第118話 Never, never, never, never give up.

 『決して、決して、決して、決して諦めるな!』


 ノーベル文学賞を獲った作家であり、イギリスの首相を勤めたウィンストン・チャーチルはこう言った。






 開戦から1年ほど経過した今、大陸の連合国の殆んどはドイツの電撃作戦により一蹴された。イギリスはこのバトルオブブリテンの戦いが始まる前から多くの戦力を大陸に投じてきた。その結果、イギリス軍は酷く消耗した挙げ句にすごすごと本国に逃げ帰っている。


 ならばイギリスは満身創痍で軽くつつけば倒れる死に体……ドイツにはそう見えたはずだ。


 8月に入ってからは益々、イギリスに根を上げさせようとドイツは執拗に爆撃機を送り込んでくる。まだ始まったばかりの本土防衛戦、しかし、『決して諦めない!』イギリス国民や特に兵士達の感情は正に血気盛んなままだった。






 この8月にはバルト三国でも大きな動きがあった。ソ連に併合する同義が三国全ての議会で可決されたのだ、7月に行われていた偽りの議会選挙によって。


 6月には赤軍の侵攻によってこれら三国は既にソ連の占領下にあったが、その後、ソ連はそれぞれの国に更なる圧力をかけ、自国から派遣した共産党員を使って各国の議員を同盟者へすげ替えていった。


 そして7月には彼等共産党員と同盟者のみが参加を許された捏造選挙を行い、傀儡政権を作り上げた。呆れた事にこの選挙は結果が出る24時間も前にイギリスを含む諸外国に開票結果が送られていたという。


 この決議の発表には全ての反ソ連派が青ざめた。このように敗戦国政府をソ連化する目的は、反ソ連派を公けに弾圧するためだと誰もが分かっていたからだ。


 7月まではこの流れを静観していたものの急に事が動き出したことで密かな決断を迫られている男がいた。連合国の二重スパイであり、ドイツで産まれてもリトアニアを故国と自負するマリエス・フィーリッツである。


 彼は今、ドイツ国内での仕事を無難に終えて自宅で妻と旅支度をしていた。2日後には次の任地であるデンマークへ移動する予定になっている。魔女である妻と離ればなれになってしまうその前に、二人は今後の行動を話し合わなければならなかった。


「マリエス、神様は私達に決断の機会を下さったのよ?今が最高の好機であり、この機会を逃せばリトアニアの家族を救うチャンスは二度と訪れないかもしれないわ」


 魔女であるラーラならドイツから脱出することもそれ程難しいことではない。用意していた脱出ルートも次の任地となったデンマークにある。あまりにも都合の良い展開にマリエスは逆に不安になっていた。


「確かにな……しかもここへきて、リトアニアがソ連に併合されるとなれば、連合国のコネを使って全員をリトアニアから連れ出せるかもしれない。逆に反ソ連分子の烙印を押されてしまうとどんな目に遭わされるか分からないが……そこら辺は上手く立ち回ってくれるはず……」


 そして、とにかく早く行動を起こしたい理由があった。もしもこの後、早々にイギリスが負けてしまうと、ドイツのソ連侵攻によってバルト三国が戦場になる可能性がある。


 つまり、独ソの不可侵条約がいつまで守られるかなど分かったモノではないし、条約が破られれば先ずの主戦場は当然ポーランドになる筈だが、その後の攻勢によってはリトアニアへの侵攻もあり得るのだ。


 マリエスはドイツがソ連との不可侵条約を軽んじていることを知っている。そうなると、ソビエトが快く協力してくれるかは別としても、ソビエトからリトアニアに自由に出入り出来て、現実となるかは分からないが、ドイツ侵攻による戦火が及ぶまでのこの時が最も好機なのは間違いなかった。


 リトアニアに多くの血縁を残している二人にとって、正に千載一遇のチャンスである。


「イギリスはどうなの、マリエス……?」


「しばらくは持ちこたえると思うが……勝負の行方は正直なところ分からないな。ドイツは海軍が弱い、得意の力押しが出来ないドイツが兵を上陸させるためには、制空権を奪う事が絶対の条件になる……」


「制空権……」


 聞き慣れない言葉にラーラは首を傾げた。


「ああ、それから空軍によるイギリス海軍の撃破だ、それが出来なければ兵士も戦車も何の役にも立たない。例え川の様に狭い海峡でも海を越えて侵攻するのは並大抵の事じゃないんだ。しかもイギリスの様に島国というのは実は攻められにくいし守りやすい。海岸線の全てが上陸出来るような地形でもないしね。だから独英戦は意外と長引くと俺は踏んでいるんだが……」


 ドイツ海軍といえば潜水艦のUボートが有名だが、裏を返せばそれしかなかった。この時期にドイツ海軍が保有していた主力艦は僅か10隻ほどで、しかも空母のような大型艦艇は建造していなかった。海上侵攻をまったく想定していないミニミニ艦隊、全ては潜水艦ばかり造っていたしわ寄せである。


 ラーラはマリエスの解説にも今ひとつピンとは来ない。ただ、彼女はこのチャンスを逃すべきではないと直感していた。


「そう…私には詳しい事は分からないけれど、そんなにノンビリとはしていられないわよね?できれば私がイギリスに直接飛べれば良いけれど、戦場になってしまった今は何度も無事に抜けられる自信はないし……」


「それはやめた方がいい……イギリスは遠すぎるし、せっかく前線が西に遠ざかるのを待っていた意味も無くなってしまうからね」


「そうよ、今ならこの辺りもほとんど警戒されていないし兵士の数も随分と減ったわ。それにもう、良い潮時じゃない?」


 マリエスはそう言う妻に手を握られて、優しく握り返した。


「そうだな……」

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