第27話 目戸千草
学校で美侑が倒れて一週間後のこと。
僕たちは揃って目戸千草さんのところへ足を運んだ。
といっても美侑がお世話になっている病院と同じなのだ。考えてみれば、石硬症の重篤患者を扱う病院なんて全国で指折り数えるほどしかない。その上、美侑の症状は極めて危険なレベルだと推測される。
下半身不随。何をどう取り繕っても、美侑は肢体不自由者だ。障害者手帳の手続きも順当に行われているらしい。
石硬症が美侑のように重篤化する確率は一厘を平気で切る。そんな病気に選ばれてしまったふたりが、今日、邂逅するのだ。
何も起きないはずがない。
事前に、美侑の主治医は彼女が目戸千草と会うのを渋っていたらしい。
それもそうだ。
全身をほとんど動かせない目戸千草の姿は、すなわち美侑が将来そうなる可能性も含んでいるのだ。圧倒的な恐怖に苛まれ、メンタルをやられてしまうのではないかと危惧するのは、医者じゃない僕でもわかる。
それでも美侑は決断したのだ。
目戸千草から目を逸らしたままでは戦えないと。きっと見ないふりしている間は石硬症に負けてしまうと彼女が主治医に申し出たようだ。
親としての自信を喪失した両親はあっけなく首肯。主治医も当人の意思を尊重する態度を貫いた。
とはいえひとりで戦場に赴く勇気はなかったらしく、僕が彼女の隣に立っている。
僕には美侑のようなエネルギーはないけれど、彼女を支えると誓った。
目戸千草の病室の前で、ひとまず深呼吸。
心臓の高鳴りは止まなかったけれど、入室しないわけにはいかない。
僕は美侑とアイコンタクトし、がらら、と扉を開けた。
そこにはベッドで横になっている目戸千草と彼女の両親がいた。
「おはようございます。私が燈田美侑で、こちらが佐伯修一です。今日は娘さんとお話しできる機会を設けていただき、誠にありがとうございます」
「いえいえ。こちらこそよろしくお願いいたします。千草も話したいと言っていたので、今日はとても有意義な時間になるでしょう」
謹んで挨拶を済ませた美侑に対し、これまた丁重に言葉を返した背の高い男性は、目戸千草の父親のようだ。彼の隣にいる女性が母親なのだろう。非常に優しそうだ。
ふと視線をベッドの方へ寄せると五十音が書かれたアクリル板の表に指を差す目戸千草の姿。
『お・は・よ・う・ご・ざ・い・ま・す』
震える腕で、指で一文字ずつ追っていく。これが彼女にとってのコミュニケーションであることは容易に理解できた。
とても丁寧な挨拶を見届けた後、彼女の父親が言った。
「千草は身体こそ不自由ですけど、知能は衰えていません。ですから普通に話しかけても理解してくれますので安心してください」
にしても彼女の――目戸千草の親は不思議なほどに安らかだ。例えるなら誰も知らない湖の畔のよう。波風とは無縁そうな態度に驚きを禁じ得ないのは美侑の同じなようだ。
おずおずと美侑は贈り物の花束を目戸千草の父親に差し出した。
「これ、どうぞ」
「綺麗な花束だ」
感嘆の息を漏らした父親はすぐさま娘にもその感動を共有した。
「千草、ほら。燈田さんがこんなに綺麗な花束をくれたぞ」
千草が再度、細い指をアクリル板へともっていき、
『あ・り・が・と・う』
「どういたしまして」
美侑は返事のついでに話題を切り出す。
「千草ちゃんはどうして私とお話したいって思ってくれたの?」
『こ・い・ば・な・し・た・い』
「「えっ!?」」
まさかの切り口に虚を突かれ、驚愕の声を美侑と同時に上げる。
彼女の父親が申し訳なさそうに苦笑する。
「今日、燈田さんが男の人も連れてきてくれると教えたら、彼氏なのかと大はしゃぎしだして……」
『か・れ・し・か・れ・し・?』
