第75話 都を這いずるもの ①

 鳩羽はとばの月が明け、いよいよ夏の盛り。一年で七番目の月となる、あおの月が始まった。

 そして、首都ダズリンヒルの人々が心待ちにしていた蒼薊闘技祭そうけいとうぎさいが、今日から開催されるのである。


 聖ジウサ・アリーナの観客席には、既に続々と、見物客が集まりつつあった。



「ほんならイーファ、これが観戦チケットだけんな。六日分で六枚。なくさんようにね」


 『スタッフ・関係者』と判の押されたチケットを、エイダンは重ねてイーファに渡した。

 本来は、スタッフと言ってももっと上層部の――夫人同伴で式典に呼ばれたりするような人物の、家族のためのチケットなのだろうが、特別に席を用意して貰ったので、ここは甘えておく事にする。


「それから、これがお小遣い。お菓子とかうてええけど、もしもの時には一人で宿屋に戻れるだけの、辻馬車の料金も入っとるけん。こっちは、雨降ったり冷えた時用の外套がいとうな」

「うん、あんがとエイダン兄さん」

「観客用のトイレは、あそこの左手の通路から降りてった先じゃけど。もし気分悪うて我慢出来んってなったら、警備兵さんにチケット見せて、救護室にんさい。兄ちゃんがおらん場合は、中尉さんか……」

「もうええて、兄さん。世話せあないよ!」


 皆の前で世話を焼かれるのが嫌だったらしく、イーファはむくれてしまった。


「じゃあイーファちゃん、座席いとこうか。レモネード売ってるけど、いる?」


 シェーナが間に入ってイーファをなだめ、観客席に連れて行く。用意されていた席に大人しく着いたイーファは、レモン果汁とシロップを冷水で割った、レモネードなる珍しい嗜好飲料を、気に入った様子で飲み始めた。

 とりあえずエイダンは安心し、当面の仕事場となる救護室へ、仲間達と共に向かおうとする。

 その途中で、ふと彼は周囲を見回した。


「あれ? ハオマさんがおらん。どっか行きんさった?」

「さっきエイダンくんがイーファ・オコナー嬢と話している間に、蛇頭琴じゃとうきんの弦を直してくる、と告げて出て行ったぞ」

「へっ?」


 フェリックスが横から答えてくれたが、エイダンは間の抜けた声で聞き返してしまった。

 まさにこれから、開会式が始まるというのに、どこへ行ったのだろう。


「サヌ教徒の、『つる売り』が来たんじゃねえか?」


 と、発言したのはラメシュである。


「つるうり……?」

「ああ。この国じゃサヌ教徒自体が少ないから、あまり見かけねえのか。サヌの坊さん連中は、よく治癒術に楽器を使うだろう? その楽器の修理や、弦の交換を請け負う在家信者の職人を、大陸では『弦売り』と呼んでるぜ」


 ラメシュの故郷テンドゥでは、火の精霊王をまつるヴラダ教が最も盛んだが、サヌ教徒も多い。

 特に職人階級の間では、『弦売り』を行う者は、死後サヌに導かれ、清浄なる大地で安らぎを得られる――との教えが、広く信じられていた。

 それで、放浪するサヌ教の治癒楽士ちゆがくしが集落に現れると、職人達は彼ら専用の魔道具マジックアイテムである鈴を鳴らし、是非ともうちで楽器の修繕を、と楽士を歓迎するのだと言う。


「へぇー! ほんじゃあ、その『弦売り』の人が近くで鈴を鳴らしたんを聞いて、ハオマさんは……」

「手持ちの楽器の、修理に向かったんだろう。ほら、弦を替えたいと言っていたからな。すぐ戻るさ」


 フェリックスに言われて、エイダンもようやく思い出した。ハオマは元々、琴の弦の張り替えのために、首都までやって来たのだ。船賃がないので、代わりに闘技祭の救護班に加わって働くと、そういう話だった。


