第24話 忠臣
猪瀬林太郎が指揮する組織と、一向に責任者の見えない日本政府との具体的な交渉が遅々として進まない中、北朝鮮が突然日本へ攻撃を加えて来た。山口県と秋田県の自衛隊基地が北朝鮮のミサイル攻撃を受け、甚大な被害を出した。防衛省は両県に陸上配備型ミサイル迎撃システム「イージス・アショア」の配備をめぐり、秋田市の陸上自衛隊
政府は直ちに自衛隊に現地派遣を要請したが防衛大臣・五之上元は動かなかった。
「今はもうその段階ではない。今は “有事” であることを自覚しなければならない。国民を守るためには救助活動より早急な憲法改正が重要である。専守防衛だけでは日本全土の崩壊は目に見えている。山口と秋田の救助活動をしても、他の箇所も順次狙われている。各地で攻撃されたら収拾がつかなくなる。そこに乗じて他国の軍事介入があることは目に見えている。最早、敵は北朝鮮のみに非ず。防衛のためには武力に頼るしかない。一刻も早い憲法改正を要求する。これはクーデターではない。護国のための忠臣である。現在、日本海側を中心に北朝鮮の船団が向かっている。北朝鮮は拉致被害者や脱北難民だと主張しているが、その実態は北朝鮮の工作員の可能性が大である。もし彼らを人道的に受け入れなければならないとすれば外務省の職員によって入国管理手続き済ませなければ自衛隊は動くことは出来ない。しかし、外務省職員はその任務を拒否している。そのことを国民に告げなければならない。日本国民は占領下での憲法を遵守し、『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して』世界に称賛される国民性を以って今日に至っている。しかしその『諸国民の公正と信義』が、侵略の牙となって日本を襲い始めた。従って、現行憲法に於ける国家防衛は今や不可能となった。一刻も早く政府が国民のために目を覚まされることを祈る」
五之上発言の根拠は何だったのか…北朝鮮の背景には支那がいる。支那に於けるこの二十年間の国防費の予算は、横ばいの日本に比べ驚異的な伸びを示していた。第4・5世代の戦闘機を見ても、日本の6倍の保有率であり、戦力では圧倒的である。日本の海洋権益を侵すのをエスカレートさせているばかりではなく、諸国に対する一方的な行政区の現状変更は、度重なる軍事衝突を招いている。そのため五之上防衛大臣は『防衛産業基盤の強靭化』を訴えているが、肝心の経営陣が防衛産業への関心を示さないのが現状の足枷だった。
かつて行われた日米共同総合軍事演習『キーン・エッジ』のシナリオでは、ファンタジーの国・日本の不幸が現実的な恐怖として襲って来ることを予知していた。最大のリスクは、特殊部隊が内閣総理大臣の直轄であることで、自衛隊閣僚が排除され、“素人たち” の指揮下で行われる事である。“素人たち” は危機回避のために真っ先に米国を頼ろうとするだろう。しかし、米国は己の領土が攻撃を受けない限り、敵の本土を攻撃することはない。従って、米国は頼りにならないことは認識していなければならない。結果、自衛隊が全滅するのは時間の問題となる。これが、五之上防衛大臣が、今は “有事” であると言った根拠だった。
五之上防衛大臣は実は早々に動いていた。あの5機のF・22ラプターの売却を理由に登録を抹消させたのは五之上の指示だった。
2020年6月、自衛隊には “有事の箝口令” が敷かれていた。支那の連続百日以上の尖閣領海侵犯の挑発に対し、戦時に対応する「タック・シーピー」作戦が沖縄に敷かれていたのである。米国から、支那・ロシア、そして韓国が色めき立っている情報が入ってきた。
折悪しく、高倉総理は過労が祟り、意識を失って倒れた。政府は大混乱に陥るかに見えた。内閣法第九条では「内閣総理大臣に事故のあるとき、又は内閣総理大臣が欠けたときは、その予め指定する国務大臣が、臨時に、内閣総理大臣の職務を行う」と規定されている。その国務大臣の第1順位となるのが内閣官房長官である。
菅原官房長官が代理を務めることになってから、それまで金縛り状態だった政府の動きが若干回り出した。まず、猪瀬林太郎の組織の要求を飲むことに同意した。但し、10兆円は全て拉致被害者のために使用することを条件とした。猪瀬に異議はなかった。
