9' 停滞

「ただいま帰りました」


彼女は泥だらけになりながら帰宅した。


「お仕事、頑張ってきました!」


力こぶを作りおどけるが、その泥が仕事でついたものではないことは知っている。それこそ、先程聞こえた稚児らの罵声、大人らの嘲笑、ここ2週間で飽きるほどに聞いた。


「あ、いい匂い。今日は何ですか? ファル君の料理って美味しいので楽しみです」


エルフの料理は人間のものと比べて本当に味気ない。元々、料理番であったのでそこそこの料理は作れるがそれほど褒められる味でもない。それでも、彼女にとって人間の料理は新鮮なものであったようだ。


「フレンツ魚の香草焼き。それと、きねもろこしのポタージュ」


家は汚いが食料は思ったよりも豊かであった。聞くにこの里の長からの配慮らしい。


「わぁ! 聞くだけでお腹が空いてきました」


「先に水浴びでもしてきたら?」


「えぇ、それでは失礼します」


彼女はエルフらしからぬエルフだ。もちろんいい意味で。傲慢さがないのはもちろん、穏やかで心優しい。そして、


きっと、腹に多くの物を溜め込んでいるのに違いないのに、弱みも見せずに俺みたいな者を気遣うのだ。


コトコトとスープが煮詰まる音がしたので火を弱める。沸き立つ湯気が格子から見える景色を歪ませて、現実が濁る。


腕を抓ると、痛かった。


「ファル君、お待たせ」


シャナータが申し訳なさそうに入ってきたことで思考は引き戻される。


「ご飯、食べましょう?」


卓は無いが食を囲む。彼女は何でも美味しそうに食べてくれるのでこちらとしても悪い気分ではない。


「ん〜! 美味しい! やっぱりフィル君はお料理上手だね」


その目は弧を描くが隈のせいで生気がない。目尻の皺が余計とその悲壮感を泡立てた。


限界なんだ。 いくら取り繕ったとしても精神は擦り減るばかりで一向に癒えやしない。まして、どうして俺が癒せようか。


なのに、俺なんかを



「なんで俺を助けたんだ」


ずっと聞きたかったこと。日が14と過ぎてようやく言葉となった。


シャナータは不思議そうな目をして、口に含んだものを飲み込んだ。


「他人を助けるのに理由がいります?」


甲高い羽音が脳内を掻き乱す。


「お前にリが無いだろ」


「そうですね、ありません」


不機嫌? 純真無垢なる理ならば声が曇るはずがない。


「俺に何を求めてるんだ」


「いいえ、なにも。 いきなりどうしたんですか? 捨て犬でもここまで怯えませんよ?」


そうだ。俺のためではない。俺に求められているのは。アネモ。夕餉の煙で惚けていればよかった。


「蝕まれたのか、に」


俺がそう呟くと、シャナータはパンをポタージュに漬けて、スプーンで沈めては浮かべを繰り返した。


「貴方だって、


仮面は溶けて、芯を覗かせる。それでも上辺だけの愛想よりはよっぽど揺れる。だから、知りたくない。がいい。


「凝り固まった衆愚に虐げられて、勝手に育んだ罪悪感を和らげるための玩具。姉という空虚な希望に縋って生きてきたけど、それでも寂しい、淋しい、死にたくない」


パンは解けて黄色に融ける。口に運ばれることは無い。


「貴方は怖いだけでしょ? どうせ、与えられたら大口開けて享受するくせに。賢ぶって逃げてるだけ。それじゃあ、いつまで経っても貴方は不幸の円環に囚われ続けるだけ。 なら、いっそ─お願い、もう独りはいやなの」


一方的な偏執。どちらが幸せなのかは明白で。 わかっている。 でも、 少しくらい羽を休めたって罰が当たるわけでもない。いいんだ、休もう。休め。


そっと手を重ねた。


「ファル君?」


「明日のご飯は何がいい?」


吊り下げられた餌に食いつく魚を馬鹿にしてはいけない。


誰だって、目の前にある幸せを手放したくはないだろう?






「じゃあ、今日もお留守番よろしくね! 夕ご飯、楽しみにしてるから!」


鼻歌歌いの上機嫌。堅い口調も態度も以前よりもはるかに柔らかく。取り繕わない彼女は、未だ思春期の少女のように儚く強い。


壊れるときは一瞬。だから、誰かが適度に灰汁を汲み取らなければならない。


「暑い」


夏。 照りつける太陽よ、どうして眼を近づける? お前はそんなに覗き込まなくても下界など容易く見渡せるだろうに。


小屋の掃除はいくらしても綺麗になることは無い。だからこそ、退屈という苦しみを味わうこともないが。


縮れたブラシを持って、今日とて壁を、床を、擦る。もちろん、洗剤などない。ただ、香草を浸した水に付けて洗うしかない。


「そうやって、いつまであの子の庇護に甘えるつもりだ」


背後から突き刺さる嫌悪と憎しみ。初めて聞く声ではない。


「ヒュッ」


喉が鳴るだけで声が出ない。何か言わなければ。殺される。こ ろ ─


冷や汗が止まらない。 夏というのにいつから、かのロッケルに来たのか? 焦りは思考さえも捨て去り、気づけば胸ぐらを掴まれ宙ぶらりん。


「お前みたいな奴は見ているだけで反吐が出る。 あの子が何を思ってお前を助けたかは知らんがお前みたいな穀潰しがのうのうとこの里で息を吸うな! 特にあの子に寄生して甘い蜜を吸っているとは言語道断! 今この場で私が─「何をしているのですか? 長よ」


恐怖で、涙で、鼻水で、涎で、何も理解わからない。 俺は、俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は俺は。


「シャナータよ、私は─「どれだけ、私から奪えば気が済むの? 姉、母、父、弟、叔母さん、友人、家、名誉、平穏、幸せな日々。 気を遣ってやってる? なんのために? 罪滅ぼし?負い目でも感じた? 親友であった姉を追い出したことに。私は感謝なんて一抹もしてない。あぁ、 全部貴女の都合のいい解釈ね」


塞き止められぬ激情。ここには何の躊躇も遠慮もない。


禁忌を犯したのでしょう? 結局、保守派の老害どもに流されて姉を売ったのだけれどもね。本当にみっともない」


「違う! あれは気の迷いだ! エーファルと違って本気ではない!」


「『録音レコデ』貴女の情けない言い訳はきっちりと魔法陣に刻まれましたよ。いくら図星でも焦りすぎですね」


「ぐ!」


「今すぐファル君から離れろ。 そして、今後一切私たちの関係に関わるな」


辛うじて保たれていた俺の意識は地に落とされたことにより白昼と消えた。












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