第36話 春時雨と怪異日和 ②
イニシュカ小学校の敷地内には、校舎と対照的な、古めかしい造りの小さな建物が一軒ある。
『男爵文庫』と呼ばれるその建物は、山の上から移築されてきたものだった。
アンテラ山の中腹には元々、この地方の代官を務める貴族、リード家の別荘が建てられていた。
いつの頃からか、リード家の血筋に連なる、アルフォンスという男が、ごく少数の執事や侍女と共に、そこで暮らし始めた。彼は生まれつき持病を抱えており、移住は静養のためだったという。
偏屈な所はあったが、良い人だった、と島の大人達は彼を回顧する。
アルフォンスも偏屈家なりに、島に愛着を抱いていたらしい。晩年、死期を悟った彼は、自分の収集品を納めた書庫を、島民の役に立ててくれと、一人の侍女に遺言してこの世を去った。
病身ゆえ思うように出歩けない分、乱読家にして好事家だったアルフォンスの収集品は、多岐に渡った。
書庫の収蔵品は、子供向けの絵本に参考書、かつて発禁処分にされた歴史書や風刺フィクション、世界地図、
遺言に従い、当時建設中だった学校の校舎の横に、書庫は速やかに移築された。『男爵文庫』と名づけられた書庫は、図書館として開放され、アルフォンス・リードは、イニシュカの教育界に貢献した人物として、郷土史に名を刻む事になった。
郷里の偉人への敬意はともかくとして――この『男爵文庫』、子供達の目には、少々不気味な建物と映ったようだ。
エイダンが小学校に通っていた頃も、入るのを嫌がる生徒はいたものだが、今や、怪談話まで飛び出すようになったらしい。
「ついて来てくれてありがと、フォーリー先生」
ようやくすっかり泣き止んだサラが、エイダンと手を繋いで言う。
エイダンはサラに、『男爵文庫』の中まで同行する事を請け合い、何とか彼女を落ち着かせたのだった。
どうせこれから、学校近くのタウンゼンド治療院に出勤しなければならない。もののついでである。
「ええよ。いよいよ雨が降りそうだけん、急がなぁじゃな」
エイダンは軽い口調で答えてから、横を歩くキアランの方に目を向けた。
「キアランは……水の入ったバケツを抱えとるんじゃし、帰ってもええのに」
「そんな、中途半端に怖い話だけ聞かされて、帰れるかい! 『男爵文庫』って、俺もめちゃめちゃ苦手な場所だったんじゃって! スッキリ終わらせんと、この先学校の前、通れんようになるわ!」
「そんなに!?」
日々、危険な海へと漕ぎ出して漁をこなし、村の若者達の兄貴分で通っているキアランなのだが、どういう訳か、昔から
「図書館より海の方が危ないいーね、絶対」
「そういう問題じゃのうて……エイダンこそ、昔から妙にクソ度胸あるよなあ。喧嘩とか
「そらぁ、勉強しとったけんよ」
イニシュカ島にあるのは、小学校のみである。高等教育機関まで進学する平民は、この近辺にはほとんどいない。指導出来る者もいない。
サングスター魔術学校への入学を目指すエイダンは、小学校卒業後、独学で受験勉強を進めるしかなかった。
幸い『男爵文庫』には、若き日のアルフォンス・リードが勉学に使ったらしい、中・高等教育向けの参考書が収納されていた。
エイダンは畑仕事を手伝って生計を立てつつ、
残念ながら、学校の方は半年で退学となってしまったが、身についた知識はその後も重宝している。リード家には足を向けて寝られない、と思うエイダンである。
『男爵文庫』が近づいてきた。
どこかくすんだ色合いが印象的な、急傾斜の屋根を見上げていると、鼻先にぽつりと雨粒が当たる。
「ああいけん、降ってきた。入ろう」
「えぇっ、ちょ、待てって!」
バケツを持ったままのキアランがまごつくも、この建物の玄関口の庇はごく短く、心許ない。結局三人で、中に突入する事になった。