その最中、更に政府に急変する事態が起きた。天海一徳幹事長が脳卒中で倒れ救急車で病院に搬送された。天海を乗せたストレッチャーが井上数馬の横を通り過ぎていった。教師らからの執拗ないじめで心身を患った数馬は、退院の目途も立たぬまま、この病院で模糊とした日々を過ごしていたが、突然目の前で起こる想定外の事態に、廊下で棒立ちとなって一同を見送った。ストレッチャーの後ろからは数人の背広組が物々しい空気で連なって行った。長い入院生活の中のそうした搬送光景は、我に返った数馬にとって強い興味をそそった。普通の患者ではないことは数馬にも分かった。運び込まれた患者が向かったのは緊急手術室だった。数馬は急いで病室に戻り、テレビのチャンネルを漁ることにした。
ストレッチャーが緊急手術室に消えると岡本と堺が現れた。岡本は冷酷に呟いた。
「…これ以上、老害をばら撒かれては困る」
その頃、“天海幹事長倒れる” のニュース速報が流れた。天海は緊急手術で一命を取り留めた。天海が回復まで暫くはこの病院に入院することになって、変化のない闘病生活を続けていた数馬の心が急に活気付いた。数馬は体力維持のために看護師には廊下の歩行を勧められていたことを思い出し、その日から毎日廊下を散歩することに決めた。患者の起床は6時である。6時半頃までは病院の廊下は殆ど無人だった。看護師に会うこともない。
そして数日後、数馬は天海の病室を突きとめた。案の定、一般病棟からは少し離れた特別室の前には二人のVIPが立ち、ここが政府要人の病室ですよと言わんばかりの趣だった。しかし、VIPが居ては凡そ近付いて中の様子を窺い知ることは出来なかった。取り敢えず数馬は、天海の入院している特別室を散歩コースの折り返し地点に決めた。6時から6時半なら特別室にも近付き易い。そしてなんと、早朝は日によってVIPが居ないことがあることも分かった。
その日も丁度VIPは居なかったが、特に変わった様子でもないので引き返そうとすると、突然、中から声がした。
「お母さん!」
声の主は誰なんだろう…お母さんということは、奥方が来ているのだろうか…数馬は病室が見える手前の廊下を行ったり来たりした。
「お母さん!」
また声がした。
「お母さん! …お母さん!」
気のせいか苛立っているような気がする。奥方と喧嘩でもしたのだろうか…返事ぐらいしたいいのにと思ってそろそろと病室に近付いて行った。
「お母さん!」
一際大きな叫びとなった。完全に起こっている。廊下の先から看護師が近付いてくる独特の足音がした。数馬は慌てて特別室を離れ、散歩の態を装って歩き始めた。擦れ違う看護師が数馬への朝の挨拶もそこそこに特別室に入って行った。数馬も急いで引返し、病室のドアに聞き耳を立てた。
「天海さん、どうしました?」
「お母さんは何処に行ったんだ?」
「奥様はご自宅ですよ」
「え!?」
「ここは病院ですよ」
「病院!?」
「新型コロナ対策でご面会は出来ないんです」
「お母さんはどうしていない! お母さんを呼んでくれ!」
「分かりました。その前にお熱と血圧を測ってもいいですか?」
「…ああ」
「はい、ではまずお熱測りますね」
「お母さんはどこ?」
「どこでしょうね、会いたいですか?」
「…ああ」
体温計の成る音がした。
「36度9分ですね。大丈夫です」
「お母さんを呼んで!」
「その前に血圧を測りますね」
「お母さん!」
数馬は何か違和感を感じた。居ない人を何度も呼ぶのはどうしたことだ…それに “お母さん” と呼び過ぎる。幹事長を務めている人が現状を把握できていない。まるで認知症のような…“認知症”? まさか…そんなわけはないとあれこれ考えている数馬の耳に、そのまさかの出来事が聞こえて来た。
「天海さん、じゃ採血させてください」
「いいよ」
“お母さん!” の苛立ちとは逆に、随分と軽い返事である。採血と聞けば数馬は気が重くなる。何しろ注射恐怖症なのだ。普通の人に比べ血管が細く、これまで何度も失敗されて、ついに神経に刺されるという激痛を経験している。その時点で数馬の心は折れた。以来、注射に対する恐怖は消えない。
「ちょっとチクッとしますね」
この言葉は注射恐怖症の人間には死刑宣告だ。自分のことのように数馬に緊張感が走った。
「痛い!」
