第114話 アビスフォートの獄囚 ④

 「バーティ、もうせ。……バーソロミュー!」


 誰かの悲痛な声が、すぐ傍で聞こえる。

 サングスターか、とエイダンは思い当たった。だが、どうも違和感がある。彼の声に近いが、もっと若々しい。


「リュートは死んだ。いくら君でも、死者の蘇生は出来ない。そうだろう」


 目を開けると、目の前に若い魔術士が立っていた。やはりサングスターによく似た顔立ちである。いや、間違いなく本人だ。


 ――これは五十年前の彼だ。


 何故だかすんなりと、エイダンはそう理解した。

 無論、五十年も昔のサングスターの姿など知らないはずだ。では、今見ているこの光景は?


「……俺のせいだ。俺がリュートを死なせた。結界を張るのが遅れたせいで!」


 言いようもなく悲痛な、呪詛に近い反論の声が、向かい側から上がる。

 声の主は――ヴァンス・ダラとよく似た男だった。

 ただし髪色は漆黒ではなく、淡いブラウンで、瞳の色も同じだ。青い僧衣を着込み、全体の雰囲気は随分と、現在のヴァンス・ダラとは異なる。年齢もいくらか若く見えた。


 ――バーソロミュー・カニンガム。通称をバーティ。勇者リュートの仲間。ギデオン・リー・サングスターの親友。


 そんな情報が、エイダンの頭に流れ込んでくる。


 バーティは、片手を前方にかざしていた。彼の手の平の真下では、一人の青年が仰向けに倒れている。

 雪のような銀白色の癖毛が床に散り、琥珀色の両眼は、光を失った状態で見開かれていた。いかにも健康な若者らしい顔色だったであろう、その頬から、急速に生気が失われつつある。

 彼の首から胸部にかけては血に染まり、損傷具合から見て、既に絶命しているのは明らかだった。


 ――リュート・カルホーン。その遺体。


 バーティが、短く呪文を詠唱する。彼の手が光を帯びる。が、リュートはぴくりとも動かないままだ。

 詠唱の内容から、治癒術という事は分かった。だが、死者を蘇らせる治癒術など存在しない。古今、数多あまた治癒術士ヒーラー達がその術の開発に着手してきたが、完全に生命の消え去った肉体を、もう一度本人として再生する事には、未だ誰一人成功していないのだ。


「バーティ……。あんたのせいじゃないよ。あんたはあたし達を守ろうとして結界を張ってた。リュートが飛び出すのを、誰も止められなかった。そのお陰で……あたし達は、任務を達成した」


 大陸出身と思われる、黒髪に褐色の肌の女性が、遣る瀬ない表情で手にした武器を鞘に納める。


 ――彼女は、ジェマ・アベド。のちに冒険者ギルドを大きく発展させる人物だ。


「そう……これで仕事は終わりよ。見てのとおり、ヴァンス・ダラは死んだ」


 背後を振り向いたジェマの視線の先には、もう一つ、遺体が横たわっていた。

 黒い三角帽子にローブ。髪色も黒く染まっているが、その容貌はアビゲイルのものである。彼女もまた虚ろに紅色の両眼を開き、血溜まりの中に沈んでいる。


「……だから、何だと言うんだ」


 低く、呻くようにバーティは声を絞り出す。


「任務が終わったから、何だ? 俺達は……散々国に利用され、民衆に持ち上げられ、休む暇もなく、何年も戦ってきた! その果ての結末がこれか!? こいつに、リュートに、どれだけの幸福な時間があった!?」

