第8話 雨が上がる頃
蓮はキャンバスの前で顎に手を当て悩んでいると、サングラスと帽子をかぶった柚貴が入ってくる。サングラスを取るとカラーコンタクトを着けた黒い瞳が蓮を見つめる。
「昨日の返事なんだけどさ……」
蓮は目を細めて柚貴を見つめる。
柚貴は指で頬を掻き、視線をずらす。
「えっと、そんなに見つめられても」
蓮はキャンバスに視線を戻す。
「返事は受け取れない。君、柚貴君じゃないよね」
「何言ってるの? 僕に決まってるじゃない」
蓮は柚貴に詰め寄り、じっと見つめる。
「顔も声も瓜二つだけど、やっぱり違う」
「何だよそれ! 今まで柚貴と俺を見分けられる奴なんていなかった」
柚貴として蓮に近づいた柚人はあっさりと見分けられてしまったことに苛立ちを隠しきれず、唇を噛む。
「俺は認めない!」
「それが柚貴君が決めることだ。僕は柚貴君にモデルを頼んだんだ」
柚人は蓮に気押されて一歩下がる。
「俺と柚貴、何が違うってんだ」
「それは……」
「二度と柚貴はお前に触れさせないし、柚貴の裸を見ていいのは俺だけなんだよ」
蓮は突然の柚人の告白に目を丸くした。
柚貴が廊下を歩いていると教室の前から笑い声が聞こえてくる。
柚貴は教室のドアを開ける。
柚貴がドアを開くと、蓮がお腹を抱えて笑っている。その光景に柚貴は戸惑う。
「あれ? 柚人、ここで何してるの?」
柚貴の声に振り向く二人。
「何してんのって、断りに来たんだよ」
「それで、なんで蓮がお腹を抱えて笑ってるの?」
「それは……その……」
気まずそうにする柚人の後ろで蓮は笑い続けている。
「笑いすぎてお腹痛いよ。柚貴君の弟さんはお兄さん思いだね」
「おいっ、お前!」
「だって……普通、言わないよ。お兄さんの裸は誰にも見せないなんてさ」
柚貴は小さく吹き出し、笑う。
「ゆう、そんなこと言ったのか? なにも裸でモデルになるなんて言ってないし」
柚人は蓮と柚貴を交互に見て、ため息をつく。
「もういいよ。二人で好きにすれば」
柚人は足早に教室を出る。
柚貴は肩をすくめる。
「まったく、ゆうは……。後で言って聞かせないと」
蓮は柚貴と向かい合う。
「来てくれてありがとう。返事を聞かせてもらっていいかな?」
「一つだけ聞いていい?」
「いいよ」
「どうして僕だったの? 同じ顔の柚人でもいいはずなのに」
蓮はキャンバスを見る。
「君たちを最初に描いた時はただ美しくて」
目を伏せすすき畑の光景を思い出す。
「あの時の衝動は今でも忘れられない」
蓮はキャンバスに触れる。
「ねぇ、美しさって何だと思う?」
「えっ?」
蓮の手のひらがキャンバスをなぞる。
「僕は一時期、絵を描くことが出来なくなった。題材はいくらでもあったのに、満足いく絵が描けなくなった」
蓮は柚貴をまっすぐ見つめる。
「そんな時、すすき畑で見た君たちに触発された」
蓮は拳を握りしめる。
「やっと苦しみから抜け出せると思った」
蓮は再びキャンバスに目を向ける。
「絵を辞めなくて良かったと思えた。でも、その後、コンクールに出しても入選しない日が続いた」
蓮の話に静かに聞いている柚貴。
「君たちのピアノの音色、奏でる姿を見て、今、描きたいものを見つけたんだ」
蓮は深呼吸をして、柚貴をまっすぐ見つめる。
「僕は君の空虚さと寂しさを美しいと思ってしまったから、僕に君を描かせて欲しい」
柚貴の瞳から涙が零れる。蓮はその涙に慌てる。
「俺、人に泣かれるとどうしていいかわからなくて……失礼な事言った?」
俯いた柚貴の顔を覗く蓮。
蓮もどうしていいかわからず俯く。
「……言ったよね。ゴメン。でも、僕の気持ちを知って欲しかったから、なにも言わないまま俺のわがままを聞いてもらうわけにもいかないから……」
柚貴は涙を袖で拭う。
「ちょっとびっくりしただけ。驚かせてゴメン。大丈夫だから」
蓮は顔を上げる。
「ほんとに?」
「大丈夫だよ。それよりも、僕はどうしたらいいんだろう?」
「まず、芸術祭の為の絵を描きたいんだ。だから、あの小屋でピアノを弾いて欲しい。今から、お願いできるかな?」
「二時間くらいなら」
「ありがとう」
蓮は、スケッチブックを持ちバッグを肩にかける。
「じゃあ、行こうか」
柚貴がドアを開け、蓮が電気を消す。
暗い教室には真っ白なキャンバスだけが残っている。
灰色の空から小雨が降る中、公園のベンチに座っている柚人。
柚人の頭上に傘が差し出される。
「濡れるぞ。お前、こんなとこで何やってんだよ」
純はベンチを跨ぎ、柚人の前に立つと手を出す。
柚人はゆっくりと頭を上げる。
「えっ? 何?」
「ボケてんのか? 帰るんだよ。傘、一本しかないんだよ。不本意だが入れてやるよ」
「いいよ、別に」
「いいよって、見て見ぬ振りしたらこっちだって気分わりーんだよ」
「もう、ほっといてくれ」
声を荒げる柚人。
「そっか……」
純は柚人の隣に座る。
「お人好しだな。お前」
柚人の消え入りそうな声。
「お前こそバカだよ。……その……何だ……何かあったのか?」
柚人は空を仰ぎ、笑う。
「お前、お節介だよ。なるほどね。じゅんじゅんは貧乏くじ引くタイプでしょ」
「いきなりだな」
曇り空から太陽の光が透ける。
「無理にとは言わない。が、一人で考えるより話して楽になることもあるんだぜ」
柚人は大きく息を吐く。
「じゃあ、聞くけど。大切なものがすり抜けて、手に入らないとわかってしまった時じゅんじゅんならどうする?」
小雨が止み純は空を見る。
「子どもだよな」
柚人は純の横顔を見る。
「はぁ? 俺が子どもだって言いたいわけ?」
「だって、子どもがおもちゃをねだって、買ってもらえないのと一緒だろ」
「それは……そうかもしれないけどさ……」
純はくしゃみをすると、両手で体をさする。
「さむっ!」
「帰るか」
柚人は立ち上がる。
「何だよ。さっきまで拗ねてたくせに」
「さっきは悪かったよ」
純はくすりと笑う。
「良かったら、うち寄っていきなよ。とりあえず、お礼もしたいし」
頬を赤らめる柚人。
純は伸びをする。
「俺、腹減ったな」
「わかったよ。じゅんじゅんが図々しいことがね」
「俺、何食べさせてもらおうかな」
「着くまでに考えといて」
曇り空から太陽の光がさす。
雨上がりの下で二人は並んで歩みを進めた。
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