第70話 夏祭りの波乱 ⑤

 一晩ほど、エイダンは考える時間を貰った。


 サンドラからの依頼をもし受けるとなれぱ、今までになく大きな仕事となる。首都に行くだけでも長旅だ。旅に必要な物資も、闘技祭主催側が用意するとの事だったが、ともかく、エイダンには熟考と準備が必要だった。


 サンドラとの対面の翌朝、エイダンは港に向かった。

 『カニ祭り』の手伝いを終えたロイシンが、薬草師の職場に戻るため、イニシュカ島を発つ予定になっている。


「エイダン!」


 港で、朝一番の船を待っていたロイシンが、エイダンの姿を見つけて手を振る。


「見送りに来てくれたの?」

「うん。ロイシン、身体気ぃつけてな。これからもっと暑くなるけん、薬草園の仕事大変じゃろ」

「わたしは平気じゃって。それより、エイダンこそ……」


 ロイシンは少しばかり口篭り、それから改めて、エイダンの顔を見つめた。


「エイダン、あのお仕事受けるん?」

「……そうじゃね、やろうと思う」


 エイダンは首を縦に振ってみせる。


「なかなか行けん場所だけんな、ダズリンヒルなんて。危ない仕事いうても、冒険者やっとった時も色々あったけん、そこはそんなに気にならんよ」


 案外何とかなるもんじゃ、とエイダンは笑った。


「報酬も、ほんまにええし。ばーちゃんに少しは楽させられそう」


 祖母のブリジットも、もう若くないのだ。いつまでも畑仕事をさせてはいられない。

 サンドラの提示した報酬は、イニシュカ島民にとってはかなりの高額だった。研修中の治癒術士として、そして湯治場の管理人としての収入だけでは、なかなか祖母の老後資金までは貯められないから、正直に言って、心動かされる。


 もう一つサンドラから約束された、名誉ある報奨――皇帝との謁見えっけんについては、突拍子もなさ過ぎて、エイダンはどう受け止めて良いのか分からなかった。


 現皇帝は、名をレヴィ二世。よわい十三の女帝である。


 当然、十三歳の少女の肩に、国政の全てがのしかかっている訳ではない。

 聖シルヴァミスト帝国は、建国以来千年間、皇帝を擁立ようりつしてきたが、皇帝自身が直接政治権力を握っていたのは、最初のほんの数代のみだ。参政権は貴族と地主に限られているものの、相当古くから、議会政治が存在した。


 何百年か前に、権力を自身に集中させ、親政を試みた皇帝もいたらしいが、上手く行かなかった。国民の気質として、中央集権や絶対帝政が合わないのだろう。


 しかしどうあれ、皇帝は帝国千年の歴史を象徴する存在。五柱の精霊王により、聖なる島シルヴァミストの統治を信任された唯一の家系として、国民の尊敬を一身に集めている。貴族社会とは無縁の田舎育ちであるエイダンにも、その感覚はあった。


