第115話 アビスフォートの獄囚 ⑤

 アビスフォートから南西方向、直線距離で約二七〇キンケイドル先――

 聖シルヴァミスト帝国シェルリッド州、フェザレイン。


 西部最大の国際貿易港を擁するこの街の波止場は、夜更けとあっても、多くの船乗りや商人達で賑わう。

 その一角、労働者向けの木賃宿や酒場の建ち並ぶ通りに、呆然と立ち尽くす一人の男の姿があった。

 マルク・ドナーティである。


「おい、おいにいやん!」


 背後からきつい西部訛りで呼びかけられて、ドナーティはぽかんとした表情のまま振り向く。

 港湾労働者らしい赤ら顔の男が、何枚かの紙を片手に立っていた。


「あんた、日雇いの仕事とか探しとるクチやろ? わいはそこのドックの者や。明日の修理作業員が足りひんで困っとんのやけど、興味あらへん? 仕事内容と日当はこれ」


 男がドナーティに、紙を押しつける。契約書を兼ねているらしいその走り書きを、反射的に彼は受け取った。


「なんや、囚人服みたいな妙なナリやな。けどまあ身綺麗な方や。兄やん、船乗り? それとも土木?」

「……料理人だが」


 まごつきつつも、やはり反射的に、ドナーティは応じる。相手は「ほう!」と歓喜の相槌を打った。


まかないを任せられる人手やったら、特に大歓迎やで。美味いようなら、日当に色付けるんも考えるさかいに」


 手近な木箱の上に、契約書と筆記具をいそいそと広げる男を後目しりめに、ドナーティは辺りを見回す。


「ここは……フェザレインか? わ……私は確かに、さっきまで牢に……」

「おいおい、頼むで。この時間のこの通りでは珍しゅう、素面しらふっぽい思うて声かけたんに、悪酔いしとんのかいな。明日は朝一番からやぞ」


 男は眉をひそめつつも、ドナーティに羽根ペンを手渡した。


 ――そんな遣り取りを、煉瓦造りの倉庫の屋根から、エイダンは見下ろしていた。


「ドナーティさん、えらい困っとるが。状況を説明せんでも良かったんかな」


 そう言って、そろりと横に目を向ける。

 魔杖ダラを肩口に引っ掛けたカリドゥスが、同じように、ドナーティの様子を見下ろしている。


「俺はとっくに別れの挨拶を済ませた。心配なら、お前が後の世話を焼いてやったらどうだ」

「いんや……だけんこれ、一応悪い事じゃって。犯罪者だと分かっとる人を逃がしたりかくまったりすると、シルヴァミストでは――」

「イドラスでも犯罪だ。……じゃあ、何で付いて来た上に、黙って見てる?」

「あんたが誰かに怪我させそうなじゃったら、止めようと思うて」


 そうは言っても、部分的にでもヴァンス・ダラの力を借り受けたカリドゥスの行動を、今のエイダンが止められる見込みはない。ただ、放っておく訳にもいかなかった。


 一度唇を引き結んでから、エイダンはまた口を開く。


「でも……あの……ちょい、ほっとしたっちゅうか。カリドゥスさんの願い……人助けだったんじゃね」


 マルク・ドナーティの、監獄からの解放。

 それが、カリドゥスがダラに望んだ事だった。


 エイダンは意外に思ったが、精霊王ダラもまた、やや拍子抜けしたような顔で、その願いを聞き入れた。


 暗黒の空間――ダラの『居室』から出されたエイダンとカリドゥスは、共に魔杖を掴んだままの姿勢で、ひとっ飛びにドナーティのいる独房まで移動した。

 驚愕に声を失い、硬直しているドナーティを連れて、彼らはまたも飛ぶ。


 シルヴァミストの北東部から、西部の港まで。あれほどの超高速で移動したのだから、グリゴラシュに運ばれた時よりもっと凄まじい強風を浴びてもおかしくないはずだが、不思議と何の衝撃も感じなかった。

 魔道具マジックアイテムの一つ、伝書蝶でんしょちょうのような仕組みの移動魔術だったのかもしれない、とエイダンは考える。ただ、移動速度も運べる荷の重量も、比較にならない程に優秀だ。


