12' 憐憫と寂寥の渦潮

「ら、りりり、ろろろれろ」


泣いていた。


確かにそれは泣いていたのだ。


「フェアラはね、色々見てきたの。君みたいな人間はもちろん、傲慢な魔族や怨恨に焦がれた獣人、頭の悪い妖精や臆病な耳長族。でも、みーんな死んじゃった。に頼んでも、結局フェアラの元からみんな去るのね」


独りでに話し続ける人魚はこちらを向くことは無い。ただ、機械のように言葉を垂れ流すだけだ。


「それでも歌えば孤独は紛れる。フェアラはひとりぼっちじゃないの。だって、こんなにも聴衆が来てくれるもの」


「何が言いたい? それを俺に話してどうして欲しい? 褒めればいいのか?羨めばいいのか? 乞えばいいのか?」


「聞きたいだけ。 矛盾でグチャグチャになってる君の人生を。 暗いだけの海底に胸躍る御伽なんてないんだよ。本当につまらないつまらない世界」


純白に濁色が滲み零れる。でも、どうして、こんなにも心が軋むんだ。


「ねぇ、教えてくれる? 道化師くんのこと?」


舞うように寄り、媚びるように顔に手を添える。その目は檻の中の遊女よりも黒い。かかる吐息はリリスの悪夢。


思わず、顔に痰を吐きつけてしまうほどの嫌悪感だ。


「は?」


美しい顔に醜い人間の汚物が滴る。いや、美しいのは見た目だけで中身は貧民街の売女よりも穢れている。どうせ、俺以外の者にもそうやって媚びて媚びて媚びて─あぁ、腸が渦を巻いて熱を帯びる!


「お前はそうやって、死ぬまで満たされないまま朽ちていけ。お前も苦しめ。自分だけ幸せになろうとするな。想ってもないくせに、品の無い声で耳元を穢すなよ」


「そうか、そうなんだね。君は、本当に道化師だよ。あは! なんて純粋で欲深くて、傲慢で卑屈! 自己嫌悪と憐憫は究極の自己愛! 己が嫌いなのは誰からも愛されないから! 万民から愛されたい!でも、自分にそんな魅力はないから!葡萄に唾を吐き捨てるしかないんだね!!!」


「知ったふうにほざくナ!!!」


「いいよ、そうやって君から物語が紡がれるんだね。どうしたら、もっと教えてくれるかな? 呪われた指輪? それとも、さっきから抑えてる?」


昇っていた血液が一気に降下する。冷たくなった眼球は恐る恐ると己の右手に落ちる。衣服を纏っているはずなのに透けて見えた胸の古傷。あの日誓った、尊き約束。今は海の底で──────────


「お゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛!!」


チカチカと逆流するおもひで。ノスタルジックは度を超えて苦痛と吐き気に針を指す。永遠にあのままでよかった。こんな世界で生きるくらいなら。あの傷が反転していたら、この世界は幸せだったのに。


「はぁぁ、君の禁忌に触れちゃった。ねぇ、もっとフェアラに話してごらんよ。きっと、楽になるよ。ねぇねぇねぇねぇ!」


愛しいという感情の衝撃は初めて刻み込まれたものがいつまでも奥底で燻り疼く。だから、あれこれと評価するには必然と忘れたい想いが比較対象として掬い上げられて、その度に見えない血反吐を吐き出さなければならない。なんて傲慢で未練がましく意地汚くて女々しいんだ。あぁ、見世物小屋の主人でさえ、見苦しくて手放すだろうさ。


「.......人の古傷をほじくり返して何が楽しいんだ、この異常者が」


「それが古傷? どう見ても膿の濃い生傷にしか見えないけどね」


こいつはきっとなんの目的もなしに俺を嬲っている。俺の苦しむ姿を見て、笑い、愉悦し、肴にしている。なんて残酷な生き物なんだ。


「フェアラはね、知りたいだけなんだよ」


その探究心が純粋なものであるならきっとこいつは悪魔そのものに違いない。


「知って、どうするんだよ」


わかってる。どうせ、玩具にするだけだ。


「愛するの。何もかも全て曝いてバラしてそれでも君を愛でて、フェアラのお友達にするんだ」


淀んだ水の泡には一点の光もない。お前は何を見つめている?


