第68話 夏祭りの波乱 ③
――
人とは
我が火の力を貸し与えるに足る者か……
「あれ? これって、火の精霊王ヴラダが、『ベンチ火山』に腰掛けて、考え事をしたっちゅう話ですか?」
古文を数行分読み解いたエイダンは、顔を上げた。ヒューが軽く頷く。
「そうだ。ここまでは有名な部分だよな」
冒険者時代にエイダンは、ベンチ火山の
この奇妙な山の名前は、火の精霊王・
伝説によれば、思案するヴラダの前に、旅を愛する風の精霊王・
ヴラダはイーナンに、人間の本性を問いかけ、イーナンは旅の中で会った、最も愚かな人間の王と、その王を救った賢者の話を語って聞かせる……。
「『愚かなる王、その名をダラ』……『世に混沌と争いを撒く者』……へぇー、この王様の名前は、初めて知りました」
「俺も初めて知ったよ! この『イーナンの語り』に登場する愚王は、世界で最初の闇の魔術士でもあるそうだ。闇の魔術に関する知識は、ユザ教では
――世界で最初の闇の魔術士、ダラ。
現世代で唯一の闇の魔術士は、ヴァンス・ダラと名乗っていた。この名前は初代の『愚王ダラ』と、何か関係があるのだろうか?
そんな事をエイダンはちらりと考えたが、多分、本人以外は回答のしようもない疑問だろう。そして、今後本人に会う予定は全くない。
「うちの辺りは『水』のカル様に祈っとるけん、ユザ教の禁忌とかはよう分かりませんけど……出版物って大体、
大都市圏は富裕層が集中しているため、ユザ教が盛んなのである。
「そういやあ、闇の精霊王の名前も、歴史の教科書や魔術の教科書に出てこんかった」
「言われてみれば、俺も知らないな。信仰する者はいないし、加護を授かった者もほとんどいないから、名前が忘れ去られたんだろうさ」
「はぁー」
シルヴァミストの人間にとって、精霊信仰は生まれた時からごく身近に、当たり前にあるものだが、その分、改めて疑問を抱く機会は少ない。
六属性の存在を知り、全ての精霊に敬意を、という魔術の理念を学びながら、五柱の王の名しか知らない自分に対して、エイダンは奇妙な感覚を味わった。
続きの文字を、目で追ってみる。
「『賢者の名をジウサ。ジウサは愚王ダラを
「そちらは有名だな。ユザ教の聖人だ」
「首都ダズリンヒルに、ごうげな
聖ジウサ
「聖ジウサ廟か。外から眺めるくらいは、首都に行けば誰でも出来るだろうが……」
そう首を傾げてから、急にヒューが笑いを零した。
「しかしエイダンは、治癒術以外の事も結構勉強熱心だな。ユザ教の建築に興味があるのか?」
「歴史のあるもんなら何でも」
と、エイダンは肯定する。
「特に、昔の偉い冒険者だとか、魔術士の話は、ほんま聞き飽きんですね」
今虫干しされている叙事詩の写本も、可能なら全て読み解いてみたいくらいには興味がある。全編古文の大長編叙事詩だから、全文読解するのは相当大変だろうが。
「偉大な冒険者といえば……歴史と呼ぶには近年の話だが、あれがあったな。『勇者リュートの旅』。アルフォンスが初版を手に入れて、コレクションに加えていた」
イマジナリー・リードが、ふと思い出した様子で口髭を撫でた。
「ああ、これか?」
机の上の別の一冊を、ヒューが手に取る。
叙事詩の写本が重厚な装飾に
「あ! リュート・カルホーン! この人も、授業で習いました。何十年も前に、
現在、シルヴァミストの北方では、南下しつつある魔物達を押し返そうと、正規軍が戦陣を張っている。
魔物の巣窟と言われる『不毛の大陸』が、海峡を挟んだすぐ北に存在するものだから、シルヴァミストの歴史は、魔物との戦いの連続だ。
五十年前にも一度、凶悪化した魔物達が、大挙してシルヴァミストに押し寄せた事があった。
この時、裏で魔物達に武器を授け、扇動していたのが、かの闇の魔術士、魔杖将ヴァンス・ダラである――らしい。
シルヴァミスト北方にヴァンス・ダラが潜んでいる、との情報を掴んだ正規軍は、彼を討ち果たすため、少数精鋭の討伐隊を組んだ。
その部隊を率いたのが、辺境の平民出身でありながら、天才剣士と
「リュート・カルホーンの、伝記なんてあったんじゃな。知らんかった」
「すぐ絶版になったからな。この初版も、きっと貴重品だ」
「え、なんでです?」
エイダンがきょとんとすると、イマジナリー・リードは、残念そうに軽く首を振ってみせた。
「内容に問題があった。この伝記は、リュート・カルホーンの旅の仲間だった、ジェマ・アベドという冒険者に取材して書かれたのだが」
どこかで聞き覚えのある名前だな、とエイダンは少し考えて、思い当たった。近代冒険者ギルドの発展と整備に、大きく寄与した人物だ。ギルド加入の際に貰える身分証の裏面に、彼女の横顔が印刷されている。
