第76話 都を這いずるもの ②

 しばしの間、都市の路地裏を縦横じゅうおうに歩き回り、やがてハオマは、どこかの廃屋へと導かれた。

 複数人の気配がそこにわだかまっているのを、彼は僅かな物音から察知する。正規の住居を持たない民が、数人で住み着いているらしい。


「彼が、石化させられた患者だよ」


 ドゥッリーヤがハオマの手を取り、床に横たえられた、何かの固まりに触れさせた。

 冷たくごつごつした、岩のような手触りだ。しかし慎重に探ると、それは人の形をしていた。体格からしてまだごく若い、痩せた少年だ。


「おれの兄ちゃんなんだ。お坊さん、治せる?」


 傍らで、泣きそうな声が上がった。こちらは、石化した少年よりもっと幼い、十歳前後の子供らしい。


「蛇を目撃したというのは、貴方ですか」

「そうだよ。ほんの、ちっちゃな蛇だった。そこらの野原にいるような。でも、金色っぽい縞模様が凄く綺麗で……」


 珍しい種かもしれない。そう思った兄弟は、好奇心から蛇に近づいた。

 その途端、シャーッと威嚇音を上げて首をもたげた蛇が、砂煙のようなものを、兄に向かって吹きかけたのだという。


「兄ちゃんが突き飛ばしてくれて、おれは煙を浴びずに済んだけど。気づいたら、兄ちゃんこんなんなってた」


 言い終える前に、少年はぐすぐすとすすり泣き始める。

 泣く子を慰める技術など、生憎あいにくとハオマは持ち合わせていない。多少心苦しいが、そちらはドゥッリーヤに任せて、彼は少年の兄の容態を診断にかかった。

 蛇頭琴の弦に触れ、まとわりついた呪術の根源を探る。


「……なるほど、強固な呪術でございます。確かに、人間の使いこなせるものではない」


 眉をひそめて、ハオマは呟いた。


 標的の表皮を、一時的に泥や石で覆う、といった呪術は、人の行使する魔術にも存在する。

 しかし、この患者の浴びた呪いは、それだけのものではなさそうだった。


 彼は恐らく、比較的豊富な魔力を持って生まれたのだろう。だからこそ狙われた。

 彼の体内を巡る魔力は、強引に地属性に寄せられ、更に、魔物の好む『淀み』を与えられている。石化症状は、言わばその副産物だ。

 その上で、淀んだ魔力を大量に吸い取られているようだった。


 魔力は生命力に直結する。通常、魔術の使用などによって消耗した魔力は、休養、睡眠、食事といった方法で、徐々に回復させられるのだ。血液のようなものと考えても良いだろう。

