第2話 嘘つくんじゃないわよ

 銀色の長いまつ毛を見つめて、すでに六時間。


「……一睡もできなかった」


 ブランケットを頭から被ったスカーレットは、目の下にできたクマを必死にこすった。天敵の隣でのうのうと寝れるほど、彼女の神経は図太くない。


 もし寝落ちようものなら、今日の朝食は――想像したスカーレットは青ざめた。


 アシュレイは規則正しい寝息を立てて、隣のベッドでのうのうと眠っている。

 油断させようとしているのか、慢心しているのか。どちらにせよ、スカーレットの不安など気にも留めない寝顔だ。


(もし本当に、ほんと~に寝てるなら)


 スカーレットは軋むベッドをそっと降りる。アシュレイを起こさないように足音を忍ばせて、剣を両手で握った。

 例え魔族の王子だとしても、心臓を一突きするか、首を落とせば絶命するだろう。


(食われる前に殺すしかない)


 息を深く吸い込むと、覚悟を決めた。

 この世は弱肉強食。魔族に情けをかけてはいけない。これは正当防衛だ。


 ベッドサイドに立ちアシュレイを見下ろす。彼はスカーレットの選んだ夜着を着ている。

 初めて受け取った討伐報酬を全て投じ買ったそれは、決して肌ざわりがいいとは言えない品だったが、彼は泣きそうな顔をして喜んだ。


 何度もお礼を言うアシュレイを思い出して、スカーレットは俯く。

 ひと思いに剣を突き立てるには、彼に情が移り過ぎた。




 窓から差し込んだ朝日が、アシュレイの顔を染める。

 身じろいだ彼はゆっくりと瞼をあげた。


「……おはよう」


 柔らかい笑みを見ていると、人間を食らう魔族には見えない。

 アシュレイの親指がスカーレットの目元を拭う。


「眠れなかったのか?」


 反応が遅れたスカーレットは、その手を払う。乾いた音が部屋に響いた。アシュレイは手をさすると、寂しそうな笑みをスカーレットに向ける。


 どうしてそんな顔するの――?

 その問いを口に出すことはできなかった。


「紅茶淹れるよ。朝食にしよう」


 立ち上がったアシュレイは、キッチンへと足を進める。その背を呆然と眺めながら、スカーレットは冷や汗を流した。


(怒らせちゃった……)


 包丁凶器を取り出すつもりだろうか。いつでも動けるように、スカーレットは臨戦態勢に入る。


 対照的に優雅な所作のアシュレイは、ティーセットをトレーにのせ、テーブルに帰ってきた。紅茶の香りは毎日飲んでいるものと同じ。

 注がれる琥珀色を眺めながら、息を呑んだ。


 ――毒を混ぜたのか。そんな様子は見えなかったが。


 アシュレイは調理に魔法を使うため、宿から包丁を拝借してはいない。ましてや凶器や毒を使わずとも、彼が指一本でスカーレットを殺せることは、昨夜の動きから明白だった。

 冷静に考えれば、すぐに思いつく。しかし、スカーレットは致命的に冷静さを失っていた。


 手早く並べられた朝食は、バターの優しい味がするスコーン。スカーレットの好みにあわせて用意された味と知っているのに、手を伸ばす気にはなれない。

 昨日の朝と何ら変わらない言動に、アシュレイの思考が読めなかった。


「やっぱり俺が怖い?」


 目を伏せたアシュレイの問いに、否定はできなかった。


 魔族は人間を襲い食らう。子供の頃に読んでもらった絵本でも、士官学校の座学でも教わった。幼子から老人まで、人間なら誰しもが知っている常識だ。


「俺はスカーレットの奴隷だよ」

「奴隷?」

「君が俺を買った瞬間から、俺は君の奴隷だ。契約しただろう」


 子供に説明するような優しい声音で、アシュレイはスカーレットのポーチを指さす。


「俺を買った時に、サインした契約書があるだろう」


 奴隷市で彼を買った時、サインをした羊皮紙のことだ。片時も手放してはならないと、奴隷商に強く言われて、だいじなものを入れるポケットにしまっている。

 スカーレットは奴隷が欲しくて彼を買ったわけではない。契約内容はほとんど右から左に聞いていて、今の今までポケットに入れっぱなしにしていたことすら忘れていた。


「あれは、俺が君に危害を加えない服従の契約だ」


 小さく折りたたんだ紙を広げると、細かい字で詳細がびっしりと綴られている。簡潔に説明すると――主人に傷ひとつでもつければ、全身が燃え上がり、死よりも苦しい地獄が待っている――と、四行に渡ってクドクドと書かれていた。

 つまり契約書がある限り、アシュレイはスカーレットに爪一つ立てることは許されない。


 魔族や人間を奴隷にして、主人優位の契約をさせる。

 劣悪な奴隷制に内心嫌気がさしたが、悪意の有無はともかくとして、スカーレットも片棒を担いでいる。


「俺はどんな危険からも君を守る。その契約を覆すことは、魔王の魔力でもできない。契約を解除する方法は俺が死ぬか、契約書を燃やすしかない」

「だから、信用しろって……? 私は勇者なのよ。魔王の息子と旅するなんて前代未聞よ」

「魔族とか人間とか、そんな些細なことどうでもいいだろ」


 些細なこと? スカーレットは耳を疑う。

 勇者は魔王を倒す仕事だ。それ以上でも、それ以下でもない。アシュレイから見れば、スカーレットは一族を根絶やしにしようとしている危険分子だ。


「俺は君が好きなんだから」


 アシュレイが続けた言葉は、更にスカーレットを困惑させた。口をあんぐりとあけたスカーレットが硬直したのを確認すると、アシュレイは愛玩動物ペットを愛でるように、赤みがかった髪を撫でた。

 油断させようにも、酷いジョークだ。魔王の息子発言よりも酷い。


「いい加減にしなさいよ」


 自分でもわけのわからない怒りが噴きあがった。スカーレットは衝動のまま、勢いよく立ち上がる。

 椅子が九十度回転して、けたたましい音を立てたが、気にしている余裕はない。

 思わず手を引っ込めたアシュレイに、突き出した人差し指を向け、苛立ちを露にする。


「わたしが勇者になったばかりだからって、騙すようなこと言って最低!!」

「俺は本心から君が――」


 魔族の戯言など、聞いていられない。

 剣を腰に差して、扉へと一直線に向かう。アシュレイがスカーレットの腕を掴もうとしたが、空を切った。

 腐っても勇者だ。単調な腕をすり抜け、避けるくらいは、スカーレットだってできる。


「私に殺されたくなかったら、ついてこないで!!」


 扉が大きな音を立てて閉まる。

 扉越しにスカーレットを呼び止める声が聞こえたが、無視して階段を降りた。


(こんなことなら、仲間なんて作らなきゃよかったのよ)


 人を惑わす魔族。絵本で読んだ通りだ。

 森を散歩していた少女に、魔物は甘い言葉をかけた。奥へ奥へと誘い込まれて、暗い森の中で食べられそうになった少女を、間一髪助けた勇者。

 その勇者が魔王の息子に騙されていたなんて、とんだ笑い種だ。


 一人でもやっていけるように、まずは経験を積もう。この町を離れるのなら、資金も用意しなければ。

 初心者向けの討伐依頼を受注するため、スカーレットはギルドへ向かった。

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