「バーティ。我々には、それらの任務をこなせるだけの実力があったんだ」


 サングスターが強い口調で仲間を諌める。


「力のある者には、責務がある。世の中の秩序と平和を守るためだと……皆納得の上でここまで来たんじゃないか!」

「納得など!」


 バーティが吠えた。リュートの遺体の傍らに屈み込んでいた彼は、ふらりと立ち上がり、倒れたアビゲイルの――ヴァンス・ダラの方へと歩みを進める。


「こんな結末に、納得などしていない……責務も、秩序も……糞喰らえだ。俺は――」


 ヴァンス・ダラの遺体は、右手を半端に伸ばしていた。その手の中から零れ落ちたらしい、長い杖が床に転がっている。

 鎌に似た禍々しい形状。大きな赤い加護石。あの『魔杖まじょう』だ。


「俺は――人の世の平穏にすら、興味はなかった。……ただ、この治癒術の才が、リュートやお前達の助けになればそれで……」


 バーティが杖の前に立つ。

 ジェマが息を呑んだ。


「何を……する気、バーティ!?」

「彼を救えない程度の才であれば、意味はない。最早興味もない」


 仲間の呼び声が聞こえないかのように、淡々とバーティは呟き、そして足元の魔杖を、躊躇なく手に取った。


「今、必要なのは……知識と力だ」


 俯いたバーティの顔にかかる髪が、どこからともなく吹き込んだ風に、ざわめく。

 立ち竦む仲間達の目の前で、彼の波打つブラウンの髪は、徐々に漆黒へと染まりつつあった。


「バーソロミュー……まさか……何という事を!」

「杖を手放して! バーティ、やめて!」


 サングスターとジェマが口々に訴える。

 彼らに応じるでもなく、バーティは顔を上げ、虚空に向けて嗤った。

 その瞳は紅玉よりも赤く、妖しい光を帯びている。


「……!」


 咄嗟の判断だったのだろう。サングスターが自身の杖先を、バーティに向けようとした。

 が、彼が身構えるよりも一瞬早く、その場に猛烈な風が吹き荒れる。


「ぐあッ!?」

「きゃあ!」


 空気の刃に弾き飛ばされ、サングスターとジェマは壁際まで転がった。

 間を置かず、二人の背後にそびえ立つ岩の壁が、不気味な音を立てて揺れ動き始める。


「この住処すみかは……もう必要ないな。崩すとしよう」


 ぱらぱらと破片を落として震える天井を見上げながら、悠然と、バーティは告げた。


「ギデオン、ジェマ。……ここを去れ。リュート・カルホーンも、バーソロミュー・カニンガムも死んだと、そう報告するがいい」


 瓦礫が崩れ落ちてくる。

 ジェマの頭上に迫った瓦礫を、サングスターが魔術で打ち払った。彼は立ち上がるや否や、ジェマの手を取り、崩れゆく広間から駆け出す。


「バーティ……リュート……!」


 ジェマの泣き声に近い絶叫が響き、それもすぐに、重い崩落の音に掻き消された。


 そして――エイダンの周辺は、完全な沈黙と暗闇に包まれた。




   ◇




 「……今の光景は、何だ?」


 唐突に、ほとんど耳元で声が湧き、エイダンは飛び上がった。横を見ると、カリドゥスが立っている。


「わぁっ」


 もう一度その場から飛び退いて、距離を取る。相手はじろりとエイダンを睨んだ。


「カリドゥス――さんも、同じもん見たん?」


 恐る恐る、エイダンは話しかける。


「昔のヴァンス・ダラさんが……」


 と続けようとしたところで、


「同じだ」


 撥ねつけるような答えが返ってきた。

 非常に気まずい。何故、こんな何処ともつかない闇の中で、彼と二人きりになっているのだろう。


 エイダンが後ろ髪を掻こうとした、その時だ。


やかましい小僧共だね。ここは私の『居室』だ。あるじのお出ましだよ、静粛にしたらどうだい」


 またもや突然、新たな声が降ってきた。今度は、全く聞き覚えのない声音である。

 降ってきた、というのは文字通りの状況で、その声の主は、エイダン達の見上げた先、何もない空間にぽつりと浮かんでいた。


「二人の魔術士が、同時に『魔杖』に触れたりするもんだから……おかしな魔力の流れ方になって、嫌な記憶を見せちまったじゃあないか。私だってね、あんな後味の悪い出来事、好きこのんで覚えてる訳じゃないんだよ」


 淡々と文句を垂れながら、その人物は浮遊する位置を下げていく。手足を動かしている様子はなく、滑車で昇降する台にでも乗っているかのようだった。


 エイダンと無理なく視線が合うくらいの高さまで降りてきたその人は、差し当たって、一人の人間の女性に見えた。

 足元まで届く長い黒髪。美しく整った肢体に、湯着のような薄い布一枚で作られた衣をまとっている。どうかすると煽情的にも思える装いだが、彼女はどこか彫像のような、人間味のない冷気を漂わせていて、そのためか好悪の感情が沸きづらい。年齢も読み取れない。エイダンと同世代にも見えるし、母親くらいの歳にも見受けられる。


「『将』の候補は、二人、か。しかし、少しばかり毛色の珍しいのを連れてきたもんだね」


 そう言って彼女は、まじまじとエイダンを見つめる。

 エイダンは落ち着かない気分で口を開いた。


「どっ……どちらさんでしょうか」


 すると相手は、いくらか不機嫌そうに片眉を跳ね上げる。ようやく、僅かばかりの人間らしさを感じ取れた。


「何だい、自分から触れておきながら、察しの悪い。私はダラ。精霊王を名乗り……のちには愚王ぐおうと呼称された、原初の魔女だ」


 薄々とそんな答えが返ってくるような気はしていたが、それでもエイダンはしばらく、眩暈めまいにも似た衝撃と混乱を味わった。


「……人?」


 というのが最初に漏れた感想である。

 古い伝承歌の中では、精霊王は大体、動物の姿で詠われている。イニシュカ村で信仰される水の精霊王カルは海亀、ハオマが信仰する地の精霊王サヌは蛇だ。


 光の精霊王ユザのみ、天秤を掲げパピルスを手にした人間の賢者の姿でえがかれる事が多いが、これも人類を教え導くために人の姿を取っているに過ぎず、本来は『かたちを持たぬ、虹のごとき存在』と伝えられている。

