第10話 虫唾が走るね

 学校が始まった。まだ新型コロナウイルス対策のシフト登校を布く中、娘の杏奈は、やっと屈託のない高二の新学期を迎えることが出来ていた。堺は堺で、岡本の依頼を精力的に熟していた。そして今日も岡本からの新しい資料を見ていた。


 不動産会社に勤務するターゲット・北村孔道の資料には、彼の過去のいじめの件について詳細に記録されていた。そして既に被害者からの復讐が始まっていたことも。この依頼は被害者本人からのものではなかった。依頼者は被害者の妻・大友嘉代だ。夫・博也は数か月前から不眠を訴え、鬱症状に悩まされていた。息子・未来也のいじめ発覚をきっかけに、忘れていたはずの自分のいじめの過去がフラッシュバックし、その幻影が脳裏を支配していた。

 堺は迷っていた。息子の未来也のいじめを先に消滅させるか、父・博也が手を汚すのを未然に防ぐか・・・堺は取り敢えず、妻からの情報で博也がいじめ加害者の北村に会っている現場を監視していた。

「おまえが中学時代にオレにしたことが、数日中に週刊誌の記事になることを伝えようと思ってね…」

「中学時代の !? そんな昔のことなんかでオレを脅すつもりなのか !?」

 “そんな昔のこと” に、博也は復讐の確信を得た。

「 “脅す” なんて人聞きの悪いこと言うなよ。何も要求してないだろ。昔、“世話になった” 誼で、前以て伝えに来ただけだよ」

「どこの週刊誌なんだよ」

「何て週刊誌だったかな…記事は匿名にするからって連絡があっただけだから…」

 博也は敢えて話をぼかしたが、博也の中学時代の唯一の親友である内野裕治が、嘉代に相談されて持ちかけた話だった。内野は週刊誌の記者をしていた。孔道の博也に対するいじめのひどさは近くで見ていて知っていた。丁度、勤務する編集社の特集でいじめ問題を扱うことになり、博也の妻から相談があったことは伏せて、博也から直接過去の被害者の一人として記事にする了承を得たのだ。博也は一つだけ条件を出して来た。発売寸前に加害者に記事の事を話してもいいかということだ。内野は否定せず、“その話は聞かなかったことにするよ” と言って帰って行った。

「オレは記事にすることを許可した覚えはないけど…実名報道も含めて、記事は専ら出版する側の判断に委ねられているようだからね」

「…なら、なんとか止めてもらえないのか」

「なんか発送も済んで、明日店頭に並ぶみたいだよ。こういう時、被害者としては気が楽だよ」

「・・・」

「気が向いたら週刊誌読んでみたらいいよ」

 博也はそう言って去って行った。孔道はしばらくその場を立てなかった。今まで全てが順調に来ていた。思わぬ躓きだった。翌日、孔道が営業から帰ると竹下社長の机の上に置いてある例の週刊誌が目を刺した。

「あれ? 社長、週刊誌なんか読むんですか?」

「物件を探しに来たお客さんが置いて行ったんだよ。中学時代に自分と全く同じいじめを受けた人の話が載ってたんだそうだ。面白いからって置いて行ってくれたんだ。読むかい?」

 孔道は何気ない振りを装って、社長から週刊誌を受け取った。読み進むうち、過去の自分の姿が詳細に描かれていることに鳥肌が立った。

「面白いだろ。ひでえことをするやつもいるもんだ」

「社長はもうお読みになったんですか?」

「そりゃ読むだろ、あそこまで薦められりゃ…そういうやつが社会に出て真面目ぶっていると思うと虫唾が走るね。あれ!? 確か彼…篠山中学校って言ってたな。北村くんも同じ中学じゃなかったっけ? 知り合いじゃないか?」

 竹下は来店客の記録を見た。

「えーと…大友博也さんという人だ」

 孔道は心臓が締め付けられた。“博也が来た” ことを知って激しい動悸に見舞われた。しかし、何とか平静を装った。

「知ってる、北村くん?」

「…ちょっと思い出せないですね…中学っていうと随分昔の事なんで」

「そんなもんかな? オレなんか高校中退で親父の後を継いだから、中学時代の友達の事は鮮明に覚えてるよ。きみは大卒だから中学時代の事なんて忘れるのも無理ないか。じゃ、先に帰るよ。その週刊誌、やるよ」

 竹下社長はいつものように数人の残業社員を背中に先に帰って行った。残業を終えて帰途に就いた孔道に社長の言葉が響いた。 “そういうやつが社会に出て真面目ぶっていると思うと虫唾が走るね” …孔道は追い詰められた。自分がいじめの張本人だと会社に知れるのは時間の問題だろうと思うと、居づらくなる前に退職するしかないと思った。


