第18話 食事はゆっくり楽しむ
岡本の予想どおり、岩田は早々に執行猶予となって釈放されてから一ヶ月ほど経った。
「動きませんね」
「しかしながら警察は身内には甘いな」
「元身内ね」
「強制性交等罪の教唆の件はどうなったんです?」
「闇の中だね」
「警察は把握すらしていないだろ…というか、する気もないだろ」
刑法61条1項の教唆の項には『人を教唆して犯罪を実行させた者には、正犯の刑を科する』とある。つまり、教唆犯が成立すると正犯と同じ刑罰を科される。
日和への傷害で起訴された岩田ではあったが、かつての強制性交等罪に関しては警察は把握していなかった。証拠はあったが岡田と日和は敢えて提供せず、自力救済の道を決意していた。ちなみに民事の自力救済も刑法の自救行為もこれを規定する条文はないが、国の秩序が乱れるという観点から認められていない。漆原は無言だった。
「社長は岩田の不利になる供述はしなかったんですよね」
岡本夫妻が岩田の執行猶予を望んでいたことを最初不審に思っていた。しかしすぐに、それは岩田のためではなく、妻の日和と岡本自身のためである事に気付いた。岩田は半年の実刑。軽い処分となった。岡本夫婦は岩田は刑期を終えたら必ず自分たちのもとにやって来ると確信していた。岩田が釈放されて一ヶ月ほど経過した今日は、岡本と日和の結婚記念日である。岡本は予約したレストランで日和と食事をするのを毎年の恒例としていた。岩田はそのことを知っていた。食事を終えてレストランから出て来る岡本夫妻を凝視している岩田の目がそこに在った。そしてその足は立っていた。釈放された時には車椅子だった。それは堺が確認している。車椅子は岩田の偽装だったのか・・・。
岡本夫妻は真っ直ぐ帰宅し、仲睦まじく家の中に入った。後を付けた岩田はドアの前に立った。インターホンを押す手を止め、ドアノブに手を掛けた。開いている…ドアに耳をそばだてて中の様子を窺ったが静かだった。少ししてテレビの音がして来た。岩田は静かにポケットのマカロフを握った。現役時代にロシアの密輸組織から大量に押収した中の一丁をくすねて通勤途中の駅の契約コインロッカーに隠していたものである。
岩田はドアノブを回した。室内からはテレビの音以外は何も聞こえて来ない。ゆっくりとシューズカバーを掃き、玄関の廊下伝いに歩を進めて行った。家の外で車のドアが閉まり発進する音がした。岩田は胸騒ぎを覚えた。胤を返し、玄関のドアノブに手を掛けると施錠されて中から開かない状態になった。
「しまった!」
急いで居間に戻り、窓を開けて脱出しようとしたが、そこもロックが掛かっていた。傍にある椅子を投げ付けたが防弾ガラスで跳ね返されビクともしなかった。
「岡本のヤロウ、嵌めやがったな!」
その時、暖炉で鈍い爆発が起こって液体が床を這いだした。その液体に引火した炎が見る見る床を覆い始めた。瞬く間に室内は炎と煙に包まれた。2階に上がる階段を探したがなかった。岡本邸は広いワンフロアの住まいだったのだ。煙と炎の中に猫のぬいぐるみのレンズが光っていた。
岡本邸の外に黒いキャラバンが一台停まっていた。運転席の堺が岡本邸を見ながら呟いた。
「確保…」
岡本邸の煙突からは緩やかな煙が立ち昇っていた。30分ほど経過すると煙突の煙が収まった。強力な耐火壁は中で大惨事が起きているなど微塵も感じさせなかった。
「…帰るか」
岡本の言葉で黒いキャラバンはゆっくりと邸を離れて行った。
漆原・芦川・野崎らが事務所で待っていた。一同は猫の目から送られてきた岩田の断末魔の画像が目に焼き付いていた。
「火事には気を付けないとね。一酸化炭素中毒は30分であの世行きだ」
「あの野郎の死様が拝めるとは思っても見なかった」
「漆原さんは随分と好かれたようですからね」
「いい腕ですね、漆原さん」
「あれは私の仕事? 記憶にないな。あんたらの超能力の成せる技だろ」
芦川と野崎は、嘯く漆原の言葉にほくそ笑んだ。堺と岡本夫婦が事務所に戻って来た。漆原は興奮気味に駆け寄った。
「いいもの見せてもらいましたよ…録画、見ます?」
「いや、結構だ。すぐに焼却する。証拠は残せない。もうすぐしたら帰宅するよ、レストランの帰りだから」
「…そうですね」
岡本夫婦は記録を薬品で焼却してから15分程事務所に居たが、すぐに腰を上げた。
「送りましょうか?」
「いや、タクシーを拾うよ」
家の前が騒々しいのが遠くから分かった。
「あの、パトカーの手前で降ろしてくれ、私の家かも知れん!」
岡本は慌てた風を装ってタクシーの運転手に叫んだ。現場の立番をする巡査に居住者であることを証すと、逃げ遅れて玄関に男の焼死体が発見されたとのことだった。中から捜査に入った見覚えのある鑑識官が出て来た。岡本の現役時代の先輩・黒岩将だ。
「岡さん、また大変なことになったね」
「黒岩さん…」
「中で岩田が焼け死んでる」
「岩さんが !? どういうことなんです?」
「留守に忍び込んだらしい」
「・・・」
「中が完全ロックされて出られなくなったらしい。玄関の鍵は開いているというのに、出ようとしてかなり暴れた跡がある」
「この辺は空き巣が多いんで不審者が侵入した場合、オートロックになるようにしたんですが…」
「火の勢いがかなり強かったようで外見とは別に中は真っ黒だ。暖炉が火元のようだ」
「帰宅前に部屋が暖まるよう時間が来れば自動点火するんです」
「隣家に火が回らなくてよかったな」
「外壁は完全防火壁なので…」
「中で暴れて火だるまだ。あんたも嫌われたもんだね。やつの恨みが火を噴いたんだろ」
「彼に恨まれる覚えはない」
「あんたになくても、やつにはあるんだろ」
黒岩の視線が岡本から日和に移った。日和はその視線に動じず、穏やかに目を逸らさなかった。
「ま、あとで被害届を出してくれ」
黒岩はそういって去って行った。
「しばらく立ち入り禁止か…」
ふたりはデパートで買い物をしていた。
「新しい住まいが決まるまで暫く事務所で働くか?」
「よしとくわ」
「岩田より気を付けなければならない人間が現れた」
「私は大丈夫。これからが面白くなりそうね」
精気が蘇った日和を見て、岡本は安心した。
「引っ越す先の目途は付いてるが、また棺桶に改造しないとな」
「これがいいわ」
日和は、部屋の守り神にするヒョウのぬいぐるみを手にした。ふたりは引っ越すまでホテル住まいを転々としながら、その形跡を散らして過ごした。
〈第19話「ラオスのホテル」につづく〉
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