千草の表情は乏しい。石硬症の影響で顔の筋肉が好きに動かせないのだろうが、僕には何となく彼女がウキウキしているのではないかと思う。
「すみません……」
「い、いえ。お構いなく」
引き続き苦笑して謝罪を入れた父親に構わないと意志を告げる僕。
考えてもみろ。千草はまだ中学生なんだ。確かに学校には行けていないかもしれないが、僕らと同じ思春期である。
恋愛話に花を咲かせたがるのは必然ではなかろうか。むしろ千草の心が閉じこもっていないことの証明でもあり、僕は少し肩が軽くなった。
『お・た・が・い・す・き・に・な・っ・た・き・っ・か・け・は・?』
「意外と本格的な質問だな」
脊髄反射でツッコミを入れてしまうほど、千草は元気に見えた。石硬症でベッドから身体を起こしてはいないが、それでも去年の僕より無邪気に違いなかった。
病室の空気が僕のツッコミで弛緩する。間髪入れずに返答した。
「僕は夏祭りだろうか。あの時見た花火は一生忘れないだろうな」
『あ・り・き・た・り』
「まさか批評を食らうとは思わなかったんだが」
またもツッコむ。千草は案外、厨川とかと似たような人種なのかもしれない。もう石硬症の患者ではなく、ただの女子中学生と話している気にさえなってきた。
彼女の両親もそんな僕らの様子を見て平穏に笑っている。場が和むといった表現が最も似合う雰囲気である。
『み・ゆ・は・?』
遅くても着実に指を滑らせて、疑問を浮かび上がらせる千草。心なしか彼女の指が躍っているように感じた。
美侑は頭の中で僕との記憶を辿りながら恍惚とした表情を浮かべる。
「私は……シュウなら私のことをちゃんと見てくれるって確信した時、かな」
『ろ・ま・ん・ち・っ・く』
「なんか判定甘くない?」
もう三度目のツッコミ。いや、別にツッコむ必要はないんだろうけど、あまりにも千草との会話が楽しくて、気がつけばいつものように接してしまう。千草にとって僕はすでにいじられキャラと化してしまったのだろうか。
その後も僕らは千草の両親も交えて、様々な会話を繰り広げた。
僕たちの学校でのことや、千草の今までの人生についてなど。
聞くところによると、千草は小学生の頃から水泳が得意中の得意で、大きな大会で優勝するほどだったそうだ。さらに頭もよく、テストでは百点ばかりを取っていたらしい。その割にはどこかわんぱくな性質も持ち合わせていて、時々両親を困らせていたのだとか。
石硬症の話も聞いた。どのように進行していったのか。何を感じ、何がつらかったのか。
できないことが増えていくのがとてもつらい。そういう話を耳にした。
でも、できることを必死に探してそれに打ち込むのが生きがいにもなるようだ。
千草の場合はチェスにハマったそうだ。将棋は駒数や戦法が多くてややこしいが、チェスはそういう面では取っかかりやすかったらしい。
身体が不自由ながらも人並み以上に興味を広げ、それらを十分に楽しむ。聞けば聞くほど千草はただの女子中学生のように見える。特に心が。
気づけばもう夕方が近くなっていた。
「また話そうね」
去り際、美侑が名残惜しそうに手を振った。
『ま・た・ね』
千草はおそらく笑って、僕たちの帰りを見届けた。
次来た時は何を話そうか。たくさん話したがまだ話し足りないことはたくさんある。そしてそれは千草も同じなのではないかと考えると、待ち遠しい気分に包まれる。
くるくるくる、と車椅子の車輪が小気味よく回る。またこんな日が回ってくると言わんばかりに。
千草と出会う前に抱いていた、曖昧な不安が嘘みたいに思えて、僕はのんびりと美侑の車椅子を後ろから押していた。
――その一週間後。千草は何の前触れもなしに、石になった。
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