「うわあ、そうじゃった。うっかりしとった」


 エイダンは、気恥ずかしさに後ろ髪を掻き混ぜる。イーファやコヨイの件で動転しっぱなしで、ここまで好意で同行してくれた仲間への気遣いが、おろそかになっていた。


 ――そのコヨイはというと、あれ以来、姿を現していなかった。闘技祭を来ているヴァンス・ダラも、今のところ探し出せていない。


 フェリックス達には、宿で夜中にこそりと、コヨイと再会した事を打ち明けてある。

 正規軍にしらせ、警戒をうながすべきかどうか。エイダンは皆の意見を聞いてみたのだが、仲間達の回答は、満場一致でこうだった。


「ヴァンス・ダラ相手に、警戒はあまり意味を成さない」


 それは全くその通りだと、エイダンは身に沁みて知っている。もしヴァンス・ダラが本気になれば、何重の結界だろうと、光属性の攻性呪術だろうと、ものともしない。


 祭りの楽しみをぶち壊すような不粋はしないと、彼の娘であるコヨイが証言した以上、しばらくは刺激しない程度に静観しよう。そんな方向に、戦うすべとぼしい治癒術士一行の意見は落ち着いたのだった。


「ここ数日、エイダンはてんてこ舞いだったからね」


 イーファの所から戻ってきたシェーナが、そうフォローを入れた。


「ま、ハオマなら道に迷うって事もないでしょ。第一試合が始まる前には戻るんじゃない?」


 開会式の最中から、救護室が超満員になるような危険な祭りだとは思えないから、一人いないくらいで人手不足になる心配はないだろう。

 ただ、式典は盛大で、一見の価値あり、という話だった。せっかくの機会に、ハオマが一緒でないとは残念だ。

 尤も、彼は聴覚が鋭敏過ぎるから、その手の盛り上がりも苦手かもしれない。エイダンはそう納得し、改めて救護室へと歩き出した。



   ◇



 聖ジウサ・アリーナで沸き起こるざわめきが、次第に遠くなる。

 杖先で地面の様子を確認しつつ、ハオマは蛇頭琴を背負い、人気ひとけのない路地裏へと向かっていた。


 アリーナの周辺は、道路も整えられ、貴族を乗せた馬車が悠然と行き交う、洗練された市街となっているが、メインストリートから少し離れると、蜘蛛の巣のように細く複雑な路地が絡み合い、小さな家屋の密集する景色が見られる。

 ごく質素な暮らしを送る庶民層が、そこでひっそりと生きていた。中には、家を持たず路傍で寝泊まりせざるを得ない人々もいる。


 そんな通りを抜ける中、先程から微かに、毛織物で包んだ蛇頭琴が、澄んだ高い音で弦を震わせていた。

 治癒楽士の魔力を篭めた楽器だけが共鳴する、特殊な鈴の。『弦売り』の店開きを告げるものだ。


 『弦売り』の奏でる音とは別に、背後のアリーナから、管楽器の音が風に乗って聞こえてくる。シルヴァミスト風の華やかな調べである。間もなく、開会式が始まるのだろう。

 エイダンは式典を楽しみにしていたが、ハオマは特別、祭りの喧騒になど興味が湧かない。

 この国の音楽には学ぶところが多いし、めでたい行事を実に分かりやすく楽しむ、あの友人の傍にいるのも――嫌ではないが。


 そこまで考えて、自分はいつの間にか、サヌ教徒に相応しくない方向に変わってしまったかもしれない、とハオマは気づく。

 地の精霊王サヌを信奉するならば、特定の土地や人、財産への執着に繋がる感情は、あまり表に出すべきではないのだ。『土ある所全て我らが棲家すみか』という、サヌの第一の教えに反する。

 大地も命も、全てに対して平等に接し、癒やすのが、サヌに祈る者の正しい在り方である。


「土ある所、全て……」


 唐突に前方から、サヌへの祈りの声が聞こえてきて、ハオマはほとんど反射的に唱和した。


「――我らが棲家」


 ふふ、と、前方の声の主が忍び笑う。


「ドゥッリーヤ、やはり貴方の鈴の音でしたか。ご健勝で何より」

「お前もね、ハオマ。以前より、足音がいているよ。誰か待たせている人でもいるのかい?」


 応じたのは、ハオマのよく知る老婆の声だった。


 ハオマが、北ラズエイア大陸からシルヴァミストに渡り、彼女――『弦売り』のドゥッリーヤに巡り会ったのは、まだ少年の頃である。当時から彼女は、年老いてはいるが張りのある、独特の声色をしていた。

 初めて対面した日から既に十年は経つはずだが、今もその声は、全く調子が変わらない。


 ハオマは声色や足音を聞いただけで、相手の大体の年齢や体格を測れる特技を持つ。しかし、彼女が現在何歳くらいの何者なのかは、未だに分からなかった。

 はっきりしているのは、ドゥッリーヤもまた、極めて鋭敏な聴覚を備えているという事だ。彼女自身は僧侶ではなく、治癒楽士としての修行を積んでもいないが、職人としても人間的にも、あなどれない人物である。


「蛇頭琴の手入れに来たんだろう? お見せ」

「頼みます」


 杖先で前方を探ったところ、ドゥッリーヤは路傍に絨毯じゅうたんを敷いて、手製の小間物をいくつか並べ、店開きをしているらしい。ハオマは背負っていた毛織物の包みを解いて、蛇頭琴を絨毯の上に差し出した。


「ハオマ」


 琴の弦を丁寧に外しながら、不意にドゥッリーヤは呼びかける。


「何でしょう」

「もしお前に、精霊王サヌや地の妖精ノーム以外にも大切な人が出来たのだとしたら、あたしはそれを、喜ばしいと思う。悔い改めるような事ではないんだよ」

「……拙僧の心音でも読まれましたか」


 先程、「待たせている人でもいるのか」と問われた時、エイダン達の顔を思い浮かべた自分に、ハオマはつい動揺した。ドゥッリーヤならば、容易にその気配を感じ取るだろう。


「そうあからさまに、不機嫌におなりでないよ。『土ある所、全て我らが棲家』。確かにそれは、あたしらサヌの徒が常にこころざすべき教えではあるけども。でも、実際にその精神を達成出来るのは、精霊王……地母ちぼサヌをおいて他にないのさ」


 ふふ、と再び、ドゥッリーヤは笑った。


「ちっぽけなあたしらにとって、この世は広すぎる荒れ地だ。一人きりでいるのは耐えられない……それを思い知る事もまた、お前には必要だったんじゃないか?」

「貴方が説法とは、珍しい」


 ハオマが肩を竦めると、「いや、いや」とドゥッリーヤは言う。頭を横に振ったらしく、首飾りの揺れる音がした。


「お前は僧侶、あたしはしがない『弦売り』。説法なんてとんでもない。……ただね、この街にお前の大事な人がいるなら、警告をしなくちゃならないと思って」

「警告……?」


 いぶかしむハオマに対して、ドゥッリーヤは姿勢を改め、低めた声を発する。


「悪しき者の、這いずる音がする」


 その言葉に、ハオマは見えない両眼を、我知らず見開いた。


「どういう事です」

「この辺りの路上で寝起きする、貧しい人らの事をあたしは知ってるが。……その中の若いのが一人、地属性の呪いをかけられたんだ。『石化』のね」

「石化? 呪術の使い手がいるというのですか?」

「『蛇にやられた』と、周りの者は言ってるよ」


 蛇。ハオマは口の中でその単語を繰り返す。


 地の精霊王サヌが、大蛇の姿を取ると信じられているので、蛇やトカゲや昆虫、その他『地を這うもの』に敬意を払う習わしが、サヌ教にはあった。

 ただし、『地を這うもの』の姿をした大いなる魔力の持ち主は、精霊ばかりではない。凶悪な魔物の存在も知られている。


 ――呪術を使う程の、高位の魔物が侵入したのか。首都ダズリンヒルに。


「治安維持当局の捜査は?」


 ダズリンヒルは巨大な都市であるため、正規軍とは別に、『巡察隊』と呼ばれる部隊が組織され、治安を守っている。しかし彼らでも、年々複雑化する犯罪や違法魔術には、対処しきれない現状があった。


「貧民窟の事件だ。真冬や真夏になると、弱りきって眠ってる間に自然と死んじまう奴も多い。……目撃者も関わりたがらないし、捜査はあまり進んでないね」

「……」


 ハオマは、苦い表情を浮かべる。

 治癒楽士としての腕が未熟だった時期には、ハオマも貧民窟の彼らと、似たような立場だった。明日の命も分からない者同士だからと、僅かな食べ物を分け与えられ、助けられた記憶もある。


「その患者は、どこに? 拙僧にせては頂けませんか。石化の呪術ならば、命までは奪われていないはず」


 人間相手の解毒や解呪は、得意分野とは言えないハオマである。それでも、このまま放置出来ない感情が、心の底に湧き上がっていた。

 何だかエイダンのような真似をしている、とハオマは思う。――これもサヌ教徒に相応しくない、他者からの悪影響と言えるのだろうか。


 ハオマの申し出に、ドゥッリーヤはいくらか驚いたような沈黙を見せたものの、ややあって、弦の張り替えられた蛇頭琴を、絨毯の上にそっと据え、立ち上がった。


「その琴は、もうけるよ。それを持って、ついておいで」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る