「天海さん、動かないでくださいね」
「痛い、痛い!」
病室の中で天海が注射を嫌がって暴れる気配がする。
「ごめんなさいね。痛いよね。すぐ終わりますから、ちょっとだけ動かないで我慢してね」
「いいよ」
“いいのかよ” と数馬は突っ込みを入れて呼吸することを思い出し、大きく深呼吸をした。まるで自分が注射される立場になっていた。
「ちょっとチクッとしますね」
数馬にとっては脅迫にも匹敵する言葉である。2回3回とミスられた恐怖の過去を思い出した。
「痛い! お母さん!」
「天海さん、採血できないと先生が治療の計画を立てられないんです」
「お母さん!」
看護師がドアを開けた。壁に張り付いている数馬には気付かずに走って行った。どうやら他の看護師に救援を頼むために呼びに行ったようだ。取り敢えず数馬は一般病棟との間にある長椅子に掛けて外を見て休憩している “散歩途中” の患者に擬態した。
看護師ら三人が速足で特別室に入って行った。数馬は再びドアに聞き耳を立てた。
「天海さん、すぐ終わりますから採血頑張りましょうね」
「ちょっとチクッとしますよ」
「痛い!」
「あ、動かないで! 動いたらもっと痛いよ」
数馬には怖い一言だった。銃を向けられて “動くな!” と言われているようなものだ。
「痛い、痛い! お母さん、痛い!」
「頑張って、頑張って!」
「痛い、痛い、痛い!」
「動かないで! もっと強く抑えて!」
「お母さ~ん!」
天海の声は途中から裏声になって実に憐れな悲鳴と化した。沈黙が続いた後、看護師たちの力ない冷めた言葉が呟かれた。
「駄目だね」
「動くからね」
「採血無理だね」
「動かないといいんだけどね」
数馬はまた呼吸を止めていたことに気付き、大きく深呼吸をした。開始した。看護師があきらめてくれたことにホッとしたのも束の間、中から異臭が漂って来た。採血失敗だけではなかった。天海は興奮のあまり脱糞してしまったのだ。廊下から看護師の急ぐ足音がしてきた。数馬は咄嗟にまた長椅子に “避難” した。
特別室に向かう看護師は、脱糞処理の完全武装だった。入れ違いに “闘い” を終えた看護師たち3人は重い足取りで出て来た。夜勤明けの疲れだけではなかった。
3人の看護師と入れ違いにVIPがやって来て特別室に入ろうとすると中から止められた。
「もう少しお待ちください」
天海の強烈な脱糞臭がふたりのVIPを襲った。看護師に入室を止められたわけが分かり、二人は苦虫を噛んだ。
「天海さん、お着替えしましょうね」
「お母さん! お母さん!」
「お母さんの代わりに私がやりますね」
「お母さん!」
天海は何度呼んでも現れない妻に再び苛立った。困り果てた看護師が優しく話し掛けた。
「天海さん、奥様が来れるといいね。でもそれまで私じゃ駄目?」
「いいよ!」
“やっぱりいいのかよ” とまた突っ込みたくなった。この長椅子の位置まで中の声が聞こえるなら、緊張してドアの前まで行かなくても良かったと数馬は思った。“いいよ” とご機嫌に返事をしたはいいが、天海は10秒と持たなかった。
「お母さん!」
ドアの前のVIPは溜息を吐いた。思えば、権威を思うままに振るった天海は、かなり呂律が回らなくなって久しかったが、いつの頃からか記者会見の際には、後ろに口添えするスタッフが付き添うようになっていた。取り巻き連は何かの兆候を感じていたのだろう。今の病室の状態を国民の誰が想像できよう…幹事長にまでなった天海の惨めな終わり方だった。
蜂の巣を突いたように大揺れに揺れながら政府の勢力図が動き出した。紆余曲折の末、防衛大臣だった五之上が総理に就任し、官房長官だった菅原が幹事長となった。そして、即刻、国家侵略行為に対する武力行使が認められる憲法改正が行われた。反対する野党の欠席と与党内の支那忖度議員らの反対を押し切っての可決だった。与党に寄生していたカルト党は反憲法改正で決裂し、与党の座を離脱せざるを得なくなり野党となった。
菅原は反日国に対して敢えて憲法改正を表明せず、同盟国の米国のみに伝達した。菅原の強かな小細工が効いた。米国の動きは早かった。日本を同盟化に置かざるを得ない米国は、即座に北朝鮮のミサイル基地・東倉里及び未公表ミサイル基地約二十カ所を同時空爆した。東倉里には、支那の協力を受けているといわれる「