 ともあれ、強制的に脱獄させられたドナーティは、一言の説明もなくフェザレインの港に捨て置かれる事になった。


「助けたって程でもない。……この上、どうしてもまた捕まって罪を償いたいってんなら、もう知ったこっちゃねえ」


 雑踏に紛れていくドナーティの背を見送って、カリドゥスは呟く。


「まあ、何とでもするだろうさ。俺よりは器用に立ち回れる奴だ」


 やや皮肉がかった口調でそう付け加えて、彼は魔杖を掲げた。

 エイダンは慌てて、再度杖にしがみつく。


「願いは叶えられたか? じゃあ、戻りな小僧共。一応言っておくが、私を捨てても、抱えたままでも逃亡は無駄だぞ」


 杖の内側から、ダラの声が沸く。分かってるよ、とカリドゥスがぶっきらぼうに返答し、それからすぐに、二人の周囲は漆黒に包まれた。



   ◇



 寝入りばなの落下感にも似た不可思議な感覚に襲われ、エイダンははたと目を開く。

 見渡せばそこは、アビスフォートの一角。最初に降り立った、塔の屋上である。空の様子を見るに、夜が明けるのはまだ先だ。つまり、フェザレインまでの往復はごく短時間で済んだという事になる。


「……ほんま、ごうげな力じゃなあ。闇属性ちゅうのは」


 ありきたりな感想ではあったが、エイダンは改めてそう言わずにはいられなかった。


「戻ったか。願いとやらは果たせたのだな」


 不意の声にそちらを向くと、ヴァンス・ダラとコヨイ、グリゴラシュが立っている。


「果たした」


 カリドゥスは端的に応じて、魔杖をヴァンス・ダラの方に突き出す。


「まだこいつは、正式にはあんたの持ち物……いや、杖の方が『あるじ』なんだと。そう言ってる」

「無論だ。この肉体の寿命が尽きるまでは。お前はあくまで、次代の候補に過ぎぬよ」


 至って当然と言いたげな態度で、ヴァンス・ダラは杖を受け取った。徒手となったカリドゥスは、肩を竦めてみせる。


「次代に指名するのはいいが、順当に行けば、あんたより先に俺が死ぬだろ。何しろ獄囚だ。裁きはまだだが、極刑はほぼ確実」

「ここを抜け出し、生き延びる気は毛頭ないと?」

「だから、どこで生きろっつうんだよ」


 うんざりした風のカリドゥスに対し、ヴァンス・ダラは事もなげに、魔杖を虚空へと掲げてみせた。

 鎌状の装飾が示す方角は、北である。


「往く宛てはある。北の不毛の大陸。魔なるもの共の生きる土地だ」


 エイダンとカリドゥスは、同時に目を瞠った。


 ヴァンス・ダラが北の不毛の大陸を拠点としている、という噂は、確かに耳にした事がある。しかし人類にとって、そこは未知の大陸だ。

 文字通りの前人未踏。航路の気候が厳しいだとか、潮流が悪く上陸が困難という理由からでもあるが、何より、周辺海域から沿岸部、その上空にまで凶悪な魔物モンスター跋扈ばっこしていて、誰一人安全に近づけないという事情があった。


「危ないんと違いますか? そこって」


 つい、エイダンは口を挟んだ。


「危険だとも。俺ですら、食うか食われるかの日々だ」

「えっ。でもヴァンス・ダラさんは、魔物モンスターから尊敬されとるんじゃ? コヨイさんらもおるし」

「そう理性的な者ばかりではないぞ、かの種族は。そして一枚岩でもない。アジ・ダハーカを見ただろう。一度ひとたび自尊心を刺激されたからには、相手を食い殺さずにはいられぬ者も多いのだ」

