第5話 ノムズルーツの妖精 ①
バケツに張った水に、若い男の顔がぼんやりと映っている。
緋色に近い赤毛。櫛で梳くだけ時間の無駄、と言わんばかりの癖のある髪だ。その下にくっきりした眉。そして髪色とは対称的な、緑がかった瞳。眠気のためか、まだ瞼が重たげである。
水面の端には、肩口に引っ掛けたローブが揺らいで見えた。
先日、
動きやすいように裾が短く、腕まくりがしやすく、しかも安価なものを――と探し求めた結果、デザイン性が大幅に犠牲になったが、致し方ない。
たわしを水の中に放り込むと、映っていた顔は波紋に乱されて消えた。
たわしを洗い、水から掬い上げて、「さてと」と、エイダンは呟いた。
彼の傍らには、磨き上げられたばかりの大きな木樽がある。エイダンの商売道具、湯船だ。
季節は真夏。空はカラリと晴れ渡り、今日もこれから、気温が高くなりそうだった。この樽は、すのこ板と一緒に日向に運んで、乾かしておくとしよう。
「あれっ、おはよエイダン。随分早起きね」
欠伸混じりの声に振り向くと、顔馴染みの治癒術士、シェーナがそこに立っていた。
「おー、シェーナさん。おはようさん」
「市場もお休みの日だってのに、もう仕事してるんだ」
「今日、行きたい所があるんよ。一日がかりになりそうだけん、先に掃除を済ませときとうて」
「なに、冒険者稼業の方?」
「そこまで景気良かぁないわあ」
エイダンは苦笑いに肩を揺する。
「北の『
「山菜と、きのこ……?」
シェーナは、怪訝な顔をした。
◇
聖シルヴァミスト帝国のほぼ中央部に位置する、ケントラン州アンバーセット。
主要街道の交差するこの地は、古くからの宿場町であり、また魔術の盛んな街としても栄えてきたが、市街から少し離れると、妖精や魔のものの領域が広がる土地柄でもある。
特に、北に広がる妖精の森、ノムズルーツは、アンバーセットの人々に、様々な恩恵と厄介事をもたらしてきた。
人類や通常の生物と比べて、超自然の存在たる精霊との、結びつきが強いとされる種族――妖精が、この森には数多く暮らしている。特によく見かけるのが、地属性の妖精ノームだ。
彼らの影響か、森では強い地属性の魔力が、常に活性化されていて、特殊な薬効のある奇妙な動植物を生み落とし続ける。研究に入り浸れば、日々新種が発見される程である。
ただし、迂闊に森深くへ迷い込むと、ノームの怒りを買って追い立てられる場合もあるし、薬になる動植物があるなら、毒になる危険な動植物も、その倍は溢れかえっている。
よって現在、アンバーセットの人間がこの森に立ち入り、採集や狩りを行う場合は、役場に届け出て、煩雑な手続きを行う必要があった。
「朝一番、役所が開くなり飛び込んだのに、もうこんな時間」
陽の高くなりつつある空を見上げて、シェーナがぶつくさと零す。
「思ったより大変じゃった……けども、またシェーナさんに助けられてしもうて」
「助けたって程じゃないでしょ。ギルドの登録証を見せたら、多少話が早く進むって助言しただけ」
頭を下げるエイダンに対して、シェーナはひらひらと手を振ってみせた。
役場で森への立ち入り許可証を貰った二人は、その足で乗合馬車に乗り込み、街道を北へ向かっている。
腕利き冒険者として多忙なシェーナが、せっかくの休日を潰して山菜採りに付き合うというのは、少々勿体ない話ではないか、とエイダンは案じたのだが、聞くに彼女は、六年の間アンバーセットで暮らしながら、手続きが面倒という理由で、未だノムズルーツに足を踏み入れた事がなかったのだそうだ。
魔道薬原料の宝庫と言われる森である。治癒術士を名乗る以上、後学のために、一度は現地を探索したい。道連れがいるならば良い機会だと、そういう事らしい。
「これ、帰ってから、採集の成果も報告せんといかんのよなあ」
「そっちの方が厳しいわよ。依存性のある幻覚キノコや、毒性生物を持ち帰られちゃ、大ごとだからね。最近は、魔道管理局にサングスター家が口出ししてるから、余計締め付けがきつくなったとか」
「サングスター家って……」
シェーナの口にした名に、エイダンはふと首を傾げた。
彼が半年だけ通っていた魔術学校も、サングスターの名を冠していた。アンバーセットの名家なのだろうか。
エイダンが訊ねると、シェーナは軽く呆れた様子で首を縦に振った。
「そりゃあ……ケントラン公爵だし。アンバーセットどころか、この国全土で見ても、有数の名家よ。代々、才能ある魔術士を輩出してる」
「そ、そうなん? どうも中央の事情に疎くて」
何しろエイダンの生まれ育った場所は、新聞や雑誌の類いもなかなか届かない離島である。
「特に、ギデオン・リー・サングスター公といえば、『光属性』の魔術士だもの。
「ああ、魔術学校の学長さんじゃね」
「他に、シルヴァミスト帝国正規軍魔道部門の最高顧問も務めてるはず」
「へぇー……」
そのサングスター学長の姿を、エイダンは魔術学校の入学式で目の当たりにした。
この時、整列する新入生のうち、エイダンの真後ろにいた誰かがぽつりと、
「頭を光属性の加護石に出来るな……」
などと魔術士ジョークを飛ばしたものだから、周囲の新入生達は、静まり返った講堂の中で笑いを堪え、死ぬような思いをしたものである。
思えばあれが、短い学校生活のケチのつき始めだった。
退学となった後も、サングスター校自体をどうこう言う気はないが、あの時自分の後ろにいた人物に対しては、未だに少々文句を言いたい。顔も名前も知らない相手だが。
「なに、変な顔して」
入学式を思い出して、噴き出しそうな気分と腹立たしさを同時に味わっていたエイダンは、余程珍妙な表情になっていたらしい。シェーナがきょとんとしている。
「いんや、凄い人だったんじゃなーっと思うて。ほんとに珍しいんじゃね、光とか闇の属性の魔術士ちゅうのは」
「そうね。『闇属性』の魔術士として知られてるのも、今は一人きり……
「その人は知っとる。村にいた頃、歴史の授業で習ったけん。でも、四百年前の話に出てきたのに、まだ生きとんさるそうなね?」
エイダンは『その人』と呼んだが、魔杖将ヴァンス・ダラが果たして『人』と呼べる存在なのかどうか、最早知る者はいない。
齢四百を超える当代唯一の闇の魔術士は、度々長い眠りに就きながらも、目覚めるごとに世界に混沌をもたらしてきたと言われる。
まさに現在、活動期に入ったヴァンス・ダラは、聖シルヴァミスト帝国の北方、海峡を挟んだ先に広がる、魔力の淀みに満ちた不毛の大陸で、魔物達の軍勢に奉じられ、彼らの望むがまま、武器と力を与えている――との噂だった。
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