「そのジェマ・アベドが、取材の半ばで亡くなったのだよ。――彼女は、南ラズエイア大陸の船乗りで、旧イドラス準州の生まれだった」
聖暦九九〇年――丁度、ジェマ・アベドが伝記執筆者に取材を受けていた時の事だ。
かねてから政情の不安定だった、大イドラス帝国の体制が崩壊した。
大陸の各地に難民や亡命者が溢れている、との報せを聞いて、ジェマは急遽、船を調達し、難民救助のためにラズエイア大陸へ向かう。
しかし、シルヴァミストに戻る海路の半ばで、海賊と遭遇。彼女は難民達を庇って戦死した。
リュートの生涯に関する取材は、途中で
「なんちゅう……」
冒険者ギルドの偉人が、そんな悲惨な最期を遂げていたとは。エイダンは沈痛な面持ちになる。
「リュート・カルホーン本人は、ヴァンス・ダラとの戦いの中で、とうに死亡している。同じく旅の仲間だった、治癒術士バーソロミュー・カニンガムも、リュートと同時に戦死。……作者は、旅の仲間達の中で唯一の生存者、ギデオン・リー・サングスターを頼ろうとしたが、彼はジェマの死に塞ぎ込んで、取材を断ったらしい」
「サングスター学長が――勇者リュートの仲間だった? ほんまですか」
「なんだ、そこは知らなかったのか。サングスター魔術学校の元生徒だろう?」
「はぁ。半年だけ通っとりました」
「多くの仲間を亡くしてるんだ、あまり軽々しく吹聴したい思い出ではないんだろう」
気恥ずかしくなって後ろ髪を掻くエイダンを助ける形で、ヒューが口を挟む。
「で、作者はこの伝記を、中途半端な内容のまま出版した、という
「それだけでなく、中身が薄くなりそうだからと、大幅に誇張をまじえて書き上げてしまったらしい。ジェマの支援を受けていた冒険者ギルドと、サングスター家、それにカルホーン家の地元から、死者を愚弄していると強い抗議の声が上がり……あっという間に絶版だ」
「……そらぁやれん」
「フィクションとしては面白いと、アルフォンスは評価したようだが。だから買い求めたんだろう」
ふうん、と複雑な声音で相槌を打ち、ヒューが本の表紙を開く。
表紙をめくった所に、一枚の肖像画が載っていた。十七か十八か、まだごく若い青年を描いたものだ。正規軍の、
「彼が、リュート・カルホーン……エイダン、君にちょっと似てないか?」
ヒューが肖像画とエイダンを見比べるので、エイダンは照れて片手を振った。
「ええ? 俺はこんなキリッとしとらんですよ。歳は近そうじゃけど。亡くなるちょっと前なんじゃろか、この絵が描かれたの」
「多分そうだろう。聖暦九七二年、十八歳で戦死、とある。若くして、惜しい人物を
「ほんまに」
同意してから、エイダンは改めて肖像画を観察する。
やはり、それほど自分には似ていない。だが、似ていると言われて悪い気分ではなかった。
辺境の庶民階級出身でありながら、救国の英雄と呼ばれた若者。――学校で彼について習った時、淡い憧れを抱いたものだ。
思いを馳せるエイダンの耳に、ぱたぱたと、廊下からの足音が聞こえてきた。
「――うん? 誰だい?」
ヒューが扉の方を振り仰ぐのと同時に、その扉が開き、ふくよかな中年女性が、慌てふためいた様子で室内に入ってくる。
イニシュカ小学校の、教師の一人だ。学校の往診の際にいつも会うから、エイダンとは顔見知りである。
「ああ! リードさん。良かった、いらっしゃったのね」
「デイビス先生。何かあったのか?」
気心の知れた様子で、ヒューが訊ねた。
「ええ、今ね、
「姉上が!?」
「レイチェルが?」
ヒューとイマジナリー・リードが、揃って目を丸くした。似たような表情をすると、やはり血の繋がりを感じさせる。
ヒューの姉、レイチェル・リードは、現トーラレイ卿から間もなく爵位を継ぐ予定で、既にやり手の政治家と知られ、『
イニシュカ島と、海向こうの港町・トーラレイの代官を務めるリード家だが、彼らが直接イニシュカに渡ってくる事は、滅多にない。ここの島民達は伝統的に自尊自治の意識が強いため、基本的な営みは任されているのだという。
「姉上が……何の用事だろう。また温泉に入りに来たのか?」
「ほいじゃったら、歓迎せなぁですけど」
「いえいえ、それがね」
と、教師は丸い顔を振ってみせる。
「お客様をお連れなのよ。島に滞在してる冒険者の、シェーナさんのお身内の方……お母様なんですって!」
「シ――シェーナさんの? ……キッシンジャー家の人っちゅう事!?」
今度は、エイダンが目を瞠る羽目になった。
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