしまうわ」
白く細い腕は日に日に骨が浮いていく。スカーレットだけではない。キシャトの町民は皆がやせ細り、町の活気は次第に失われていった。
王が貿易に回す品の取り立てを始めたからだ。キシャトを訪れる行商が激減し、経済を回すことができなくなっていた。
「キシャトの民は手を取りながら、頑張って生きてきた。でも、もう限界よ」
ファルミニア家も、キシャトの民も、理不尽な苦しみを受けている。
――魔王が生きている――
たった一人の魔族の存在により、理不尽な責め苦を受けている。
――もし、前の勇者が死なずに、魔王を討ち果たしていれば――
机上の空論でしかないが、キシャトの人々が平和に温かな生活ができる未来が、スカーレットには見えていた。
「今日はね。あなたにお別れをいわなくちゃいけないの」
猫は小首を傾げた。その仕草にスカーレットの気持ちは揺らぐ。
全てを投げ出して、この温かな存在と逃げ出したい――そんな夢に蓋をした。
「私は士官学校に入学することにしたわ。勇者の適正があるんですって」
勇者は百年に一人しか現れない適正だそうだ。
魔王を討伐できる、可能性を秘めている。
王はスカーレットを士官学校に入学させることを条件に、交易制限を解くことを約束した。それだけで、キシャトの暮らしは楽になるだろう。
加えて、ファルミニア家の復興も提示してきた。スカーレットが正式に勇者に選定され、魔王を倒すことが条件になるが、復興だけでなく
魔王がいなくなれば、国の税も引き下がる。
スカーレットが魔王を倒せば、家族とキシャトの民だけでなく、全国民を救うことができる。
「私は売られるわけじゃない。自分の意志で行くの」
これが正解なのだ。
首を撫でると、猫はくすぐったそうにアイスブルーの瞳を細めた。
「次に会った時、私はあなたの敵になってしまうわ」
彼は魔族だ。スカーレットの勇者適正による感知スキルが告げている。
初めて会った時から正体に気づいていたが、寄りそう猫に恐怖を抱いたことはなかった。
誰よりもスカーレットの味方でいてくれた猫の姿をした親友に、時計の針が十二を示すと同時に剣を突き立てなければならない。そんな宿命を恨みさえした。
「もう私に会いに来てはダメよ」
心からの感謝と決意を込めた別れを告げ、スカーレットは踵を返した。
「今までありがとう」
猫はスカーレットの背中を追いかけてくる。
にじんだ涙を拭って、スカーレットは走った。猫の鳴き声が聞こえなくなるまで、足を動かし続けた。
やがて、その声が聞こえなくなると、スカーレットの膝が崩れ落ちる。彼女は森の中で声が枯れるほど泣いた。
人間と親友を秤にかけて、スカーレットは人間を選んだのだ。
――どうしてスカーレットが選ばれてしまったのか。
その正否を教えてくれるのは、無情にもスカーレットを『勇者』に選んだ神だけだった。
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