第117話 イニシュカ村の家路 ①
天を突くかのような、遥か高い位置にある天井には、五柱の精霊王の姿が
白々と光沢を放つ柱。磨かれた床。真紅のカーペット。そしてその先の、銀の波と
「ホルダー州イニシュカの治癒術士、エイダン・フォーリー。
重厚な侍従の声が響き、カーペットの上に片膝をついたエイダンは、そろりと視線を上向ける。
皇帝レヴィ二世が、今日は純白のドレスに身を包み、王冠を頭に戴いて、玉座に着こうとしている――
◇
「はあ、今思い出しても――」
そう呟いてエイダンは、一匙のアイスクリームを口に運んだ。雪のように冷たく、舌が痺れるくらいに甘い。鼻を通る独特の芳香は、バニラと呼ばれる植物由来の香料によるものらしい。
「――よく思い出せん」
「何よそれ」
テーブルの斜め向かいで、同じくアイスクリームを食べていたシェーナが、がくりと肩と首を落とした。
「いんや、こないだの勲章授与式の事がな。何を言われて何をやらかしたか、どうにも思い出せんで。緊張しとったし、慣れん礼服で首は締まっとったし。頭真っ白になってしもうて……俺、やっぱ礼服苦手じゃなあ」
「では拙僧のように、辞退すれば良かったのです。勲章などサヌの徒には不要でございます」
テーブルの横で、街路樹にもたれて
勲章授与の対象となった救護班員のうち、ハオマだけは受け取りを辞退している。理由は勿論、彼がサヌ教の僧だからだった。
たとえ相手が一国の皇帝だろうとも、サヌ教徒は戒律に基づき、高価な贈り物を断らなければならない。そこはシルヴァミスト政府も心得ているので、問題にまではならなかった。
ただ、ハオマはエイダン以上に人混みや堅苦しい場を苦手をとしている。辞退の本当の理由は多分それだろうと、エイダンはこっそり思う。今彼が不機嫌なのも、この場に人が多いからだ。
エイダン達は現在、ダズリンヒルの港にいた。正確には、波止場に繋がるメインストリートのカフェテリアでテーブルを囲んでいた。
海風の通る庭先に、イドラス風の洒落た椅子とテーブルが置かれ、
――今日、これから船が出る。救護班の面々は首都ダズリンヒルを離れ、それぞれの目的地へと旅立つ。皆が一堂に集うのは、これが最後の機会だ。
「アイスクリーム、おいしいー! もっと食べたい! ねえ兄ちゃん、うち次はピンクのがええ! 木苺味じゃって。木苺ってどんなん?」
「おいイーファ、お前ほんまに反省しとるんか。目ん玉飛び出るような値段がするんじゃけんなこのアイスクレーム……」
「アイスクリーム」
「分かっとるわ!」
隣のテーブルでは、イーファとキアラン、それにロイシンとブリジットも、ちゃっかりとアイスクリームを満喫している。
一応、反省はしている様子のイーファだったが、何でも彼女はこのダズリンヒルで友人が出来たらしく、イニシュカに帰った後も文通をする約束になっているのだと言う。だからこうも、うきうきした様子なのだろう。
ダズリンヒルで、それも恐らく闘技場の観客席で知り合ったという事は、相手は上流階級の令嬢かもしれない。どんな相手なのか、エイダンは訊ねてみたのだが、
「エイダン兄さんには内緒じゃ」
と、あしらわれてしまった。年頃の少女というのは、全く難しい。
しかし、ダズリンヒルでイーファが何かを学び得た事は、素直に喜んでおくべきだろう。とんだハプニングで始まった彼女の旅だが、結果的には、終わりよければ何とやら、だ。
「すっごい美味しい……信じらんない。こんなの、わたしまで食べさせて貰って良かったんかな?」
「長生きはしてみるもんじゃねえ。うちがこの歳になって、ダズリンヒルでこんなええもんをねえ」
ロイシンとブリジットが、しみじみと語り合う。
高齢のブリジットが、未知の冷たい菓子など口にして平気なのかと、エイダンは心配していたが、見た所問題なく、ぺろりと食べてしまっているようだ。
ちなみに、イニシュカ組のアイスクリーム代は、見送りに来たサンドラ・キッシンジャーが支払ってくれた。
エイダンも、救護班員としての報酬を貰って懐の温かい状態にあるし、それくらいは払えると申し出たのだが、「経費で落とすから別にいいわ」と、サンドラは相変わらず素っ気ない。
アイスクリーム代金というのは、経費で落ちるものなのだろうか。
「テンドゥ行きの船が、もうじき出航よ。ラメシュ」
懐中時計を見たサンドラが、ラメシュに声をかける。
「おう」
丁度アイスクリームの器を空にしたラメシュは、一口で食べ終えて待機していたタマライの背を撫で、彼女に跨った。
「じゃあな。ま……短い間だったが、楽しくやらせて貰ったぜ」
「グルルゥ!」
さらりと挨拶を済ませ、ラメシュとタマライは船の方へと向かう。皆が見送る中、一度だけ彼は振り向き、片手を掲げてみせた。
「お前達の