支那、韓国がその後も日本の混乱の確認のためか日本領海に侵犯したが、待ち構えていた日本の海軍の一斉射撃を蒙ることになった。支那軍船三隻は全て撃沈されたが、日本政府からの救助の指令は出されなかった。一触即発の世界大戦ムードと思われたが、支那のこれまでの横暴に世界が激し、一気に日本支持の輪が広がって行った。
未だ日本の豹変を把握できない韓国軍は竹島に上陸し、自国の士気を鼓舞しようと試みたが、日本空軍は執拗に領海侵犯の韓国軍船と島の不法建築物への猛攻撃を浴びせた。軍船も不法建築物も無残な姿で破壊され、海岸一帯には夥しい韓国軍の残骸が転がった。韓国からの猛抗議に対し、政府は一切無視を貫いた。新憲法下の日本は世界に緊張を駆け巡らせたが、国家としてのあるべき姿だったため、支那の横暴とは一線を画し、世界に訴える韓国に対しても与する国は皆無だった。あの支那に懐柔された国連は口を閉ざしたまま、その役割すら終えつつあった。そして米欧日を軸とした新たな国連が立ち上がり、条件付きでコロナ騒動に於ける支那への天文学的な損害賠償請求が成された。支那の経済はストップし、表面的には動けなくなった。
日本政府は竹島に於ける地下要塞の建設と、漁業を司る自衛隊基地の設置を急いだ。かつて石原慎太郎氏が都知事の時代、国民の寄付で用意された尖閣基金の流用が検討されたが、何故か都は難色を示した。その資金は既に他用途に費やされ、都民にも知らされぬまま殆ど残っていなかったことも発覚した。
その後も政治の統制力を失った支那や韓国の領海侵犯があったが、武力攻撃によって拘束し、船の燃料の没収、及び期限付き爆破を行った。それは海底調査船にも執行された。船員が国籍を吐露した場合はその国へ警告し、ゴムボートで排他的経済水域外に追放して放置した。その対応に対して強硬に人道上の批判をする国は支那、韓国以外はなかった。その支那もかつてのソビエトよろしく、共産党の崩壊を目前にしていた。
日本政府はロシアからの侵略を警戒していたが結局ロシアは動かなかった。逼迫した内政事情もあったろうが、様子を見て日本の身代わりの速さに一層の警戒感を持ったのだろう。五之上は北方四島に隣接した地域に核ミサイル仕様の軍事基地の建設を指示し、工事は急ピッチで進んで行った。
アジア圏からの侵略行為は息を潜め、日本政府の国としての動向が一見落ち着いたかに見えた頃、収容施設でまた事件が起こった。一過性と思われる緊張状態が居心地悪く続く中での拉致被害者の収容所での変化だった。北朝鮮のミサイル攻撃を機に救出された拉致被害者の一部に、北朝鮮教育の洗脳の症状が出たのだ。同時に、緋本さくらの帰国のタイミングも断たれてしまった。
「我々は日本政府に二度に渡って未来を奪われた。半世紀も経ってから救助されるまで、我々は異国で必死に自分の新たな人生を切り拓いた。そしてまた、いきなりその先の未来を奪われた。政府は一度ならず二度までも、我々の未来を支配する権利はあるのか」
扇動者は既に身内が他界しているあの中野秀子だった。親子で拉致され、日本からの救助を信じていたが、母親が病死してしまった。日本には兄と伯父がいたが、帰国して他界を知った。50年は長過ぎた。
中野は自分らは日本政府によって救助されたと思っていたが、そうではないことを猪瀬林太郎に知らされた。猪瀬はクーデターの根拠を救助された拉致被害者たちに説明した。政府が民間人に責任逃れの片棒を担がせていた実態を知ったことで、憲法の制約があったとは言え、卑怯な政府への憤りが日増しに募っていた。彼女に賛同したのは30人ほどだった。恐らく他にも賛同したい拉致被害者は大勢いたに違いないが、彼らが声を挙げないのは、日本にまだ身内が生存していたからであろう。中野はそのことを理解し、強制はしなかった。人質と忠臣クーデターの首謀者が協力関係にあるという不思議な関係が成り立った。
岡本は楢岡特務機関総長に、拉致被害者の部屋にテレビの設置を提案した。彼らは北朝鮮で自由というものを奪われたまま今日に至っている。行き過ぎとも思える日本の堕落した自由をその目に見せるのは彼らの洗脳を解く一番の鍵になるのではと主張した。しかし、岡本の本心は報道関係者との接点である。彼らはいずれその接点の価値に気が付くはずである。
