第3話 幽霊古城レイディロウ ③

 「ようやく……五階っ!」


 大きく息をつきながら、エイダンは今し方上ってきた螺旋階段を振り返る。

階段の下方から、ガシャガシャと乾いた足音が近づいてきた。

 杖を構えるその間にも、足音の主が姿を見せ、こちらを獲物と見定める。動く骸骨――『スケルトン』と呼ばれるアンデッドである。


 尖塔に入った途端、このスケルトンの集団に襲われた。何とか大部分は振り切ったのだが、一体だけしつこく追い縋ってきたようだ。


「エイダン! 結界を張って扉を閉める! 早くこっちに!」


 先に階段を上りきったシェーナが、鋭く呼びかける。


 掴みかかってきたスケルトンの腕を、エイダンは杖先で打ち払った。痛覚のある人間相手であれば、肘に痺れが走るくらいの打ち込みだったはずだが、生憎とこの敵の身体には、神経が通っていない。

 怯む事なく、スケルトンはあり得ない角度に頭蓋を捻じり、エイダンの左腕に噛みついた。


「いってえええッ」


 思わず叫んだ。咄嗟に利き腕で頭を庇ってしまったせいで、杖を上手く振るえない。


「『聖泡破邪壁フォーミィウォール』!」


 シェーナの詠唱が完了した。

 結界に弾かれ、スケルトンの牙が腕から離れる。すかさず杖で突きを入れたところ、数段ばかり階段を転がり落ちていった。その隙にエイダンは、五階の扉の中へと滑り込み、閂をかける。一瞬遅れて、スケルトンが扉に体当たりして砕ける、嫌な音が板の向こう側で響いた。


「ふぅー……」


 噴き出した冷や汗を拭って、エイダンは先程噛まれた自身の左腕を見下ろした。

 幸いというべきか、骨や筋に異常はなさそうだ。しかし軽く出血している。


「……『止血ヘモスタシス』!」


 シェーナが、簡易な呪文を詠唱し終えた。あちこちに負った二人の擦り傷の上を、さらりと水気が撫でる。


「悪いけど、今は止血と消毒だけ。魔力を温存したいの。ここを乗り切ったらきちんと治療するわ」

「いんや、ありがとう。俺も落ち着いて色々と準備すれば、少しは治癒が出来るけん」

「治癒術に、準備?」


 とシェーナは、今日何度目かになる眉のひそめ方をしてみせる。

 そういえば、何故彼ら二人だけがアンデッドにさらわれずに済んだのか、その説明も途中のままだった。

 エイダンは口を開きかけ――そこでその口を、驚きのためにあんぐりと開け放った。


「マックスさん達じゃ!」

「えっ!?」


 見覚えのある複数の人影を、フロアの奥に見止め、エイダンは思わず、足を速める。


 尖塔の五階は、奇妙な造りになっていた。

 階段を上がってすぐの所には、狭い廊下といくつかの小部屋。蜘蛛の巣だらけの朽ち果てたカーテンや、鏡台が置かれ、どことなく控えの間といった風情である。

 そして廊下を抜けた先には、半円状の大きな空間が広がっていた。高い天井と、床面積のほとんどを占める、タイル張りの水槽が特徴的だ。


 この水槽が、『濁らずの泉』なのだろうか?――しかし呼び名に反して、水槽にたっぷりと張られた水は、完全に濁りきっている。藻とも汚泥ともつかない沈殿物で真っ黒に染まり、タイルの底すらろくに見えない。

 その水槽の縁に、マックス達四人が、人形のように並べられ、座らされていた。


「これは――」


 水の中に腰まで浸かった状態で、微動だにしないイライザへと歩み寄ったシェーナは、慎重に彼女の首筋に触れた。

 脈はある。しかし、全身が氷のように冷えきって硬直している。心配顔で見守るエイダンに、そうシェーナは説明した。


「『呪魂凍結フリージング』って呪術ね。身体と意識を凍結させられてる」


 水属性の呪術士が得意とする魔術である。攻撃用の水属性魔術は、冷却に特化して威力を発揮するものが多い。

 解呪さえすれば助けられる状態で留め置かれたのは、不幸中の幸いと言える。ただし、問題は……


「誰が何のためにこんな事を?」


 凍りついたイライザを前に、誰にともなくシェーナは問いかけた。


「呪術……」


 親指で顎をなぞり、エイダンも考え込む。


「亡くなった城主の奥さん。元宮廷呪術師じゃったな?」

「確かに、そう言ってたけど。でもとっくに亡くなってるんでしょ?」

「さっきからオバケを山程見とるが」

「そりゃまあね。でも、こんな呪術まで使うアンデッドとなると……上級に分類される魔物よ。『レイス』だとか」


 レイス。魔術学校の教科書に載っていた魔物だ。ゴーストやスケルトンよりも強固な実体を維持し続け、生前の知識や技能すら、部分的に行使する。

 湖が近く、魔力が淀みやすい土地とはいえ、そんな強力な魔物が、何の切っ掛けもなく現出するのは奇妙だ。


 ――そういえば、この部屋の水は、真下の湖から汲み上げているのだろうか?


