第77話 開会式にて ①
聖ジウサ・アリーナの救護室は、観客席の階下に位置している。
普通の建築で言えば一階部分にあたり、窓からは競技場と客席が見渡せた。フィールドは間近で、ある意味特等席だ。
窓辺には、治癒術を使うのに大量の蒸気を発生させる、エイダンの風呂桶とラメシュの鍋窯が鎮座していた。
蒸気で客の視界を
「……救護室に泊まれるな、これ」
米に野菜、そして水の入ったバケツを運び込んできた、ラメシュとタマライとエイダンを見て、ミカエラはいささか呆れ顔である。
「タマライさん、豆の袋はここでええかいね」
荷下ろしを手伝うエイダンが、袋を積み重ねつつタマライに訊ねると、彼女は頷き、エイダンに歩み寄って首元をぺろりと舐めた。
親愛を表してくれているようだが、牙が近づくと怖い。
「患者の全身を湯に入れて癒やす、加熱特化の治癒術か……珍しいもん使うんだな」
早速仕込みに入ったラメシュが、米を研ぎながら、隣の風呂桶を眺めて感想を述べる。
「風呂の治癒術は、テンドゥでもあんまり見かけんの?」
エイダンが問うと、「ああ」とラメシュは短く応じて、次は野菜を刻み始めた。
救護室の一角に設けられた調理場は手狭だったが、ラメシュは手際よく仕込みを済ませていく。エイダンは感嘆の息を吐いた。
「ええなあ、料理で治療出来たら。なんか、食べてまうと効果が薄れるんよな。俺の治癒術」
「西洋の魔術は何かと大雑把だから、そのせいじゃねえのか? あの東洋人……ホウゲツだっけか。あいつも、魔術の質が違うとか何とか言ってただろ」
ラメシュが包丁を置いて、救護室のベッド側を指差す。先程からそこでは、ホウゲツとフェリックスが東洋式治癒術の練習を行っていた。
「うむ、
「おっとすまない、力加減を間違えた。しかし、アシハラの人は脚が変な方に曲がるんだな?」
「我が国には正座や
「あっ、また間違えた」
「おい、拷問部屋じゃないんだぞ。これじゃ患者が来た時、怯えさせてしまう」
ベッドを仕切るカーテンをめくって苦言を呈したのは、マディである。手脚を胴体の下に収納したような、妙な姿勢でベッドに寝そべるホウゲツが、ばつの悪そうな顔でこちらを振り向いた。
「お騒がせして申し訳ない。大会が始まるまでには、一旦終えるゆえ」
「ああ、そうしよう。しかし、早くも何かを掴めたような気がするぞ! これはいけるんじゃないだろうか!」
パン生地か何かのように、ホウゲツを上から押さえ込むフェリックスは、いつも以上に楽しそうだ。
宿での約束以来、フェリックスは空き時間を見つけては、ホウゲツに東洋式の治癒術を教わっている。エイダンには、何をやっているのかいまいち分からないが、彼らは何がしかの成果を見出しているらしい。
「……ラメシュさん、俺もテンドゥの結界術について、ちょいと勉強させて
フェリックス達を見て、ふと思い立ったエイダンは、隣で仕込みを続けているラメシュに、少しばかり遠慮気味に話しかけた。
祖母からある程度教わったにもかかわらず、どういう訳か、料理の腕はからっきしのエイダンである。
しかし、石鹸やシャンプーならば、一応売り出せるくらいの物を作った経験があった。アンバーセットで風呂屋を開いていた頃、魔除け効果のある手製のシャンプーを、番台で売っていたのだ。
煮出し石鹸に、結界術を篭める。このやり方にはまだ伸びしろがあるように思えたのだが、何しろ火の治癒術には、師匠も参考書もない。独学での研究は、滞っていたところだった。
「勉強?」
材料を入れた鍋を、五徳の上に据えたラメシュは、無愛想に肩を竦めてみせる。
「横で見てるくらいは構わねえぜ。別に秘伝って訳でもねえからよ」
「その材料を煮込む時に、治癒術を篭めるん?」
「そりゃそうさ。お前、食べると効果が薄れるとか言ってたが……加熱の治癒術ってのはな、繊細な加減が必要になんだよ。ほれ、見てな」
告げるなり、ラメシュは姿勢を整え、鍋の真正面で腰を落とした。
手の平が、鍋の下部に微かに触れるか触れないか、といった位置で伸ばした腕を静止させた彼は、耳慣れない言語を紡ぎ上げ、独特の動作で、肘から先をくるりと回す。
回転した手首が、薄っすらと輝き、揺らめく紋様が浮かび上がった。紋様は手の平、手の甲、指先へと、形を変えつつ広がり、遂には鍋へと纏わりつく。
しばしの間ののち、五徳の上の鍋から、ゆっくりと湯気が立ち昇り始めた。
エイダンの愛用の長杖も、特に魔術補強効果は付いていない。ただし、魔力を一点に集中させるための、照準器の役割を担っている。これがあるとないとでは、魔術の効力がまるで違ってくるのだ。
「今の、火の魔術?」
