モラトリアムの慟哭

遊月奈喩多

残響、夜の明かりは仄暗く

『どうしても駄目なの?』

『だめ。もう千尋ちひろといると息苦しくて』

『何でも直すって言っても?』

『うん、あたしはもういいや』

『……そっか』


 あまりに無慈悲な言葉にも、涙は出ない。

 だってこれは夢だから。

 さんざん泣いたあの頃とは違う、あの頃を遠い過去として見つめる、現在わたしの夢だから。


   * * * * * * *


 いつまでも青い感傷に浸っていられるほど、時間の流れは遅くない。漫画みたいに悲嘆に暮れようとしても、そんなことしていたらあっという間に置いていかれてしまうだろう。だから否応なしに傷口から目を背けて、立ち直っていくしかない。

 そうやって立ち直るために新しい傷を作って、その傷が治る頃にまた何かが起きて――そうやって最初の傷はどんどん遠くに流されていく。きっとそれが、大人になっていく過程なのかもしれない、なんて思って。

 画一的かくいつてきでどこか無慈悲な時間の象徴みたいだった雑踏の一部に、いつの間にかわたしも成り代わって、それに疑問も抱かなくなった頃。

 早まった終電に乗り込むために閑散としたロータリーを急ぎ足で通り過ぎようとしていたときに、見かけてしまった。


「……有希ゆき

 最初に蘇ったのは、疼くような痛みだった。


 有希といわゆる恋人として付き合っていたのは、決して短いとも言えない期間だった。高校の頃だったはずだけど、その頃の思い出としては修学旅行でクラスの男子が枯山水庭園に足を踏み入れて泣くくらい叱られていたことよりも、有希につけられた噛み痕の痒みにも似た疼きの方がよっぽど大きく占めている。

 隠す気もないような移り気で、いつも誰か違う人の匂いをさせて。そのくせ嫉妬させようとして誰かに告白されたって嘘をついてみたらずっと治らないような痕をつけられて。そんなよくわからない、自分勝手で気まぐれな――あの頃のわたしにとっての最愛の少女ひと


 その日々を思い出したときに訪れたのはよくドラマや漫画で見るような熱情の兆しなんかじゃなくて、若かった自分たちへの遠い憧憬だった。

 あの頃はよくも悪くも彼女への愛が全てで、彼女が望むならどんなことでもしたし、彼女を繋ぎ止めるために望まないことだって何度もした。今のわたしにはそんな熱量はないし、きっと有希と付き合っていた頃のわたしから見たら今のわたしなんてつまらない大人なのかもしれないな、と物寂しさを覚えた。


 有希は、あの頃のままだった。

 体型も顔立ちも、着ている制服も、何もかも。

 学校帰りの高校生にしか見えない出で立ち。

「……何してるの」

 自然と、そんな言葉が出た。

 有希は少しだけ気まずそうな顔をして、「ひ、久しぶり」とどこか引きつった声を出した。


   * * * * * * *


「あたしさ、あの頃がずっと続くと思ってた」

 終電を逃して仕方なくチェックインした近くのビジネスホテルで、有希は無感情にすら思えるほど平然とした声で言った。上着を持っていなかったら入り口で止められていたかも知れなかった身としては『人の気も知らないで』と思わなくもなかったけど、とりあえず相槌だけ打っておいた。


「高校の頃ってさ、なんか全部うまくいってたんだよね。今とは比べ物にならないくらい元気だったし、やろうと思ったことは大体できたし、それであとは……千尋みたいに付き合ってくれる人もいっぱいいたしね」

 あの頃によく似た、魔性じみた微笑み。

 けど、今見るとそれはどこかつたなくて、ぎこちなくて、どうしてこんな笑顔に惹かれたのだろうと自問せずにはいられない笑みだった。

「あたしね、そのまんま大人になれると思ってたんだ。だってあの頃サラリーマンとも付き合ってたけど、なんか調子よくうちの会社に来なよとか平気で言ってたんだよ? ちょっと無茶なこと言われて断ったら終わったけど。

 大学にも一応進んだけど、やっぱりいろんなとこからいろんな子が集まるからすぐ埋もれちゃって、なんかつまんなくなっちゃってさ。卒業してそれなりに会社見つけて就職したら毎日同じことの繰り返しでしょ? もうさ、何もかも違うんだよ、あたしが思ってた『大人のあたし』と」

 その口振りに反して、声にはつまらないと感じていそうな気配はなかった。たぶん自分の中で生まれたギャップに慣れて、少しずつ諦めて、そうやっていても自分げんじつとの折り合いがつけられずにいる顔だった。

 不意に、有希が自分の着ている制服の胸元に手を当てた。その顔はあの頃と同じように綺麗で、それでいてどこかが醜くて、もうあの頃の有希は時間の流れに押し潰されたのだと感じて。


「だけどやっぱり制服って凄いよ、これ着てるとさ、まだけっこういろんな人寄ってくんだよね! あたしもう20半ばだよ、もうおばさんに片足突っ込んでんだよ!? それなのに全然気付かないで鼻の下伸ばしてさ……ふふふっ、」

