第20話 出る杭を打つ応援者

 芦川梨乃は『片付け屋』の情報収集を担っていた。彼女の母親・霧子は、夫・清陽のDVを受け続け、過労が祟って他界した。梨乃は父から逃げた。当時、生活安全部だった岡本は、梨乃を補導したのをきっかけに、アルコールに溺れる父親の清陽から身を護るために梨乃を引き取り、短期間預かることになった。その間に清陽が自殺し、岡本は梨乃が大学を卒業するまで見守ることにした。

 大学を卒業の日、梨乃は岡本の開業する事務所の手伝いを申し出た。岡本は迷ったが、それまでにも時折、小遣いをやる理由付けで事務所のアルバイトをさせていた折りに、梨乃の特殊な能力が開花した形になり、了承して現在に至っている。梨乃には優れた調査能力があったことに岡本は驚いた。それに何より、堺と同じ特殊能力を持ち合わせていたのだ。今回の黒岩の件で、梨乃は黒岩の生立ちに興味があった。岡本に言われるまでもなく、自分から率先して調査していた。もしかしたら、黒岩に自分の父親の幻影を見たのかもしれない。しかし、調査結果は梨乃の想像とは違っていた。黒岩自身が妻のDVを受けていたのだ。


 DVには六つの種類があると言われている。身体的暴力、精神的・心理的暴力、性的暴力、経済的暴力、社会的隔離、子どもを使った暴力の6タイプだ。

 黒岩が妻・紀子から受けていたのは心理的DVだった。鑑識官で馴らしていた黒岩とは結婚当初から夫婦らしい絆はなかった。両家の親が勧めるまま見合いし、結婚に至っている。紀子の父親・亮太郎が警察キャリア組ということで黒岩の将来は保障されたが、紀子には関係のないことだった。あてつけがましい黒岩への不貞が始まった。それは黒岩へのというより、父親の亮太郎へのものであった。黒岩は無視し続けた。そのことで亮太郎に対して自分の立場が優位になることを心得ていた。紀子の行動は次第にエスカレートして行った。それと並行するように、黒岩の仕事に掛ける意気込みが執拗になって行った。大学の後輩だった岩田の死は、黒岩の執念の炎に油を注いだ結果になった。そして、岡本にその攻撃の矛先が向いたのだ。

「週刊誌にリークしますか? 彼には結構なご馳走ですよ」

「我々の益にはならないよ」

「じゃ、どうするんですか?」

「この情報は、時期を見て黒岩氏本人に渡す」

「握り潰されるのが分かっていてもですか?」

「握り潰させるんだよ。彼はこの情報を義父の亮太郎氏に渡す」

「渡さなかったら?」

「それでもいい。我々からはどんな情報も洩れないということを知らしめることが重要だ。この情報を洩らさないことが我々の保険になる」

 漆原は不満げだったが納得した。数日が経過すると、また黒岩がやって来た。

「黒岩さん、情報と言えば…これくらいしかないですよ。うちには必要のない情報ですけど、良かったらどうぞ」

 黒岩はどうでもいい体を装いながらざっと目を通して大きな溜息を吐いた。岡本は黒岩に構わずデスクワークを続けたいた。

「また来る」

「ええ、今度一緒に食事でもしましょうよ」

 黒岩は岡本を餌食にしようとしたが、空振り感が否めなかった。寧ろ資料に打ちのめされていた。迷ったが、その手から資料を離すことは出来なかった。岡本の情報収集能力に寒気すら感じていた。漆原たちは彼が出て行くのを待って岡本のもとに寄って来た。

「持っていきましたね」

「見てはならないものを見てしまった者の足取りだったな」

 それ以来、黒岩は『片付け屋』に顔を見せなくなって久しかった。最初は梨乃の情報の影響だろうと考えていたが、野崎が偶然、驚くべき情報を持って来た。健康だったはずの黒岩の妻が急逝したというのだ。


 2019年12月16日に支那武漢の病院にある患者が運び込まれていた。原因不明の高熱が続いていたので当初肺炎と思われていたが、一向に回復しなかった。次いで27日に別の病院で治療を受けていた同症状の患者が同じ病院に運び込まれた。手の施しようのないまま危機感を募らせている病院の医師たちに、武漢市衛生健康委員会から運び込まれた2名の患者について、突然口止めの通達が成された。

年が明けると至る所に同症状の感染の輪が広がり、病棟幹部から医師・看護師にまで達し、中旬には急激にその数が増加していった。WHOの事務局長は「支那で発生しているウイルスは世界的な脅威ではない」と述べていたが、すぐに「ウイルスは世界的な脅威」と認めて世界の顰蹙を買った。その間2ヶ月、原因不明の危険な感染症に関して、支那は隠蔽し続けていたのだ。


 日本はどうだったのか…2006年12月に観光立国推進基本法が議員立法により成立し、翌年1月より施行された。1月25日(土)から始まる支那の春節による7日間の連休は経済効果大であるとして、新型コロナウイルス感染急増の情報を黙認し、感染源都市である武漢は勿論のこと、支那からの流入を歓迎して受け入れていた。それとは対照的に、逸早く感染情報を察知していた台湾は、武漢での感染情報をWHOに対して「支那武漢で特殊な肺炎が発生し、患者が隔離治療を受けている」と警戒を呼びかけたが無視されながらも、自国の検疫を強化し、厳しい水際防疫を展開していた。


 3月に入り、日本は新型コロナウイルスの感染拡大で深刻な事態を迎えていた。その最中に、黒岩の妻は突然他界したのである。

 遺体に面会できぬまま、自宅に帰ってきたのは既にお骨となってからだった。そのことは社会に大きなショックを与えた。日本の慣例からは受け入れ難い容赦ない死別の形だった。