 それだけに、まるで実感が湧かない。

 今のところはただ、礼服のサイズをもっと早く直しておけば良かった、というぼんやりした後悔があるだけだった。二年前に仕立てた物なので、裾や袖がもう短いのだ。


「そっか……大きな仕事じゃけぇね。止めたりは出来ないけど……でも、わたし何だか心配で」


 海から強い風が吹いて、ロイシンのストロベリーブロンドを乱した。

 彼女は横髪を抑え、物憂げに俯く。


「――ロイシン」


 考えるより先に、エイダンはロイシンの手を握っていた。


「エイダン?」

「あのっ……俺な、もうちょい、治癒術士として一人前に……立派になったら、ロイシンに、言わんないけん事がある」

「え――」


 ロイシンの、大きな蓬色よもぎいろの瞳が見開かれ、微かに頬が赤く染まる。エイダンは、自分の顔も上気しているのを感じた。


「だけん絶対、それを伝えに帰ってくる」


 そこまで一息に言い切って、更に続けるべき言葉を思案した時、突如、後方から「おーい」と聞き覚えのある声がかかる。

 二人は揃って、飛び上がる程に驚き、握り合っていた手を離した。


「エイダン、ロイシン! そういやあ今日出発だったかい……あれ? なんか俺、無茶苦茶邪魔した?」


 走り寄って来たものの、二人の様子を見て、気まずそうに首裏を掻いたのは、キアランだ。漁師仕事の途中なのだろう。


「う、ううん、そんな、全然」


 ロイシンが高速で首と両手を振る。


「それよりも、ごめんねキアラン。イーファちゃんがまだ、どこ行ったか分かってないのに、手伝えないまま仕事に戻っちゃって……」


 ロイシンとキアランも、昔からの幼馴染だ。当然ロイシンは、イーファの事もよく知っている。


「そんなん、気にせんでぇやロイシン。イーファの奴な、どうもやっぱり島の中に隠れとるんよ」

「え、見つかったん?」


 エイダンとしても、イーファの件を放置して、長旅に出かけるのは気が咎める。どこに隠れていても良いが、無事の知らせだけは確認しておきたい。


昨夜ゆうべ、うちの近くで人影を見た人がおったって。……しかもな、今朝、台所に置いてた俺の弁当が誰かに持ってかれた」

「それって……」

「多分、あいつが腹空かして忍び込んだんじゃろ」


 腹に据えかねた様子の膨れっ面で、キアランは答えた。


 この島には、空き巣も泥棒も滅多に出ないから、島民は魔物モンスターでも襲来しない限り、家の戸口に鍵などかけない。

 しかしだからと言って、自分の家の台所に忍び込んで、兄の弁当をかっさらうとは――野良猫でもあるまいし。


「気合いが入っとるんだか、入っとらんのだか、よう分からん家出じゃな」


 エイダンが眉尻を下げると、キアランは「ほんまじゃって」と鼻息荒く相槌を打ってから、不意に、気まずそうな表情で海の方を眺めた。


「別に……本気で、あいつが都会に出たいっちゅうなら、俺は反対する気なんかないんよ。いんや、応援したいと思うとる。やっていくための金だって何とかしちゃる。ただ――」

「キアラン、その気持ちはきっと、イーファちゃんも本心では分かっとるよ」


 途中で言葉を濁すキアランに、ロイシンが穏やかな声をかける。エイダンも頷いた。


「うん、俺もそう思う」


 今キアランが口にしたのと、全く同じ言葉を、かつてエイダンもかけられた。キアランの父親からだ。

 治癒術士になりたい、という夢を、初めて明かした時だった。

 そして彼は言葉どおりに、手を尽くしてエイダンを支援してくれた。亡き親友の息子というだけのエイダンを。四人の実子を育てながら、である。


 彼が、つまらない仕事をしているだけの、つまらない大人である訳がない。


 イーファもそれは理解しているはずだ。しかし、ああした発言が口をついて出てしまうようでは、まだ子供だ。だからキアランも、彼女を一人で都会に出すのは心配だと言うのだろう。

 うっかりと転んだ時に、手を差し伸べる人間が、未だ彼女には必要である。


「でも、イーファが島の中におって、元気でキアランの弁当食っとるっちゅうなら、ちょい、安心したわ。こんな時に島を空けてええもんかなって思うとったけん」

「安心じゃなぁわ、俺は今日の昼、何食うたらええんじゃ。――言うても、エイダンとロイシンは、ほんま気にせんで、自分の仕事してぇな。俺らこそ、子供じゃないんだけんよ」

「うん」

「そじゃな」


 半ば不思議な心地にとらわれながら、エイダンは二人の幼馴染みに向けて頷いた。


 イニシュカでは、十六歳から成人と見做される。エイダンは十八、ロイシンは十七、キアランは十九――お互い赤ん坊の頃から見知っていた友人達が、いつの間にか、それぞれの仕事を持つ大人になっているのだ。分かりきっていたはずの事実に、改めて気づかされる。


