第26話 平坦な道はどこ

「車椅子生活になっちゃった」


 病室の前で美侑はそう言った。


 立ちつくす僕とは正反対に、美侑は明るい声音なのだが、以前のような明るさではない。外側だけ金箔を塗った泡のよう。何かの拍子にふと消えてしまいそうだ。


 美侑が大きく見上げて、僕が見下ろさないと合わない視線が車椅子生活という現実を叩きつけているようで、忌避感が湧き上がる。


 僕はなるべく冷静さを装う。


「とりあえず部屋で話さないか? 立ち話で済む内容じゃないだろ」


「そうだね。うん、じゃあ入って」


 器用に車椅子の車輪を手で操作して、美侑は自分の病室へと入っていく。


 美侑が車椅子からベッドへ身体を移す際、石のように動かない下半身の扱いに苦労していたため、僕は彼女に手を貸した。


 無事に運び終えた僕は病室に用意されていた丸椅子に座って、美侑の話をする体勢を取る。


「思ったよりひどくはないよ。私の症状」


 またしても彼女の声には歪な明るさが混じっていた。僕に心配をかけさせたくないのか、自分自身に言い聞かせているのか、あるいはその両方なのか。


「そうか……。それなら、まあ……ひとまずは安心、か」


 車椅子生活になるほどの症状は美侑にとってひどくはないのか。


 何を言っても嘘になりそうな僕の言葉はフワフワと宙に浮いていた。


 美侑は淡々と、まるで速やかに事情を話して、さっさと楽になりたいと言わんばかりに説明する。


「確かに歩けはしないけど、手は使えるし声だって出せる。知能にも何の問題もないから、シュウが好きだってこともちゃんと理解できるし覚えてる」


 美侑が要求するよりも早く彼女と手を握った。細くて壊れそうな指でもはっきりと体温を感じる。生きていると彼女自身が教えてくれた。


「一週間ほどリハビリをしている間に、車椅子で過ごせるよう環境を整えさえすれば、学校にも通えるようになるし、平気だよ」


「リハビリって?」


「やり方次第では車椅子なしでも歩行できるようになるかもしれないから、今はそのコツを掴もうとしているの」


 まるで明日が晴れだと信じてやまない子どものように、無邪気に振る舞う美侑。


 その様子が僕にはひどく不気味に映る。


 わけがわからない。どうして絶望せずに未来へと歩みを止めないでいられるんだ。これじゃあ、気持ちの整理が付いていない僕がバカみたいじゃないか。


 そんな黒々とした不安が口から溢れだす。


「なんで……なんで美侑はそんなに……」


「シュウ?」


 どこまでも美侑は天真爛漫に小首を傾げる。そのことが僕に曖昧な罪悪感を抱かせる。


「いや、なんでもない」


 ただ、美侑だって察しが悪いわけではない。むしろ目敏い方だ。


 僕の手を優しく擦りながら、穏やかな微笑を浮かべる。


「もちろんびっくりはしたよ。もう足が動かないかもしれないなんて、急に言われてもって感じだったし。お父さんとお母さんは特に。私に『自由』を与えたのが原因で石硬症になっちゃったこともあって、ものすごく気に病んだの。親の資格なんてあるのだろうかって、私に隠れてふたりで泣いてたの」


 僕の心配を読み取ったのだろう。誰にも真似できないほどの強い眼差しで奮い立つ。


「だからこそ私がウジウジしてちゃいけないなって。これ以上誰かに迷惑かけるわけにはいかないって思ったの」


 出会った当初から感じていたことだが、やはり美侑の存在は別次元だ。なおさら僕なんかが彼女の隣に立っていてもいいのだろうかと憂慮の念が生じてしまう。


 生きざまが眩しい美侑から少しだけ目を逸らした。


「……強いな」


「ううん。私は弱いよ。前を向けているのはシュウがいるおかげ」


 弱さの自覚。本当に弱いのかどうかはこの際どうでもいい。自身の弱さを認めることができる姿勢に尊敬しつつ、同時に弱さをさらけ出してくれた優越感に情けなくも満たされてしまう。


「やっぱすごいな、美侑は。これからも僕は美侑に助けてもらうんだなって、そんな予感がしたよ」


「何それっ。変なの」


 ふへっ、と気の抜けたように笑った美侑にキスをした。


 彼女とのつながりを強固にしたい、あるいは引き離されたくない一心で。


 余韻に浸るような沈黙が流れた後、美侑が握る手に、より縋りついてきた。


「そうそう。シュウに頼みがあるの」


「何?」


目戸千草めどちぐささんって覚えてる?」


 ――目戸千草。


 記憶がおぼろげだが、おそらく美侑を初めて家に上がらせた時、テレビに出ていた中学生だ。


「確か石硬症の患者さんだよな?」


「うん。私、その子に会うことになったの」


 僕は二の句を継げなかった。目戸千草との接触が正しい選択なのかどうかを考える暇はなかった。ただ、何かが変わってしまいそうな。僕が持つ、現状に留まっておきたい弱気な心を素手で撫でられた心地がしたのだ。


「その……怖くないのか?」


「……ちょっと怖い。けど、シュウが手を握っててくれるのなら、たぶん大丈夫」


 小鳥のように震えた唇で、僕に頼ってくれた。それが僕にとって大きな自信となった。


「そうか……。わかった。ずっと握らせてくれ、僕に」


 手探りで僕の存在価値をたぐり寄せながらも、美侑の助けになりたいと魂が叫んだ。

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