「ああ、食材に火が通った。火属性ってのは、治療に使うには勢いが強過ぎるのが欠点だ。だからただ魔術を放出するんじゃなく、こっちの身の内から食材の内部に……そうだな、『ゆっくりくるんで煮含める』ようなイメージで呪文を紡ぐ。分かるか?」
「う、うーん……?」
「逆に、強力なシールドを作りたかったら、スープ全体を一気に高温化させるって手があるぜ。この前お前が試食した奴は、うっかりそうなっちまった」
今は既に、シルヴァミストの水の性質を把握して、上手く扱えるようになった、とラメシュは得意げに胸を張った。
「やっぱテンドゥの人は、ごうげな魔術士じゃなあ」
現時点でエイダンの治癒術の参考にするには、高度過ぎたかもしれない。持って生まれた魔力の性質も、シルヴァミストの魔術士とは全く異なるようだ。
とはいえ、エイダンは大いに感動していた。
「すぐに真似するんは無理でも……こうやって目の前で見られるんは、ほんま嬉しいわ。六日間、よろしく頼んます、ラメシュさん」
興奮のままに右手を差し出すと、ラメシュは軽く目を
「おう。
ヴラダ教らしい祝福の言葉を述べる。
それから何故か彼は、エイダンの額を
「あいたっ。……え? 今んが、テンドゥの挨拶?」
「いや、単にその顔が能天気過ぎて気に入らなかっただけだ」
「えぇっ」
「ヴラダの信徒は、基本的に皆が戦士だぞ。
「いんや、俺の村はカル信仰じゃけども……」
叩かれた額を
振り向くと、タマライが足音もなく二人の傍らに歩み寄っていた。
「何だよ、タマライ。……別に、
唸り続けるタマライに対して、ラメシュは気まずそうに視線を逸らし、何やら反論している。エイダンにはタマライの話す言葉が分からないが、どうやら、ラメシュの態度を
ラメシュから魔術を学ぶにあたっては、彼女の存在が頼りになりそうだ、とエイダンは密かに考えた。
◇
「ただいま。あー、緊張した……!」
救護室の扉が開き、疲れた表情のシェーナとハリエットが揃って入ってきた。
「ハリエット、シェーナ。お疲れ!」
「大変な仕事を任せてしまって、すまなかったな」
ミカエラとマディが、二人を
シェーナとハリエットは、先程会場入りした、皇帝直属の宮廷治癒術師達との顔合わせに出向いていたのだ。
つまり、皇帝レヴィ二世もまた、この会場に到着している。
何となく窓の外を見上げたエイダンは、観客達が一様に立ち上がり、帽子を取って
観客席の最上部に設けられた、屋根と仕切り付きの
フェリックスとホウゲツも、魔術の練習を中断し、窓際にやって来た。
「シルヴァミスト皇帝陛下の
人影はごく小柄で、遠目ではあるが、イーファとそう変わらないくらいの少女に思える。レヴィ二世とイーファはどちらも十三歳なのだから、当然といえば当然だ。
頭上に銀のティアラを戴き、美しく裾の広がったドレスに、半ば
観客席の人々が、それぞれの席に座り直す。
貴賓席は、他にも何席か埋まっていた。いずれも、この国の中枢を担う貴族達だろう。
生憎とエイダンは、シルヴァミストの国民ではあるが、国の中枢にも政治にも、貴族の顔ぶれにも、さっぱり詳しくない。
帝国議会への参政権は、爵位を持つ者か地主か、高額納税者でなければ得られないので、イニシュカ島民には無縁である。
「ギデオン・リー・サングスター公も、いらっしゃるらしいわよ。今日は来られないけど、明日には貴賓席にいるって」
皇帝に対する『気をつけ』の姿勢のままのエイダンに、シェーナが耳打ちをする。
「へぇ? サングスター学長が!」
サングスター魔術学校はとっくに退学しているのに、いつまでも『学長』呼ばわりというのも妙だな、とエイダンは、口をついて出た自分の言葉がおかしくなった。
光の魔術士、帝国正規軍魔道部門最高顧問、公爵、サングスター本家当主……彼の肩書きは、他にも山のようにある。
「考えてみたら、そっか。国一番の魔術士の大会だけんな」
「……この大会の優勝者は、対魔物戦線の英雄として担ぎ出されるかもって、コヨイが言ってたんだっけ?」
「うん、そがぁな事もある、とは言うとんさったけど……」
エイダンとシェーナが、揃って思案顔になった時、救護室の扉の外から、ばたばたと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「待てっ! 不審者っ!」
「えっ!? やだやだ、なんばしよっとか!?」
警備兵のものと思われる怒声に続き、悲鳴に近い戸惑いの声を、誰かが上げる。若い女性の声だ。
「ちょ、ちょっとぉ! 選手控え室て、ここじゃなかと!?」
蹴破る程の勢いで救護室の扉が押し開けられ、その声の主は飛び込んできた。
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