 エイダンは水槽の端、壁に設けられた水の注ぎ口へと近づいた。


 今は流れ出る水もなく、カビと錆にまみれているが、注ぎ口の奥を覗き込むと、僅かながら滑車と鎖が見える。かなり大がかりで、複雑な汲み上げ装置のようだ。鎖は、このフロアの更に上から垂れている。この上というと、あとは最上階だけだ。

 スケルトンに追われて飛び込んで来た扉とは反対側に、簡素な木戸があるので、あそこから最上階に行けるのだろうか。


 つらつらと考えながら、エイダンは何気なく、壁際の朽ちたカーテンをめくった。


 その奥にはちょっとしたスペースがあり――老人が一人立っていた。


 こけた頬に青白い肌と、落ち窪んだ眼窩の、白髪の老人。郷土史の本に載っていた、レイディロウ城主の肖像画とそっくりだ。

 ただし目の前の彼は、肖像画のように着飾ってはいない。腰にタオル状の布を巻きつけただけの、素裸である。


「おや、ようこそ、お客人」


 泡立つような雑音混じりの声で、老人が口を利き、にたりと笑う。


「アアアアアアア!?」


 カーテンを叩きつけるように閉めて、その場から飛び退いたエイダンの素っ頓狂な絶叫に、シェーナまでもが仰天した。


「なっ、何? どうしたの!?」

「王様が! 王様が裸で!」

「それは何か……寓話的な?」

「そのまんまの意味で!」


 そこそこ呑気者としての自負のあるエイダンではあるが、流石に、見知った顔の故人に至近距離で化けて出られると、心穏やかではいられない。


 半ば足をもつれさせながらも杖を構え、迎撃態勢を取ったその時、すぐ後ろから、


「ひゃあっ!?」


 と、今度はシェーナの悲鳴が上がった。

 振り向けば、シェーナは天井を見上げている。より正確には、天井近くに浮いている人影を見つめていた。


 空中からこちらを睥睨している人物もまた、見覚えのある老婆だった。冒険者が身につけるそれよりも、風雅な意匠を凝らしたローブを纏い、虚ろな眼差しで短い杖を携えている。


 ――城主の妻だ。かつての宮廷呪術師。夫に生涯寄り添い、彼の死後間もなく、後を追うように病死したとされる。

 そして今や、夫婦揃って――間違いなく――『レイス』と成り果てていた。


 夫人のレイスが杖を掲げ、人間には聞き取れない音程で、何事か口走る。杖の先端から、白い霧が湧き出たかと思うと、部屋の中で大きく逆巻き、うねりを上げ、襲いかかってきた。


「『走渦ヴォルテクス障壁・シールド』!」


 咄嗟に錫杖をかざしたシェーナが、魔術を放つ。

 エイダンとシェーナの足元から、高速で立ち昇った水の渦が、二人に覆い被さろうとした白い霧を弾いた。

 霧とぶつかり合った渦は、ぱきぱきと不可思議な音を立てている。よく見ると、レイスが放ったそれは霧とは言い難く、極小の氷粒であるらしい。


「皆を捕まえたのは、どうやらこれね……!」


 霧と渦、双方が空中で掻き消え、シェーナは肩で大きく息をした。

 呪文詠唱は短くて済むが、使用者を著しく消耗させる術だったようだ。人外の存在との、一対一の魔術対決は、あまりにも人間側に不利である。


 一方、エイダンの視線の先では、破れたカーテンをずるりと引きずって、もう一体のレイス、老城主が二人に躙り寄りつつあった。


 エイダンは目まぐるしく思考を働かせていた。


 ――果たして、上級魔物モンスターを相手に、村で習っただけの棒術がどこまで通じるだろうか。そもそもこいつは、棒で叩いてどうにかなるものなのか。


 ……いや、そんな事を悩んでいる暇はない。今自分に出来る事は何だ?


 それにしてもこのレイス、服くらいきちんと着てほしい。さっきのスケルトンも全裸だったが、それはいいとして、彼の場合半端にタオルなど腰に巻いているものだから、かえって気が散って仕方ない。何故こんな格好なのだろう。


 ……いやいや、だから余計な事を考えるな。


 基本に立ち返れ。魔術学校の教科書を思い出そう。アンデッド型魔物モンスターとは、何か。……そう、彼らは死者そのものという訳ではない。

 土地や建物、遺品、遺体などに、こびりつくように残された、何らかの思念が、魔力の淀みによって魔物化しているのだ。

 ゆえに魔物の姿は、残留思念に宿る願望や習慣に影響され、様々な形をとる……


 ――願望や習慣?タオル一枚の、あの姿が?


