第56話 取引

「取引だと?」


「そう。そこの女を取り押さえて、動けなくなるように縛りつけるだけでいい。簡単だろう?」


 そう言って奴は日葵さんにねばりつくような視線を向けた


「その女は女王の血を引く者だ。サキュバスとして魅了の力が使えずとも、利用価値は大いにある。せっかく我の力を使って男たちに襲わせたのに、君のせいで邪魔をされてね」


 ユークリッドは不機嫌そうに言った。


「現世での我はただのひ弱な男だ。魅了魔法が効かなければ、いくら女といえども抵抗されたらすぐに逃げられる。今回のように他の人間に襲わせるにしても、人払いの結界など我が精力を大量に消費する大掛かりな仕掛けをしないといけなくなるから大変なのだ。それに、その女にはサキュバスの女王の血が流れているだけあって夢の世界からの干渉もできない。この妹を我が本拠地につれてくるのにも苦労したよ」


 制約が多くて忌々いまいましい女どもだと、ユークリッドは言った。


「我の計画の邪魔をした君には、永遠に夢の世界で精力を提供する家畜になってもらおうと思っていたが、おとなしくその女を引き渡すというのなら話は別だ。君のことだけは助けてやってもいい」


「ふざけるのも大概にしろ! そんなこと認めるわけがないだろう!」


 俺は目の前にいるユークリッドを怒鳴りつけた。


「だったら交渉は決裂だな。君には廃人になってもらうとしよう。淫魔からの干渉に耐性のない君は、次に眠ったときがまともな人生の終わりだと思っておくといい。我が同胞のサキュバスたちをすべて君の夢へと送り込み、精力を絞りつくしてやる。まあ、それは悪いことばかりではない。その代わりに君が生きてきた中で一番の快楽にご招待しようじゃないか。ただ、そのまま快楽漬けにされて、精神が壊れてしまうかもしれないが」


 ユークリッドはそれだけ言って、にやにやと笑いながら俺から離れていく。


「そこの女は手に入らなかったが準備は整った。これからこの月麦とかいう女には、淫魔の子を産み続ける我が側室そくしつとして、生きて行ってもらう」


「やめろ! お前なんかに月麦の人生を決める権利なんかない!」


 俺は叫んだ。


「くそっ、月麦を返せ! お前なんかに渡してやるもんか!」


「……そこまでいうならチャンスをやろうじゃないか」


「チャンスだと?」


「もし君が、夢の世界で我ら淫魔たちに勝てたらこの女は返してやる。そして、二度と貴様らに干渉しないと約束しよう。だが負けたときは、そこの日葵という女と……そうだな、お前の背中に隠れているそこの女も一緒に、我がいただくことにしよう」


 ユークリッドは海羽に視線を向けた。


「つむつむを返してください! それから、クズ野郎は話しかけてこないでください!」


 海羽は震えながら、ユークリッドに向かって精一杯の抵抗をした。


「ふん。胸が貧相で女としての色気もない上に、なんの力もないただの人間か、下らん存在だ。ほかの淫魔たちに犯させれば暇つぶしくらいにはなるだろう」


「はあ!? 兄さんあいつぶっ殺してください、今すぐに!」


 海羽は俺の背中で殺気を溢れさせた。できれば俺も、今すぐあいつをぶっ殺しに行きたいところなんだ妹よ。


「今晩、貴様ら三人が夢をリンクさせ、みんなでこちらに来ること。それが我と勝負する条件だ。もちろん、その男と我らの勝負だから、残りの二人が手を出すことは許さん。まあ、そんな勝負をしても、間違いなく三人共倒れになるだけだと思うがな」


「日葵さんと海羽は関係ない! 俺とだけ勝負しろ!」


「それはできない相談だ。そこの女が手に入れられる可能性がないのなら我にメリットがない。正直、君のことは放っておいて、今すぐこの月麦とかいう女を手籠てごめにしてもよかったんだ。でも、どうしてもというからこうしてチャンスを与えてやっている」


「くそっ!」


 俺が迷っていると、日葵さんはゆっくりと俺の前に出てきた。


「その条件で構わないわ、私たちも行きます」


「日葵さん?」


 彼女の瞳に迷いはなかった。


「だって大地くんは負けないもの。女王の血を引く月麦の魅了魔法にだって耐えたんだもん。そこのくだらない男に負ける訳ないじゃない」


 ね? と日葵さんは俺にウインクをした。


「あたしだって、つむつむを助けられる可能性があるなら人生を懸けてやってやりますよ! それに、あたしのコンプレックスをバカにしたその男だけは絶対に許しておけません!」


「海羽まで……」


「兄さんは変態で、どうしようもなく残念で、自分の気持ちにも気づかずに女を泣かせたクズ野郎ですが……」


「少しは言葉を加減して? お兄ちゃん泣いちゃうから」


「でも、やるときはやる人だって信じています。それに、やっぱり大事な家族ですから」


 海羽はそう言ってからいつものように、にっひっひと笑ってくれた。


「……ほんとうに、ありがとう二人とも」


「自分の気持ちに気づいて反省して、つむつむを助けようとしているから、もう許してあげます。あとは兄さん次第ですよ」


 俺は二人の声援を受け、奴の前に堂々と立った。


「そういうわけだ。さあ、俺と勝負しろユークリッド!」


「ふん、つまらん。お前たちが我が身可愛さと良心との間で葛藤かっとうする姿が見たかったというのに」


 ユークリッドはくだらない映画でも見ているかのような顔をしていた。


「だが、人間風情にんげんふぜいがいくらそうやって我に歯向かってこようとも、本能の欲求には勝てないということを我ら淫魔が教えてやろう」


「ああ、望むところだ! むしろお前に、俺たち人間の力を思い知らせてやる!」


 俺は絶対にユークリッドを倒す! そして、月麦を救い出すんだ!


「では、勝負はインキュバスの契約に基づいて行う」


 ユークリッドがそう言うと、俺の左手の甲に赤い紋様もんようが浮かび上がった。


「それは約束を無視したときに、相手を強制的に支配できるようになる契約の紋様だ。もちろん我の手の甲にも描かれている。誇り高きインキュバスとして、貴様らとは正々堂々と戦ってやろう」


 この男はプライドや誇りを大事にする男のようだ。


 王として上に立つことを目標にしているだけあって、淫魔としての主義のようなものがあるのかもしれない。


「それでは勝負は今夜、一度きりだ。貴様ら三人が眠った後に会おうじゃないか。夢魔である我の生きる場所で、貴様がどれほどあがいてくれるのか、楽しみにしているぞ」


 そう言い残して、ユークリッドはまるで最初からいなかったように、その姿を風のように消したのだった。

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