第30話 イニシュカ村の婚礼 ①
アンバーセットの街、蚤の市通り――
エイダンは鼻歌混じりに、洗濯桶で
いよいよ今日、アンバーセットを発つ。借りていた住居は既に引き払ったので、旅の手荷物は、彼の傍らにまとめられている。
蚤の市通りの商人達と、常連客の何人かに挨拶を済ませ、風呂桶と幌は引き取って貰った。桶の方はともかく、幌は焦げて大穴が開いている。何に再利用されるのだろうか。
エイダンの手元には、こちらも焦げ目がつき、半ばまで破れた暖簾が残った。何となく処分しがたく思い、これだけは洗って持って帰る事にしたのだ。
これ以上破らないよう、慎重に絞った暖簾を、エイダンは広げて風に晒した。『銀の月』と呼ばれる、一年で十二番目の月に入ったばかりの朝の空気は、冷たいが澄んでいる。
空に向けていた視線を下げたエイダンは、通りの向こうから、ハオマが歩いてくるのに気づいた。フェリックスとマディもいる。
一緒に、ブラウンのコートですっぽり身を覆い、フードを目深に被った人物も歩いているが、あれはシェーナだろうか?
「もう出発するようだな」
そう言葉をかけてきたマディもまた、旅の装いを整えている。
「うん。けど皆、ほんとにイニシュカ村まで付き
「一応これは、冒険者ギルドから指名を受けた、正式な仕事だ。依頼主は正規軍、報酬も出る」
「二ヶ月という長期任務ですが、悪い条件ではございませんね」
生真面目に応じるマディに、ハオマが軽く首肯する。
魔杖将ヴァンス・ダラによるライタスフォート襲撃から、数日が経っていた。
あれ以来ヴァンス・ダラも、コチことコヨイ・サビナンドも、エイダン達の前には姿を現していない。
オースティンはじめ、コヨイの捕縛作戦に参加した正規軍の軍人達は、各々、本来の任務に戻っていった。サングスターも、変わらず魔術学校学長及び、正規軍最高顧問を務めている。
モヌポルは無事
ヴァンス・ダラは、
まさかレイディロウ城のように、大浴場付きの塔をまるごと造って寄越したりはしないだろうが、ヴァンス・ダラには過去、一晩で砦を築いたという伝説もある。エイダンは、落ち着かないものを感じていた。
サングスターも、それは同様だったらしい。しかしながら、エイダンを長々と、正規軍の監視下に置いておく訳にもいかない。それがヴァンス・ダラを、また不用意に刺激する可能性もある。
そこで彼が採用した案は、冒険者ギルドを通して、シェーナ、ハオマ、マディの三人を二ヶ月間雇用し、エイダンの身辺の警戒に当たらせる、というものだった。
警戒といっても、四六時中べったりくっついている必要はない。要は、彼の元に不審な使者や贈り物がやって来たら、すぐ把握出来る場所にいれば良い。
よく知らない冒険者達と、パーティーで行動するのは苦手だと語るハオマが、この仕事を悪くないと思うのも、尤もな話だ。
なお、冒険者ギルドに正式登録していなかったフェリックスは、急遽
「コチ……いや、コヨイ先生と再び会うための手掛かりは、現状、エイダンくんへの『謝礼』の件だけだからな」
フェリックスは首を振って溜息をつく。
「全く、まさか恋敵というだけでなく、先生の弟子としてもライバルになろうとは……」
「いやあの、俺は弟子入りしとらんのだけど」
そもそも、フェリックスの恋敵でもない。
そう付け加えようとしてエイダンは、普段であれば真っ先に訂正を入れそうなシェーナが、先程からコートのフードの下で、押し黙っている事に気づいた。
「シェーナさん、元気ないかいね?」
「えっ……いや、元気は元気なんだけどさ、今、目立ちたくなくて」
「へ?」
「ずっとこの調子なのですよ、彼女は。これのせいだと言うのですが」
ハオマが代わりに答えて、手荷物から一冊の雑誌を取り出す。
昨今の庶民層識字率の向上を受けて、都市部で創刊が相次いでいるという、大衆向けの報道誌のようだ。
「ちょっとハオマ、何でそれ持ってるの!」
「所持していたところで、拙僧には読めません。他の方に確認して頂く他ないでしょう」