 だから昔は、ユザの偶像崇拝の可否を巡って、ユザ教内で大きな論争が起きたりもしたそうだ。


「そう、人間だったとも。勿論、生物としての肉体はとうの昔に滅んださ。けど、私を構成する情報は全て『魔杖』の中に納めてあるし、生者と対話をしたければ、こうして自分の領域に呼び込む事も出来る。自在に歩き回るのは難しいがね、それは私を持つ『将』の役割だ」


 その口調は、まるでイニシュカの湯治場の、常連客である主婦達の世間話だった。それでいて話の内容は、途方もない魔道技術の説明ときている。

 エイダンにも彼女の言う事の全ては理解しきれなかったが、一先ず質問は返さず、「そがぁで」と、素直に頷くにとどめた。

 すると意外にも、ダラは薄く笑みを浮かべてみせる。


「やっぱり、『将』の候補にしては珍しい気質だね。ヴァンス・ダラめ、こんなのを連れて来ちまって、悪趣味な奴だよ」

「いやあの、悪趣味て」


 思わずエイダンは、相手が何者かも忘れて抗議の声を上げた。

 今夜はもう散々な目に遭っているのだ。入院中の患者だというのに治療院から誘拐され、軍事施設への不法侵入に付き合わされ。この上、置き場を間違えたインテリアのようになじられては、堪ったものではない。


「そらぁなんぼなんでも酷いです」

「怒るこたないだろ。お前をあざけった訳じゃないんだから」


 いよいよダラは、声を上げて笑った。この人を喰った態度は、どことなくヴァンス・ダラに通じるものがある。


「お前達。ヴァンス・ダラたる者に最も適しているのは、どんな奴だと思う?」

「へっ?」

「……」


 突然の質問に、エイダンとカリドゥスは、ちらりと視線を交わす。

 カリドゥスは問答に付き合う気などなさそうだ。


「強い、魔術士……じゃろうか」


 仕方なくエイダンが回答すると、ダラは人差し指を振ってみせた。


「半分正解だ。確かに、ある程度は魔術の才能を持つ者が望ましい。お前達はどちらも、その点では合格ラインだ。しかしそれだけでは不十分なのさ」


 さっさと降参して、正答を聞いても良かったのだが、エイダンは何となく、その場で考え込んだ。


 先程見せられた、遠い昔の光景。一人の優れた治癒術士ヒーラーが、ヴァンス・ダラへと変わり果てる瞬間。――彼は何に魅入られたのか?


 ふと、視界の隅、暗闇の奥に何かの気配を感じて、エイダンは顔を上げる。

 そこにぼんやりと、アビゲイルの姿が浮かんでいた。

 これもダラが見せている、遥かな過去の情景だろうか。彼女は、紙束を抱えて泣いていた。目の前には火の燃え盛る炉。数名のローブの女性――恐らくユザ教の修道女達――が、彼女を取り囲んでいる。


「アビゲイル・スウィンバーン。さあ、その論文を棄てるのです。そうすれば異端審問は免除される」

「なしてと、先生……そんなん嫌です!」

「ヴラダ密教を肯定する内容の論文など、認められる訳がないでしょう! 何故模範的ユザ教徒の貴方が! 今破棄しなければ、破門の上、罪人として罰されますよ!」

「ばってん、この記述は必要ったい! うちの実験も記録も、間違まちごうとらん! 発表させて下さい、うちゃあなんも、やましい事は……!」


 会話が聞き取れたのはそこまでだった。激しい揉み合いが起き、アビゲイルの手から紙束が取り上げられる。

 彼女が書き上げた論文と思われる紙束はすぐさま、炉の中に放り込まれた。


「嫌ァアアア! やめて! やめてぇええええええ!!」


 自身が燃やされているかのようなアビゲイルの悲鳴が、闇の中に響き渡る。


「これは……アビゲイルさんの記憶、ですか」


 耳を塞ぎたい衝動に駆られながら、エイダンはダラに問う。


「そうさ。あの子がヴァンス・ダラになる直前の事だ。おおよそ、一二〇年前か……彼女はそれなりに長命な『将』だったが、最期まで自分を追放した学府を許さなかった」


 そこで不意に、沈黙を保っていたカリドゥスがダラへと視線を注いだ。


「ヴァンス・ダラたり得る条件……」


 どこか陰鬱な口振りで、彼は続く言葉を紡ぐ。


「絶望……いや、か」


 ダラが口の端の笑みを深めた。


「そうだとも、正解だ」


 再び静けさの戻った暗黒の中で、ダラは滑るように、カリドゥスの前へと進み出る。


「人の世の秩序、その不完全さに失望した者。それがヴァンス・ダラの条件だ。――闇の将の任務は一つきり。心の赴くままに、混沌を振り撒く事だからね」


 ――さあ、『将』たるを望むならば力を振るえ。

 ――お前の望みは何だ。


 歌うようなダラの問い。

 それに、カリドゥスは応じた。

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