第75話 都を這いずるもの ①
そして、首都ダズリンヒルの人々が心待ちにしていた
聖ジウサ・アリーナの観客席には、既に続々と、見物客が集まりつつあった。
「ほんならイーファ、これが観戦チケットだけんな。六日分で六枚。なくさんようにね」
『スタッフ・関係者』と判の押されたチケットを、エイダンは重ねてイーファに渡した。
本来は、スタッフと言ってももっと上層部の――夫人同伴で式典に呼ばれたりするような人物の、家族のためのチケットなのだろうが、特別に席を用意して貰ったので、ここは甘えておく事にする。
「それから、これがお小遣い。お菓子とか
「うん、あんがとエイダン兄さん」
「観客用のトイレは、あそこの左手の通路から降りてった先じゃけど。もし気分悪うて我慢出来んってなったら、警備兵さんにチケット見せて、救護室に
「もうええて、兄さん。
皆の前で世話を焼かれるのが嫌だったらしく、イーファはむくれてしまった。
「じゃあイーファちゃん、座席
シェーナが間に入ってイーファを
とりあえずエイダンは安心し、当面の仕事場となる救護室へ、仲間達と共に向かおうとする。
その途中で、ふと彼は周囲を見回した。
「あれ? ハオマさんがおらん。どっか行きんさった?」
「さっきエイダンくんがイーファ・オコナー嬢と話している間に、
「へっ?」
フェリックスが横から答えてくれたが、エイダンは間の抜けた声で聞き返してしまった。
まさにこれから、開会式が始まるというのに、どこへ行ったのだろう。
「サヌ教徒の、『
と、発言したのはラメシュである。
「つるうり……?」
「ああ。この国じゃサヌ教徒自体が少ないから、あまり見かけねえのか。サヌの坊さん連中は、よく治癒術に楽器を使うだろう? その楽器の修理や、弦の交換を請け負う在家信者の職人を、大陸では『弦売り』と呼んでるぜ」
ラメシュの故郷テンドゥでは、火の精霊王を
特に職人階級の間では、『弦売り』を行う者は、死後サヌに導かれ、清浄なる大地で安らぎを得られる――との教えが、広く信じられていた。
それで、放浪するサヌ教の
「へぇー! ほんじゃあ、その『弦売り』の人が近くで鈴を鳴らしたんを聞いて、ハオマさんは……」
「手持ちの楽器の、修理に向かったんだろう。ほら、弦を替えたいと言っていたからな。すぐ戻るさ」
フェリックスに言われて、エイダンもようやく思い出した。ハオマは元々、琴の弦の張り替えのために、首都までやって来たのだ。船賃がないので、代わりに闘技祭の救護班に加わって働くと、そういう話だった。
「うわあ、そうじゃった。うっかりしとった」
エイダンは、気恥ずかしさに後ろ髪を掻き混ぜる。イーファやコヨイの件で動転しっぱなしで、ここまで好意で同行してくれた仲間への気遣いが、
――そのコヨイはというと、あれ以来、姿を現していなかった。闘技祭を楽しみに来ているヴァンス・ダラも、今のところ探し出せていない。
フェリックス達には、宿で夜中にこそりと、コヨイと再会した事を打ち明けてある。
正規軍に
「ヴァンス・ダラ相手に、警戒はあまり意味を成さない」
それは全くその通りだと、エイダンは身に沁みて知っている。もしヴァンス・ダラが本気になれば、何重の結界だろうと、光属性の攻性呪術だろうと、ものともしない。
祭りの楽しみをぶち壊すような不粋はしないと、彼の娘であるコヨイが証言した以上、しばらくは刺激しない程度に静観しよう。そんな方向に、戦う
「ここ数日、エイダンはてんてこ舞いだったからね」
イーファの所から戻ってきたシェーナが、そうフォローを入れた。
「ま、ハオマなら道に迷うって事もないでしょ。第一試合が始まる前には戻るんじゃない?」
開会式の最中から、救護室が超満員になるような危険な祭りだとは思えないから、一人いないくらいで人手不足になる心配はないだろう。
ただ、式典は盛大で、一見の価値あり、という話だった。せっかくの機会に、ハオマが一緒でないとは残念だ。
尤も、彼は聴覚が鋭敏過ぎるから、その手の盛り上がりも苦手かもしれない。エイダンはそう納得し、改めて救護室へと歩き出した。
◇
聖ジウサ・アリーナで沸き起こるざわめきが、次第に遠くなる。
杖先で地面の様子を確認しつつ、ハオマは蛇頭琴を背負い、
アリーナの周辺は、道路も整えられ、貴族を乗せた馬車が悠然と行き交う、洗練された市街となっているが、メインストリートから少し離れると、蜘蛛の巣のように細く複雑な路地が絡み合い、小さな家屋の密集する景色が見られる。
ごく質素な暮らしを送る庶民層が、そこでひっそりと生きていた。中には、家を持たず路傍で寝泊まりせざるを得ない人々もいる。
そんな通りを抜ける中、先程から微かに、毛織物で包んだ蛇頭琴が、澄んだ高い音で弦を震わせていた。
治癒楽士の魔力を篭めた楽器だけが共鳴する、特殊な鈴の
『弦売り』の奏でる音とは別に、背後のアリーナから、管楽器の音が風に乗って聞こえてくる。シルヴァミスト風の華やかな調べである。間もなく、開会式が始まるのだろう。
エイダンは式典を楽しみにしていたが、ハオマは特別、祭りの喧騒になど興味が湧かない。
