第35話 春時雨と怪異日和 ①
聖シルヴァミスト帝国西端の離島、イニシュカ。
島の中央部に陣取るアンテラ山の、山頂近くから湧き出て、南東部へと流れ落ちる、急流ラグ川。その下流域周辺には、猫の額程の小ぢんまりした平野と、田畑が広がる。
平野部とアンテラ山の境目ほどには、林と呼ぶにもささやかな木立があり、そこに、『イニシュカ温泉』は湧き出ている。
湯の噴き出した当初は、泥沼状だったこの場所も、現在は多少整えられた。山の上から運んできた大きめの石や、材木を敷き詰めて、源泉の噴き出し口を固め、排水路を
人の手で下ろせそうな石を運んだだけなので、豊富な湯量に対して、湯船は大分手狭である。
成人が二人も浸かると、もう満員になってしまうのだが、ともあれ、豪華源泉かけ流し露天風呂という訳だ。
未だ、番台と脱衣場が掘っ建て小屋同然なのは、ご愛嬌と言った所か。
そんなイニシュカ温泉
樽の中は、源泉から汲んできた湯で満たされている。
「……『
囁くような慎重さで、エイダンは呪文詠唱を終える。
先日、新たに完成させたばかりの魔術だった。湯の温度を、数時間保持させる効果がある。
試しに、指先で湯に触れてみる。魔力はしっかりと伝導していた。成功したと見て良いだろう。
「これで、洗い場用の湯は出来たけん……おっと」
樽の端から、微かに湯が
この大樽は掘り出し物の中古品で、買い取った時、もう大分古かった。直し直しで使っていくしかない。
「今日はもちそうじゃけど。後で
そう呟いて、小屋に戻る。
番台と脱衣所を兼ねた小屋は、トンネル状になっていて、温泉側と、村に通じる林道側の両方に出入り口があった。林道側には、
以前、アンバーセットの風呂屋で使っていた暖簾は、現在エイダンの自宅のクロゼットに眠っており、こちらは新調されたものとなる。
エイダンが温泉側から小屋に入ると、同じタイミングで、その暖簾の向こうに人影が見えた。
「よーう、エイダン」
そう声をかけて入ってきたのは、友人で漁師のキアランだ。
「キアランか。漁の帰り?」
「おう。今日はこれから
言われて空を見上げると、なるほど、西の方から黒雲が迫ってくるのが見える。
木立を抜ける風も、春めいてきたこの頃には似つかわしくなく、心なしか勢いを増していた。
「エイダンは、風呂の用意かいな?」
「うん。掃除は済んで、お湯に魔術もかけたけん、準備完了じゃね。これからフェリックスさんと、一旦番頭交代して、タウンゼンド先生の所に行かんとじゃ」
「精が出るのー」
「まだまだ、見習いだけんな」
エイダンは現在、『シルヴァミスト医療業ギルド』への加入を目指し、イニシュカ村の老治癒術士・タウンゼンドの
『冒険者ギルド』が、加入も脱退も、職種登録審査も緩めの組合であるのに対して、『医療業ギルド』はもう少し厳しい。加入するには、治癒術士として三年以上の就業を証明し、二名のギルド員の推薦を貰う必要がある。
厳格な分、組織としての信頼度は高く、ギルドには治癒術士だけでなく、魔術を使わない医療従事者――薬草師や助産師も、多数在籍していた。
島の医療の今後を考えるなら、次代育成のためにも、ギルド加入は必須と言える。
「ところでキアラン、そのバケツ何じゃ?」
と、エイダンはキアランが片手に提げる、大振りのブリキのバケツを指差した。
バケツには水が入っていて、しかも何やら、中で生き物のうごめく気配がある。
「ああ、これな。さっき、タコが網に引っ掛かったんよ。大きくて
「あ、ほんと、美味そう」
バケツを覗き込んだエイダンは、丸々としたタコの姿に喉を鳴らした。
「なっ。ほんで、お前とブリジットのばーちゃんは、タコ好物じゃろ。あげようと思うて」
「ええの?」
「ああ。エイダンは
キアランはけらけらと笑う。
反論は難しい。漁村に生まれ、祖母と二人暮らしで一通りの家事を仕込まれたにもかかわらず、エイダンは奇跡的なまでに、包丁捌きが苦手だった。
「オーブン焼きがええかなあ」
エイダンは夕食への期待を膨らませて、タコを見つめる。
同じシルヴァミスト国内でも、賛否の分かれる食材の一つがタコだ。一般に、西側沿岸部や離島地域では好まれるが、中央山間部を境目にして、東側ではあまり好まれないと言われる。
西側沿岸部では昔から、水の精霊王カルへの信仰が根強い事も関係しているだろう。
カル教徒は、海から上がるものは全て『カルによる恵み』として
イニシュカ村は、古くからの素朴なカル信仰が盛んな土地柄で、エイダンもキアランも、この文化圏で育った。
「うちにジャガイモあるけん、それと
キアランが、人差し指を振ってメニューを提案しかけた時。
半開きのままの扉の外――林道の彼方から、小さな声が聞こえてきた。
泣き声だ。しかもどうやら、子供のものである。
「うん?」
二人揃って暖簾から首を出し、周囲を見渡す。
林道に、小さな人影が一つ佇んでいた。
「サラ! どがぁしたん?」
エイダンが声をかけたのは、八歳前後と見られる、赤毛を三編みにした少女である。バンドで止めた本を数冊抱えているのは、学校帰りだからだろう。
「フォーリー先生ぇ……」
べそべそと啜り泣きながら、サラは駆け寄ったエイダンを見上げた。
タウンゼンドの営む治療院は、イニシュカ小学校のすぐ近所であるため、ここ数ヶ月、生徒達が怪我をしたり発熱したりする
「先生、宿題忘れてきちゃった……」
涙ながらに、サラは訴える。
二人がかりで宥めすかし、不明瞭なサラの言葉をどうにか解読すると、つまりは、
「明日までに完成させて提出しなければならない、単語書き取りノートを、学校に忘れてきたが、一人で取りに戻るのは怖い」
と、そういう話らしかった。
「怖い? 怖かぁなーよ。まだ先生残っとるじゃろうし、ほれ、学校の建物は綺麗じゃろ」
キアランはそうサラを説得にかかる。
イニシュカ小学校の歴史は、ごく浅い。
エイダンが生まれる少し前に施行された、『児童教育基本法』を受けて、大急ぎで建てられたもので、まだ築十年少々といった所だ。
イニシュカには珍しい、都会風の垢抜けた建築だったため、開校の折には、島民達が見物に詰めかけた。
エイダンとキアランは、学校の第一期生である。キアランの方が一つ年上ではあるが、何しろ島中から集まっても、同世代の生徒はごく少数なので、いくらか年齢差のある子供達が、揃って机を並べていた。
そこを踏まえてキアランは、怖がる必要などどこにもない建物だと、サラを励ましたのだが、しかしながら彼女は、強く首を横に振った。
「教室じゃないよ! ノート落としたんは、『男爵文庫』の方! あそこ、雨が降るとオバケが出るんじゃけぇ!」
「だ、男爵文庫かい!?」
「オバケ?」
キアランとエイダンは、それぞれに問い返して、顔を見合わせた。
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