「気持ち悪い」


 そう言ったのが自分だと、すぐには気付けなかった。それくらいに低く、暗く、重い声が聞こえて。それが自分のものだと気付けたのは、その後に有希が信じられないものを見るような顔でわたしを見ていたから。


 泣き出しそうな、心細そうな、今にも崩れてしまいそうな、風に吹かれたら散り散りになってしまいそうな、荒々しく触ったらそれだけで粉々にしてしまえそうな、儚くてもろくて弱々しい――最高の顔だった。


「え、なに、なに言ってんの、だってこのカッコしてたら、みんなあの頃みたく、」

「ねぇ有希」


 ベッドに座りながらうつむき出した有希の顎に指を当てて、まっすぐにわたしの方を向かせる。逃がさない、離さない、目なんて逸らさせない。

「今の有希さ、すっごい気持ち悪いよ。惨めだし、無様だし、なんかずっと駄々をこねてる小さい子みたい――ううん、そういう子たちはちゃんと成長できるからまだマシかも?」


 囁きながら、有希の苦しそうな顔を見ながら、心の……そして身体の奥に灯っていく熱に気付く。有希と再会したとき覚えた物寂しさなんて、もうとっくに消えてしまっていて。

 あぁ、そうだ。やっとわかった。

 きっとわたしは、有希にこうしたかったんだ。さんざん弄ばれて、かしずいて、それでも飽きたら捨てられて、心のどこかに燻ったままだったものが、今ここで噴き出している。

 こんなことしても、意味がない。

 あの頃つけられた傷も、それを癒したくて繰り返したことも、何も消えない――もう、わたしと有希の間にあるのは過去の関係だけなのだから。

 でも、止まらない。


「ねぇ有希。有希が嬉しそうに言ってるそれってさ、みんな有希に惹かれたんじゃないよ? 有希が被ってる女子高生の皮がみんなを引き付けたんだよ、高校生とやりたい、無遠慮にキスして、舐め回して、要求通りの場所舐めさせて、無責任に口とか顔とか中を自分ので汚したいって、未成年喘がせてお手軽な背徳感に溺れたいって、そんなどうでもいい下心が嬉しいんだ?」

「……もう、いいから、」

「ふふ、ねぇ有希? 有希、有希? 有希ってすっごい簡単な子だったんだね……有希個人なんて眼中にない、ただ性欲処理できればいいだけの人が寄ってきただけでそんなに喜べるなんて、すっごーい、幸せのハードル低いね♪」

「いいよ、言わなくていい、やめてよ……、」

「ねぇ有希、有希はあの頃とおんなじって言ってたよね? うんうん似てるよ、あの頃から有希は誰彼構わず誰とでもしてたし、その誰にも執着なくて、きっと有希もそのときの気分が乗れば相手個人なんてどうでもよくて、ただ肌を重ねられたらよかったんだよね、あの頃と……に、て、る?」

「ち、ひろ……ね、ねぇ、」

「違うよね? まるで違う、全然違う! わかってないなら教えてあげるよ、有希はあの頃から誰彼構わずやりたい人とやるような子だった、でもね有希、今の有希はその頃の自分を真似してどうにか自分を保ってるだけのハリボテでしかないよ、見て、鏡を! 見て、自分を! 認めて、自分の今を!」


 あの頃と同じ?

 違う、もっと下だ。

 あの頃にすがるだけの、あの頃に追い付こうとするだけの、もっと醜い何か――それが今の有希で、有希が見たくない有希自身で、だから、喚いたって泣いたって、突きつける。


「今の有希には何があるの? 今の有希には何ができるの? 今の有希はあの頃の有希からどう成長したの? 今の有希は何を得られたの? 今の有希はもっと未来の有希が真似できる有希なの? 今の有希にはどんな価値があるの? ねぇ教えてよ、泣いてないで、いやいやじゃないの、首振らないで、ほら、ねぇ、ほらほら、有希、有希、ゆ、」


 ずくん、とお腹が痛んだ。

 ヒヤリとした感触と、それを塗り潰すみたいな熱さがお腹から広がってきて、痛みがどんどん酸素を奪って、痺れが全身を伝わって――


「言うな、何も言うな」

 絶望に濡れた声が、倒れた頭上から降ってくる。もう制服を着た自分に喜んでいた有希の姿は、きっとどこにもない。

 あぁ、よっぽどだ。

 きっと致命傷だ、何も見えない。


 でも、あはは。

 あはははははは。

 ねぇ有希、いまどんな気持ち?

 ねぇ、どんな気持ちなの?

 薄っぺらな自尊心にすがりついていた、わたしなんかが打ち砕けてしまった有希を、あぁ、最後にちゃんと見てみたかったな。


 今の有希はあの頃よりずっと惨めで醜くて浅ましくて、あぁ、でも、それでも。


 やっぱり有希以上に好きになれる人はいないんだなぁ。

 首に激しい熱さが押し寄せるまで、そんなことを思ってわたしは笑っていた。

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