バレたか
朝五時に起きた。
その理由は二つある。
一つは、鏡の向こうの女の子がいきなり〈寿命〉とか言いだして、それが気になってよく眠れなかったこと。
もう一つは――
「よっす、スナ……うぶわっっっ‼」
おれの親友が、みえない衝撃波を受けたようにふっとんだ。
「……ま、まじか。えっ、今日ってそんな日なのか?」
「そんな日ってなんだよ」おれは椅子に座ったまま、親友の
「メガネ七三の日?」
はあ、とおれは天をあおいだ。
なんというおバカなコメントと、オオゲサなリアクションをするやつ。
何がおかしいっていうんだよ。
ただ――髪型を七三分けにして、黒ぶちのダテめがねをかけてきただけじゃないか。
「なあスナ」肩を組み、おれに顔を寄せる。「イメチェンってこーゆーんじゃねーのよ、残念ながら」
「いいだろ、べつに」
いっそ正直にぶっちゃけるか、鏡ん中に住んでる子にやらされたって。
とりわけ、本日の指令は〈小岩井さんを
早起きしてお父さんに整髪料とめがねを借りて、がんばって見た目を改造したんだが。
「あ……あのさ」
すす、とカニ歩きみたいにぼくたちに近づく人影。
女子級長の
「言いにくいんだけど……そういうんじゃないのよ、残念ながら」
と、さっきの再放送みたいに言う。
あのなぁ、とおれはちょっとイライラしながら、
「通勤ラッシュの駅をみてみろよ。こういうオトナばっかだろ」
「バカ、スナ」ぱしっ、と手の甲でおれの肩をたたく。「今はリーマンでもシュッとしてる。なんなら茶髪もいるし、そんなぴっちりした七三なんか……なかなか今どき……なかなか」
ぶーっ、とガマンしかねたように笑い出した。
大森さんは、笑っていない。
「ここまでやると逆効果っていうか……もともとのワルそうな素材がきわだっちゃうっていうか」
遠慮ないな、おい。
コワモテの自覚はあるけど、もう少しオブラートに包んでくれよ。
「とにかく」ずり落ちそうなめがねを中指で上にあげる。「努力だけは買ってくれ。これでも、彼女に
「じゃ、もっともーっと努力が必要みたいね」
大森さんがあごをくいっと動かした。
その先には……
「おわかり?」
下敷きに顔を半分かくしてこちらをうかがう、警戒心バリバリの小岩井さんとおれの目が合った。
◆
無理ゲーという言葉がある。
告白をゲームにたとえるのも不謹慎だが、まさに今の状況がそれ。
これクリアできないだろ。
親しくないのはさておくとしても、恐怖心を持たれてるってのがイタすぎる。
おれがやるのが〈告白〉じゃなくて〈脅迫〉なら、うまくいくだろうけど……
(ん?)
昼休み。腹ごなしにぶらぶら歩いていると、すこし向こうに小柄な女子の姿。
小岩井さんだ。
手に、ピンクのバケツをもってる。
(なにやってんだ)
校舎から出ていく。
その先には、グラウンドしかないと思う。
ん? いやグラウンドのはしっこに弓道場があったっけ。
(ちがうな。そっちじゃなくて)
森にいってる。
グラウンドの
(まさか……誰か男に呼び出されてるとかじゃないだろうな)
気の弱い彼女のことだ。その可能性はある。
「あ」
からーん、と大きな音をたててめがねが落ちた。
彼女の反応ははやい。
たっぷり経験値をくれるモンスターのように、光のスピードで逃げていく。
「待って!」
意外にも、待ってくれた。
ゆっくりこっちをふりかえる。
「お……鬼塚君……?」
「そうです」おれはめがねを胸ポケットにしまう。七三の髪にも、
「心配?」
「ここって監視カメラとか、先生の目もないし」
肩のあたりで切りそろえたサラサラの髪とスカートが、風にそよいだ。
彼女のうしろからシャーという音。
見ると、蛇口から水をだして、バケツにそそいでいる。
「小岩井さん?」
「へっ⁉ ……な、なんでしょう……?」
「バケツ。あふれてますよ」
わー、と声をあげながら、あわてて蛇口をしめた。
すこし中腰になった後ろ姿。
さらに小柄にみえて、なんだか小学生のようにも感じる。
「もちます」
おれは水で満杯のバケツをもった。
「どこですか?」
「あ……じゃ、じゃあこっちに」
空はいい天気。
秋なかばで、気温もいい感じにすずしい。
耳に届くのは、サァァ……、という木の葉っぱの音だけ。
なんか、ずっと思い出に残りそうな一コマだな、となんとなく思った。
「ここに……」
「オッケー。よ、っと……と?」
「どうかしました?」
おれの腰ぐらいの高さの、そいつと目が合った。
首元に巻かれた赤いスカーフ。
よつんばいのポーズ。
銅像。これはクマの銅像だ。
「昨日雨だったから、けっこう汚れてるみたい」
小岩井さんはさっさと作業をすすめる。ぞうきんをバケツにつけて、ぎゅーっとしぼった。
「ふふっ。いつみても、美人さん」
やさしい顔つきで、楽しそうにクマの銅像を
「メ……メス?」
おれを見ないで「たぶん」と言う。
「これ……もしかしてずっとやってるんですか?」
おれを見ずに「うん」とうなずく。
ぞうきんでこまかいところまで、丹念に掃除している。
「え? ほんとにずっと?」
「雨の日以外は、だいたい……です」
おれがしつこすぎたのか、ややフレンドリーな雰囲気だった小岩井さんが、また心の扉をしめたような気がした。
しかし――貴重な昼の休み時間をつぶして、わざわざこんなことをしていたなんて。
女子は、スマホいじってるか、大声でおしゃべりしてるか、そんなもんだと思ってたけど、こんな子もいたのか。
「うん。きれいになった」
にこっ、とクマに向けていた笑顔を、おれにも向けてくれた。
妹が聞いたら、きっと「バカみたい」とあきれるだろう。
でもおれは――たった今――たしかに胸がキュンと鳴ったのを聞いた。
「でもね……もう……この子のお掃除も、してあげられなくなるから」
バケツの水を適当に植え込みに流していたおれは、小岩井さんのほうをみた。
悲しそうな顔をしている。
たまらず、おれは質問した。
「どうして?」
「知らないですか……? この森、グラウンドにしちゃうらしいです」
それで
だからあいつは、残りの寿命が……とかいってたのか。
「手伝ってくれて、ありがとう」
彼女がぺこりと頭を下げた。
「それと……鬼塚君はやっぱり、ふだんどおりのほうがいい……かな」
ほらみろ。
ムリして七三分けとかにしなくてよかったんじゃないか。
おれは抗議の視線をポニーテールの女の子……いや、カッチカチのクマの銅像に向ける。
クマの目のすぐ横に流れている小さな水滴が、冷や汗のようにも、涙のようにも見えた。
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