玄関扉を潜ってすぐの所には、魔物の骨格標本が鎮座している。
成人男性の身長くらいの体高を持つ、
「うわー……この標本、昔怖かったんよな。しかし、何かこいつ、縮んどらん?」
「キアランがでかくなったんじゃって」
標本と背丈を比べてみせるキアランに、エイダンは笑った。
少年期に入り浸った施設を、久々に訪れると、そこにある何もかもが小さく見える。恐ろしかったはずの物が平気になっている。よくある話だ。
「この時間、誰もおらんのかな?」
とエイダンは、骨格標本の左手にあるドアを、ノックして開ける。
そこはちょっとした事務所になっていたが、今は無人だった。
「……昔は、マクギネス先生が、よく見回りしんさってたんじゃけどね」
「マクギネス先生、校長室にはあんまりおらんかったもんな。教室で教えとるか、校庭で生徒と遊んどるか、あとは『男爵文庫』におって……エイダンと、よう盛り上がっとったわ」
「ほれ、冒険とか魔術の話が、俺も先生も好きじゃったけん」
そんな会話を交わしてから、エイダンとキアランは、少しばかり寂しげな笑いを、同時に漏らす。
サラが不思議そうに二人を見上げるので、エイダンは気を取り直し、彼女に呼びかけた。
「おっと、ごめんなサラ。ノートがどこにあるか、分かるかいね?」
「あ、うん。あそこ」
エイダンの質問に、サラは躊躇いつつも、廊下の右手を指し示す。
そこには扉が一つあり、銅のプレートが貼り付けられていた。プレートには『第二閲覧室』とある。低年齢向けの、本や教材が仕舞われている部屋だった。
サラは学校からの帰りがけに、借りていた本を返すためにこの部屋を訪れた。机の上で手荷物を
帰り道の途中で、ノートがない事に気づき、にっちもさっちも行かなくなって、泣き出してしまったという訳だ。
「雨が降っとるけん……オバケ、出たらどうしよ……」
「でも、なんも怖い事、起きとらんじゃろ。大丈夫。もしオバケが出ても、先生が追い払えるけん」
一応エイダンには、高位に分類される『レイス』というアンデッドを、浄化の魔術で
「なんも出んなよ……なんも出んなよ……」
と、キアランは先程から、後方でぶつぶつと独り言を唱えている。
エイダンとサラは、ドアに手をかけ、第二閲覧室の中を覗き込んだ。
「上級生の人が言うとったんじゃけどね、オバケはこの部屋の隣の、
「宝物のお部屋? ――ああ、備品庫の方か」
「宝箱みたいなんが置いてあるけえ、みんな宝物のお部屋って呼んどる。そこで、雨の日になると、誰もいないのに声がするって……」
「サラ! や、やめよ?」
怖がっていたはずなのに、情感たっぷりに声色を落として怪談を語るサラに、キアランが思わずといった調子で声を上げる。
全般に、女子生徒達は何故か、怖がる割には怪談やオバケの噂が好きだったな、とエイダンは、昔を思い出していた。
「あ、ノートってあれと違うかい?」
室内を見渡したエイダンは、立ち並ぶ本棚の間を通り抜け、図書閲覧用の机の上に、無造作に投げ出されたノートを取る。
「それー!」
サラが、ぱっと明るい表情になった。
「おー、良かったあ。これで帰れるな。オバケも結局おらんかったし! うん、ただの噂じゃな! 一件落着!」
やたらと大声で、キアランが解決宣言を下す。
エイダンは窓から外を窺った。つい先程までは、ぽつぽつと地面を濡らす程度だった雨足が、随分と強くなっている。ノートをこのまま持って帰ると、濡らしてしまうかもしれない。
考えながらも
――物音がする。人の声のような。
「……?」
サラも気づいたらしく、不安そうに廊下の左右を見回す。
「えっ、な、なになに。やめーや」
キアランが顔を引きつらせた。
その間も、囁くような訴えるような、奇妙な音は続いている。
――どこからだ?