「ほんなら……俺も、行ってくるわ」


 エイダンはそう告げて二人と別れ、旅支度にかかった。



   ◇



 一応、冒険者をやっていた身だから、旅の準備は慣れたものだ。

 鞄に必要な物を詰め込んで、魔術士としての一張羅いっちょうらである、小豆色あずきいろのローブに袖を通す。


「エイダン、ええかね、怪我人を治すんは立派な事じゃけど、まず自分が怪我せんように気をつけるんよ」

「分かっとるよ、ばーちゃん」

「それと、ダズリンヒルは珍しいもんがたくさんあるじゃろうけど、あまりフラフラして迷子にならんようにね」

「うん」

「見た事もないような食べ物があるかもしれんけど、食べつけんもんを食べ過ぎるとね……」

「あの、ばーちゃん、世話せあないって」


 祖母のブリジットからすれば、エイダンはいつまでも、食べ過ぎで腹を壊しかねないような子供であるらしい。

 案じる様子のブリジットの背に腕を回し、ぽんぽんと叩いてから、エイダンは身を離す。


「行ってきます。ダズリンヒル着いたら、すぐ葉書はがき送るけんね」


 祖母に見送られ、家を発ったエイダンは、サンドラに指定された波止場へと急いだ。


 約束の場所に到着してみると、そこには既に、あの優雅な造りの船が待機している。

 船の前に立っているのは、シェーナとフェリックスとハオマ、それにヒューだ。


「シェーナさんも、一緒に依頼受けてくれるん?」


 旅支度を整え、彼女の仕事着である、治癒術士らしい軽やかな白地のローブをまとったシェーナを見て、エイダンは弾んだ声をかける。


「って事は、やっぱりエイダンも行く気ね」


 多少複雑な面持ちながら、シェーナは笑みを返した。


「母さんの思惑通りに事が進むってのは、何だか気に入らないけど。でも、マディ達は心配だし……それに正直に言えば、単純に興味あるわ。シルヴァミスト最大の、魔術士達の闘技祭って」


 シェーナは首都ダズリンヒルで生まれ育ったが、実は、蒼薊闘技祭そうけいとうぎさいを生で観戦した事はないのだという。


「えっ、そがぁか。首都の人はみんな、一度は見た事あるもんじゃと思うとったよ」

「そんな訳ないって。観覧席のチケット、凄い倍率だもの。それに、今は一応安全に行われるようになったけど、昔は怪我人や死者も出したらしい、戦いの祭りだからね。子供の見る物じゃありません、なんて言われてたわ」


「僕も、何度かダズリンヒルに行った事はあるが、間近でアリーナの闘技を観戦した事はないんだ。その点は楽しみだな!」


 と、フェリックスがやる気に満ちた声を発した。

 あれ、とエイダンは目を瞬かせる。フェリックスの傍らには、彼の物らしい手荷物が置かれていた。明らかに、長旅用の鞄だ。


「フェリックスさんも行くんかいな?」

「当然だろう! シェーナが危険に立ち向かおうという時に、ただ待っている事など出来るものか。それにエイダンくん、僕は君の風呂屋の従業員であり、好敵手ライバルなんだぞ? 今回も君の助手として、既にキッシンジャー夫人に雇われている」

「そら、ありがたいけど……イニシュカ温泉はどがぁしよう。人手がおらんけん、しばらく閉めんといけんかな」


「湯治場はしばらく、我々リード家が面倒を見よう」


 フェリックスに代わってそう答えたのは、ヒューである。


「火の治癒術士の代役は、流石に見つからないが……掃除と見回りの臨時雇いを、姉上が手配してくれるそうだ。騒動の発端になってしまい、申し訳ない、と姉からの伝言だよ。これで詫びという事にしてくれ」

