第166話 戦いの理由 5
『また明日な……』そう言える事はとても幸福なことだ。いつ落ちるとも知れない地獄の釜を毎日覗きこみ、崩れかけているその崖の縁を一緒に歩いて行く……。
目の前で足を踏み外して落ちて行く仲間がいても救えないことが殆どだ。でもそれは仕方がない、誰もがその覚悟をした上でその場所に足を踏み入れたのだから。
だから自分の力と運が及ばず、帰ることのできない奈落に落ちても後悔は無い。他の誰かが必ず決勝線に辿り着き、自分の仇を取ってくれると信じているからだ。
しかしアトキンズは敵を…仇を見逃した。
機体の下からコックピットを機銃で撃ち抜けるとは限らないが、当然、問題はそこではない。
「少佐……少佐は故意に敵を見逃したんですよ?それとも、爆撃機乗りには容赦なく弾を撃ち込んでいたのに…戦闘機乗りには手加減するんですかっ?!」
徐々に語気を荒げてオルドリーニがわななく。その言葉を静かに受け止めているアトキンズの二人を中心に少しずつ人が集まっていた。
断片的な会話から見守るそれぞれが推測や憶測をしていたが、何しろオルドリーニがかみついている相手は屈指のエースパイロットである。この状況には誰もが口を挟めずに黙って成り行きを傍観していた。
アトキンズはそんな周りの視線も気にせず変わらずに泰然として立っていた。
「オスニエルの事は、俺もオマエと同じくらい残念に…いや、悔しいと思っている。どうしたって戦争はロクでもない非情なものだ、しかし、だからといって俺は納得してはいない。殺し合う運命などクソくらえだと思っている」
こんな時、アトキンズは上官風を吹かせた最もらしい言葉はあえて使おうとしなかった。むしろ兵士らしからぬ自分の言葉をぶつけてくる。オルドリーニは予想外の答えに戸惑った。
「は……?何を言っているんですか、一体何の話ですか?ここは戦場です、殺さなければコッチが殺される……そんな神父みたいなことを言って、それじゃあ何故、少佐は戦闘機に乗っているんですか!?」
理解出来ない答えに否応無く考えさせられる。
「なあ、オルドリーニ、戦争は国同士が戦っているようでも所詮は人間同士のぶつかり合いなんだよ。だからお前にはお前の、俺には俺の戦いがあるんだ。俺は戦闘機乗りとして自分が出来ることをやっているし、これからもそうしていくつもりだ…………」
「い……一体…何の言い訳なんですか?そんな綺麗事を言ったって、これまでだって少佐は、何人の敵を殺してきたんですか?。それなのに……何で今日に限って…………」
「俺は敵を殺すことも殺さないことも躊躇わない。そして、それを決めるのは俺自身だけだ、これは誰にも決めさせない…………」
「!?」
こうまで取り繕わない実直なアトキンズの言葉にオルドリーニは思い出していた。
誰よりも最前線で戦い、常に気を研ぎ澄ませて手を抜かず、何かに追い詰められているように戦っていたアトキンズの姿を……。そしてそんな記憶の中の彼の姿が、急にひどく孤独に思えた。
「少佐はいったい…誰と戦っているんですか……?」
「……」
そんな疑問が熱く荒くなった感情を薄めていく。自分とは違う、そして大きくて強い岩の様な信念にぶつかっている自分が妙に弱々しく感じられるくらいだ。
それはその場に集まっていた同僚達も同じように感じていた。しかしその心境は複雑だ。ならば仲間の仇を躊躇わずに見逃す行為をはたして正しいと言えるのか、納得するべきなのか……感情は否定し理性は迷う。
そこへ、一息ついてからそんな妙な騒ぎとただならぬ雰囲気に気が付いたフレッドは何事かとすぐに駆け寄って来た。
「おいっ、いったい何の騒ぎだ!」
44A中隊の隊長を任されている彼は騒ぎの中に飛び込んで周りを見回した。その中心にはいつもと変わらず穏やかなアトキンズと、表情を紅く強張らせているオルドリーニが向かい合っている。
「アール少佐、この状況を説明してくれ。オルドリーニと何か揉めているのか?」
しかしアトキンズはオルドリーニを一瞥して笑った。
「いや、何もないよ。いわゆる反省会というやつだ……」
やっと取り繕ったのが自分を気遣っての偽りの弁明……オルドリーニはアトキンズの目配せにそう直感した。しかしプライドがそれを拒んだ。
「隊長、事実は俺がアット少佐の今日の行動を咎めて反抗していました」
「!?……反抗した?いや、アール少佐を咎めたとはどういうことだ、彼がオマエに非難されるようなことをしたというのか?」
「それは……」
余程の跳ねっ返りなら上官にも平気で楯突くものだが、オルドリーニは軍人の規範を尊守する優等生だ。そんな男が上官を糾弾するこんな姿はフレッドも想像が出来なかった。
「オルドリーニ、お前の言い分を俺に言ってみろ……。問題があるのなら今この場で解決するべきだ」
「はい……」
今は少し冷静さを取り戻していたが理解出来ないアトキンズの信念への困惑と、振り払えない彼への疑念が心に重く垂れこめていた。
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