第21話 山百合
初夏の午後突然、有藤警視長が『片付け屋』の漆原を訪ねて来た。「警視庁」は警察官全体の約0.5%といわれている狭き出世組である。有藤は娘を新型コロナで失い、その夫である黒岩将も先日交通事故で失ったばかりだった。その事故が起きたのは『片付け屋』の真下の横断歩道である。加害者は元『任侠くまげら組』若頭である藤原来道の息の掛かった佐伯良作である。さらに確証はないにせよ有藤は、来道の起業した『無縁商会』と『片付け屋』は、限りなく近い印象を持っていた。
「黒岩くんが世話になったそうで、一度ご挨拶にと…」
「わざわざ有藤警視長が起こしになるほどのところではありません。お気遣い恐縮です。社長の岡本は生憎、席を外してまして…」
「構わん、近くまで来た序に寄らして貰っただけだ。会社設立の手土産もなく済まん」
「飛んでもありません! お越しいただいただけで恐縮です」
漆原は有藤を応接室に案内した。有藤は『片付け屋』が娘のスキャンダル以外の情報を掴んでいないか気になっていた。
「黒岩さんには大変お世話になりました。ご恩返しが出来ないうちにご不幸に遭われて大変残念でなりません」
「君は黒岩くんより岩田くんの世話になったと聞いているが…」
「はい、岩田さんは元黒岩さんの直轄で動かれておりましたので、岩田さんの厳しさにも黒岩さんの一言で何かと手心を加えていただきました」
「すると岩田くんがきらいだったのかね?」
「そんなわけないじゃありませんか!」
漆原は笑いながら言葉を続けた。
「黒岩さんと岩田さんがおられなければ今の私はありません」
「岡村くんがいるじゃないか」
有藤の皮肉が始まった頃、外出中だった岡村が会社に戻って来た。
「有藤警視長、その節は大変お世話になりました!」
「ご活躍のようじゃないか」
「お嬢さんと黒岩さんのことに関しましては、誠にご愁傷さまでした」
「そんな挨拶は抜きにしてくれ。黒岩くんもここにはよく来てお世話になっていたようだから…」
「何のお役にも立てませんで…」
「漆原くんが岡本さんのところで社会復帰しているとは思わなかったよ」
「実は漆原くんがここで手伝いをしているのは、岩田さんの薦めなんです」
「・・・?」
「いずれ定年後は岩田さんにも手伝ってもらいたとも思っていましたし…」
「藤原来道とは今も交流があるのかね」
有藤はストレートに切り込んできた。彼は現場の頃から、漆原が藤原来道の情報屋であると睨んでいたが、それは全くの的外れだった。その誤解が部下だった黒岩や岩田の漆原いびりに繋がっている。そして岩田の日和に関する暴走が事態をさらに面倒にしてしまったのだ。
「警察を離れてからは交流する根拠がありませんので…ただ、彼の情報はある程度把握しているつもりです。尤も有藤警視長は既に周知のことばかりだと思いますが」
「藤原来道から誘われなかったかね」
「誘われました。勿論、お断りしました。私は以前からこの会社の起業を考えておりましたので」
「情報交換は必要だろう」
「私どもは反社会組織とのつながりは運営に悪影響を及ぼします。情報交換は有り得ません」
有藤が梨乃の机の上の山百合に目をやった。娘・紀子の好きだった花である。
「山百合だね」
「ええ…」
梨乃は何か話そうとしたが、すぐにデスクワークに戻った。岡本が続けた。
「実はお嬢さんが山百合が好きだったことは以前に黒岩さんから聞いていました。急逝を知って近くの花屋に取り寄せてもらったんです。伺う事の許されない御病気だったので、せめてお好きだった花を事務所の窓に手向けさせていただこうと思いまして…しかし、黒岩さんに怒られました」
「・・・?」
「あんたらの自己満足だって…」
「彼は気が動転していたんだろう…気にせんでくれ」
「勿論です! しかし、そのすぐ後で交通事故に遭ってしまいましたから…」
「加害者の運転手が藤原来道の息の掛かっている男だというのが引っ掛かっているんだ」
有藤はまたもストレートに切り返して来た。
「藤原来道の指示だと?」
「君の指示かも知れん…でなければ、岡本ファンである来道の忖度…かな?」
「藤原来道が私のファンであるわけがありませんよ」