次の日、主要施設の各部屋にテレビが設置された。
「これが今の日本です。これを見て暫くお考えいただき、日本に留まるなり、北朝鮮に戻るなり決めてください」
拉致被害者の目には一様に自由過ぎて常軌を逸しているかのような日本の現状が稀有に映った。それから一ヶ月もすると内乱の空気は治まっていた。そればかりか、横の交流も行われ始めた。北朝鮮での自由を奪われた生活がその壁になっていたが、雪解けのように状況は変化し、拉致被害者同士の屈託ない交流が常態化して行った。しかし中野は変わらなかった。それは猪瀬もおなじことである。政府は身代金要求を飲みながら一向に行動に移さなかった。
報道のカメラがいくつも設置された。その前に首謀者の猪瀬林太郎と中野秀子がいた。
「日本に帰ることを断ち切った時から、我々の北朝鮮での第2の人生は始まりました。招待所での生活は自由がなかったことを除けば、飢えることもなく最低限度の生活は出来ました。日本は自由が氾濫しているが国民は皆、自由に飢えているように見えます。北朝鮮の人々は食物そのものに飢えて命の危機に瀕しています。ソ連の崩壊や飢饉で彼らが生気を失っても、拉致された我々への最低限の食料は配給され続けました。それは彼ら北朝鮮国民から我々に対する憎しみすら生みました。当然のことです。そして北朝鮮は米国の圧力に屈して、2002年に5人の拉致被害者を日本に一時帰国させました。解放が身近に迫ったと希望を持った拉致被害者たちもいましたが、現実は逆でした。彼らが一時帰国から北朝鮮に帰らないことになって…」
突然、銃声が響き会見場は静寂に包まれた。中野は目を閉じて猪瀬に聞いた。
「何の音ですか?」
「政府は条件を呑んだにも拘らず一向に動きません。自害を再開しました」
中野は暫くの沈黙の後、静かに会見を再開した。
「現実は逆でした。彼らが一時帰国から北朝鮮に帰らないことになって、残された拉致被害者への報復があるのではないかと危険を感じる緊張の日々が始まりました。母国への帰国など夢にすら思えなくなった2014年にまた心を揺さぶる出来事が起こりました。ストックホルム合意です。この合意に於いては我々は日本人ですらなくなったと感じました。日本政府の目的は拉致問題解決ではなく、国交正常化にあったのです。拉致問題はそのための懸案事項のひとつに過ぎなかったのです。案の定、北朝鮮は内政に干渉する日本に激しく抗議し、一方的に合意を破棄したことで、我々拉致被害者が帰国できるという希望は完全に消されました。そして我々は今ここにいますが、何の価値がありますか? 私の場合、拉致生活で必死に第二の人生を切り拓いている間に、この日本に縁ある者はひとりも存在しなくなりました。全て他界してしまいました。皆さんに問いたい…私は帰国して何の意味がありますか?」
中野の問い掛けに、記者たちは沈黙した。そして、再び銃声が轟いた。会場は息苦しい空気に包まれた。
拉致後の北朝鮮での実態を話す中継が全国に放映されている頃、緋本さくらは父の最期を看取っていた。彼女は明日、特別機で満身創痍の北朝鮮に帰ることが決まった。これは陳腐な政治判断という事であろうか…緋本さくらが北朝鮮に帰ることで日朝関係が全て沈静化する運びになった。緋本さくらはそれだけ北朝鮮の深部に関わってしまった人間ではある。北朝鮮での緋本さくらの正体を知れば、日本の報道は彼女を叩き始めるだろう。しかし、彼女に責任はなく、拉致されても早急に救出できない日本国家の責任なのだ。彼女がこれ以上日本に滞在すれば、不当に追い詰めることになる。緋本さくらは他の拉致被害者とは違い、既に関わってはならない領域で生きている人だったため、皮肉にも今度は一刻も早く日本から北朝鮮に脱出させる必要に迫られていた。
「本当はわたしも看取って欲しかった。でもそれは無理ね、さくらちゃん」
「お母さん…」
「あなたには北朝鮮で待っている人がいる。大丈夫、大丈夫よ! あなたはあなたでいてくれれば、それでいいの」
さくらは北朝鮮に帰るしかなかった。ふたりはもう何も話せなかった。翌日早朝、警護の堺が裏口を開け、さくらを誘導した。さくらが施設から出ようとした途端、大勢の記者たちが寄って来て彼女を囲んだ。