渡された雑誌を、エイダンはぱらぱらとめくった。
「ん? ……これ、この前の事件の記事かいな」
ある見開きの一ページで、エイダンは手を止める。
そこには煽情的な構図で、『魔杖将襲撃か!?』との見出しが躍っていた。
記事の内容は、ヴァンス・ダラがライタスフォートを襲撃した事件について、ごく曖昧に取りまとめたものである。
恐らく、正規軍に出入りする記者が、伝聞をもとに書いたのだろう。コヨイやエイダンが捕まった話などは載っていないし、サングスターがその場を指揮していた点も、触れられていない。
そこまでは、現場にいた者として多少の不満はあるにせよ、仕方ない。
ただ問題は、記事に添えられた一枚の挿絵だ。銅版画で刷られたらしいその挿絵に描かれているのは、白地のローブを羽織り、錫杖を手にした若い女。
「……これ、シェーナさん?」
「そう書いてあるな」
フェリックスも覗き込んで、眉根を寄せた。
確かに記事内には、このようにある。『アンバーセットの英雄的治癒術士、シェーナ・キッシンジャーの活躍により、死者はゼロ。ヴァンス・ダラは彼女を恐れて退却したという!』
しかし、この絵の女性がシェーナだとすると、実像とは大分かけ離れていると言わざるを得ない。
絵の女性は、ローブの下に何故か水着か下着のような、腹部が丸出しのぴったりした鎧を身につけ、やたらと筋肉質かつ豊満な身体つきに
顔の横にはふきだしが付いていて、『HAHAHA!魔杖将恐るるに足らず!』と台詞が書き込まれている。
「どういうキャラよ! どういうセンスよ!」
真っ赤になって、シェーナが叫んだ。
「『英雄的治癒術士』のイメージって、こんな感じなんじゃろか」
「キャラクターづけに迷走の痕跡が見られる。編集者の責任かもしれない」
首を捻るエイダンの隣で、マディが至って真剣に所感を述べる。
「本物の方が断然素晴らしいと思うが?」
フェリックスが称えたが、シェーナは苛々と、フードの下の横髪を
「大体、なんであたしだけ記事に名前出されてるの!?」
「シェーナさんがあの場で一番、有名な冒険者だったからじゃなぁかね。ベテランじゃし」
エイダンは初級扱いの冒険者で、ハオマは冒険者ギルドに登録したばかり。フェリックスはあの時点では、ただの旅人だった。
マディはエアランド州においては、それなりに名のある冒険者らしいが、ライタスフォートの砦のある場所は、アンバーセットと同じ、ケントラン州内だ。記者が取材した軍人も、この州の者だったのだろう。
「うぅー……この記事がキッシンジャー家の目に触れたら、流石に本気で連れ戻される……! 母さんに何を言われるか……!」
しばし、頭を抱えて唸っていたシェーナは、やがて顔を上げ、エイダンの肩にがっしりと両手を置いた。
「って訳だから。利用するような形になって悪いんだけど、あたし、しばらくアンバーセットを離れたいの。出来るだけ最果ての土地に行きたいわ」
そういう事かと、エイダンは瞬きと共に頷いた。
「ええよ。うちの辺りには、あんまりこういう雑誌も入らんけん、しばらくゆっくりしんさってな。きっとばーちゃんが歓迎したがる」
こうしてエイダン一行は、英雄らしからぬこそこそとした足取りでアンバーセットを発ち、遥か西部の離島、イニシュカを目指す事になった。
◇
駅馬車を乗り継ぎ、本土の西の端にある港町から、更に船に乗り換える。
アンバーセットの街から、実に十日余りの旅程である。
日の傾きつつある洋上に見える島影が、徐々に近づいてきた。
島の中央には灯台が建てられ、その周囲はこんもりと木の生い茂った低い山。山から流れてきた川に沿って田畑が広がり、そして浜辺がある。漁から戻ってきたらしい漁船が、いくつも並んでいた。
エイダンは、懐かしさに目を細めていたが、船着き場がはっきり目視出来る距離まで来たところで、ふと眉をひそめた。
何やら、騒動が起きている。
土と泥にまみれた男達が数人、棒だの板だのを持って右往左往していた。