「シェーナさん!」


 突如として、エイダンは叫んだ。


「なに!? 今超取り込み中よ!」

「悪いっ、あと三十秒! 時間稼げるかい!?」

「……何をする気?」

「何をどうすりゃええのか、分かった! 多分!」


 言うなり、エイダンは飛沫を上げて水槽の中に飛び込んだ。

 驚きに目を見開くシェーナの前で、水の中に長杖を突き立て、呪文詠唱を開始する。

 レイスが再び、二人に向けて氷粒を放つ。シェーナは辛うじて、障壁でそれを弾いた。


 エイダンは詠唱を続けている。式を展開し、自然を司る精霊へと呼びかける。


 この呪文は通常、治癒術に使われない種類のものをアレンジしている。学校を辞めた後も、教科書は手元に残ったので、攻撃用呪術の基礎教本を見ながら、自力でどうにか組み上げた。

 そう、学校ではどうしようもなかったのだ。彼に魔術を教えられる教師などいなかった。入学金は惜しいが、別に恨む筋合いはない。


 ――『』の治癒術士ヒーラーは、ただあまりにも、珍しかったのだ。


「ここの幽霊達は、誰も彼も――風呂に入りたかっただけじゃ! 今、!!」


 あらためて、杖で床をしたたかに突き、エイダンは魔術を完成させる。


「『火精の吐息フレイム・ブレス』!」


 空気が、大きく揺らいだ。


 濁りきった泉の水が、杖先を中心として、波紋の広がるように透明に変化していく。

 瞬く間に水の温度が上昇し、湯と呼べる状態になり、広間中に、蒸気が立ち込め始めた。

 泉を湯船として、その広間はすっかり、心地の良い大浴場と化したのだ。


 夫人のレイスが、はっとした様子で杖を下ろす。虚ろだった眼差しは、冴え冴えとした知性を湛えている。


 宙を舞っていた氷の粒は融解し、城全体を包んでいた禍々しい霧の様相までも、変容しつつあった。


「淀んでいた魔力が――」


 広間を見渡したシェーナが、呆然と呟く。


「熱で浄化された! 『加熱』の……『火』の治癒術? こんなの初めて見る……!」


 唐突に、ばしゃんと水の跳ねる音がした。


「おわっ!?」

「ひゃあっ!」


 複数の戸惑いの声が上がる。

 呪術で硬直していたマックス達が、凍結から解放され、動き出したのだ。


「な、何ここ? お湯? お風呂?」


 目覚めるなり水槽、いや浴槽の中に尻餅をつき、イライザは困惑の表情で周囲を見回した。

 そして直後に、


「きゃああああッ!?」


 けたたましい悲鳴を上げる。

 彼女の目の前に、腰にタオル一枚のみという出で立ちの、老城主の幽霊が突っ立っていたのだから、無理もない。


 城主の方はというと、先程までの不気味な雰囲気はどこへやら、半分透けた身体のまま、鼻唄混じりに湯に浸かってみせた。


「やあ、お客人。君は旅人かね。我が城名物、真の無礼講の宴はいかがかな」

「嫌ですわ、貴方。レディ達の前で、それはあまりにはしたないというものよ」


 穏やかな声音でそう城主を叱ったのは、床へと降り立った彼の妻である。

 最早レイスとも、魔物とも呼び難い。貴婦人然とした佇まいは、生前そのままであるようだった。


「ああ、戻ったのね。『濁らずの泉』が……」


 感慨深げに言葉を紡ぐ夫人に対して、未だ浴槽内で魔術を発動中のエイダンは、首を捻って彼女を見上げた。


「えっと、奥方様……ってお呼びすれば、良いんじゃろう……でしょうか。この『濁らずの泉』は要するに、元々大浴場だったんですか?」

「そのとおりよ。お若い治癒術士さん」


 夫人は笑顔で答える。


「是非、この塔の最上階までお上がり下さいな。貴方がたならそれだけで、この城で起きた事を理解わかって下さるはず……」


 夫人の姿は、ローブの裾から徐々に薄れかけていた。春先の雪が融けて消えるように。

 城主が彼女の傍らに立つ。いつの間にか、彼はあの肖像画と同じく、正装姿となっていた。


「城主ともあろう者が、あさましい姿を見せてしまった。申し訳ない――そして、この浴場と城を、再び浄めてくれた事、心より感謝するぞ。城の皆がそう思っているだろう」

「はあ、何人か杖でぶん殴りましたけど、そう言うて頂けると」


 恐縮したエイダンが、後ろ髪を引っ掻き回しているうちに、城主夫妻の霊は、ふっと広間の蒸気に紛れ、消え去った。


「な、何が何やら……?」


 マックスが浴槽から上がり、胸当ての内側に溜まった湯を捨てながら、目を瞬かせる。


「とりあえず、ここらはしばらく、浄化されて安全じゃろうけん。最上階に行ってみるっちゅうのは?」


 杖を固く握りしめていた手から、ようやく力を抜いて、エイダンは提案した。

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