「はぁー……そら、しわいな」


 想像を絶する。エイダンとしては、ただ溜息と共に目を瞬かせるしかない。


「だが、その混沌は時に心地良くもある。法も秩序もなく、欲求の赴くままに闘争する者らの荒野だ。……相応の力さえあれば、相応に生きられる」

「何がええんか、俺には全然分からんです」

「お前にはそうだろうな」


 ヴァンス・ダラは軽く肩を揺すって笑い、エイダンからカリドゥスへと視線を移す。

 彼は相変わらず、つまらなそうに首を傾げるばかりだ。


「処刑台で死ぬか、魔物モンスターに食い殺されるかの違いって所だな」


 そう言ってカリドゥスは、夜の闇の中で数歩分歩みを進めてから、その場の全員を振り返った。


「……いいぜ。付き合おう。北の地での、魔物モンスター共の馬鹿騒ぎに。しおらしく処刑具にこうべを垂れるのも癪になってきた」


 エイダンが「ほんまに?」と口走ると、暗がりの向こうからこちらを睨む気配がある。


「止める気か?」

「いんや……無理じゃけど」


 彼に対して、脱獄など許さない、このまま座して裁きを待てと言うのが正しいのかどうか。

 エイダンには、そこからもう分からなくなっている。

 人間の社会ではどうしても生きていけない人間。世界に絶望するしかない人間。魔のものと手を組むしか選択肢の残されていなかった人間。そういう存在は、確かにいるのだ。……良いか悪いかはともかく、今目の前にいる。


「でもやっぱ、分からん。ヴァンス・ダラさん、なして俺をここに連れて来たんです? 今の俺は魔術だって使えんし、カリドゥスさんを引き止めたり戦ったり出来る訳でもなぁし。役立てる事なんか、何もないんに」

「――だって」


 唐突に、切実な声を発したのは、コヨイだった。


「エイダンくんに、一緒に来て欲しかったからヨ。ワタシ、心配なのヨ」

「心配?」


 エイダンは面食らいながらも、おうむ返しに問う。

 それには、ヴァンス・ダラが応じた。


「お前はだからな、エイダン・フォーリー。失望も絶望も。人間という種が、どんな魔物より恐ろしい側面を持つ事実も」


 何と返答したものか戸惑うエイダンの前に魔杖を突きつけ、ヴァンス・ダラは続ける。


「このたびの事件で、お前はシルヴァミストの要人らに存在を知られた。稀なる火の治癒術士として。……この先の生き様は、今までどおりとは行かぬだろう。様々な人間が眼前に現れる。金や暴力で、その力を意のままに操ろうとする者。嫉妬や値踏みの視線を向ける者。その中でお前は、人の世を憎まずにいられるか」


 そこで、魔杖将は杖を降ろした。かつん、と石畳に先端が当たる。


「我が娘は……コヨイは、お前の身を案じている。お前が絶望する様など見たくないと申した。それくらいならばいっそ、今の内に世のあらゆる煩わしいものから遠く離れ、自由になってしまえば良いと」


 ふっと口元だけに笑みを浮かべ、彼はもう一言告げた。


「闇の精霊王の従僕こそは、真の自由の徒だ。……奇妙な物言いに聞こえるかもしれんが」


 次代の魔杖将の座を、エイダンに。そうコヨイが推薦したのは、こちらの身を案じての事だったようだ。エイダンは、一応腑に落ちるものを感じ取る。


「そがぁ――じゃったかね。コヨイさん……」


 エイダンに見つめられ、コヨイは照れた様子で頬を赤らめた。


「エ――エイダンくんは、妖精でも魔物でも、仲良くなるの得意でショ? ネ、一緒に来ない? ワタシもお兄様も歓迎ヨ!」


 熱を篭めて訴えるコヨイの傍らで、グリゴラシュが「オレは別に……」と言いかけたが、義妹に睨まれて外方そっぽを向く。


「……そう言うてくれるんは、有難い事じゃけど」


 そして、コヨイの心配は間違っていない。そんな風にエイダンは思う。


 ――自分は人間の残酷さや世界の恐ろしさなど、まだ何も知らない。

 平和な島で、優しい人々に囲まれて、ただの呑気者として育った。身体も頭も特別頑丈には出来ていない。だからこの先、何か耐え難い悲劇が起きたとして、心身の正常を保てる保証などどこにもない。失望、絶望、憎悪。そういった感情に身を委ねてしまう日が、来るかもしれない。


 ――しかし、それでも。


「でも……俺、帰りたい所、もうあるけん」


 一語ずつ、エイダンは答えを口にした。


「俺一人じゃと、そんなに強うはないけど。でも、ばーちゃんや島の人らや……シェーナさんやフェリックスさん、仲間のみんな。その人らのおる所に、帰りたいと思えとるうちは」


 世界のどこにいようとも、どんな絶望が訪れようとも。


世話せあないと、思うけん」


 帰るべき場所。――それはきっと、皆が持っているがそれぞれに異なるものなのだろう。

 ハオマは住まいを持たず、信仰に一生を捧げている。彼の帰る場所は、心の内にある。

 フェリックスは、シェーナがいる場所ならどこへでも、と言うだろうか。しかし彼は同時に故郷の人々も愛している。マディもまた、スミスベルスの冒険者である事を誇りとしている。

 ホウゲツ、ラメシュ、タマライ……大海を渡る長旅の途上にある人にも、各々の帰り着く先がある。


 人の世の不完全な秩序を放棄し、心の赴くまま混沌を振り撒く――それが魔杖将ヴァンス・ダラの唯一の務めだと、闇の精霊王は語った。


 そのための強大な力。魔杖将という名以外、一切の帰属を持たなくとも、相対する者がひれ伏し、父と呼ばれ崇敬される程の。

 それが、真の自由?


 ――だが、だとしても、エイダンの幸福はきっとそこにはないのだ。


「ヴァンス・ダラさんはごうげな人じゃけど。……俺はほどほどがええ」

「ほどほど? 何がヨ?」

「何でも。自由過ぎるんも困るし、あんまり締め上げられるんもしわいわぁ」


 そう言い終えて、エイダンは眉尻を下げたまま笑った。コヨイに対して酷な事を言ってしまったかもしれない。しかし必要な答えだった。


「……そう」


 と、コヨイは寂しげな顔になり、静かに頷く。それから彼女は、不意ににんまりと、紅を刷いた唇の端を三日月型に吊り上げた。


「エイダンくん、好きな子いるネ?」

「へっ!?」


 目を丸くするエイダンである。


「帰りたい場所の事、思い出した時に、大切な誰かの顔も一緒に頭に浮かべたネ? ワタシの目は誤魔化せないヨ」


 確かに、イニシュカの風景を思い出した時、脳裏には自然と、ロイシンの姿も浮かんでいた。

 だが、鋭いにも程がある。彼女の目には心を読む力でも備わっているのか? それとも、エイダンはそんなに分かりやすく単純な表情筋を持っているのだろうか?


「アーア。お父様、お兄様! ワタシ、フラれちゃったヨ!」

「ほう? 聞き捨てならんな」


 ヴァンス・ダラとグリゴラシュが、同時にぎらりとした眼差しをエイダンに向ける。

 エイダンは震え上がった。こんな恐ろしい展開は予期していない。


「お前――」


 急に背後から声がかかり、何でも良いから助け船が欲しくて、エイダンは「はい!」とそちらに首を巡らせた。

 カリドゥスがしかめ面をしている。


「何だそのいい返事。……お前のシルヴァミスト語、やたら聞き取りづらいと思ったが、どこか離れ小島の出身なのか」


 島の人ら、と言ったのを聞き止めてのものらしい。


「あ……はい。田舎の出です。シルヴァミスト標準語ちゅうのがどうも、喋れんで」


 後ろ髪を掻きつつ肯定すると、カリドゥスは僅かながら眉間の皺を緩めた。何か懐かしい景色でも見出すような目で、エイダンとその向こうの夜空を眺めている。

 少しの沈黙の後、彼はごく低く呟いた。


「俺も、帰りたかっただけのはずなんだがな」


 あの島に――と、その部分はほとんど声になっていなかった。

 吐息だけのその言葉の重さに、エイダンは押し黙る。

 帰る場所の全てを失い、魔物のうごめく北の地へ赴こうとしている、次代の魔杖将候補となる男に――エイダンはこの時、確かな情を感じていたのだ。

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