この国の音楽には学ぶところが多いし、めでたい行事を実に分かりやすく楽しむ、あの友人の傍にいるのも――嫌ではないが。
そこまで考えて、自分はいつの間にか、サヌ教徒に相応しくない方向に変わってしまったかもしれない、とハオマは気づく。
地の精霊王サヌを信奉するならば、特定の土地や人、財産への執着に繋がる感情は、あまり表に出すべきではないのだ。『土ある所全て我らが
大地も命も、全てに対して平等に接し、癒やすのが、サヌに祈る者の正しい在り方である。
「土ある所、全て……」
唐突に前方から、サヌへの祈りの声が聞こえてきて、ハオマはほとんど反射的に唱和した。
「――我らが棲家」
ふふ、と、前方の声の主が忍び笑う。
「ドゥッリーヤ、やはり貴方の鈴の音でしたか。ご健勝で何より」
「お前もね、ハオマ。以前より、足音が
応じたのは、ハオマのよく知る老婆の声だった。
ハオマが、北ラズエイア大陸からシルヴァミストに渡り、彼女――『弦売り』のドゥッリーヤに巡り会ったのは、まだ少年の頃である。当時から彼女は、年老いてはいるが張りのある、独特の声色をしていた。
初めて対面した日から既に十年は経つはずだが、今もその声は、全く調子が変わらない。
ハオマは声色や足音を聞いただけで、相手の大体の年齢や体格を測れる特技を持つ。しかし、彼女が現在何歳くらいの何者なのかは、未だに分からなかった。
はっきりしているのは、ドゥッリーヤもまた、極めて鋭敏な聴覚を備えているという事だ。彼女自身は僧侶ではなく、治癒楽士としての修行を積んでもいないが、職人としても人間的にも、
「蛇頭琴の手入れに来たんだろう? お見せ」
「頼みます」
杖先で前方を探ったところ、ドゥッリーヤは路傍に
「ハオマ」
琴の弦を丁寧に外しながら、不意にドゥッリーヤは呼びかける。
「何でしょう」
「もしお前に、精霊王サヌや
「……拙僧の心音でも読まれましたか」
先程、「待たせている人でもいるのか」と問われた時、エイダン達の顔を思い浮かべた自分に、ハオマはつい動揺した。ドゥッリーヤならば、容易にその気配を感じ取るだろう。
「そうあからさまに、不機嫌におなりでないよ。『土ある所、全て我らが棲家』。確かにそれは、あたしらサヌの徒が常に
ふふ、と再び、ドゥッリーヤは笑った。
「ちっぽけなあたしらにとって、この世は広すぎる荒れ地だ。一人きりでいるのは耐えられない……それを思い知る事もまた、お前には必要だったんじゃないか?」
「貴方が説法とは、珍しい」
ハオマが肩を竦めると、「いや、いや」とドゥッリーヤは言う。頭を横に振ったらしく、首飾りの揺れる音がした。
「お前は僧侶、あたしはしがない『弦売り』。説法なんてとんでもない。……ただね、この街にお前の大事な人がいるなら、警告をしなくちゃならないと思って」
「警告……?」
「悪しき者の、這いずる音がする」
その言葉に、ハオマは見えない両眼を、我知らず見開いた。
「どういう事です」
「この辺りの路上で寝起きする、貧しい人らの事をあたしは知ってるが。……その中の若いのが一人、地属性の呪いをかけられたんだ。『石化』のね」
「石化? 呪術の使い手がいるというのですか?」
「『蛇にやられた』と、周りの者は言ってるよ」
蛇。ハオマは口の中でその単語を繰り返す。
地の精霊王サヌが、大蛇の姿を取ると信じられているので、蛇やトカゲや昆虫、その他『地を這うもの』に敬意を払う習わしが、サヌ教にはあった。
ただし、『地を這うもの』の姿をした大いなる魔力の持ち主は、精霊ばかりではない。凶悪な魔物の存在も知られている。
――呪術を使う程の、高位の魔物が侵入したのか。首都ダズリンヒルに。
「治安維持当局の捜査は?」
ダズリンヒルは巨大な都市であるため、正規軍とは別に、『巡察隊』と呼ばれる部隊が組織され、治安を守っている。しかし彼らでも、年々複雑化する犯罪や違法魔術には、対処しきれない現状があった。
「貧民窟の事件だ。真冬や真夏になると、弱りきって眠ってる間に自然と死んじまう奴も多い。……目撃者も関わりたがらないし、捜査はあまり進んでないね」
「……」
ハオマは、苦い表情を浮かべる。
治癒楽士としての腕が未熟だった時期には、ハオマも貧民窟の彼らと、似たような立場だった。明日の命も分からない者同士だからと、僅かな食べ物を分け与えられ、助けられた記憶もある。
「その患者は、どこに? 拙僧に
人間相手の解毒や解呪は、得意分野とは言えないハオマである。それでも、このまま放置出来ない感情が、心の底に湧き上がっていた。
何だかエイダンのような真似をしている、とハオマは思う。――これもサヌ教徒に相応しくない、他者からの悪影響と言えるのだろうか。
ハオマの申し出に、ドゥッリーヤはいくらか驚いたような沈黙を見せたものの、ややあって、弦の張り替えられた蛇頭琴を、絨毯の上にそっと据え、立ち上がった。
「その琴は、もう
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