第42話 春時雨と怪異日和 ⑧

 エイダンに連れられて、『イニシュカ温泉』なる場所にやって来たヒューは、掘っ建て小屋の中で、ハオマとキアランの姿を見つけた。

 二人は、番台に立つ男とやり取りをしている。プラチナブロンドの、端正な顔立ちの若者である。


「やあ、エイダンくん。今二人から話を聞いた所だよ。診察だって?」

「フェリックスさん、ごめんな。もう閉める時間なんに」

「なぁに、気にする事ではない。ごゆっくりお寛ぎを」


 上流階級の社交界が似合いそうな仕草で、若者はヒューとエイダンを、脱衣所へと送り出した。


「ここで、服を脱ぐのか……」


 腰に巻く布を渡されたものの、ヒューは落ち着かない。

 シルヴァミストの庶民層にとって、公共浴場や銭湯に通うのは日常の一部らしいが、秩序を重んじるユザ信仰の盛んな貴族社会では、人前での脱衣は、慎むべき行為とされる。


「君の治癒術というのは、その、風呂場でやる必要があるのか?」

「はい。俺は火属性の治癒術を使うけん、人の浸かれるくらいの湯があると、具合がええんです」

「火属性の――治癒術?」


 火属性魔術といえば、一般的には呪術を指す。攻撃性が高く、生命力を奪うのに適した属性と見做されているはずだ。ヒューも火属性の加護を得ており、呪術から派生した、魔道剣の使い手である。

 火属性の治癒術士を目にするのは、初めてだ。エイダンの説明から考えると、加熱した湯を通して診療する、という事だろうか。


「とにかく……君に一度、任せてみるよ。エイダン」

「あんがとうございます。ああ、ちょい待った、脱ぐ前に」

「え?」


 エイダンは「失礼します」とヒューに近づき、彼の手首を取って、しばらくじっと、自身の指先に集中した。脈を測っているらしい。

 それから、額にも触れる。


「うん……今は落ち着いとりますね」


 手元の手帳に何か書き込むと、エイダンは鉛筆をくるりと回した。


「さっき、ヒューさんと会って握手した時ですけど。イマジナリー・リードさんが出てきたのを見て、仰天して……その一瞬だけ、はっきり分かるくらいに手が湿りんさったんよ。あと、熱くもなった」


「……あ」


 ヒューは、エイダンと最初に対面した時の状況を思い出す。

 呪いの発動する瞬間、他人に触れられていたのは、覚えている限り初めてだ。

 触っていたとしても、大体の相手は驚いて、すぐに離れる。しかしあの時、目を回したヒューを気遣って、エイダンはしばらく彼の身を支えたままだったらしい。


「リード家の中でも、煙の噴き出す体質が、表に現れる人と、現れん人とおるんですよね。ヒューさんの考えたとおり、『火属性』が鍵になっとるのかもしれんけど……何かもう一つ、人それぞれにトリガーがあるように思うたんです」


 エイダンは外への扉を開け、月明かりと篝火かがりびの下で、抱えていた本を開いた。

 本の表紙には、『世界の驚くべき症例 第三集』とある。


「これ、タウンゼンド先生から借りとる本で、色んな治癒術士さんが報告した、珍しい症例を集めたもんなんじゃけど」


 挟んでいたしおりを取り、エイダンは紙面の文字をなぞってみせた。


「ここに、緊張が酷くなると、大量に汗を掻いたり、体温が高くなったりする人の話が載っとります。持っとった紙が、ふやけて破れるくらいに汗が出る人もおるって。『あがり症』とか呼ばれとるけど、まだ正式な病名はないみたいじゃね」


 指先でなぞられた部分には、『緊張に伴う発汗、震え、動悸、腹痛……』と、症状が列挙されていた。


 この症例を報告した治癒術士は、診療記録に、『十代半ばの頃、症状の重くなる患者が多い』と書き添えている。丁度、ヒューが『ふろふき』を発現させたのも、この年頃だ。


「確かに、呪いの発動前は動悸が酷くなるし、高熱でも出たような、ふわふわした感覚がある。実は、胃腸も丈夫ではない。呪いの方が異常過ぎて、『あがり症』を人に相談した事はなかったが、そうか……。これらの体質に悩まされた人間は、他にもいたのか。医学書に載るくらいに」


