第119話 滔々と
マリエスは僅かに残っていた迷いも妻に溶かされて、静かに目を閉じて頷いた。
「向こうで確認してもしも…異常があったらすぐに連絡するよ。手配していたモノがちゃんと今でも機能するかどうかの保証はないからね……」
「ええ、分かった。手筈どおりね?」
「ああ……」
この計画が失敗で終わるなどとは微塵も思っていない。お互いの信頼を確かめ合うように二人は深く頷いて抱き合った。
もう、この街に戻る事は二度と無いかもしれない。離れ難い思い出が染みついたこの街の暮らしを感慨深く思い返していると、ちょっと余計なことをマリエスは思い出した。
「そういえばラーラ……?」
「んん?なに……?」
「このあいだ、ベルリンの店で見かけた女性……君に話した後、気になるから調べてみるとか言っていたけど?」
それは情報機関のアプヴェーアに呼び出され、自称『クルツ』を待っていた時に見かけた女性の事である。
「あなたが多分……同族だと言っていた、例の彼女ね?」
「うん、多分間違いない。まあ、彼女が誰かも、置かれている状況も分からないが、くっついていた男が護衛ならばそれだけ重要な立場なのだろうし、監視なのなら利用されているかもしれない……もしくは、その両方かも…………」
付き合いに慣れると何となく魔女を見分ける『目』も自然と身についてくるようだ。あの時と場所では特に異質な存在だった女。同族が戦争に関わっていると聞けば、ラーラも無視できるものではない。
「とっくに調べているわよ、もちろん人伝てにだけど……国内の同族の事なら大概は分かるから。とは言え、あまり根ほりはほりは濁されちゃうけれど……」
「ふむ、それで……?」
「ええと、身長170センチ、長いダークブロンドで25歳前後…て、何処にでも居そうだからムリかしらと思っていたけれど……あなたが言っていた通り、急に所在がハッキリしなくなった人がひとり……」
殆んどの魔女は彼女達自身が作ったネットワークの中にいる。数人がグループを作り、それぞれが周りのグループとも繋がり、神経回路の様にどこまでも繋がっている。陸続きならそれこそ大陸の端のはしまで拡がっていた。
「やはりね……『政府や軍の要人に同族はいないと思う』そう聞いた時からすぐに見つかると思ったよ。おそらくその人で間違いないと思う」
「あら!得意顔ね?」
「ははは……もちろん、キミのおかげだけどね?」
どの国でも魔女の取り扱いには注意が必要だ。
「でも、気付いてくれたあなたに感謝するのは私の方ね?もしもその娘が何かに巻き込まれていたりしたら…そう思って気になっていたの」
国が変われば魔女の生き方も変わる。フレヤ達は同族同士でも無闇に干渉しないように教育されてきたが、このドイツでは少し違いがあるようだ。
「でも、今の私じゃ何の手助けも出来ないと思っていたし……」
「ふむ、これから逃げ出そうって時だしね……それで?何が分かったんだい?」
「彼女はマーリオン・エッゲリング、マンハイムに住んでいるみたい」
「マンハイムか、随分遠いなあ……」
マンハイムはドイツ南西部、フランスとスイスの国境に近い地方都市である。
「それで?その、マンハイムの魔女がどんな状況に置かれているんだ?」
ラーラは肩を落としてちょっと困り顔になった。
「それが…何だか、なんとも要領を得ないのだけど、彼女はどうも……危ない事をしているようで…………」
「ええ?危ないこと……?」
夫は妻と一緒に眉をよじった。
1940年8月11日
ドイツはイギリス南部、ポートランドからドーバーまでのエリアに大規模な攻撃を行った。ポートランドには海軍基地があり、狙いはそれを含む沿岸部の港湾と、そして、この防衛線の値踏みをする為だった。
イギリスはこの攻撃をいち早くレーダーで捉えて、40機を撃墜。ドイツは思う程の戦果を上げられなかった。
するとその翌日……
「大佐、空軍指令部からです……ベントナーが攻撃を受けレーダーがダウンしたそうです……」
「!、そうか……」
ドイツはイギリスの防空の要であるレーダーを標的にし始めた。戦略を見直したドイツはレーダーを脅威と認めて、イギリスが誇る科学の目を潰しにきたのである。
ドイツがBf110爆撃機でターゲットにした4カ所のレーダーサイトの内、3カ所は守る事が出来たが、南部の島に設置されていたベントナーサイトを守ることが出来なかった。
フランスからベントナーまでは100キロ余り、そしてロンドンまでは230キロ。この距離を踏まえてレイヴンズクロフトは考えていた。
空中戦を繰り広げながらの230キロは無理を押せば届かない距離では無い。しかし、ここまで慎重に事を運んできたドイツが作戦を強行するものだろうか?
「リトルトン中佐、指令部から中隊分割の指示は……無いかね?」
「はい……現状を維持のまま任務を継続、でよろしいかと」
「そうか……では決行は予定通りだな」
「はい……」
レイヴンズクロフトが念を押していた時、イプスウィッチの滑走路には8機のブレニム爆撃機が駐機していた。
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