 そんな或る日、弘道はバッタリ内野に会った。中学時代の引っ込み思案だった内野とは別人のインテリ肌になっていた。渡された名刺を見て更に驚いた。“週刊RUN 編集部” とあった。

「…おまえだったのか」

「記事を見てくれた?」

 弘道は不満やら何やら言いたい事が交錯し言葉に詰まった。

「記事に言い分があれば遠慮なく編集部に連絡してくれ。ちょっと急いでるんで、今度ゆっくり会おう」

 弘道は、博也の片棒を担いでいるのが内野だと分かり、記事の内容の克明さに納得した。


 退職して新しい職場が中々決まらないまま一週間ほど経つと、孔道はいじめていた博也への恐れが、怒りに変化して行った。中学時代の事をいつまでも根に持つやつのほうがおかしい…卒業してからの自分は真面目に生きて来た…しかし、また竹下社長の言葉が響いた…“そういうやつが社会に出て真面目ぶっていると思うと虫唾が走るね”…孔道が打ち消しても、その響きは執拗に脳裏に居座った。


 孔道の面接の日々が続いた。彼は交際相手との結婚が迫っていた。やっと手応えのある会社の面接を追えて帰途に就いていると、その会社からの断りの連絡が入り、孔道の心は完全に折れた。同時に博也への報復の感情が膨れ上がって来た。


 堺は依頼主の嘉代に会っていた。

「ご主人とお子さんはどうしてらっしゃいますか?」

「主人はいじめの加害者の方が会社を辞めてから少し落ち着きを取り戻しました。息子の未来也には学校を休ませて勉強を見ています。自分がいじめの経験者だから未来也の気持ちが分かるようで…未来也も主人の理解が得られたことに安心して、少しづつですが心を開いてくれるようになりました」

「そうですか…それは良かった」

「あの…」

「何でしょう?」

「このままで大丈夫なんでしょうか?」

 嘉代は見えない何かに不安を感じているようだった。勿論、堺はその不安の原因も把握していたが、依頼者の自主性を削がないために常に受け身で接し、正しい情報提供に徹した。

「私どもはまだ監視にとどめている状況なんですが、何か不安なことでもありますか?」

「主人が週刊誌の件で脅迫めいたことをしたことで先方様は会社を辞めています。主人の話によるとまだ再就職はしていないようなので…」

「奥さん、ご主人は脅迫めいたことも、強迫もしていませんので、そのことはしっかり心に留め置いてください。大切なことです」

「分かりました」

「北村孔道氏は退職後、2ヵ所ほどを就活を続けていますが、まだ決まっていません。就職を焦っているのは半年ほど後に結婚が迫っているからです」

「結婚 !?」


 その頃、孔道は博也を呼び出して会っていた。

「これ以上、嫌がらせをするのは辞めてくれないか」

「嫌がらせ?」

「おまえが、オレの就職を邪魔しているのは分かってるんだ」

「就職の邪魔 !?」

「とぼけるなよ。悪かったよ。謝るから、もういい加減昔の事は水に流してくれよ」

「忘れられたらどれだけ楽になるか…でも忘れられないんだよ。あの頃の全てが頭にこびり付いているんだよ」

「嫌がらせをやめないなら…後悔することになる」

「嫌がらせはしてないだろ」

「まだとぼけるのかよ。どうして面接した会社から全部断られるんだ? おまえが会社に電話を入れてるとしか考えられないだろ」

「おまえがどこの会社を面接してるのかなんて、おれが知っているわけないだろ」

「おまえには情報屋の内野が付いてるだろ! …どこまでもとぼけるっていうならそれでもいい。そっちがその気なら、またあの中学時代を思い出させてやるまでだ! 後悔することになるぞ!」

 博也は中学時代の恐怖が蘇って、またもや身の危険を感じることになった。しかし、今の博也はあの頃とは違う。帰宅して嘉代にことの全てを話した。嘉代は自分の不安の正体を知った思いだった。夫の身がはっきりと危険に晒されていることが分かった。そして弘道と一騎打ちをする決意だという事も。嘉代はここで初めて片付け屋に相談していたことを明かした。そして、未来也を両親に預け、博也と二人で堺に会うことにした。


 或る日、孔道は屋上から飛降りた。丁度、博也が飛び降り自殺未遂事件を起こした母校の中学屋上だった。遠く運動部の掛け声が弾けていた。


 博也は残雪の裏庭で焚火をしていた。あの週刊誌に移った炎が燻り、芽吹いたばかりの桜の枝に絡んで行った。嘉代はもう一冊の週刊誌を焚火に投げ入れた。『私生活を曝されたいじめ加害者高校生の自殺』という見出しに、勢いよく炎が移った。


〈第11話「スワッティング」につづく〉

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