その中の一人、頭から泥を被ったような有り様だが、赤褐色の短い髪の、背の高い青年の顔は、エイダンにとって馴染みのあるものだった。
隣の家に住む、親友のキアランだ。
「何かあったのかしら?」
シェーナも騒ぎに気づき、船の
桟橋に寄せられた船から飛び降りて、エイダンは呼びかけた。
「キアラン!」
声に振り向いたキアランが、目を丸くする。
「あれっ? おま……エイダン!? 何じゃあ、帰るんなら手紙でも寄越しゃ、俺の船出したんに!」
懐かしい訛りっぷりに、ついほっこりしそうになるエイダンであるが、それよりも気にするべきは、彼らの状況だ。
「キアラン、皆も、どがぁしたん? そんな泥まみれで」
「ああ! えらい騒ぎなんよ。ほれ、手紙にも書いたが、今姉ちゃんの家を作っとる所の近くでな……」
「モーリーン姉さんと、旦那さんの?」
「それ。そこの、隣の林で――」
キアランは、島の奥を指し示して、興奮気味に続けた。
「温泉が! ドバーッと湧いたんじゃ!」
◇
イニシュカ村の網元の長男、キアラン・オコナーが語ったところによれば――
数日前、キアランは、姉夫婦の新居の庭造りを手伝い、日の沈んだ頃になって、シャベルを片手に自宅への道を戻ろうとしていた。
予定より遅くなってしまったため、近道となる暗い林の中を急いでいると、林の奥から、不思議な鼓の音が聞こえてくる。
何故か心惹かれる音色で、彼はふらふらと音の元へ歩いて行った。
すると、間近まで迫っていたその音は不意に掻き消え、彼の目の前にはいつの間にか、人の身の丈の三倍はある、群青の毛皮の狼が立ち塞がっていた。
驚きと恐怖に声も出せず、ただ頭の中で、精霊に祈りを捧げるしかない。
棒立ちになっているキアランの前で、狼は襲いかかるでもなく、鋭い爪の伸びた前足を使い、地面をがりがりと掻いた。
キアランを見つめて軽く唸り、引っ掻いた地面に鼻を擦りつけるようにしてから、またこちらを見る。
「ここを掘れ」
とでも言われたような気がして、キアランは恐る恐る、手にしたシャベルで地面を掘り始めた。
掘っているうちに、また鼓の音がした。その音程が耳に届くと、奇妙な事に、重労働で疲れているはずの身体が軽くなり、一心不乱に掘り進めなければ、という気分になってくる。
彼は時間の経つのも忘れて地面を掘り――
心配した家族や村人達が、林の中を探しにきた時には、キアランの身体が半ばまで納まる、大穴が出来ていたという。
群青の狼は、これまたいつの間にか、姿を消していた。
「なんじゃ、水が湧き出とるぞ?」
ランタンを持っていた村人の一人が、声を上げた。
掘ったばかりの穴の底に触れてみると、確かに水分が滲み出ている。それも、ただの水ではない。ほんのりと温かい。
これは只事ではないと、翌日から何人かでその穴を広げていった。
そして今日、つい先程、深まった穴の底から、突如大量の温水が噴き上がったのだ。
――キアランの話を聞き終えたエイダン達は、温水の湧いた林の中へと案内された。
足を踏み入れた林は、エイダンも覚えがある場所だ。幼い頃、虫取りをして遊んだりしていた。
その、懐かしいはずの林の中央部に、全く見覚えのない泉が出来上がっていた。
冬の空気の中、泉からは温かな湯気が立っている。
「……温泉というのは、数人が数日掘ったくらいで、ここまでの量が湧いて出るものだろうか?」
マディが顎に手を当てて考え込む。
「まあ――普通は、あり得ないと思うわ」
「普通は、ですね」
シェーナが応じ、ハオマが意味深に彼女の言葉を繰り返す。
「先生の『謝礼』……いや、ヴァンス・ダラの力……?」
フェリックスが、誰かを探すように周囲の木々を見回したが、無論、群青の狼の姿はない。
「いんや――規模でかいわ」
エイダンは、呆然と呟いて、湯気に曇る天を仰いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます