第7話 誘惑開始

 しばらくは静かな時間が続いた。月麦つむぎは真面目に問題に取り組んでいるし、とりあえず一安心だ。


 勉強が大嫌いだと聞いていたから、始めるのにもっと手こずると思っていた。


 残る問題は彼女の学力だ。


 さっき後ろから答案用紙を覗き込んだけど、予想通り出来は良くなかった。


 半分ぐらいしか解答欄が埋まっていないし、その埋めた解答もときどき間違っている。


 でも、解答までの考え方は悪くなかったし、中学生までの基本的なことは一応できていたから、この子は高校生になってから勉強をしなくなっただけなのだろう。


 三十分ほど経過して、俺もだいぶこの空気に慣れてきた。


 せっかくだから、月麦を待っているうちに自分のレポート課題も終わらせてしまおう。


 そう思って持ってきた鞄の中からレポート用紙を取り出そうとしたときだった。


「ねえ、せんせ?」


 今まで静かに問題を解いていた月麦が、俺のことを呼んだ。


「どうかした? もしかして、問題文でわからないところがあった?」


「……勉強、飽きた」


「へ?」


 これは家庭教師の俺に対する宣戦布告ということだろうか?


「もしかして、テストが難しかった? それとも、もう解き終わったってことかな?」


 いやいや、決めつけるのはまだ早い。


 これは言葉が足りないだけで、彼女なりに助けを求めているサインなのかもしれないじゃないか。


 そう考えて俺は努めて冷静に月麦に聞いたのだが、彼女はもうシャープペンシルと消しゴムを筆箱の中にしまい込んでいた。


「勉強なんかより、もっと楽しいことしない?」


 月麦は机から立ち上がり、後ろの方で待機していた俺の方にやってきた。


「こらこら、休憩はテストが終わるまでがんばってから……」


 俺が言い終わるよりも先に、彼女は不敵な笑みを浮かべた。


「わたしの目を見て」


 その言葉に導かれるように、俺の視線は彼女の大きな瞳に吸い込まれた。


「なっ……!」


 ドクリ、と心臓が大きく跳ねた。


 俺の目の前にいる月麦がとてつもなく魅力的な女性に見える。


 この子の言いなりになって、自らが従属じゅうぞくすることに幸せを感じる不思議な感覚が呼び覚まされる。


 恋に落ちたようで、きゅんとして胸が締め付けられるようで、初めて異性というものを実感したときのような、あの名状めいじょうしがたいむずむずとした気持ちが深層意識からあふれてきて、ふっと心が多幸感に包まれる。


「ふおおおおおお!? なんだこれぇ……」


 次第に頭がふわふわしてきて、何も考えられなくなってきた。


 月麦がさらに俺の方に迫ってくる。


 このままでは駄目になるとわかっているのに、俺の視線は彼女のスカートから伸びる白いおみ足かららすことができない。


「わたしのいうことを聞きなさい」


 月麦は前かがみになり、顔をさらに俺の前に近づけた。


 制服の隙間からチラリと下着が見え、胸元があらわになる。


 俺の意識はそこに吸い寄せられていき、興奮して全身がほてってくる。


 血液がだんだんと下半身へ集まってきて、さらに抵抗の意志がなくなっていく。


「ふぁああぁ……駄目だあああぁ」


 まずい、このままでは俺は流されてしまう。


 ふらふらと自分の意志に反するように彼女に抱き着き、その胸の中に飛び込んでしまいたくなる。


 かつてこの身に立てた誇り高き童貞でいるという誓いがぐらぐらと揺れている。


 もうこのまま楽になろう。


 そんなふうに思いかけたとき、俺の頭の中に浮かび上がってきたのは、俺の大事な大事な初恋を弄んだあのビッチたちが俺を見て笑っている姿だった。


 そうだ、俺はもう二度とあんな思いをしたくない……絶対にこのまま、ビッチのいいようになんかされてたまるもんか!