「自分だけじゃなぁかと思うと、そんだけでちょい、楽になるもんでしょう」


 何故か安堵を覚えるヒューに、エイダンはにっこりと笑い、「これはタウンゼンド先生の受け売りです」と付け加える。


「しかし、多量の汗というのは、あまり心当たりがないな――いや待て、まさか!?」


 ヒューは思わず、自分の首裏をぬぐった。


「あの煙っ……いや、蒸気! !?」


「はい。急激な体温上昇と、発汗。その辺が、『呪い』のトリガーなんかもしれません。身にまとった火属性と水属性の加護が、混乱を起こす切っ掛けになっとるんです」

「何だか凄く……生理的に嫌な話なんだが……」

「あの煙が全部、ヒューさんの体液っちゅう訳じゃなぁですよ。そんなん、身体が干上がってまう。水の魔力で、増幅されとるんじゃと思います」

「た、体液とか呼ぶな! イヤだ!」


 血液や涙を利用する魔術は、古くからの伝説や物語にもよく登場する。しかし、汗と言われると、不思議なくらい格好がつかない。


「あれ?それじゃ――」


 この場で煙を噴かないよう、どうにか気持ちを落ち着けると、ヒューは続けて浮かんだ疑問を口にした。


「初代男爵のポールや、大叔父さんも『あがり症』だったのか?」


「それは……ちょっと分からんです。亡くなってしまっとるし。でも、切っ掛けは人によるんじゃなぁかと思います。アルフォンスさんの場合、呪術士として優秀じゃったらしいけん、生まれつき、『火属性』の体外への発露が強過ぎたせいかも」


 そう応じながらエイダンは、『世界の驚くべき症例 第三集』のページをめくる。


「初代男爵さんの発症は……もしかしたら、過労のせいかもしれません」

「過労? 働き過ぎで?」

「働き過ぎて体壊すっちゅうのは――俺も昔、似たような事やってしもうたけど――怖いですよ。寝込んで終わりじゃあ済まんで、体質が変わった、なんて報告があります。これとか」


 エイダンが開いてみせたページには、ある多忙な貿易商の症例が載っていた。

 過労と不眠が続いて、遂に倒れたその貿易商は、何とか一命を取り留めたのだが、その後も、頻繁な発疹ほっしんに悩まされるようになった、との事だ。


「寝る間も惜しんで働く人だったと、ヒューさんも言うとりましたけん」

「ああ、そう聞いている……」

「妖精と取引をしたんが、二十代の頃。そっから二十年、働き通して……初代男爵さんに何があったんかは、やっぱり、何とも言い切れんです。必死に生きた人には、色んな事が起きます」


 欲に駆られて妖精の策に乗せられ、自滅した愚かな男――と、ポール・リードをただなじる気分には、最早ヒューもならなかった。


「ほんで、治療ちりょうですが」


 気を取り直した様子で本を閉ざし、エイダンは、正面からヒューと向き合った。


「血族丸ごとの契約や、精霊の加護を無理矢理引っぺがすんは、多分、正当な取引相手のウンディーネでないと難しいです。でも、ヒューさんの『あがり症』の体質の方を改善するんじゃったら」