 その日、義父の亮太郎が黒岩のもとにやって来た。

「今、いいかな…」

「…どうぞ。お茶を入れます」

 黒岩がキッチンに立った。何気なく見回した部屋は、結婚生活の欠片も感じられなかった。ふと横のガラステーブルに目をやると、開封された茶封筒があった。そこには娘の紀子と見知らぬ男らとのツーショット写真が何枚も雑念と置かれていた。

「あれは!」

「古い知人が…余計なことを…」

「きみはこの事を知っていたのか?」

 黒岩は答えなかった。亮太郎は複雑な葛藤を覚えたが、娘の落ち度であることには間違いないと認め、黒岩に謝罪するしかなかった。しかし黒岩は全く反応しなかった。

「警察としての任務に命を賭けた時点で、覚悟せねばならないことですから…これは、どこにも漏れていません。焼却処分します。それともお持ちになってご覧になりますか?」

「…いや」

 結局、亮太郎は資料を持って帰って行った。


 その後、『片付け屋』には可笑しな依頼が舞い込んで来た。新型コロナウイルスの拡大により小中高が一斉に休校になった。いじめに遭っていた生徒にとっては不利な戦場から解放される都合のいい事態だと思われたが、そうではなかった。休校のストレスがより強くいじめ生徒に向けられるようになった。休校中の街は、いじめ生徒にとって絶好の呼び出しの無法地帯になったのだ。


 梨乃と野島はいつものように調査を開始した。被害者は森崎彩愛、森尾翔真、桐島愁斗。そして加害者は新貝学。しかし、事は複雑だった。新貝学は桐島愁斗を脅し、森尾翔真に森崎彩愛をいじめるよう指示していた。最初、桐島愁斗がいじめの首謀と思われたが、森崎彩愛の自殺によって罪の意識を覚え、桐島自身も自殺未遂に至った後、持病の喘息が新型コロナウイルスを呼んで死に至ってしまった。直接手を下した翔真は中途半端な立場に立たされた。

 その最中、“政府の要請には従わない” と強弁だった県知事が、即刻全校休校に踏み切った。新貝学はこれ幸いと、執拗に森尾翔真に付き纏うようになった。桐島愁斗と森崎彩愛の死を責任転嫁され、万引きや親の金を盗まされたり、公共物の破壊行為を強要され、地獄のような休校の日々を送っていた。そして今、翔真には新貝学に対する強い殺意が芽生えていた。

「彼をこれ以上追い詰めることはできない」

 堺の出番がやって来た。森尾翔真が一大決心をして新貝学の家に向かった時、彼は既にこの世にはいなかった。新貝邸の前には新貝家葬儀場の布看板が立っていることに、ボート立っている翔真は葬儀の係員に声を掛けられた。

「新貝学さんの同級生の方ですか?」

「いえ、たまたま通り掛かったんですけど…」

 咄嗟に嘘を吐いてしまった。新貝学は死んだ…森尾翔真は次第に解放感に満たされた。空を見た。嬉しくて涙が出て来た。しかし、発端は自分である。後ろから撫でる微風に良心の寒気を覚えながら、新貝家の葬儀場を後にした。


 四月に入り、新型コロナ騒ぎの影響で閑散とした広場の桜が散った頃、また黒岩が現れた。

「PCR検査の結果は陰性だから…」

「誰も気にしてませんよ」

「あ、そう」

 黒岩は岡本のデスクに例の資料の茶封筒を置いた。亮太郎は持ち帰った資料を処分せず、職を辞する覚悟を決めて黒岩に返してきた。そして、黒岩は岡本の元に持って来たのだ。

「面白い読み物だったよ。どこへなりリークするがいい。少しは金になるだろう。死人に口なしだ。反論でもめることもないだろう」

 黒岩なりの挑戦状だった。岡本は、帰された資料を無視した。

「奥様が亡くなられてご愁傷さまでした。御病気の関係で伺うことも出来ず残念です」

 黒岩は窓際に目を引かれた。妻の紀子の好きだった山百合が飾られ、線香が焚かれていた。

「余計なことはせんでくれ…オレに妻のふしだらを思い出させるためにやってるんなら止めはしないが、妻のためだというならあんたらの自己満足でしかない。やめてもらいたいな」

「分かりました。配慮が足りませんでした」

 岡村は静かに了承した。志乃は素早く片付け、山百合の花瓶を自分の机に置いた。

「運がいいな」

「え !?」

「ラオスに行こうと思ってたんだが、上から許可が下りなくてね」

「・・・・・」

「必ず真相を暴くつもりだよ」

「そうですか」

 挑戦的な黒岩に対して、岡本は終始温厚な表情だった。

「また来る」

 帰る黒岩の背中は何かに憑りつかれたようだった。


 岡本は窓際に立った。間もなく横断歩道を渡る黒岩が目に入った。突然、信号無視の車が黒岩に突っ込んだ。大きく弾かれ、痙攣の後、動かなくなった。撥ねた車の運転手がドアから降りて、ちらっと岡本を見た。ほんの一瞬だったが佐伯だった。佐伯良作…藤原来道が『任侠くまげら組』若頭時代の舎弟である。表面上は『無縁商会』とは関わりはないが、陰で藤原の情報屋として動いている人物だった。岡本は何気ない素振りで席に着いてデスクワークを始め、ふと山百合に視線をやった。梨乃はじっとその山百合を見つめていた。


〈第21話「山百合」につづく〉

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