「ふんぬうううう!」


 俺は歯を食いしばり、自分の顔面を手加減せずに思いっきり殴りつけた。


「ええええ!? 何してんの!?」


 ずしゃああと床をすべる音がした。


 月麦は自分の顔面を殴って床に倒れた俺のことを、心配そうに覗き込んだ。


「ええと……だ、大丈夫?」


「あぶねえっ! また同じことを繰り返すところだった!」


 途端に俺は冷静さを取り戻し、れて赤くなった頬を抑えて立ち上がった。


「ふざけんなお前! いきなり俺を誘惑してどういうつもりだ!?」


 月麦は目を白黒させて誘惑を振り切った俺のことを見た。


「あれっ、どうしてわたしの魅了が効いてないの!?」


「なにが魅了だ! そんなものが俺に聞くはずがないだろうが!」


「ええ……さっきまで変な声をあげてふらふらになってた人に言われても説得力ないわよ。どう考えても、あのときわたしに負けてたわよね?」


「負けてないが!? あれは絶対にセーフだし! 俺はまだ誇り高き童貞だから!」


「誇り高き……なんて?」


「誇り高き童貞だ! 二人で積み上げた信頼の先にある愛のある行為しか認めない、紳士としてのプライドを持った人間のことをそう呼ぶんだよ!」


「……それって、ただのヘタレじゃないの?」


「ええい、やかましい! 日葵さんの妹だからと思って我慢していたが、この際はっきりと言わせてもらう! 俺はお前みたいにはしたない格好をした奴が大嫌いなんだ! 嫁入り前の女が何をしているんだこのビッチ!」


「んなっ!? 初対面の女の子捕まえてビッチってどういうつもりなの!」


「さっきの行為がビッチのすることじゃなかったら何なんだよ! 前かがみになって胸を見せてきたじゃねえか!」


「ええええ!? そんなことしてないわよ! というか、どこ見てんのよこの変態!」


 だったらあれは無意識でやっていたということか? これだからビッチは油断ならない。


「お前にだけは変態とか言われたくねえわこの痴女ちじょ!」


「なによヘタレ童貞!」


「誇り高き童貞だっつってんだろうが! 少しは日葵さんを見習え! 俺の理想を体現したあのおしとやかでたおやかで、まるで百合の花が美しく咲き誇っているかのような優雅なふるまいを参考にしろ!」


「……あんたもしかして、お姉ちゃんに気があるんじゃないでしょうね? そんなのぜぇーったい、わたしが許さないんだから!」


 しまった。


 つい俺は思っていたことをこいつにぶちまけてしまった。


 でも、俺の過去のトラウマを刺激してくるような女にはひとこと言ってやらんと気が済まなかったのだ。


「いったいどうしたの? とても勉強しているとは思えない音が聞こえてきたんだけど?」


 日葵さんが慌てて部屋までやってきた。


 下のリビングにいた日葵さんには俺たちの言い争いの声や俺が床に倒れた音がすべて聞こえていたようだ。


「お姉ちゃん、この人変なの!」


 月麦が俺を指してそういった。これは終わったなと俺は思った。


 日葵さんの妹を罵倒ばとうして変な人認定された挙句、もはや勉強どころではないこの惨状さんじょうを見た彼女は、まず間違いなく俺をこの場で首にするだろう。


 さようなら俺の天使、日葵さん。


 夢の大学生活は再び遠くなりそうだ。


 すべてをあきらめて大きなため息をついた俺を見て、日葵さんはとても驚いた顔をしていた。


「大地くんは……耐えたのよね?」


「はい?」


「月麦の魅了魔法に、最後まで耐えることができたのよね?」


「魅了魔法? なんですかそれ?」


「そうだよ! だって大地くん、正気を失っていないもん!」


 なんだかよくわからないが、日葵さんはとても喜んでいた。


「ついに見つけた! 月麦、私は大地くんとお話があるから、ここで待っててね」


 日葵さんは俺の手を取って引っ張った。


「え? ちょ、ちょっと日葵さん!?」


「とりあえず私の部屋まできてくれる?」


 俺は困惑して頭にクエスチョンマークをたくさん浮かべながら彼女についていった。


 日葵さんと手を繋いだという素晴らしき事実に気が付いたのは、彼女と手を離した後のことだった。


 もっと手の感触を堪能たんのうするべきだったとそのときに俺は思ったのだった。

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