ヴラダ教の祈りの言葉である。
「海の恵みよ――」
と、エイダンは遠のく彼らの背に、大声で返した。
「
それはイニシュカ村で、水の精霊王カルに祈る際の祝福の言葉だった。漁の前に祈れば乗る舟は沈む事がなくなり、食前に祈れば飢える事がなくなるという。
ラメシュの信仰する精霊王とは違っても、その
エイダンは、自分と同じ火の治癒術士とその妻の旅路に思いを馳せた。彼らの前途が、常に明るくあるようにと。
「あらら、ラメシュの奴さっさと行っちゃったなぁー」
「彼らしいと言えば彼らしいですね」
揃って顔を見せたのは、ミカエラとハリエットである。
「イニシュカ村行きの特別便も、出港準備完了だってよ」
ミカエラが親指で、一隻の船を指し示す。見覚えのある優美なシルエットの、巨大な帆船だ。往路で使ったものと同じ船に乗れるらしい。
「じゃっ、ぼくら他の仕事もあるから、ここで」
「皆様には本当にお世話になりましたわ。どうかお元気で」
カフェテリアの席を立つ一行に、軍人らしい素早い敬礼を見せてから、ミカエラ・プライス少尉とハリエット・プライス中尉は、各々の持ち場へと戻って行った。
「では……航路については、船長と船員に任せてあるから。私もここで失礼するわ」
そう発言したのは、サンドラ・キッシンジャーである。
彼女はシェーナの前に立ち、深々と溜息を吐いた。
「これっきりになりそうね、シェーナ。貴方は、小さい頃から理解しきれない娘だったけど。まさかここまでするとはね」
「とっくに勘当済みでしょ? 二度と家の敷居を跨ぐな、くらいは言ってもいいのよ」
すかさずシェーナが応戦する。意地を張る時に、細い鼻先をやや上向ける癖は、母子でそっくりである。
『ここまでするとは』とのサンドラの言葉が、一体どういう意味なのか、エイダンには今一つ分からなかった。が、シェーナは理解している様子だし、フェリックスは何やら気まずそうにしている。
「そんな事は言わないわよ」
更に重ねて、ふっと短い息を吐いたサンドラが、船の方へ目を逸らしつつ言葉を紡ぐ。
「私は去る者を見苦しく追うのは嫌いだけど、一旦去った者が戻ってきたからと言って、それを拒みもしないわ。……またいつでも、家の扉を叩きなさい、シェーナ」
シェーナが、紫がかった海色の瞳を丸くした。
やり込められたような気分なのか、彼女は少し不貞腐れた表情を浮かべながらも、素直に頷いてみせる。
「甘えるつもりはないけど。でも、そう言ってくれるのは嬉しい。ありがとう、母さん」
僅かな時間、視線を交錯させて、シェーナはサンドラに背を向けた。
「エイダン・フォーリー。貴方もよ」
「はい?」
予期しないタイミングで名を呼ばれ、エイダンは目を瞬かせる。
「自分に相応しい富や名声が欲しくなったら、私の下にいつでも来なさい。協力するから」
「……はい。あんがとうございます」
多分、これが彼女による、精一杯の好意の表し方なのだろう。エイダンは笑顔で一礼した。
そうして、一行はイニシュカ行きの船へと乗り込む事になった。
船が出航する。
波止場には、エドワーズやホワイトフェザー騎士団のモーガンも立っていた。手を振る彼らの背後には、華やかで壮麗な街並みが広がる。しかし南側には、アイザック達の住まう貧民街もちらりと望める。街の中央には、変わる事のない美しさを誇る聖ジウサ廟がそびえ立ち、遥か西の丘には宮殿がある。
かつて、少年時代のエイダンが本の中で知り、想像を膨らませていた景色とは、少し異なって見える首都ダズリンヒルの全貌。
小さくなっていく街並みを、甲板に立つエイダンは、飽く事なく眺めていた。
「エイダーン、あまり潮風に当たってちゃ駄目よ」
「まだ全快とは行かないらしいぞ、君は」
シェーナとフェリックスが呼びに来た。エイダンは手摺から離れ、二人の方に向かおうとして、ふと思いついた事を口にする。
「なあ、そういやシェーナさん。サンドラさんが言うとった、『ここまでするとは』って、何の話?」
彼女が故郷ダズリンヒルに
首を捻るエイダンに対して、シェーナとフェリックスは揃ってぽかんとした。
「え――あれ? フェリックス、エイダンに話してなかったっけ?」
「うん? ……僕はてっきり、シェーナが話したものかと」
「体調が戻ってからと思って……あっ、言ってなかった……?」
「な、何を?」
答えを急かすと、シェーナは何事か、言葉を探るように視線を
「あたし――フェリックスと結婚して、一緒にアシハラに行くの。そこで式を挙げる予定」
船が波を切る音が、遠くから聞こえる。
「えっ……ええええええ!?」
水平線に、エイダンの絶叫が響き渡った。
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