「いや、あなたに覚えがなくても、彼はあなたをリスペクトしている向きがあった」
「何の得があるんです?」
「任侠の彼が損得で動かないのはあなたが一番よく知ってるんじゃないのか?」
「飛躍してませんか?」
「いや、あなたは黒岩くんに触れて欲しくないことがあったんではないのか?」
「触れて欲しくないこと…何でしょう」
「例えば奥さんの過去とか…岩田くんも洗い直していたが、あなたの家に閉じ込められて焼死してしまった」
「黒岩さんからは、玄関のドアは開いていたと聞いていますが…」
「なぜ逃げられなかったんだろうね」
有藤は更に抗戦的だった。
「そうなんですよ」
岡本は何事もなく答えた。有藤は明らかに苛立っていた。
「黒岩くんは岩田くんの洗い直しを継続したがために、交通事故に遭った。なんか話がうまくできている気がしてね」
「そう言っていただければ少し気が楽になります」
「・・・!? 」
有藤は岡本からの全く想定外の一言に驚いた。
「奥さんに山百合を手向けたことで、かなり怒っておられましたから…余計なことをしてしまったのかと」
「さすが元刑事だね、話を逸らすのがうまい」
「…どうやら私は有藤警視長に嫌われているようですね。こちらのお話が届かない気がします」
「私は黒岩くんの努力を無駄にしたくはないんだ。君には関心がある…これからもね」
有藤は席を立った。岡本を苛立たせて娘以外の情報を得たかったが出来なかった。
「黒岩くんのようにこの事務所の前で車に突っ込まれないよう注意しなければね」
そう言って笑いながら事務所を出て行った。漆原は有藤が手を付けなかった覚めた緑茶を一気に飲み干した。来客が手を付けなかった飲み残しを漁ることで己と娑婆との一線を画している戒めのきらいが漆原にはあった。
岡本は窓の下を見ていた。有藤がビルを出て赤信号の横断歩道に立った。黒いベンツがゆっくりとその前を通った。開いた窓に藤原来道の顔があった。有藤は岡本の事務所に振り返ったが、そこには既に岡本の姿はなかった。
有藤はその足で内田洋臣警視監を訪ねていた。有藤を現在の地位にまで引き上げてくれた人物である。
「不穏な空気が…」
「・・・」
「元県警の部下だった岡本朔太郎の動きが気になります」
「と言うと?」
「彼の周囲に死人が絶えません」
「県警で対応できないのか?」
「彼は『片付け屋』といういじめ解決の会社を運営していますが、加害者が必ずと言っていいほど死んでいます」
「加害者が…」
「法的に更生へと導かれそうになると加害者は命を落としています」
「彼がその死に関わっている証拠でも掴んだのか?」
「いえ、証拠は全くありませんが、『片付け屋』は証拠を残さないようなカエシ(報復)を請け負っていると睨んでいます」
「・・・」
「更に、彼の過去を調査していた県警の刑事がふたり続けざまに命を落としています。背後に元・任侠くまげら組の藤原来道の臭いがします。やつは現在、組を出て『無縁商会』の経営をしています」
「岡本と藤原の繋がりは取れているのか?」
「それが全く気配すらないんです。ただ彼は今、いじめの解決屋を装っていますが、本当の狙いは他にあるような気がします」
内田は大きな溜息を吐いた。
「有藤くん、娘さんが亡くなってどれぐらいになる?」
「・・・?」
「少し落ち着くまで、しばらく休んだらどうだ? 県警の件、岡村や藤原の件は私も心掛けて置く」
有藤にとって内田の反応は意外だった。期待した指示もなく、そればかりか休養を勧められた。これ以上拘るなと言うふうにも取れる。有藤はそれ以上の発言は出来なかった。
帰りの廊下にはブラインドの隙間からすっかり傾いた晩夏の陽が射していた。あの日と同じだった。亮太郎はふと、今出て来た警視官室のドアに振り返った。何かとてつもないことが回り出している。今そこからはっきり弾き出された有藤は、重い一歩を踏み出すしかなかった。有藤にとって晩夏の光は内田の引き立てを得続けた栄光の光ではなかったのか…。
〈第22話「特務計画」につづく〉
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