「そ、そんな事出来るのか?」

「やってみます。ちゅう訳で、風呂にどうぞ」


 率直な答えに、ヒューはハオマを思い出す。

 彼が、バロメッツの群れを落ち着かせるために奏でた楽曲。あれを聴いた時、ヒューの煙は、鎮まるのがいつもより早くなった。

 今思えばあの楽曲によって、バロメッツだけでなく、ヒューの精神や魔力までも、鎮静化させられていたのではないか。

 ハオマは、呪いの正体が『聴き取れなかった』と言っていたが、彼はそれと知らずに、解決の糸口を掴んでいたのかもしれない。


 先を歩くエイダンが、小豆色の短いローブの裾をくくり、袖をまくり上げた。水場の掃除でもするような出で立ちである。

 最後に、背中の長杖を手に取って、彼は準備を整えた。


 ヒューは覚悟を決め――風呂に入るのに、何故こんな悲壮な顔をしているのだろう、と自分がおかしくもあった――小屋の外に出て、湯船に向かう。


 幸い、本来もう閉鎖される時間帯らしく、源泉掛け流しの露天風呂は無人である。

 湯船の中に入ってみると、小さいなりに、居心地は良かった。体温より、僅かに高い程度の湯温だ。


 ヒューの眼前で杖を構えたエイダンが、呪文の詠唱を開始する。


 精霊に語りかける言語には、独特の響きがあった。篝火と、夜空の月だけが明るく、夜の島はひっそりとしている。

 今にも呪いが発動するかと思う程に、緊張していたはずのヒューは、いつの間にか体の力を抜き、両目を閉ざしていた。


「『常夜灯烹ナイトキーパー……追い炊きリヒート』!」


 エイダンの詠唱が完了する。


 ヒューは、はたと目を開けた。ほんの数秒だが、眠りに落ちていたらしい。

 身体のどこにも、変わった所はない。ただ、心ゆくまで熟睡した翌日の朝のような、すっきりとした気分になっていた。


「特に、劇的な変化はないようなんだが。今の魔術で、治ったのか?」


 質問に対して、エイダンは困った様子で、首を横に振る。


「いんや、今のは一時的なもんです。お湯の温度を保ったり、蒸気を逃がし過ぎんようにするための魔術を、アレンジした奴で……一応、向こう二、三日は、脈とか体温とかが、落ち着くんじゃなぁかと思います」

「――何だか、すっきりした感覚はある」

「熱を出すんも、汗を掻くんも、身体に必要な事ではありますけん。いきなり全部止めたら、多分心臓も止まってまう。体質を急に治すんは、難しいですね」

「怖い事を言うなよ」


 ヒューは顔をしかめた。

 エイダンは思案するような顔でしばらく俯き、ややあって、湯船に座ったままのヒューの方へと、屈み込む。


「ヒューさんは、旅の途中じゃと聞きましたけど。急ぎの旅ですか?」

「……いや。この身の呪いを解くための、あてもない旅だった」


 考えてみると、その目的は既に達成されている。この身の呪い、いや加護を解除する方法は、イニシュカ島にあるのだ。思いがけず、ここが旅の終わりの地となった。

 だが、今すぐ旅の成果を携えて、意気揚々と家に帰る気分にはならない。


「急ぎでないんなら――」


 エイダンの声で、ヒューは我に返る。


「どうじゃろ。もうしばらく村に留まってもろうて、診断を続けても、ええでしょうか。生活に支障ないくらいに体質を変えるには、何ヶ月か……もしかすると何年か、かかるかもしれんです。その、目途めどをつけるくらいには」


 口調は相変わらずのんびりとしていたが、エイダンの眼差しは、真剣なものである。


「それと……俺、ラグ川の源流まで、登ってみようと思うとります」

「何だって?」

「精霊の加護を、解除するかどうかはともかく……実際ウンディーネに会って、相談に乗って貰うだけでも、何か分かるかもしれんけん。知って出来る事があるんなら、全部知りたいです」

「『知識は貴方に無限の自由を与える』――からか?」

「そういう事です」


 ヒューの切り返しに、エイダンは笑った。


「今じゃったら、ハオマさんもおるけん、心強い。あの人は妖精とのやり取りに慣れとるんです。仲がええのは、地の妖精ノームの方じゃけどね」

「彼も、まだ協力してくれると……?」

「はい。ヒューさんの事、心配しとんさりますよ。結構、世話焼きな人だけん」


 人間の世話を焼くのは苦手だと、ハオマは自身について、そう語っていたはずだが。

 ハオマの仏頂面を思い浮かべて、ヒューの口元はつい、笑みの形に緩んだ。


「――分かった」


 と、顔を引き締めたヒューは、エイダンに頷く。


「もうしばらく、診察を君に頼みたい。それから、ウンディーネに会う時は、俺も同行しよう。リード家の者として、人任せにしておく訳にはいかない」

「ほんまに?」

「ああ。改めて、よろしく頼むぞ」


 立ち上がり、エイダンに再びの握手を求める。

 エイダンがヒューの手を取ろうとした、その時。


 全く唐突に、至近距離で異音がした。

 温泉の裏手、木製の柵の途切れた辺りだ。その先は木々の生い茂るばかりで、明かりも届かない暗がりとなっている。

 闇の中から、茂みを掻き分けて、ぬっと何かが首をもたげた。

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