第41話 春時雨と怪異日和 ⑦
ヒューはフォーリー家の庭先に出て、夜風に当たっていた。
海は見えないが、微かに潮の香りがする。目を凝らすと、遠くにぽつぽつと、民家の明かりが見えた。
「あ、ヒューさん。ここにおりんさった」
名を呼ばれて振り返ると、エイダンが立っている。
彼は小脇に、分厚い本を抱えていた。先程、何か探し物をすると言って、屋根裏部屋に入っていったが、この本を探していたのだろうか。
ヒューは、何と言葉を続けたものか迷っている風のエイダンから目を逸らし、また静かな夜の村を見渡す。ややあって、一言呟いた。
「……良い村だな」
「え? あっ、あんがとうございます。俺もそう思います」
素直な返答に、思わず苦笑する。
「それに、良い人達だ。君も含めて」
そう感想を漏らしてから、ふっと、何度目かになる溜息をヒューはついた。
「ここが、善良な人々の暮らす良い村なのだと……、そんな事を知らなければ、さっさと決断出来たのかもしれないが」
エイダンが、軽く眉尻を下げる。
「加護の解除を、ですか」
「そうだよ。もっと言えば、そもそも一族の『呪い』の真相を、知るべきではなかった。後悔している」
妖精の所在も、高祖父やアルフォンスの苦悩も、トーラレイやイニシュカの人々の、ささやかで平穏な暮らしぶりも。示された選択肢も。
何もかも、ヒューにとっては重すぎる。
冒険の旅になど出ず、余計な知識を得る事もなく、この奇怪な体質を抱えたまま、実家に篭もっていれば良かったのだ。あとは、優秀な姉や兄が何とかしてくれただろうに。
「『知識は貴方に無限の自由を与える』」
不意にエイダンが、独白めいた一言を、夜空に向かって吐き出した。
「……何だ?」
「尊敬してた先生が、昔そう言うとったんです。……何かを知るっちゅうのは、決して悪い事じゃないんよ、て教えられました」
「知識が、自由を――か」
ヒューは、口の中だけで、エイダンの恩師の言葉を吟味する。
「その教師や君にとっては、そういうものかもな。立派な志だよ。だが、選択肢が広がる事に、耐えられる人間は多くない。人には分相応ってものがある」
自嘲気味に、ヒューは笑った。
「俺は、端っから男爵家には、
「欲……のためだけじゃあ、なかったと思います」
思いがけずきっぱりと、エイダンが反論したので、捨て鉢な気分で地面を見つめていたヒューは、驚いて彼の方を振り向いた。
「ええと、ヒューさんちのご先祖の事を、俺がどうこう言うんも変ですけど……でも、イニシュカの人らは、男爵家に感謝しとります。昔のラグ川は、もっとあばれ川で、大変だったちゅうて」
イニシュカ島には、古くから、自治意識を重んじる独特の気風があった。
嵐が来ようが魔物が出ようが、無医村化の危機に陥ろうが、まずは村内で話し合い、皆の力で解決しようとする。
そういう島で、島外の貴族がこれほどに慕われているのだ。それだけで、彼の功績は分かる、とエイダンは語る。
「それに、大人しくなった言うても、まだまだ、水っちゅうのは怖いもんだけん。……何年か前にも、大雨でラグ川が危のうなった事がありました。あん時――」
エイダンの緑の目が、急に俯けられる。
「あん時、すぐにでも雨風を止めて、川を落ち着かせる方法があったなら……俺だって、それを選んだかもしれん。後でどんだけ困るとしても」
彼の言う『あん時』が、一体いつの事を指しているのか、ヒューには分からない。
だが、この平穏な村にも困難な歴史があり、目の前の呑気そうな青年も、何かしら過去への後悔や、やり切れなさを押し隠して生きている、という事は理解出来た。
「もし、初代男爵さんや、百年前のトーラレイの人らにも、そういう事情があったんじゃったら、とても責められんで……」
「分かった、エイダン。その通りだな」
ヒューは首を振り、エイダンの肩を叩いた。
「過去の人々の選択を責めるのは、
エイダンが顔を上げる。彼は二、三度、不思議そうに瞬きをしてみせた。
「でも、俺は治癒術士ですけん。人を助けるんが仕事です。ヒューさんが患者で、弱っとるなら、なんぼでも頼ってくれてええですよ」
それは至って真剣な言い様だったが、つい、ヒューは吹き出した。なるほど、そんな風に考えても良いのか。
「おお、
と、エイダンは小脇の本を抱え直す。
「治しましょう。その……呪いだか加護だか、とにかく、困っとる部分を」
今度は、ヒューが驚き目を瞬かせる番だった。
「えっ……そ、そんなあっさり選んでいいのか?それはつまり、この土地を――」
「いや、そっちを選ぶっちゅうんじゃなぁです。勿論、ヒューさんがそっちで決めたなら、俺には反対出来んけど。ただこの話、二択とは限らんですよ。他にも道は、きっとあります」
エイダンはそう言って、ヒューを導くかのように、家の裏手の細道を指し示す。
示された先には木立があり、小さな立札が立っていた。『イニシュカ温泉こちら』と書いてあるらしい。
「だけん、温泉、入ってかんですか?」
「は?」
ヒューは、ぽかんと口を開けた。
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