「緋本さくらさんですよね。どうしてここにいらっしゃるんですか?」
「ここは本来、新型コロナ患者の収容施設だと発表されていましたが、実は救出した拉致被害者のための施設だということを知っていましたか?」
「これからどちらに出掛けられるんですか?」
「施設内には何名程収容されているんでしょうか?」
「あなたのお母上は、北朝鮮の李王朝と深い関わりがあるというのは本当ですか?」
「お母上は宮家のご出身ですよね」
「他の拉致被害者と違って、李王朝の血を引くお嬢さんという事で狙われたんじゃありませんか?」
激しいカメラのフラッシュが浴びせられた。堺は急いでさくらを引き戻し、裏口の扉を施錠した。
「今日お帰りになるのは無理のようですね」
特務機関に於ける秘密の緊急会議が開かれた。菅原幹事長、内田新防衛大臣、楢岡特務機関総長、拉致救出者の警護責任の藤原来道、そして岡本朔太郎が顔を揃え、猪瀬林太郎と中野秀子も交渉を前提として呼ばれ、緊迫した重い空気に包まれていた。
「ネット上では緋本さくらさんのことが拡散されています。彼女が北朝鮮の深部に関わっていたということで批判の声が増えています」
「彼女を救助すべきではなかったのです」
中野秀子の言葉に藤原来道の目が光った。一触即発の空気を察し、菅原幹事長が重い口を開いた。
「救助が遅れた政府の責任は大きい。深くお詫びしたい。救助は間違いではない…が、時期を失った。50年以上が経過して救出した今、それぞれの拉致被害者の方々の人生には大きな支障を来してしまったことは否めない。しかし、拉致をこのままにしておくわけにはいかない。今回、そこに風穴が開いたことで、強引にでも北朝鮮に対してはけじめを付けなければならない事態になった」
「あなたがた日本政府は拉致被害者の救助より国交正常化を重視しましたよね」
「・・・」
「今回の救出も民間軍事会社にやらせてますよね。それは責任回避じゃないんですか?」
「今、政府を責めて何が解決できるのかな?」
来道が中野秀子の言葉を中断させた。
「不満はあとで精査して北朝鮮に帰りたければ、私が命に代えても改めてお送りしますよ、どうやら私はあなたに余計なことをしたらしい。それと、勘違いなさっているようだが、我々は政府の意向で動いたわけではない。あくまでも我々の意志で動いたものだ。テロとして扱われるなら、それも本望だ」
来道に続いて猪瀬が口を開いた。
「わたしは来道氏に頼んで拉致被害者を引き渡してもらいました。そして、拉致被害者を人質にし、身代金を要求しました。五之上総理は我々の行為が護国のための忠臣であることを認め、武力での攻撃に突破口を開いてくれましたので、拉致被害者を解放しました」
中野秀子との険悪なムードに、楢岡特務機関総長が穏やかに話し出した。
「誰も責任回避する必要のないことです。この度の責任はすべて私にある。ここでは、現在起こっていることに関しての対応策についてご協力いただきたい。ご協力は強制するものではない」
中野秀子は席を立った。警護の堺が同行した。
「監視ですか」
「そうです」
「私は北朝鮮人なの? 日本人なの?」
「ご自分でお決めになってください」
中野の挑戦的な態度を、堺は受け流して彼女の後に続いた。
楢岡特務機関総長は来道に目をやった。来道は頷いた。来道は猪瀬に拉致被害者を引き継がせた後、新収容所の建設に取り掛かっていた。自殺して死亡したと思われていた予備自衛官たちは岡本の下で新しい施設の警備に従事していた。
会議以降、連日、日本軍の護送バスが頻繁に施設を訪れるようになった。報道陣はシャットアウトされていたが、執拗に遠巻きから探りが続いていた。
「今日も軍の護送バスが到着しました。恐らく新たなご遺体の搬送のために来たものと思われます。バスの窓はカーテンで閉ざされ、中の様子は窺い知ることが出来ません」
テレビの映像は、裏口からバスの入口まで完全に囲われて乗り降りが行われているような中継が成されていた。
高校の卒業式帰りの杏奈は、遠目にその様子を眺めながら呟いた。
「花見のゴミね」
一緒の朋子が噴き出した。
〈第25話「緋本さくらの返還」につづく〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます