7 不幸せな侍女
セルマは足早に廊下を進む。
セルマが進む先にいる侍女たち、衛士たちが、姿を見つけるとさっと廊下の端に寄って道を空け頭を下げる。
セルマの進む道を邪魔する者は誰もいない。
セルマは自室、執務室ではなくセルマの私室に入ると扉を閉め、寝台の上に乱暴に腰を掛けた。
なんなのだ、あのフウの余裕の表情は。
今、この宮で一番の立場は自分なのだ。その自分に対し、憐れむようなあの目つき……
『私は目の前に見えること、自分が大事だと思うこと、そう思うことのために生きていますからね。そんなあるかないか分からないようなことのために、自分の信念を曲げ、何度も何度も頭に血を上らせ、そうして自分自身を追い詰め、周囲を傷つけて回るようなことをしている時間などないのですよ』
『眼前のことをうまく片付けられぬ者が、世界の行く末をどうこうできるように私には思えないのですけどねえ』
この世界の危機をあるかないか分からないことと、そう言っていた。
そう言えるのはフウがその事実を知らないからだ。
信念を曲げて自分を追い詰める時間などない、そう言っていた。
それは信念を曲げてまでやらねばならないことがないからだ。
眼前のことを片付けられぬ者が世界の行く末をどうこうできない、そう言っていた。
それは眼前の細かいことにしか目が向かぬからだ。
セルマはそうしてフウに言われたことを一つずつ打ち消していった。
そうやって、フウが何も知らぬ愚かな者と考えることで、少しずつ感情を収めていった。
『言えぬことをなぜ話したのでしょうね』
突然、キリエのその言葉が収まっていった感情の上に乗った。
『言えぬことを聞いたのなら、最後まで言わぬことです。それをなぜ話したのです?』
『なぜ話したのです?』
『誰かに話したかったのではないのですか?』
「うるさい!」
セルマはその場にはいない誰かにそう叫んだ。
もうすぐキリエは一線を退く、北の離宮へ入る身なのだ。
そのキリエを尊敬するフウも、そうなったら北の離宮付きに飛ばしてやろう。
そう、自分にはそうする力があるのだ。
誰がどう言っても次の侍女頭は自分だ、神官長がそう約束してくれた。
そしてそれは自分の欲のためではない。
この宮のため、この国のため、この世界のためにやることだ。
『あなた以外にはないと思っています、それはあなたの真摯なお勤めの姿勢を見ていたから。だからあなたを選んだのです』
あの日、神官長にそう言われ、そして秘密を聞いた。
あまりに重く、あまりに恐れ多い秘密であった。
だが、それを話す相手に自分を選んでくれた、そのことを名誉と思い、事の重さを思いながらも幸せでもあった。認められたことがうれしかった。
この国のために、この世界のために自分はなんでもやる。
そう決めたからこそ、あんなつまらぬご令嬢のご機嫌取りのようなこともやっている。
「その日のために、今、我慢をしているのに」
そう、その日はそう遠くない日に来るのだ。
自分はそれを知ってしまった。
だからこそ、色々なことを飲み込んで、その日のために準備をしているのだ。
「これほど充実し、そして誇らしいことはない」
セルマは思わずそうつぶやく。
だが……
『言えぬことを聞いたのなら、最後まで言わぬことです。それをなぜ話したのです?』
話すつもりなどなかった。
知っていて知らぬ顔をし、今まで通り宮の最高権力者という顔をしているキリエを見下し、自分こそが選ばれた者だ、そう見せつけるつもりであったのに。
『誰かに話したかったのではないのですか?』
その通りだと思ったことが悔しかった。
もうすぐ自分はこの宮の名実ともに最高権力者となる。交代の日を迎え、あの老女が一線を退いたら。
その日を思うとうれしいと思わなければいけないはずであった。
だが、実際にその日が近づいてくると、とてつもなく孤独を感じていた。
キリエが侍女頭になったのは、今の自分とそう変わらぬ年であったとセルマは思い出す。
自分は当時、宮に入ったばかりの侍女見習いで、すごい方だと思っただけであったが、元々が行儀見習いで入った侍女ということ、まだ若いということで陰口を叩く者もいた。
それでも凛と顔を上げ、黙々と役目をこなし、その実力を周囲の者がみな認めて何も言えなくなっていく様を見て、自分もこの人のようになりたい、そう思ったのだ。
その人が、世界の行く末を揺るがす秘密を知りながら、知らん顔をしている。そう知った時のあの失望感。尊敬の気持ちが一気に軽蔑へと変わった。
あの人は老いた。そのせいで口をつぐんでいるのだ、そう思うと冷ややかな気持ちになった。
今は自分こそがその秘密を知り、世界のために選ばれたのだと思うと誇らしかった。
今こそ自分はあの人を超えたのだ、そう思えたことがうれしかった。
それなのに、どうしてこんなに敗北感を味わわなければいけないのだ。
それは、自分の立場を分かるのは、あの凛とした横顔を持つ、若くして侍女頭になり、全てを乗り越えて絶対の存在になったあの人しかいない。そう思っていることに気がついてしまったからだ。
セルマは軽蔑しなくてはいけない相手にすがろうとした自分に愕然としていた。
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