第15話 朔太郎と日和の絆
数カ月が経った。正月明けの買い物帰りの日和は向こうから来る車椅子の男に見覚えがあった。夫の元同僚であり、自分も警察勤務時代は一緒に動くこともあった岩田忠彦である。話には聞いていたが、日和は “車椅子” の岩田の姿は始めて見る。どちらからともなく声を掛けると、岩田はわざわざ朔太郎を訪ねて来たとの事。変だなと思った。朔太郎がこの時間に家に居ないことは岩田も承知しているはずである。それなのにこの時間に朔太郎に会いに来たというのはどういう事なのだろう? …日和の警戒心は元警察官だからというだけではなかった。
旧姓・柏木日和が捜査三課から一課に転属になって間もない頃、当時一課に居た岡本と岩田は連続強姦事件を扱っていたが、中々足がかりになる決め手を掴めないでいた。事件の度重なっているエリア住民から、このところ夜になると連日無断駐車している不審な米国産の大型四輪駆動車があるという通報を受け、柏木日和を囮にすることになった。
その不審車は確かに駐車していた。暫く様子を見ていたが、一向に動く気配はなかった。駐車場の前を日和に通過させることになった。彼女が不審車の前を通りかかった時、助手席のドアが開いて男が一人出て来た。手には地図のようなものを持っていた。日和はその男に乞われるまま車に近付いて行ったその時、強引に車内に引き擦り込まれ、車は急発進した。
「しまった!」
岩田らは車を追跡した。40分にも及ぶカーチェイスの後、日和は車から全裸で放り出された。倒れたまま起き上がれないでいる日和を見て追跡を止めざるを得なかった。岩田が救急車を要請してる間に、岡本は逃走道路上に散乱した彼女の衣類を走って集め、急いで身に付けさせた。日和は半ば朦朧としながら震えたままだった。無残な彼女を見て、岡本と岩田は後悔で正視できなかった。
岡本は毎日、日和の入院する病院を見舞ったが彼女に面会を断られ続けた。ある日、思い切って病室に向かうと、中から会話が聞こえて来た。
「きみの仕事はボクには荷が重い…これから先、自身がない」
「大丈夫…あなたのところへは帰らないから…私の荷物は全部処分して」
「…済まない」
「一緒だと思い出すしね。つらいよね」
しばらく無言が続き、男は病室から出て行った。“彼女、同棲していたのか…” そのことを知って、岡本は後悔が更に重く圧し掛かって来た。気が付いたら病室の中に居た。重い足だったがひとりでに動いた。
「勝手に来たよ。退院したらオレの家に来い。部屋が開いてるから」
それだけ言うと、岡本は病室を出た。
日和の退院の日、岡本は迷った。迎えに行くかどうするか…どうせ来るはずもない彼女に付き纏い、これ以上介入するべきではないと、真っ直ぐ自宅に帰ることにした。
すると、玄関の前に日和が座っていた。
「…行くところがないの」
「ここがあるだろ」
ふたりは言葉少なに家に入った。朔太郎は鍵を二つ出した。
「これは家の鍵…それから、これは部屋の鍵」
日和は朔太郎を見た。
「誰も信用できないだろ。誰も信用するな。オレのことも信用しなくていい。好きなだけ居ていいから、とにかくゆっくり休め」
深夜、日和は目が覚めた。恐る恐るリビングに出ると、食卓の上にポツンと夕食が用意されていた。朝になり、起きて再びリビングに出ると同じように朝食が用意されていた。岡本は既に居なかった。メモには “余計なことだろうが勝手に手が動く。冷蔵庫のものも自由に使って。” とあった。
日数が嵩むうち、日和は岡本の気遣いがつらくなっていた。いつ出て行こうかと葛藤の日々が続いた。仕事も休職のままになっている。岡本と話しをしなければならないとリビングで待っていた。
「テレビがなくて御免な。買って来ようか」
「あの…」
日和の言わんことを察しているように、岡本もテーブルに掛けた。
「近いうちに出て行こうと…」
「行きたいとこ見つかった?」
「いいえ…でも、このままいつまでもお世話になるのは…」
「警察の寮もあるだろうけど…オレのことが嫌いならしょうがないけど、いっそ同棲ってのはどう?」
「え?」
「それはいくら何でも唐突過ぎるか、ははは…唐突ついでに結婚ってのはどう?」
「…岡本さん」
「いや、冗談では…ないんだよ。配属して来た時からそう思ってたんだ。でも、つらい思いをさせちゃったから言い出せなくてね。だから、出て行くって言われたら思い切って言おうと思ってたんだ。いや、気にしないでいいよ。こんな無茶苦茶な唐突ってないよね」
岡本は笑った。
「私はレイプされたのよ。そんな資格あるわけないでしょ」
「結婚って資格がいるのか?」
「岡本さんはわたしに同情してるだけ。哀れみと後悔では結婚がうまくいくわけないでしょ」
「柏木さんは試練に負けちゃってるね。一生負い目に支配されて行くつもり? そんなもの、どぶに捨てたらいいのに」
日和の目が見る見る潤んだ。
「岡本さんには分からないでしょうけど、どうしてもあの時の記憶が頭から離れてくれないの」
「オレさ…予定立ててるんだ。オレの大好きな柏木さんの見てる前で、あの連中を残酷に処刑することをね。楽しみにしててくれないかな。それまではどうしても一緒に居たいんだよね。警察だから情報が入る分、完全犯罪が可能だし、被害者にだって被害後の楽しみがあっていいと思うんだよ」
「岡本さん…」
「それまで一緒に居て欲しいんだ」
日和は頷いた。それから二週間ほど経ったひと気のない三月のまだ明けやらぬ早朝、岡本と日和は国道134号に架かる渚橋袂から逗子海岸を見つめていた。視線の先には、あの米国産の大型四輪駆動車が海岸に突っ込んでいた。酒瓶が散る中、三人の男たちが車から半ば投げ出された格好で息絶えていた。
「今日までありがとう。オレと結婚したくないなら、これからは柏木さんの好きなようにしていいよ」
だが、日和は岡本の元を離れなかった。それから隼人が生まれて十数年、日和は岡本と共にあった。隼人の死後も朔太郎を責めることなく、20年傍にいてふたりで忍耐の日々を送れたのには、そうした絆があったからだ。
「ただいま!」
日和は居間の棚に飾ってある三毛猫の背中をポンと叩いた。
「さ、どうぞ! 何にもないんですけど、取り敢えずお茶入れますね」
突然現れたのを拒むことなく、日和は車椅子の岩田を居間に招き入れた。
〈第16話「三毛猫のぬいぐるみ」につづく〉
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