足音で異音を掻き消さないよう、慎重に歩き、エイダンは閲覧室の奥の、扉の前で立ち止まった。
扉の向こうは備品庫。サラ達が『宝物のお部屋』と呼ぶ一室だ。
ドアノブに手をかける。長らく誰も開けていないのか、大分建てつけの悪くなった扉は、ぎい、と重い音を立てた。
「エイダン、何しよるっ!?」
「スッキリ終わらせんと、学校の前通れんじゃろ?」
そう応じて、背中に挿していた杖を手に取り、エイダンは備品庫の中に踏み入った。
万が一、本当に『オバケ』が――アンデッド型
室内に入ると、音はより明瞭になった。
――ぱた、ぱたた。ぎぃ。
湿り気を帯びた不規則なリズム。その発生源へ、エイダンは歩みを進める。
前方には、重厚なデザインの棚があった。棚の中には、大振りの木箱。金具で補強され、丸みを帯びた蓋が取り付けられている。なるほど、『宝箱』風だ。
何気なく天井を見上げたエイダンは、「あ」と口走り、棚に駆け寄って、背板と壁との僅かな隙間へと、首を突っ込んだ。
「ああー、こらやれん。雨漏りじゃな」
「ええ!?」
キアランとサラが、揃って目を瞬かせる。
部屋の隅、壁と天井の境目ほどの辺りに、雨水が
雨漏りの水音と、傾いて不安定になった棚の軋む音。それが、生徒達の耳にした『声』の正体だったに違いない。
「えっと、じゃあ、オバケじゃなかったん?」
大雑把にではあるが、エイダンの説明を理解したサラが、ぎこちなく首を傾げる。
「そういう事。すぐ学校に説明して、直して貰わんと、オバケより危なぁけどな。棚が腐って倒れたりしたら困る」
「なーんじゃあー」
緊張の糸が切れたらしいキアランは、その場で大きく肩を落として息を吐いた。
エイダンは棚を軽く検分し、試しに木箱を手に取った。中には、それなりの重量の物が納められている様子だ。
「うわ、箱の方もちょい
迷宮の奥地にでも埋まっていそうな、風情ある『宝箱』が、勿体ない事だ。
惜しみつつ蓋に触れてみると、特に鍵はかかっておらず、あっさりと箱が開いた。
納められていたのは、透明な球体である。ガラス製だろうか。片手に持ってやや余るくらいの大きさだ。
蓋や注ぎ口は見当たらないが、球の内部は、液体で満たされていた。
その液体に、不可思議な影がゆらりと
暗い部屋の中で、無理矢理目を凝らした。
水の中を、煙が泳いでいるように見える。煙はしばらく、不定形にゆらめいていたが、やがて何かの輪郭を
その時、天井から滴り落ちた雨水が、棚に当たって跳ねた。エイダンの顔とガラス球に、微かな水滴がかかる。
途端、ガラス球の煙は反応を示した。
不明瞭だった輪郭が、急速に目鼻を形成していく。
そうして出来上がったのは、人間の首から上だった。髭を蓄えた、中年の男性の顔面。色彩と呼べるものはない。粘土か石膏の像をそのまま気体にしたら、こんな印象になるだろうか。
球体を凝視していたエイダンは、至近距離で、水中の生首と視線をかち合わせる羽目になった。
「おお! ようやく、
煙で出来た生首が、唐突に口を利く。
「わあッ!?」
エイダンは悲鳴と共に、箱ごとガラス球を取り落とした。キアラン言うところの『クソ度胸』にも、限度というものがある。
落下した球が、勢いよく床を転がる。案外頑丈に出来ているらしく、ガラスにはひび一つ入らなかったが、中の生首には、結構な衝撃が伝わったらしい。
「こらあ! 何をするか!」
キアランとサラの近くまで転がって行った生首が、怒りの声を上げた。
「ぎゃあああ! 出たああああああ!!」
「キャ――ッ!?」
二人の絶叫が、室内に響き渡る。キアランがその場から飛び退こうとして、片手に提げていたバケツをひっくり返す。大量の水がガラス球に浴びせられ、更には生きたタコまで貼りついた。
「うぎゃ――ッ! 魔物ァ――ッ!?」
ガラス球の中の生首が、タコを見て悲鳴を上げる。
次の瞬間、球体から煙が噴き出してきた。
一息に、天井近くまで立ち昇った煙は、人型へと変化する。貴族然とした装束を身に纏った口髭の男――と思われる形状の
「なっ……なんだ、よく見たらタコか……人騒がせな……」
口髭の男は宙に浮いたまま、床の上に伸びたタコを見下ろし、安堵の溜息をつく。
軽く、襟元を正すような動作を見せてから、彼は背筋を伸ばした。
しかし姿勢を良くしたところで、固体化する訳もなく、半透明のモヤモヤした物質である事に変わりはない。いわゆる『幽霊』のイメージに、非常に近い外見だった。
間違いなく、今この場で最も人騒がせになり得る存在だ。
「ふう、全く。しかし、お前が水をかけてくれたお陰で、こうして再び身体を得たぞ。ここ数日、何度か水滴を浴びてはおったが、あれだけの水では、
尊大な態度ではあったものの、口髭の男は、キアランに感謝を表明した。
対するキアランは、大きく飛び退いたその場で尻餅をついて、口髭の男を、声もなく見上げている。
「何じゃ、『レイス』……? いんや、しかし――」
エイダンも空中の男を見上げて、思考を巡らせながら呟く。
人の言葉を話すアンデッド型
「レイスだと? 失敬な。我輩を勝手に魔物扱いするな」
腰に拳を当てて、口髭の男は不機嫌に鼻を鳴らす。そして彼は、堂々と名乗った。
「我輩は、トーラレイ男爵リードの血筋に連なる男、アルフォンス・リード――が、ウンディーネの魔術を借りてこの世に遺した、
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