「レイチェルさんが? そがぁな、気にせんでええんに」

「俺も愛用してる温泉だからな、当面閉鎖ってのは寂しい」


 姉上も本音はそんな所だ、とヒューは、冗談めかして両腕を広げてみせた。


「その様子だと、ヒューの治療は順調なようですね」


 一歩引いた場所で会話を聞いていたハオマが、独り言のように呟く。


「何だハオマ、心配してくれてたのか?」

「……一応は。貴方にエイダンを紹介したのは、拙僧でございますので。しかし、問題なく暮らしているというなら、何も言うべき事はございません」


 素っ気ないハオマだが、ヒューを心配していたというのは本当だろう、とエイダンは考えた。彼はそういう性分なのだ。


「これでうれいは消えたな、ハオマ!」


 フェリックスが、にこにことハオマの肩を叩く。


「憂いっちゅうと?」

「ハオマも一緒に、ダズリンヒルに来てくれるんだって」

「え!」


 さらりと説明するシェーナに対して、エイダンは目を丸くした。


「ハオマさん、人混みが苦手じゃろ。ダズリンヒルは、街中まちじゅうどこでも、しゃがみ込めんくらいの人混みで、みっちり人の乗った馬車が、ビュンビュン飛び交っとるんじゃなぁかいね?」

「……いくら首都でも、馬は飛ばないわよ。そこまでぎゅうぎゅう詰めでもないし。エイダンのダズリンヒルのイメージ、どうなってんの?」

「アンバーセットの三倍くらい都会じゃて、シェーナさんが言うとったけん……」


「ご心配なさらずとも、ダズリンヒルには何度か、足を運んでおります。確かに人が多く、木々は少なく、拙僧好みの場ではございませんが」


 ひょいと肩を竦めて、ハオマは言葉を続ける。


「物資を求めるには便利ですね。琴の弦を、そろそろ替えねばならないので。そのために参ります」


「はぁ! みんな、首都に行ったことあるんじゃね!?」


 エイダンは、仲間達に恐れ入った。世間知らずは自分一人ではないか。


「そうは言うが、ハオマも僕らを手伝ってくれるんだろう?」

「首都までの船賃分を、働いておぎなうと申し出たまでの事です。持ち合わせがございませんので」


 フェリックスの笑顔に、淡々と応じるハオマである。

 どうあれ、ハオマの支援魔術があれば、エイダン達が大いに助かるのは間違いない。


「あんがとうな、ハオマさん!」

「ですから、礼には及びませんと……」


「打ち合わせは済んだのかしら」


 唐突に、エイダンとハオマの遣り取りを遮る形で、声が飛んできた。

 振り向けば、サンドラが桟橋前に立っている。


「救護班員として、四名を雇用――という契約で良いのね? すぐ出発するから、乗ってちょうだい。この港では、ろくに物資の補給も出来ないもの」


 地元の漁師が行き交うばかりの、イニシュカの小さな港を、サンドラは好きになれないらしい。飲料水用の樽が二つ三つ、船に積まれていくのを見上げて、彼女は気ぜわしそうに、軽く鼻を鳴らした。


「ええ、そういう契約ね。この船に乗る事に、ビジネス以上の意味はない。そうでしょ?」


 まずシェーナが、無感情にそう告げ、サンドラの横を素通りして、船の梯子はしごに向かう。


「貴方に言われるまでもない事よ、シェーナ」


 対するサンドラの回答もごく冷淡で、エイダンはいささか、おっかなびっくりと彼女の前を通る羽目になった。


「えっと……よろしゅうお願いします、キッシンジャーさん」

「ここまでの手間に見合った働きを期待するわ、エイダン・フォーリー」


 刻まれた皺以外は、シェーナのものとよく似通った目元が、エイダンにちらりと一瞥をくれる。


 エイダンが、ぎこちなく船の梯子を登りきったところで、すぐ後ろにいたフェリックスが、こそりと囁いた。


「気にするな。僕の知る限り、キッシンジャー夫人は誰に対してもあんな感じだ」

「そ、そがぁですが」


 フェリックスが小声になるくらいには、注意の必要な人物らしい――と、エイダンは改めて、気を引き締める決意をした。



   ◇



 乗るべき人々を乗せ、の張られた船が、イニシュカの波止場から、ゆっくりと離れつつあった、その頃。

 船室に積まれた樽の蓋を僅かに開けて、不安げな表情の一人の少女が、中から顔を覗かせた。

 ブラウンの髪を二つ結びにした彼女は、薄暗い周囲の景色を見回し、また樽に潜り直す。


 彼女が船員に発見されるのは、帆船が外海に出た、その翌日の事となる。

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