「ねぇ、フェアラに教えてよ」


違う。お前は教えて欲しいんじゃない。


「なら、まずはお前が全てを晒せ」


「知りたくもないくせに? お互いに晒しあって傷ついて、それでおあいこ? うんうん、段々と君のことが分かってきたかも」


口に手を当てて艶やかに笑う。何が可笑しい。


「打てば響くとはこのことだね。君は君の意思と関係なく、その愚かさをフェアラに教えてくれるんだ」


「は?」


「君はね、この世で最も愚かで醜悪な性格をしてると思うんだ。自己矛盾が自己解決しない。その葛藤は周りに毒を撒き、やがて死に至らしめる。そうだろう? 君が幸せになることなんてないんだよ。 だって、君の思考回路は他の幸を妬み、己の不幸を願い、ルサンチマンを崇拝しているのだから。陽に楽しむは悪で、陰に苦しむが善。滲み出てるんだよ、その負け犬根性がね」


「わざわざご高説どうも。そんなこと、とうに自覚している」


「自覚している? じゃあなぜ直そうと足掻くことすらしないの? 怠惰もここまでくれば悪魔ですら尻尾を巻くね」


「足掻いてこなかったとでも思っているのか? 俺が今まで努力してこなかったとでも? たとえそれで強くなったとして、俺は何を手にする? 富? 名声? 欲しいものはもう返ってこないというのに。くだらない理論を俺に押し付けるな。これが限界だったんだ。女神の視界にすら入らない俺にはな」


「ああ、ダンケルアヴジェに溺れた仔犬よ。君は理に生きたつもりだろう。心の奥底で理を望み忌み、腐らせた。君はガラクタだったんだね」


額にそっと唇が弾む。その柔らかなさざ波は名も知らぬ懐かしき海岸線。白き華はこちらに手を振り、掛かる夕陽は緋想と共に朽ちていく。


「孤独と喪失の天秤は自死が錘を下げるが条理」


「死すら拒んだ俺は逃げることしかできなかった」


「その先に何かあると思っていたから?」


「何も考えていなかった。とにかく、目の前の現実から目を逸らしたかった」


「それで君は─」


「そうだな、あの兎もワラってたよ」


海中温度は常夏から氷河へ。


「..........そう、君は溺れてしまった」


君の顔はそんなにも蒼紫だったのか。


「そんな獸、皮を剥いで海風にさらしてやる」


ほのかに渦潮が泡を立てて、人魚の歯ぎしりは大木の弦楽器より鈍く。碧い瞳は暗く、赫。


「いきなりどうして、そんな顔をしているんだ」


「君は溺れて、何もできなくなってしまった。誰よりも寂しがりで夢見がちのくせに。でも、それでも1匙の勇気さえあれば、君はきっと───」


うねうね と触手が蠢く。


「カジキもさっちぇーも、そしてこのでさえ、父から貸し出されたにすぎない。代替品ドナーのフェアラに本物なんてありはしないの。産まれた時から2罪を背負ったフェアラにはね。あるとするならば、堕ちてきた者たちとの時間だけ。でも、彼らは直ぐに息絶える。フェアラがその沼から這い出でることがないように」


海の民たちの目は驚く程に空虚で冷たい。


「ねぇ、君の名前は?」


「......マルク」


「そう。マルク、ひとつだけ、私のお願いを聞いて」


「勝手にしろ」


「1度だけ、抱き締めて、私に愛を囁いて」


「虚構でお前は満足なのか?」


「もう長くはないから。私はきっと、消えてしまう。願ってしまったから。私はフェアラでなくなって、お淑やかなお人形さんになるの。ああ、私は消えたくない。愛の温もりも、切なさも、尊さも、せめて、偽りでもいいから」


儚く悶える海底の姫。触れれば泡と消えてしまいそうで、それはまさしくなのだ─


「フェアラ、お前は─」


「どうして多くを語らない君を解していたと思う? それが答えだよ 」


光が白くなればなるほど肌の色は病的に蒼く、目の隈は影より暗くなる。今の君は何人よりも美しい。


「もっと早くマルクと出逢えたのなら、数百年もこの嘘っぱちの箱庭で唄い続けることもなかったのかもね」


「フェアラ」


理解者ゆえに相容れないだろう。それは純粋なる愛になりえないから。お互いが想えば想うほどに結末はより捻れて残酷に。ならば、酸いままで閉じ込めてしまおう。


抱き締めると、彼女は「あ」と声を漏らした。柔肌は絹よりも柔くなめらかで、枯木の枝よりも脆い。


「暖かい、暖かいねぇ」


フェアラは目を細めて、噛み締めるように抱き返してきた。


さっちぇーと呼ばれる触手がざわめきだす。他の住民たちも目の色を変えて、矛を向ける。


「愛してる」


本心かはたまた同情心か分からない。だが、そこに思慮分別という不純物など入りやしない。芽生える前に摘んでしまったから、きっと、これは初恋よりも酸っぱいだろう。


だから、甘くならないように俺は彼女を振り返ることは決してしない。


「マルク、ありがとう」


だのに、どうして、君の微笑みはそんなにも甘ったるくて─────


忽然と視界は泡に包まれて、開けた時には既に水気など消え失せていた。腕の傷も何もかも最初からなかったかのように。


夢かと思われたあの出来事を思い返すように額に残るさざ波の感触を反芻する。


あぁ、せめて、君に「さようなら」と─
















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