 しかしこの患者は、魔力をごっそり奪われたまま、身体の活動を停止させられ、食事も手当てもほどこせない状態に置かれている。容態は、良好とは言い難かった。


 石化症状自体は、時間経過と共に回復するとしても、自然治癒が完了するまで、当人の体力が持つかどうか。石化以前から栄養失調気味だとすると、危ないかもしれない。


「地属性の魔力を淀ませ、それを喰らう……この手法は」


 黒鳶くろとび色の瞳で虚空を睨み、ハオマは、思い浮かんだ名を口にした。


「アジ・ダハーカの所業を想起させます」

「アジ・ダハーカ――『蛇身じゃしん悪王あくおう』かい。豊かだったお前の故郷を、荒野に変えたとかいう魔物……」

「拙僧に故郷はございません」


 ドゥッリーヤの言葉をさえぎる形で、きっぱりとハオマは言う。サヌ教徒に故郷はない。あえて言うならば、大地の全てが還るべき場所だ。


 その部分以外のドゥッリーヤの指摘は、事実である。


 二十数年前、アジ・ダハーカと呼ばれる魔物とその眷属けんぞくが、北ラズエイア大陸の小国を襲った。

 羊飼い達の暮らす穏やかな草原の国は、僅かな期間のうちに、魔力の淀み切った荒れ地へと変わり果てた。


 アジ・ダハーカ自身に、一地域の環境を一変させる程の魔力はない。だが、『蛇身の悪王』の異名は、その貪欲さと狡猾さが由来である。

 人心の荒廃と戦火は、容易にそこに生きる者達の精神と、魔力を淀ませる。それこそが好物であるアジ・ダハーカは、直接的に人間を襲撃するのと同時に、国内にくすぶっていた部族間の対立を巧みに操り、戦乱を引き起こして、『淀み』を生み出し続けた。


 草木が枯れ、家畜も死に絶え、荒野となった小国。

 その片隅の特に貧しい集落に、視力を失った子供がいた。

 その子供を育てる余裕がなく、サヌ教の旅僧に預けた家族がいた。それも事実だ。

 だが、そうせざるを得なかったに対して、ハオマは何も思うところなどない。全ては済んだ事だ。


「……ただ、『蛇身の悪王』が、このシルヴァミストに這い寄り、再び淀みと悲劇を生み出そうというならば」


 少しの間、言葉を探ってから、ハオマは蛇頭琴を抱え直し、軽く鼻を鳴らした。


「あのような蛇の面汚しは、くたばりやがればよろしいと存じます」


 兄を心配して泣いていた少年が、ぽかんとこちらを見つめる気配がある。ドゥッリーヤが「やれやれ」と嘆息した。


「変な所で怒りっぽくて口が悪いんだから。そこは変わらないねえ。長生き出来ないよ」

「長寿には、特段興味がございませんので」

「そうかい」

「しかし、この石化……」


 ハオマは顎に手を当て、考え込む。


「残念ながら、拙僧では解呪しきれません。相性が悪いようです」


 魔物の行使する呪術は、人間のそれよりも単純な構成をしている。ただし、元々の地力となる魔力は、人より魔物の方が遥かに強い。容易に退しりぞけられるものではなかった。

 同じ地属性同士というのも、今回のケースでは治癒側に都合が悪い。下手をすると、魔力の強い方に効果が引っ張られ、呪いを強めてしまう可能性がある。


「じゃあ、兄ちゃんは……!?」

「助けますよ」


 兄に取り縋る少年へと、見えない目を向けて、ハオマは静かに断言した。


「拙僧よりも腕の立つ治癒術士が、この街におります。こと、解呪に関しては、彼は一流でしょう」

「他の術士?」


 少年は涙を呑み、いささか不信をはらんだ声を上げる。


「魔術士って、貴族だとか、金持ちの連中なんだろ。信用出来る? こんな所まで来てくれる? おれ、お金持ってないよ」

「……来てくれます」


「随分と自信があるんだね」


 ドゥッリーヤが、意外そうに口を挟んだ。


「お前が他人の事を、そこまで言うなんて」

「サヌに祈る者として、不適切な思考を承知で申しますが」


 と、ハオマは躊躇ちゅうちょを覚えつつも、一語ずつ、独白のように語る。


「彼らに対しては、時に……ある種の……期待を抱いて、行動してしまうのです」

「それはねえ、ハオマ。『頼りにしてる』と言うんだ」


 苦笑混じりの、ドゥッリーヤの声。


「言っただろう。あたしはそれを、悪いとは思わないよ」


 ハオマにも、不思議と後ろめたさはなかった。寧ろドゥッリーヤの言葉を聞いて、すっきりと納得している。


 ――そうだ。ずっと、彼らを自分にとっての何者と認識すれば良いのか分からず、心の奥で戸惑いを覚えていた。しかし、分かってしまえば単純だ。


 エイダン・フォーリーと、風変わりな治癒術士一行。彼らは……


「今夜にも……。貴方の兄が手遅れにならないうちに、再びうかがいます」


 少年にそう告げて、ハオマは立ち上がった。

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