第9話 満月の下で

 小さな小屋でピアノを奏でる柚貴を真剣な顔でスケッチブックにペンを走らせている蓮。柚貴の演奏が止まる。

「どうかした?」

 柚貴は窓を見る。

「雨が止んだなって。集中している所悪いけど、もう時間」

「えっ、嘘!」

 蓮は腕時計を確認する。

「ほんとだ! 今日はありがとう」

 柚貴は鞄の中から名刺入れを取り出すと、蓮に名刺を渡す。

「もし、続きを描きたいならここに来ると良い」

 柚貴はバッグを持ってドアを開き、蓮の方へ振り返る。

「待ってるから。じゃあ」

 柚貴が小屋を出る背中を見送ると、再び名刺を見る蓮。


 ひっそりと路地裏に佇み、ネオンの看板が淡い色で夜を照らすBar・Luze。

蓮は恐る恐る店のドアを開くとベルが鳴る。

 店内は女性客でほぼ埋め尽くされている。その光景に蓮は立ち尽くしていると短調がやって来る。

「いらっしゃいませ。柳様ですね」

「はい」

「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

 店長に案内された席はカウンターの奥の端だった。

 蓮は椅子に座り、店長はカウンターに立つ。

 蓮は店内をぐるりと見回す。

「お飲み物はいかがなさいますか?」

「えっと……」

 店の時計が6時50分を指す。

「おすすめってありますか?」

「かしこまりました。今夜の柳様に相応しいお飲み物を御用に致します」

「お願いします」

 店長は手際よくシェイカーを振る。

「あの……。舞原君はこちらにお勤めですか?」

 店長はチラリと壁の時計を見る。

「七時までお待ちください」

 店長はカウンターにオレンジ色のカクテルを置く。グラスの淵には塩が付いている。

「お待たせ致しました。オレンジソルトでございます」

「これ、カクテルですか?」

「カクテルジュースでございます」

 蓮はほっとして一口飲む。

「これ、すっごく美味しいです。俺、未成年で、こういうお店初めてで緊張しちゃって……」

「左様でございますか、お気に召していただいて光栄です」

 ウェイターとウェイトレスがテーブル席に蝋燭を置き、火を点ける。

 全ての蝋燭に灯りが灯り、店内の照明が落とされると中央に置かれたピアノがライトアップされる。

 カウンター席の奥にあるバックヤードからスーツ姿の柚貴が歩く。

 真っ白い髪と赤い瞳の柚貴はコツコツと革靴の音を鳴らし、ピアノまで優雅な佇まいに蓮は時間が止まったような錯覚を起こす。

 女性客たちの悲鳴が店内に響く。柚貴がピアノの前に座り鍵盤に手を乗せると店内は静まりかえり、その空気に息を呑む蓮。

 柚貴がゆったりと鍵盤を鳴らし始めると、店員たちもでも釘付けになり音色にうっとりする。店長は優しい目で柚貴を見ている。

 蓮は目を丸くし柚貴を見つめている。柚貴も観客に目を向けると、蓮と目が合うと柚貴は蓮に向けて微笑む。

 

 澄み渡る夜空に満月の下で優しさと熱情と儚さの音色が響く。


 柚貴が鍵盤から手を離すと、一瞬の沈黙の後、拍手が巻き起こる。

柚貴はピアノの脇に立ち、左手を添えて礼をする。拍手の中、柚貴店内を通り抜ける姿を蓮は目で追う。蓮の脇を通り越し、バックヤードへ入る。柚貴の背中が見えなくなってもずっとドアを見つめている蓮。

 店内の照明が元に戻り、ウェイターとウェイトレスが蝋燭を消しに回る。

 蓮を見て店長がシェイカーを振り始め、鮮やかな紫色がグラスに注がれる。

「こちらをどうぞ」

 声をかけられたことに驚く蓮は出された飲み物に戸惑う。

「頼んでないですが……」

「舞原君からです」

「いいんですか?」

「どうぞ、お召し上がり下さい」

「では、頂きます」

 蓮はゆっくりと口をグラスにつける。

「美味しいです」

 店長は顎に手を当て蓮に笑みを向ける。

「彼、演奏が終わると帰ってしまうんですよ。彼が他人と違うことを頑なに隠し続けてたのに、どういう心境の変化なのだろうと思っていたのですが、納得が行きました」

 蓮は店長から視線を逸らし、グラスを見る。

「俺にはよくわかりません。彼とは親しくなったばかりなので……」

 蓮は一気にグラスの中身を飲み干す。

 店長は口元に笑みを浮かべながら視線だけはまっすぐ蓮を捉える。

「一つ忠告しておきます。中途半端な気持ちで彼に踏み込むようなら、今日限りで縁を切った方が身のため、ですよ」

 蓮の顔が紅潮し、虚な目になり、視界が揺らぐ。

「俺、帰ります」

 蓮は財布から二千円を抜き出し、カウンターに置く。

「ごちそうさまでした」

 蓮はバッグを抱えて席を立つ。

「ありがとうございました」

 蓮が店のドアを開けると、ベルが鳴った。


 柚貴が店の裏口から出てくると蓮が通り過ぎる。

「蓮?」

 蓮が振り返る。

「やぁ。じゃあ、また明日」

 蓮のよそよそしい態度とおぼつかない足取りを不安に思う柚貴。蓮に駆け寄り隣に並んで歩き、横顔を見る。

「顔、赤いけど大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫」

 呂律が回らない蓮に柚貴の不安はさらに募る。

「大丈夫じゃないでしょ? まさか、お酒飲んだ?」

 蓮は立ち止まり首を振る。

「ゆずがご馳走してくれた紫のカクテルジュースを飲んだら、体が熱くなって……」

 蓮がよろめくと咄嗟に体を支える柚貴。

「それ、葡萄を発酵させた飲み物だよ。僕は絵を描ける席としか……」

「俺、今日の演奏を見て、聴いて……俺、俺……」

 蓮は鼻をすすり、涙声になる。

「俺さ、やっぱりダメ人間なんだって思ったら、絵のモデルなんて軽々しく頼んだのはやっぱり迷惑だったんじゃないかって思ったら、合わせる顔が……」

 柚貴は蓮にキスをする。蓮は目を見開く。

 柚貴が離れると、口を開こうとした蓮は唇を指で当てられ塞がれた。

「僕の家においで。明日は土曜日で大学もないし、泊まっていく? 柚人もいるけど蓮のこときちんと紹介したいし」

「えっと、それって……」

「僕は蓮のことが好きだよ」

 柚貴の美しい顔が月明かりに照らされ、蓮の顔が赤くなる。

 空に星が輝き、満月が二人を優しく照らした。



 

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