第38話 春時雨と怪異日和 ④
日の沈む頃には、雨は上がっていた。
この時期のイニシュカ島は、天気が不安定である。『男爵文庫』の屋根も修繕が必要だが、『イニシュカ温泉』の、吹けば飛ぶような掘っ建て小屋も、いずれは何とかしたい所だな、とエイダンは、自宅への帰り道を歩きながら、空を見上げた。
現在エイダンの鞄の中には、イマジナリー・リードの入ったガラス球が押し込められている。
協力を申し出た以上、落ち着ける場で詳しく彼の話を聞く必要があったが、学校の外へ気軽に連れ出すのは難しかった。いくら田舎とはいえ、煙人間が往来をふわふわ飛んでいたら、騒ぎになってしまう。
それで、「しばらく、目立たんように出来ませんか」と頼んでみたところ、彼はあっさりと、球の中に戻った。
「先程真水でしっかり洗われたので、しばらくは出入り自由だ。明日あたり、また水を
との事である。鉢植えか何かのようだ。
ともあれエイダンは、学校でキアランと一旦別れ、リードを鞄に入れたまま、タウンゼンド治療院に出勤した。そして仕事を済ませ、現在に至る。
キアランは、タコが新鮮なうちにエイダンの家を訪ね、祖母のブリジットと、夕食の用意をしておく、と張り切っていた。
彼を夕食に招いたり、エイダンやブリジットがキアランの家に招かれたりするのは、良くある事だから、多分今夜も、祖母と一緒に食卓で待っているのだろう。急がねばならない。
蕪畑の向こうに、白く塗られたごく低い柵と、一軒の家が見えてきた。
明かりの灯る我が家の扉を、エイダンは軽快に開ける。
「ばーちゃん、ただいま」
「おかえり、エイダン。お客さんが来んさったよ」
いそいそと、エプロン姿のブリジットが迎えに出てきた。
現在は大分色褪せているが、若い頃は美しい
「ああ、キアランじゃろ?」
ひょいと部屋の奥を覗き込んで、エイダンは目を丸くした。
「あれっ? ハオマさん!」
奥のテーブルには、予想通りキアランの姿があったのだが、その隣に、かつて冒険者としてパーティーを組んだ仲間である、サヌ教の治癒楽士ハオマが座っている。
食卓には更にもう一人、見覚えのない若い男も着いていた。どことなくリードに似ているな、とエイダンは、まずそんな印象を抱く。
「どうも。お邪魔しております」
懐かしさを覚える無愛想な口調で、ハオマが挨拶を述べる。
「おー、エイダン。さっきまで、アーロンとデイジーもおったんじゃけどな。二人は宿で、明日の店開きの準備する言うて。これは、皆からの土産」
食器を並べていたキアランが、食卓の中央の、タコのオーブン焼きと一緒に大皿に盛られた料理を指し示す。
肉団子のような、もしくはマッシュポテトを丸めたような、不思議な見た目の一品だ。
「お土産? なんじゃいな」
「『バロメッツの干し団子』じゃって。なんか、ハオマさんの地元ではよう食べられとる料理なそうよ」
ブリジットが横から説明する。
「へぇー? あんがとう、ハオマさん。また来てくんさって嬉しいわぁ」
率直に再会の喜びを表明するエイダンから、ハオマは気まずそうに顔を逸らした。
「だから、拙僧も宿に泊まると申し上げたのです。こうした
「そんな。俺一人きりで、知らない家で、どうしろって言うんだ。それより早く紹介してくれ」
ハオマと今一人の男は、何事かぼそぼそと言い合った。そののち、男の方が観念した様子で立ち上がる。
革製の軽量な鎧の上に、短いケープを羽織った、旅の剣士らしい出で立ちである。年齢は十七、八だろうか、恐らくエイダンと同世代だ。
水色がかった癖のない髪は、やや強引に切り揃えられ、ブーツには、不慣れな手で磨いたような痕跡があった。
一人旅に慣れていない、階級の高い人間が、どうにか自力で身だしなみを整えようと心がけると、多分こうなる。
「あー、名乗りもせずに失礼した。俺の名はヒュー・リード。治癒術士エイダン・フォーリーの腕を見込んで、患者として頼みたい事がある」
「ヒュー……リードさん?」
差し出された右手――今度は間違いなく、生身の人間のものだ――を取って、エイダンが相手の顔を見上げたその時、まだ肩から下ろしていなかったエイダンの鞄の中で、大声が上がった。
「なにっ! ヒュー・リードだと!?」
鞄の隙間から、煙が立ち昇る。煙は石膏像のごとく、急速に成形され、イマジナリー・リードが姿を現した。
「おお、まるで我が長兄の生き写しだ! 兄の子や孫の話は、便りにて聞いておるぞ」
「ちょぉっ、リードさん!」
事情を知らない人間が多数いる場で、いきなり出現されては困る。エイダンは慌てて止めようとしたが、既に全てが遅かった。
「……アル……フォンス、大叔父さん……?」
一瞬にして、血の気の失せた顔色となったヒューが、声を震わせる。
そして直後、彼の全身から、ぶしゅーっと音の立つ程の勢いで、煙が噴き出した。
「うひゃあっ! 幽霊!?」
「ぎゃーっ! 煙が! 火事!!」
ブリジットとキアランが、イマジナリー・リードとヒュー・リード、双方の起こした現象に代わる代わる驚き、どたばたと部屋の中を駆け回る。
「うわ、ヒュー・リードさん!? しっかり!」
握った手から、急に力が抜けたもので、エイダンは慌てた。ヒューがふらりと、仰向けに倒れかけたのだ。
どうにか腕を引っ張り、後頭部を打たないよう、床に軟着陸させる。
煙はもうもうと、部屋中に広がっていた。エイダンがオーブン料理に失敗した時のような有り様だ。
「この煙! 間違いない、リード家の血筋だ……!」
納得顔で頷くイマジナリー・リードを
水を張った洗面器を取ってきたキアランが、煙を噴くヒューに向けて、洗面器の中身をぶちまけた。
「わーっ! 冷たい!」
目を回していたヒューが跳ね起きる。
一方ブリジットは、
「
「何だと、失敬な!」
「ばーちゃん、待って、落ち着いて!」
一人、食卓に着いたままのハオマは、見えない目でぼんやりと室内を見回した。
「……どなたか、何がどうなっているのか、ご説明を」
エイダンが、その要望に答えられるようになるまでには、もうしばしの時間が必要だった。
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